第5話_馴染み始めた六番街ベッドの中

 アシュリーの指先が戯れにイルムガルドの耳を探る。一つ、二つ、三つのピアスを揺らして、また一番上のピアスに触れる。そんなことを繰り返していれば、三往復目でイルムガルドがくすくすと笑った。

「くすぐったいよ」

「これは、この街に来てから?」

「ううん、前から」

 深い意味を持たないピロートーク。二人は互いの都合が付けば毎日のように会い、身体を重ねるようになった。会えないのはほとんどがイルムガルドの仕事の都合であり、アシュリーの方から断ったことは今までに一度も無い。普段のアシュリーには夜からの仕事があるが、それが休みである場合はそのままイルムガルドは朝までをこの部屋で過ごしている。今日が、その予定だった。二人は散々身体を重ねて、温い空気を纏いながら、ぽつりぽつりと他愛ない会話をしていた。

 ピアスから手を離したアシュリーが、今度はイルムガルドの髪を撫でる。指で梳くようにしながら地肌を撫でていくのを、また、イルムガルドはくすぐったそうに笑って受け止める。イルムガルドの髪は黒い。ただただ黒く、闇に溶けるような色をしていた。指の間から容易くすり抜けて行くその真っ直ぐな髪に、寝癖が付くことなどほとんど無いのだろうと、少し羨ましそうにアシュリーは見つめる。

「イルの髪は、暗い場所で見ても、明るい場所で見ても同じ色で、何だかあなたらしいわ」

「そう?」

 何にも染まらず、何を受けても変わる様子の無いしなやかさを、アシュリーはいつも感じていた。アシュリーがどんな言葉を投げても、両腕を伸ばして引き寄せても、胸を押し付けて誘惑してみても、柔らかく対応するイルムガルド。けれど彼女自身は、ただの一度も本当の意味では形を変えていないように見えるのだ。イルムガルドの髪を撫でながらぼんやりとアシュリーがそんなことを考えていれば、今度はイルムガルドがアシュリーの髪へと手を伸ばした。

「うーん、わたしはアシュリーの髪好きだよ、何て言う色なのかな、明るい場所でも暗い場所でもいつも綺麗で、触り心地もいい。それに」

 亜麻色と呼ばれる色の名前をイルムガルドは知らない。それを言葉で表すことは早々に諦め、長いアシュリーの髪を一束掬い上げると、キスをするように唇を近付ける。そんな仕草を当たり前にやっている『少女』に、アシュリーが苦笑したことを彼女は気付かない。

「光ごとに色が変わるのも、優しいアシュリーみたいだよ」

「……もう、あなたはいつもそうなんだから。……ありがとう」

 甘い言葉も毎日のこと。会う度にイルムガルドは最低でも一つの新しい『甘い言葉』を零す。分かっていても傾いでしまう心に、毎回、アシュリーは苦笑していた。

「こういう悪いことは、イルは何処で覚えてしまったのかしら?」

「わるいこと?」

「女の抱き方よ」

「あー」

 くつくつと肩を震わせて笑うイルムガルド。『悪いこと』であることを、彼女も知らないわけではないのだ。しかしアシュリーが指摘したのは抱き方だけではなく、女の扱い全般を指しているということまでは、イルムガルドには伝わらない。

「前の街でね、お金になるって教えてくれた親切なおねーさんが居て」

「あら、教育に悪い」

 アシュリーの言葉にイルムガルドは目尻を下げる。イルムガルドがどれだけの間そのを実践してきたのかをアシュリーが知ることなど出来ないが、少なくとも今の彼女の年齢――政府の発表によると十六歳のイルムガルド――がこんな行為を慣れてしまっている以上、短い期間ではないのだろう。……『少年』に見えた子供に迫ったアシュリーの言えたことでは、ないかもしれないけれど。

「ピアスも、お客にそういうの好きな人が居てプレゼントされたから、開けたんだよね」

「……ならそれは、その人からの贈り物なの?」

「いや、これは今のボスがくれた。前のを捨てたら、『似合っていたから新しいの買ってやる』だってさ」

「そうね、私も、似合っていると思うわ」

 再び一つ一つを辿るようにアシュリーの指先がピアスを確かめる。似合っていると褒められたことが嬉しかったのか、それともアシュリーが触れることが嬉しいのか。イルムガルドは先程よりも頬を緩めて微笑んでいた。

「他の女からのものなら、今すぐ没収しちゃおうと思ったのだけど、上司様ならまあいいわ」

 囁くようにそう告げれば、イルムガルドが楽しそうに笑う。彼女はこういう掛け合いを、思いの他、快く受け止める傾向にあった。それも含め、アシュリーには甘く映るのかもしれない。

「それにしても、女が抱く方で稼ぐなんて珍しい。あなたの街ではよくあることなの?」

「抱かれる側で稼げないんだよ、男がほとんど居ない街だったから」

「そんな場所もあるのね」

 アシュリーの言葉に軽く首を傾けたイルムガルド。故郷の街は戦線が迫った際に、兵の補充として男性が悉く連れていかれ、そして誰一人、帰ってこなかった。訓練経験も無い男を、激化する前線の戦いへ、兵士として採用したのだ。見え透いた結果だった。辺境であった為に新しい男が寄り付くことも無いままで、女性と小さな子供と、高齢男性だけの街になった。当然、新しい子供も生まれない。当時イルムガルドは一歳にも満たなかった為、彼女より幼い子は、故郷の街には一人しか居なかった。そんなことを、彼女らしい簡潔さでのんびりと語れば、アシュリーは優しくイルムガルドの肩を撫でる。

「じゃあイルはずっと、お母様と二人で?」

「あー、ううん、お母さんは知らない、産んですぐ死んだって言ってたかな。わたしは孤児だよ」

「……そう、なの、ごめんなさい」

「ううん」

 イルムガルドにとって、己が孤児であることは当たり前のことだった。それを不遇と思うことも少なかった。だから何でもない顔で首を振って微笑んだけれど、アシュリーは申し訳なさそうに眉を下げる。アシュリーは出会ってすぐの頃を思い出しながら、今のイルムガルドの身体を見下ろす。彼女の身体は、出会った日から変わらずにひどく痩せているまま。モニターで見つめた勇猛な姿が嘘のように細く、頼りない身体だ。あばらの浮いた脇腹を、手の平でそっと撫でる。

「ちゃんと、食べている?」

「ん、今は食べてるよ、食べたい時に、好きなだけ食べていいんだって」

 政府からは『奇跡の子』専用に食堂で使えるカードが支給されていた。食事は自由に摂れる。『奇跡の子』の中には異常なほどに食べる者も居るらしく、その為の措置なのだろう。ただ、イルムガルドはあまり沢山を食べる子では無い。

「あんまり、今まで食べてないから、興味が無いんだ」

 結局、イルムガルドは際限なく食事を許された場でも、最低限しか摂らなかった。何が食べたい等と考えて選んだ経験が無く、美味しいかどうかを考えることも無い。食べて、生きていられたらそれでいい。そんな人生を送ってきたイルムガルドからは、食事に対する喜びはあまり無かった。

「だけどこんな身体じゃ、他の女性達も心配するのではない?」

「あはは」

 このような発言をアシュリーがする度、必ずと言っていいほどイルムガルドは笑う。その直後にアシュリーが少し不満な顔を見せるのも含め、彼女は楽しいのかもしれない。

「他の女性は居ないよ、アシュリーだけだよ」

「本当かしら」

「まあ、アシュリーとも一回きりなら気にしなかったかもしれないけど、決まって会うようになったから、他の人は触らないよ」

「……誠実なのか不誠実なのか、よく分からない言葉だわ」

 アシュリーが笑ったから、イルムガルドも可笑しそうに笑った。二人がそれぞれ歩んできた道を思えば、二人の間で出す『誠実』の定義が一般のそれと重なるかも怪しいところだ。

「でもアシュリーこそ、わたしばっかり相手をしていていいの?」

 意趣返しのつもりは、イルムガルドには無かっただろう。そんな言葉すら、彼女は知らないのだろうから。しかしその言葉に、アシュリーは少し困った顔をして、イルムガルドの身体へ寄り添うことでその表情を隠した。

「そっちの仕事はからきしよ。全然上手に出来なくて、最近は、していないわ」

 イルムガルドと出会ってからも、アシュリーは何度か客を取った。しかし、今までと同じ形で悦ばせることは出来なかった。今まで出来ていたことが出来なくて、自己嫌悪で済めばまだ良かったが、客にまで酷く指摘されている。イルムガルドの胸へ、静かな溜息を零した。

「イル、あなたのように優しく触れる人を、私は知らないわ。甘い言葉をくれる人も。四番以上の区画では、女の立場はひどく低いの。まして私のような娼婦はろくな扱われ方をしない。……そんな女にとってあなたの優しさは、言葉は、とても、……」

「アシュリー?」

 言葉半ばで沈黙した彼女を、イルムガルドは不思議そうに覗き込む。しかしアシュリーはまた強く彼女の身体を抱き締めて、目を合わせようとはしない。

「ばかな女だって、思うでしょう。で、あなたばかりを欲しがって、だめになってしまうなんて」

 イルムガルドから与えられたものは、取るに足りない、小さなことだとアシュリーは頭では分かっていた。分かっていても、彼女はその身に受けたことが無かった。初めて与えられたほんの少しの優しさと、作りもののような甘い言葉。それだけで容易く彼女は己の形を変えてしまった。……だからこそ、彼女は変わらないイルムガルドを羨ましくも思うのだ。

「うーん、わたしは思ったことを言っているだけだから、よく分からないけど」

 極端に心配をするようでも無く、冷たく突き放すようでも無い。淡々としたいつも通りのイルムガルドの声。形を変えない、彼女の声。けれど何処までも優しい話し方が、アシュリーの身体を温めるようにじんわりと染み込んでいく。

「それでこうしてアシュリーが抱けるなら、あの時会えて、幸運だったなぁって思うよ」

「……そういうところよ」

 見上げたイルムガルドは微笑んだままで軽く首を傾けている。この反応が本物なのか躱しているのかは、未だにアシュリーには分からないままだ。そして徐にイルムガルドはアシュリーに口付ける。目が合ったのが理由かと思うほどの脈絡の無さだったが、未だ服も着ないままベッドの中で抱き合っている二人において、それを不自然と訴えるのは難しい。彼女の手がするするとアシュリーの背中を撫で、お尻の辺りまで下りてきたことについても、同じだった。

「時々けがしてたのは、お客のせい?」

 イルムガルドの手がやわやわと肌に触れるから、アシュリーは反応が遅れた。何度か目を瞬いて、ようやくイルムガルドを見上げる。

「怪我、してた?」

「ん、少しね、背中擦りむいてたりとか、お尻ちょっと赤かったりとか」

 そう言いながら、イルムガルドはアシュリーのお尻を慰めるように撫でた。彼女が今触れてきたのは、この話の流れなのだろうかと今更ながらアシュリーは気付く。同時に、内容の居心地の悪さに、ただ眉を顰めて首を傾けた。

「……もう、いやね、そんなところまで見えるの?」

 公衆トイレでの一回を除けば、抱き合う時には正しく照明を落としているし、行為の間はほとんどが向かい合っているはずなのに、お尻の色まで見止められていたとは流石に思わない。いつ見られたのだろうかと思い返していくことも気恥ずかしく、アシュリーは思考を止めて緩く首を振った。

「壁に強く押し付けたり、最中にお尻を叩いたりするのが好きな人って居るのよ、形が変わるからって言うけれど、ただ強張っているだけだと分からないのかしらね」

「うーん、お尻は揉んだ時の方が、反応好きだなぁ」

「そういう話ではなくてね、イル」

「ふふ」

 頓珍漢な答えに呆れてそう言えば、楽しそうな笑い声が返る。どうやらわざとであるらしい。悪戯を仕掛けた子供のような笑みを見付け、アシュリーは苦笑いを零して「もう」と呟く。視線を落とせばすぐに触れてくる唇に、イルムガルドにとっては全てがピロートークの中でしかないのだと思わせた。その癖、アシュリーの肌を滑る優しい手の平は、当時のアシュリーの痛みを慰めるように動く。

「痛かったね」

 優しい言葉も、髪に触れてくる唇も全て、「そういうところよ」と再び言ってしまいそうになるのをアシュリーは飲み込む。そしてただ、イルムガルドの背へ回した腕に力を込めた。それに応じ、イルムガルドも両腕でアシュリーを抱き締める。

「だけど、お仕事できなくて、お金は平気?」

「ふふ、それは、あなたが心配をすることじゃないわ」

 イルムガルドが自ら質問を投げてくることはほとんど無い。それはアシュリーに幾らも興味を持たないのかもしれないが、それでも、お金に関することだけは彼女にしては『きちんと』確認している印象があった。それは孤児として生きた経験によるものなのかもしれないと、アシュリーに感じさせる。前回は『情緒の欠片も無い』と感じていたが、彼女を孤児と知った今、受ける印象は全く違った。

「もともと、そんなに沢山お客が取れていた方ではないのよ。初めて会った時に私が言ったこと、覚えているかしら?」

「あー」

 イルムガルドを誘う時、アシュリーは『最近、誰も相手をしてくれなくて』と言った。引く手数多であれば、『少年』にまで手を出して顧客獲得に乗り出す理由も無い。出せるお金すら、どの程度あるかも分からないのに。とは言え、アシュリーは敢えて口にしないながらも、イルムガルドが着ていた衣服が新しいものであるのを見止め、――少なくとも三番街か四番街の子だと見ていた。自ら稼ぐお金があるかは分からないけれど、少なくとも親はある程度持っているに違いない。実際は政府のお金だったのでとんでもないことだが、イルムガルドがそれなりに自由の利く金を持っていたことは間違いではなく、その目だけは確かだったと言える。問題は、性別を見分け損ねたこと、それだけだった。

 自らの目の確かさと、それ以上の失態を思い起こしてイルムガルドの腕の中で笑っているアシュリー。それに気付くことなく、イルムガルドは彼女を抱き締めたままで沈黙し、何かを考えるようにベッドの端をじっと見つめていた。


 翌日のことだった。アシュリーの通信端末に、イルムガルドから着信があった。

「――もしもし? ええ、家に居るけれど。どうしたの、珍しいのね、通話なんて」

 いつもは短いメッセージばかりで二人はやりとりをしており、電話が掛かってきたことは一度も無い。アシュリーの仕事、そしてイルムガルドの仕事を思えば不都合があると考えていたのだろうが、その上で今回は電話があったことに、アシュリーは驚いていた。

『ちょっと、手が塞がってて、楽だったから……ええと、今から行っても良い?』

「ええ、構わないわよ、待っているわね」

 電話の向こうでは、不自然にがさごそと何かが擦れる音が聞こえていた。手が塞がっていると言うから、正しい形で通信端末も持っていないのだろう。珍しい通話を終えた後、時計を見れば十四時よりも少し前。アシュリーは起きたばかりだ。普段二人が会うのは夕方から夜が多く、こんな時間から来ると言うことも珍しい。気にはなるが、待つ以外のことはアシュリーには何も出来ない。そわそわと玄関近くで待っていれば、また普段と違い、到着を知らせたのはメッセージではなくて控え目なノックの音だった。

「イル、……どうしたの、それ」

「お邪魔します」

 いつもよりも大きく開いた玄関扉。細いイルムガルドが入り込むには不必要な隙間だけれど、今、何か大きな箱を抱えているイルムガルドが通るには必要な幅。大きさだけに難儀しているように見えていたが、彼女がその箱を置いた時の音で、それなりの重量があったことも分かる。扉を施錠した後、アシュリーは控え目に彼女の傍にしゃがんだ。

「それで、これは?」

「うーんと、差し入れ」

 開かれた箱の中身は、食材だった。足の早そうなものはほとんど無く、考えて使えば一ヶ月くらいは助かりそうだ。

「いつも遊んでくれてるお礼。お金は、うーん、貰ってくれなさそうだから」

「イル……」

 座ったままで両腕をイルムガルドへと回し、強く抱き締める。不安定な姿勢で受け止めても、イルムガルドは動じることなくアシュリーを抱き返した。

「優しくばかりされて、もう、どれだけ落ちてしまえばいいのよ」

「また、たくさん遊んでくれる?」

 そう言うと、イルムガルドはアシュリーの腰を引き寄せて、脚の間に自らの膝を押し入れた。ぴくりと震えるアシュリーの反応に満足そうに微笑み、瞳が熱を持つ様子は、ただただお盛んな子供でしかない。「遊んで」と言って求めるものは『少女』らしくないにしても、単純で、そしてアシュリーにとって応じ易いものであることを考えればそれすらも、彼女の優しさなのかもしれないと勘違いをさせる。

「イルが望むだけ、好きにしていいわ」

 胸を押し付けながらそう言えば、イルムガルドは嬉しそうに笑った。

「その誘い、良いなぁ」

 アシュリーの腰を更に強く引き寄せ、玄関から数歩しか入り込んでいないような場所でそのまま押し倒したイルムガルドは、たった数分で、身体を引き離した。

「あー、忘れてた、手、洗う」

「ふふっ」

 互いの熱はすっかり上がっているのに、イルムガルドの脚が押し付けられたスカートはもう下着を隠すことが出来ない場所まで捲れてしまっているのに、やっぱりイルムガルドはその形を変えない。

「そういうところ、……好きよ」

 彼女の身体を引き寄せて、首元へと小さく小さく呟いたアシュリーの声は、イルムガルドには届かなかった。

「今、何て?」

「何でもないわ。ベッドで、待っているからね」

 アシュリーは己の立場を理解していた。それでもこの関係を持っていることは、弁えていたとはとても言えない。だからせめて、『少女』に伝えないことを選んだ。戯れは戯れのまま、『少女』が望んだ『遊び』のままで。

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