第6話_少女の為の零番街

 電子音ばかりが部屋の中に響き、白い壁に反射する白い光。そんな空間でイルムガルドは心做こころなしか不機嫌そうな顔をしていた。

「No.103……失礼、イルムガルド、次は右腕を上げてくれ」

「別に、番号でいいよ」

 ぽそりと口元で呟きながら、言われるままにイルムガルドが右腕を上げる。ガラス越しに、幾人かがイルムガルドを見つめていた。彼女が入れられている空間は彼女以外には何も無く、誰も居なくて、真っ白だった。三、四秒ほどを数えて、イルムガルドの近くでピピッと音が鳴る。何を計測しているのかは、例え説明されても彼女には分からない。続いて同じく指示のままに左腕を上げて、指示に従って下ろす。そうしてイルムガルドは指示通りに、閉ざされた空間の中で、身体を動かし続けた。

「疲れたか、イルムガルド」

 不思議な密閉空間から解放されて一つ息を吐いたイルムガルドに、男は声を掛ける。イルムガルドから『ボス』と呼ばれる男だ。彼を見上げて、イルムガルドは首を振った。

「疲れてない。なんか部屋が眩しくて、慣れない」

「ははは、なるほどな」

 目を瞬かせているイルムガルドに、彼は穏やかに笑う。スモッグに覆われたこの街は、真昼であっても仄暗い上、イルムガルドがよく歩き回っている四番以上の区画では街灯も橙色が多い。一方、タワーの内装は白が基調であり、照明もほとんどが白だ。彼女が困っているのはそんな差のせいなのだろう。

「付き合わせてすまないな、イルムガルドに合う服を研究させているんだ。以前のものでは強度が足りなかったが、強度を単純に上げてしまえば動き辛くなるだろうから」

「ふうん」

 興味の気配も無く、のんびりとイルムガルドが首を傾けている。その様子を横目に、彼は少し困ったように片眉を上げた。彫りの深い顔立ちでそれをするものだから、傍から見ていればその表情は幾らか大袈裟だ。

「ところで、まだ早朝から起きているようだが、ここの暮らしには慣れないか?」

「うーん、街には慣れたと思うけど、朝は起きちゃうし、夜は眠い」

 イルムガルドの返事は何処までも端的で素っ気なく、話がそこで終了してしまう。けれど、街には「慣れた」と返したことに、彼はほんの少し安堵の表情を浮かべた。

「そうか。まあ、それで不都合が無いなら、好きにするといい。他には何か、困っていることはあるか」

 彼の声は、穏やかで、静かで、極めて優しい。大きな体躯、はっきりとした顔立ち、そして明るく短い髪を全て後ろに撫で付けている髪型は、一見では決して彼を優しげに見せない。しかしイルムガルドへと語り掛けるその声は、怯える仔猫すらも刺激しないだろうと思われるほど、柔らかかった。ただそれを受けてもイルムガルドが対応を変えることはなく、おそらくはその強調された優しさを、見付けてすらいない。彼の質問についてただ答えを探すように、また違う角度で首を傾けた。

「街で目立つようになって、歩きにくい。後は、うーん、部屋のベッドが柔らかくて落ち着かない、くらい」

 淡々とした声で呟くイルムガルドは、顔を上げることも、視線を上げることもない。彼女は単に彼の問い対して正直に答えを返しているだけであり、伝えたことの改善を願っているつもりが無いのだろう。彼女にとってはこれで、もう会話が終わっている。彼からの返事を待つ様子も無い。そうと知りながらも、彼は構わず会話を続けた。

「街の方は、悪かった、お披露目は決まり事でな……。そうだ、ゴーグルをするのはどうだ? スモッグで目が痛くなるからと、着けているやつは結構いるぞ。……ああ、君、いくつか持って来てくれ」

「はい」

 傍に控えていた職員に男が声を掛ければ、その職員は返事と同時に踵を返して部屋から出て行ってしまった。イルムガルドが顔を上げる。一度『ボス』を見て、そして職員が出て行った扉を見つめる。彼女はそこまでの手間を求めたつもりが無く、どうやら対応に驚いている。表情はあまり変わらなかったが、軽く片眉を動かした。

「マットレスも、すぐに好みの固さに調整させよう。睡眠は体調管理にとても大事なものだからな」

「いや、別にいい、床で」

「……床で寝てるのか?」

「うん。ちゃんと寝れてるし、わたしはそれでいいよ」

 先程のような対応をさせまいと断っているつもりなのだろうが、イルムガルドは嘘があまり得意では無いのか、現状をそのまま伝えているせいで余計に彼を引き下がれなくさせた。

「いや、しかしな、いくらイルムガルドが丈夫だと言ってもなぁ、風邪だって引くかもしれないぞ」

「風邪、引いたことないけど」

 その言葉に、男は返答に困った様子で己の後頭部を撫でている。イルムガルドは丈夫な身体をしていた。彼女を『奇跡の子』たらしめる特徴としての『強靭な肉体』はあくまで体外的な強さではあるが、その点を除いたとしても孤児として育ってきた中、劣悪な環境でも体調を保てる丈夫さがあるようだ。タワーのように空調も整えられた室内であれば、床で寝る程度のことは、イルムガルドにとってはむしろ環境としては良い方なのかもしれない。しかし、男はそれを良しとせず、改めてイルムガルドの前に膝を付いて彼女の目を真っ直ぐに見つめた。

「それでも俺達は心配をするし、少しでもイルムガルドが此処で快く過ごしてくれたら嬉しいんだ。……おっと、次の検査の準備が出来たようだな。あれが終わるまでにマットレスもサンプルを用意させるから、一番好きなものを選んでくれ」

 そこまでしなくていい、大したことではない。そんな顔をしながらも押し問答の方が面倒と思ったのか、イルムガルドはつまらなそうに頷き、再び呼ばれるままに密閉空間へ戻って行った。

 結局、ゴーグルについては男と職員が彼女に似合うものを選んで渡し、マットレスは『床よりはマシ』という程度にしかクッション性がないものを、彼女自身が選んだ。その選択を職員達は心配そうにしたものの、床ほど冷えることもないという結論から、それ以上は食い下がらなかった。無理を言って床で寝られてしまえば、彼らにとっては本末転倒だ。

 そうしてイルムガルドが立ち去った部屋の中、長い緊張から解放された様子で、職員達が揃って静かに息を吐く。

「No.103、全く笑ってくれないよな、大丈夫かな」

「ちょっと、『イルムガルド』よ」

「ああ、そうだった、悪い」

 職員らは極力、奇跡の子を名前で呼んでいた。しかし、書類やデータを扱う際には番号だけが表示される為、咄嗟に番号が出てきてしまう者が多い。番号の半分ほどしか登録者数が居ないとは言え、今も五十名近くが登録されている中、普段使わない彼らの『名前』を全て一致させることは中々に難しい。

「登録してすぐの子供は神経を使うよ、慣れてくれるかな」

「あの子は大人しくて従順なだけに、不安だよ。まだ文句を言ってくれる方が、俺は対応しやすい」

 難しい顔をして腕を組んでいる職員達に、男は穏やかに、そして何処か申し訳なさそうに微笑む。

「イルムガルドは、ばかではない。街に売られた結果、自分が此処に居るのだと正しく理解している。だから難しい。……せめて我々が歓迎していて、あの子を大事にしているのだと、伝わってくれるといいのだが」

 一際大きな溜息を零す彼が、おそらくは最も気苦労が多い。職員もそれをよく分かっているから、心配や不安を口にしながらも、彼に対する不満を口にはしない。総司令として立つ彼には、イルムガルドだけではなく、『奇跡の子』全員に対する責任が課せられていた。


 立ち去った後も彼らが自分のことを話し、頭を悩ませている等と露程も考える様子の無いイルムガルドは、真っ直ぐに自分の部屋に戻ると、その前に立つ二人の職員を見付けた。

「ああ、おかえりなさい、連絡のあったマットレス、運んできましたよ」

「イ……ええと、イルムガルド、だったよな。入れてもらっても構わないかい?」

 軽く手元をカンニングしながら、優しい笑みを浮かべる男はたどたどしくイルムガルドの名を呼んだ。

「男性が部屋に入るのが気になるようなら、私だけでも。マットレスを替えるだけだから」

 もう一人が女性であったのは、彼女自身が説明したようにイルムガルドの性別に対する配慮だろうが、気遣われた当の本人、イルムガルドは大した戸惑いも憂いも見せることなく、二人共を部屋に招き入れる。職員の二人が入り込んだ部屋には、何も無い。使った様子の無いベッド、何も置かれていない机、床の上に捨てられたように落ちている毛布。それだけ。まだ来て間もないということを考慮しても、類を見ないほどに殺風景な部屋だった。一瞬、驚いた様子で入口に立ち止まった二人は、黙って目を合わせると何も言わずにマットレスを交換した。

「……ありがとう」

 作業を終えた職員が立ち去る時、イルムガルドが小さくそう言った。二人は意外そうに目を丸めたが、すぐに優しげに笑みを浮かべる。

「ううん、困ったことがあったらいつでも言ってね」

「今日からはちゃんとベッドで眠るんだよ」

 職員らの優しい対応にただ目を細め、立ち去る彼らを見送る。一人になった部屋で、静かに息を吐いたイルムガルドの内にどんな感情が巡っているのかは分からない。ともすれば、彼女自身にも、分かっていない。ただ、新しくされたマットレスに布団の上から寝転がると、一言「まし」と呟いて目を閉じた。

 ボスと呼んだ男に答えたように、イルムガルドは特別疲れていたわけではなかった。朝、いつも通りの時間に目覚め、そんな朝型の彼女に合わせた時間帯に検査が行われ、昼食の時間を挟んで昼過ぎには解放されて今に至る。しかし、彼女は目を閉じると、とろとろと微睡む。存外、自分で選んだマットレスは心地良かったのだろうか。けれどそんな珍しい昼寝の時間は三十分も無かった。通信端末がメッセージを通知し、イルムガルドは目を覚ます。確認すればアシュリーからのものだった。今日の約束は既に済ませていた為、イルムガルドは首を傾ける。会う約束がある日、彼女から連絡があることはほとんど無い。

『ごめんなさい、急に仕事が入ったから、今日は会えそうにないの。明日なら会えるのだけど、イルの都合はどう?』

 そのメッセージを、イルムガルドは不自然なくらい、長く見つめた。アシュリーの方から、会えないという連絡が来たのはこれが初めてだった。ベッドの上で寝返りを打ち、端末を右手から左手に持ち替えてまた同じメッセージを眺める。長く見つめたところで短いその文が形を変えるわけではないが、まるで彼女はそれを待つかのように観察を続けた。当然、どれだけ待っても何が変わることも無い。

『分かった、明日会えるよ。また明日』

 ただそれだけを返すのに、イルムガルドは二十分以上を掛けた。送信後、十五分。通信端末から何の音も返らないことを確認すると、イルムガルドはそれをベッドの端に寄せ、背を向けるようにして丸くなる。この日イルムガルドは、タワーから一歩も出ることなく一日を過ごした。それは彼女がこの街に来て、初めてのことだった。


 翌日、イルムガルドはボスから貰った色付きゴーグルと帽子を身に着け、街を歩く。一方的にイルムガルドを着せ替えにしていた職員達の予想通り、この格好であれば街の人間が彼女をイルムガルドと気付く様子は無い。着せ替えにされた戸惑いはさておき、歩きやすくなったことには流石のイルムガルドも幾らか感謝の念を抱いた。そうしていつも通り、六番街のアパート三階、玄関扉の傍に立ち、『着いた』のメッセージを送る。送信済みの画面をじっと見つめていれば、ほとんど待たされることなく開かれた扉。イルムガルドはのんびりとした動作で、端末をポケットにしまった。

「あら、ゴーグル似合うわね。それなら顔も隠れて安心ね」

「うん」

 扉を閉じ、二人きりの空間。玄関に立つイルムガルドの顔を覗き込むようにしながらそう言って微笑むアシュリーに、イルムガルドが眉を下げて、嬉しそうに笑う。

「昨日は会えなくて寂しかったわ、約束だったのに、ごめんなさいね」

「お仕事じゃ、しょうがないよ。わたしも時々ごめんってするし。……でもアシュリーが居ない夜はつまらなかったな」

 相変わらずのイルムガルドの言葉に、アシュリーは未だ照れ臭そうにしながらも喜びを笑みの隙間から零れさせる。イルムガルドの首へと両腕を回せば、応じるように彼女はアシュリーの腰に腕を回して身体を引き寄せた。戯れのような口付けを交わしながら、二人はゆっくり部屋の奥へと進んでいく。

 いつも通り手を洗ったイルムガルド、いつも通りにベッドに入る二人。全て何も変わらないのに、いつもより少しだけ優しく軋むベッドの音に、アシュリーは身体を火照らせながらも不思議そうに首を傾けた。

「今日は何だか、……丁寧というか、ゆっくり抱くのね」

 アシュリーの胸に唇を落としていたイルムガルドは、遅すぎるくらいの動きで顔を上げた。普段は飄々としていて余裕ばかりがある彼女にしては、何処か頼りない目を見せる。

「けがしてたら、痛いかなって」

「怪我?」

「してないように見えるけど、してたら」

 そう言って優しく肌を撫でる手を見つめながら、アシュリーは二つ瞬いて、それから、目を大きくした。

「……あ、ちょっと、やだもう、昨日の仕事って、そっちじゃないわよ?」

「え?」

 今度はイルムガルドが、いつもより少し目を大きくして瞬きをした。

「最近はそっちの仕事をしていないったら。普段は、……って、ちゃんと話していなかったわよね、ごめんなさい」

 謝罪を口にしながら項垂れると、アシュリーは自分の仕事について話した。彼女は普段、特にいかがわしいことも何も無い大衆酒場で働いており、給仕と簡単な調理をしている。むしろ主な仕事はそちらで、金銭的に困った時や空いた時間に娼婦まがいのことをして臨時収入を得ているだけだ。だからと言って今まで客と寝た回数など数え切れたものではないし、そちらも彼女の職であることは偽りようもない。出会いは娼婦としての彼女であり、その延長でしか彼女を見ていないイルムガルドが勘違いをしてしまうことも、無理はないのだ。アシュリーはそれを理解していたから、当然、そうと思われたことに対して不満を述べられるはずもない。居心地が悪そうに口をへの字にしていたイルムガルドに微笑み、改めて彼女の身体を引き寄せる。

「つまりね、今日は何処も怪我なんてしていないわ。そんなに優しくしなくていいから、……いつもみたいにたくさん抱いて」

 アシュリーが囁く言葉に、イルムガルドは柔らかく目尻を下げた。

「お客あんまり取れないって、嘘でしょ?」

「あら」

 頬を撫で、首筋から肩、そして脇まで手を滑らせ、その手を自ら目で追うようにアシュリーの身体を見つめたイルムガルドは、笑みを深めた。

「この街は、そんなに沢山、可愛いひとがいるの?」

「沢山いるわ。でも……イルには、見付けないでほしいけれど」

 二人の額が触れ合い、アシュリーの両手がイルムガルドの視界を覆うように頬に添えられる。二人きりの空間の中でさえ、他に何も見えなくさせるかのような動作に応じ、イルムガルドの方も隙間無く全身で距離を詰めた。

「アシュリーが可愛いから、他の女の人はもう見えなくなってもいいや」

 その言葉の余韻すら奪う勢いで、イルムガルドは強く彼女を抱き締める。つい先程まではただ静かにそこにあったベッドも、熱を上げる二人に文句でも言うかのように大きな音で軋んだが、訴えの甲斐は無く、むしろ二人の耳にすら入った様子も無く、二人の戯れは夜が更けるまで中々落ち着くことはなかった。


 外から聞こえるのは、静かな雨音。いつの間にか、雨が降り始めていたらしい。

 眠るアシュリーを腕に抱きながら、雨音に目を覚ましたイルムガルドは、ちかちかと明滅する己の通信端末を見付けて手を伸ばした。夜遅くに、新しくメッセージが届いていたらしい。今夜は休みだと言っていたアシュリーの眠りを妨げないように身体を起こし、端末を操作してメッセージを開く。

 小さな端末の画面に照らされながら表示された文字列を見つめるイルムガルドは、その頼りない光の中で一人、珍しくしっかりと眉を顰めていた。

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