第2話_六番街の一室

 少女の朝は早い。もしくはこの街の朝は遅い。朝の六時に起床し、十五分程度で身支度を整えて廊下を歩くが、少女が誰かを見付けることは無い。他の者が起きてくるのは、おそらく昼をたっぷりと過ぎてしまってからだろう。そのように未だ眠っている者達を、行動を起こした自分のせいで起こしてしまうことを懸念し、少女は静かに行動をしていた。

「おっと」

 しかし誰も居ないと思って少女が廊下を曲がったところで、男性とぶつかりそうになって思わずたたらを踏んだ。男性の方も、誰かが歩いてくるという想定が無かったに違いない。大きく身体を震わせていた。

「君も今から寝るのか? ちゃんと睡眠は取った方が良いぞ」

「……わたしは今起きた」

「え? こんな時間に何をするんだ」

「さあ」

 無愛想に答え、少女は彼に手を振って立ち去る。彼は今から寝るらしい。つまりはそういうことだ。この時間に起きる人間を見て、今起きたと捉えることが無いほどに、この街の朝は遅い。しかし少女にとって幸いだったのは、彼女が使用する食堂は二十四時間営業していることだ。実際はこんな時間に眠る人間への配慮なのだろうが、今の彼女にとっては有り難い。今後は、そんなことも考えなくなるくらい、彼女もこの街の者達と同じ時間を生きるようになるかもしれないけれど。

 朝食を済ませた少女は、少しだけそこで時間を潰した後、時計を確認してまた移動をする。彼女は上司から呼び出されていた。この時間だったのは、まだこの街に慣れていない少女に、上司が気を遣った為だろう。しかし、彼女は上司が何を求めて自分を呼んでいるのかも、あまり理解していない。

「ボス、来たよ」

 呼び出された部屋へと少女が入り込めば、大柄な男が一人、皮張りの大きな椅子に腰掛けていた。男は彼女を振り返り、微笑みながら立ち上がる。

「ああ。じゃあ早速こっちに来てくれ」

 男に促されるまま、少女は別室へと移動した。


 仕事の後、少女は褒美のように渡されたドーナツを頬張りながら、四番街の広場でぼんやりと過ごしていた。早朝に活動を始めたはずなのに、長かった拘束時間のせいでもう陽が傾き始めていた。空がまた、おかしな赤に変わっていく。

「今日は、六番街の方に行こうかな」

 少女の探検はまだ終わっていない。少女は、見慣れないこの街並みに幾らかの興味を持っていた。昨日のような洗礼を受けた後も、少女がこの街を怖いと感じている気配は無い。ドーナツの包み紙を近くのゴミ箱へ放り込み、少女は真っ直ぐ、六番街を目指す。

 すると、少女は昨日の女性と再会をした。あの公衆トイレの前で、彼女は立っていた。見付けて一瞬歩調を緩めた少女は、それを全く予想していなかったのだろう。六番街へ行くには同じ道を通ることになる。ただ、昨日は表から姿を見つけなかった女性が、こんなにも目立つ形で立っていることが、少女には意外だったのかもしれない。女性は近付く人の気配に応じて顔を上げ、二人の目が合う。しかし少女は無感動に視線を外し、そのまま彼女の前を素通りした。

「お、あ」

「ちょっと」

 即座に伸びてきた手が、少女の腕を掴んだ。前へ進めるはずだった足を戻して体勢を立て直しつつも、少女は間抜けな声を漏らす。女性からは、不満そうな声が返された。

「え、びっくりした。何?」

「無視なんてあんまりじゃない。もう忘れてしまったの?」

「いや、男性のお客待ちだと思ったから」

 昨日も、女性は客を求めていた。少女はそんな彼女の人違い、いや、性別違いを利用して、邪魔をした形になる。少女なりに、二度も三度も邪魔をしないようにと良心を働かせた選択だったのだろう。少女が彼女へしたことを思えば、『良心』とは一体何かをまず考えるべきであるように思うけれど。

「私が待っていたのは、あなたよ」

「わたし?」

 その時、見知らぬ男女が、公衆トイレへ向かって歩いてきた。彼らは異常に密着し、互いの耳に囁き合うように話をしている。少女らは道を譲る形で数歩移動した。はっきりとした視線は送らなかったが、男女がトイレへと入っていく様子を横目で見守って、改めて少女は女性へと向き直る。

「どうかしたの?」

 問いに対して言葉を返すより先に、女性は少女の首へ腕を回して引き寄せる。少女は大人しく従う、だけではなく、内緒の話がしたいのだと解釈したかのように、無垢な表情のままで女性へ近寄り、耳を傾けた。その様子は、間違えてこのトイレに入り込んだ不用心さから何も変わっていない。女性は彼女に見付からないように苦笑をしながらも、向けられた耳に唇を寄せ、吐息を掛けるように囁いた。

「あなたが忘れられなかったの。もう一度、……だめかしら?」

 その言葉に少女はふっと破顔すると、真正面から女性を見つめ返して、更に目尻を下げる。少女には照れる様子や戸惑う様子は微塵も無く、やはり、『慣れている』のだと思わせた。

「女だけどいいの?」

「あんな風に抱いておいて、今更、意地悪な質問をするのね」

 まるで拗ねたように唇を尖らせる女性の表情を、少女は楽しそうに見つめている。二人には、異様に暗いこの五番街は好都合だろう。少女が両手を女性の脇に添え、ゆっくり腰へと滑らせると、女性も笑みを深めた。

「でも、こういう場所、あんまり好きじゃないな、先客も入っちゃったし」

「それなら近くに、……いえ、私の部屋なら?」

「いいの?」

「あなたなら、歓迎するわ」

 再び耳元に寄せられた唇が微かに少女の肌に触れ、そして徐に離れて行く。身を翻した女性が六番街へと歩くその背を追う形で、少女も移動した。

 女性の部屋は、六番街の奥にあった。道中、少女はあちこちへ目をやって、探検の続きをするように歩いていた。移動をする間、二人はほとんど並んで歩くことが無かった。二人にはそれぞれの理由があったのだろうが、互いにそれを分かち合おうとする様子も無い。二人がようやく言葉を交わしたのは、女性の部屋に入り、扉をすっかり閉じてからだった。

「狭くて恥ずかしいけれど」

「そうかな、綺麗にしてるね」

 部屋の中を見回す少女に、「あまり見ないで」と女性はくすぐったそうに笑った。しかし彼女の部屋は洋服以外の物が少なく、整頓が行き届いている。この展開が事前に用意されていたのではと少女が考えてしまう程度には、綺麗な部屋だ。ただ、その考えが間違いであったと分かるまで、二十秒も要らなかった。

「手、洗っても良い?」

「どうぞ、手洗い場はそっちよ」

「ありがとう」

 女性が指差した方向へと少女が入り込み、数秒後、女性は慌てて少女の後を追う。少女が蛇口を捻る場所の隣は、部屋同様、整頓が行き届いた形で女性物の下着が並べられていた。少女は手を洗いながらも、視線が明らかにそれに落ちている。今更遅いと理解しつつ、女性はその上にバスタオルを被せた。

「そんなに恥ずかしがらなくてもいいのに」

「手札を全部見られるのは、喜ばしくないわね」

「ふふ、手札かぁ、なるほどね」

 手を洗い終えた少女はその場から離れて、元居た場所へと戻る。女性はそれを見送って、重苦しい息を吐きながら一人項垂れていた。

「わたしあんまり記憶力良くないから、覚えてないよ、元気出して。濃い紫のやつが好きだよ」

「……もう。あなた、人を揶揄うの、結構好きでしょう」

「んーどうだろ、あなたの反応が、かわいいよ」

 遅れて戻った女性を振り返り、少女が無邪気に笑みを浮かべている。表情がそれだから女性は騙されそうになるが、言っていることは都合の悪いものだった。しかし女性は怒るでも嘆くでもなく、少女のその性質に苦笑いを浮かべる。初めて見た時は何も知らぬ少年に見えたものだったが、今、目の前にしている少女は、『少女』と呼ぶに躊躇う性質をしていた。

「まあ、いいわ。それでも私が、……求めたんだもの」

「ん、なあに?」

「何でもない。さあ、早く、ベッド行きましょ」

 距離を詰め、腕を回してくる女性を受け止めた少女の笑みが、優しいものに変わる。キスを交わしながら、二人でベッドに移動していく。辿り着くまでに少女は女性の服をほとんど脱がし終え、ベッドに横たわる頃にはもう下着が足に引っ掛かっているだけだった。女性の肌に少女が手の平でしっとりと触れる中、二人はまだ飽きる様子無くキスを続けていた。そして女性もまた、少女の服を脱がしていく。上を脱がし終えると、次は下へ。片手で難なく少女のベルト外してズボンを下ろした器用さに、少女がキスを中断して、くつくつと笑った。

「脱がすの、上手」

「あら、それはお互い様よ」

「あなたの服は、脱がしやすいよ」

 女性は、脱がされることを前提に洋服を選んでいた。だからそれを脱がすのは、誰にとっても簡単なことだと少女は言う。しかしあらゆる男に脱がされてきた身からすれば、その手際にはやはり人によって明らかな差があり、その中で、この少女を『上手』だと思うのだ。

 とは言え、少女も自らに伸ばされる手を知らないわけではないのだろうから。何処までも、二人はお互い様だった。

「身体、きもちい」

 女性の身体に手と唇を這わせながら少女が呟く。公衆トイレのような、変わった場を好まないと告げた少女にはどうやら偽りが無く、一糸纏わぬ姿で女性がシーツの上に横たわっている、その状態の方が少女の抱き方にも熱が籠るらしい。時折零れる余裕の無い呼吸に、女性は満足そうに微笑んだ。

 昨日も、あんな場であることを考えれば異常なほど、少女は彼女を長く抱いた。言い替えれば、執拗に抱いた。だからこのように正しく整えられ、彼女が『好む』環境の中では、どうなるかなど女性はある程度の予測が出来ただろう。しかし、女性の準備が整っていたとは到底言えない。音を上げるのは、やはり女性の方が早かった。

「昨日より、かわいい」

「あ、ぁ、そんなに、したら、おかしく」

「んー、もう少し」

 何度女性が達しても、少女は手を止めない。乱れた呼吸を飲み込むように口付けては、抜いた指を入れ直す。入れてしまえば、しばらくは抜かない。降参に近い言葉を女性が零してからも長く彼女を求め続ける。何度もそれを繰り返して、女性が伸ばしてくる腕の動きがあまりに頼りなくなったところで、少女は微笑みながらようやくその手を止めた。彼女なりの加減なのだろうが、女性の基準からすればそれは大きく超過していた。

 力の抜けた女性の身体を抱き寄せ、乱れた呼吸が整うまでの間、少女は頬や額に口付けを落としながらのんびりと待った。そして女性が落ち着くと、役目を終えたと言わんばかりに身体を起こそうとした。しかし女性から伸ばされた腕が、緩くその身体を引き止める。

「ん? もう少し、こうしてる?」

「あなたが良ければ、あと少し……」

「いいよ、大丈夫」

 女性の唇に軽くキスを落としてから、少女はシーツを引き上げて二人の身体を包む。優しく女性の背を撫で、柔らかな身体が凭れてくるのを堪能していれば、少女は女性の眠りに誘われるように、そのまま眠ってしまった。

 先に目を覚ましたのは当然、少女の方だった。彼女は人の体温についウトウトしただけで、ほとんど疲れてなどいないのだから。訪れた時にはまだ外から明かりが入っていた部屋はすっかり真っ暗になり、間違いなく夜に至ったことを教えていた。少女が身体を起こすに応じて、腕に抱かれていた女性も目を覚ます。

「ごめん、寝ちゃってた。身体は平気?」

「ええ……やだ、もうこんな時間。……仕事に、行かないと」

 額を押さえながら気怠そうに裸の身体を起こす様子は、どうやら少女からは良いものに見えるらしい。首を傾けて少し眺めてから、ようやく言葉を返す。

「仕事あったの? 大変、ごめんね、疲れさせちゃった」

「ふふ、平気よ、ありがとう」

 眠そうにしながらも微笑んだ女性に手を伸ばし、少女は労うように髪を撫でる。すると女性は甘えるようにその手に頬を寄せて、手の平へと口付けた。自らの手を取り返した少女は、降参を示すように顔の横で小さく万歳をする。

「そんなかわいいことされたら、終わらないでしょ」

 苦笑を零してそう言うと、少女は脱ぎ散らかした服を集めて、身に着けていく。この後に仕事を控える女性の方が少女よりも急いでいるのだろうに、女性は服へ手を伸ばす様子は無く、むしろ背を向けている少女へと身体を寄せた。

「ねえ」

「ん、なあに」

 背に押し付けられる柔らかい感触に眉を下げつつ、少女はのんびりと返事をする。女性は少女の肩に顎を乗せ、耳元に唇を寄せた。

「……また会える?」

 甘い声にくすぐったそうに頭を傾けてから、女性を振り返り、返事よりも先に、二人は触れるだけのキスをした。

「あなたが望んでくれるなら、勿論」

「ふふ、優しい答えね。嬉しい」

 女性の両腕が首に回り、口付けが深められる。少女はそれに抵抗はしなかったが、何度も言うようにこれではキリが無い。宥めるように背を撫でる手はあまり効果も無く、その後更に十五分ほど、二人はベッドを離れなかった。


 時刻はずっと遅く、辺りはずっと暗いのに、人通りは減っていなかった。むしろ増えているようにさえ思う。少女がこれから住処に戻って眠る予定をしていても、この街の者はそうではない。今が活動時間、真っ只中なのだろう。広場には少女の腰ほどの背丈しかない子供の姿さえ見付けられる。同じ国の中でも、文化は少女の故郷と大きく異なっていた。理解したようでいても、思わず目を丸めてしまうくらいには、少女には馴染んでいない。

 足早に自室に戻った少女は、寝支度を整えた後、女性の連絡先を記した紙と通信端末を見比べた。この端末も、街に来た日に初めて持たされたものだ。まだ覚束ない手付きでそれを扱っている。仕事仲間以外の連絡先を入れるのは、初めてのことだった。

『今日はありがとう。お仕事がんばってね』

 短いメッセージを丁寧に打ち込んで送った後、少女はふかふかのベッドへと身体を横たえる。しばらくは目を閉じてじっとしていた少女だったが、三度の寝返りを打つ頃には鬱々と溜息を零した。身体を起こして上等なベッドから抜け出すと、そこから毛布だけを引き抜き、部屋の隅、床の上に寝転がって毛布に包まる。

 この街で与えられるものは何もかも、少女にはまだ、馴染みそうにない。

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