心がある兵器
暮
第1話_五番街の公衆トイレ
空は
この街を覆う大気は汚染され、見上げる空が本来あるべき色になる日は無い。今を示す時間が夕と呼ぶものでも、明らかにそれは異常な赤だった。スモッグに太陽の赤が入り込み、更に街の明かりがそれに反射して複雑な色を見せる。そんな空を、少女が一人見上げていた。少女は今年で十六を数えたが、その年齢に至っても学問と呼べるものに凡そ触れることなく育った彼女には、その色の理由が理解できるわけもなかった。
「――変な色」
そう呟くと、少女はもう興味を失ったかのように前を向いて歩く。そして進んだ先で不意に、少女の足元から、がんがんと金属音が響いた。先程まで歩いていた場所は石畳だったが、広場を抜けると地面は金属に変わった。その金属の名前は、やはり少女には分からない。
「なんか、ずっと地面が固いな。足痛くなりそう」
口をへの字にして、少女が溜息混じりに呟く。ブーツは新しく与えられた丈夫なものを履いていたが、それでも不安そうに足元を何度も見つめていた。
この街の中で、少女はまだ土らしい土を見付けていない。全てが人の手で作られたこの街は、自然物をほとんど持たない。ともすればこの空気のみ自然物だろうが、それすらも汚染されているのだと考えればもう皆無だった。少女は数日前まで、自然物の方が多いような環境で生きていた。この街が当たり前としている全てが、彼女には目新しい。
現在、四番街。ぐるりと周りを見回している少女は、五番街を案内する標識を探していた。広場の片隅に小さく書かれた矢印を見付けて、迷わずそちらへと足を向ける。学は無いが、文字は読めた。少女は孤児であっても、最低限の文字を教えてくれる大人が傍に居た。誕生日も周りの大人が覚えていてくれて、毎年、彼女の年齢を数えていてくれたから分かることだ。孤児である身分を思えば、彼女は幾らか恵まれていたのだろう。
「こっちかな、……と」
五番街を目指して歩いている彼女だが、特別、向かわなければならない目的地を持ってはいない。彼女は今、彼女にとって新しいこの街をただ、探検しているのだ。四番街から、五番街へと入り込む。この区画の探検が終わったら、次は六番街へ向かおう。そう思いながら進む少女だったが、数歩で、周りの雰囲気が変わっていることに気付いて歩調を緩めた。変わったのは街並みか、明かりの色か。四番街よりも薄暗く、住所の違いだけではない何らかの違いが、その空間にはあった。そしてその明確な差異を、五分後に受けることになる。
「お嬢ちゃんはぁ、四番街から来たのか?」
異常に細く背の高い男が、徐に、少女へと近付く。男からは酒の臭いと共に、妙な臭いが漂っていた。意味も無く笑みを浮かべている様子を見つめ、少女は不快そうに眉を寄せた。
「どうだ、お兄さんと遊ばないか、気持ちいいことを、教えてやるよ」
「なぁんだよ、金も貰えて気持ち良くもなれる、最高だろ?」
「……いらない」
少女ははっきりと男性の腕を振り払った。男の手は容易く弾かれ、よろけて壁にぶつかっていた。やはり男は酷く酔っているようだ。背を向けて歩き出した少女を追う様子も無く、小さな背に向かって、下卑た笑いを浮かべながら幾つか下品な言葉を投げただけ。周りの大人は一連のやり取りに大して表情を変えることも無ければ、振り返る素振りすら無い。その様子を見て、これはこの区域にはよくあることなのだと少女は理解した。寒くもないのに上着のファスナーを一番上まで上げる。胸が隠れた状態では、化粧をせず、髪も長くない少女の性別を一見で証明するものは何も無いだろう。これでいいと満足した様子で、少女は再び歩を進める。
見慣れない街並みを、ぶらぶらと歩き回り、知らない道を塗り潰すようにして進んでいく。何処も彼処も、四番街と比べればやはり薄暗い。奥へ進むほど、暗さは増していた。六番街は、もっと色が濃くなる。それを知る者がもし彼女の歩きを見ていたとすれば、暗がりを探し求めているようだと思うだろう。暗い場所から、暗い場所へと、少女が躊躇う様子なく向かっていた。
「ん、ここ、公衆トイレか」
一際、明るい光に目を細め、少女が立ち止まる。暗い街並みに対してその明るさはあまりに不自然だったが、少女がそれを違和感として捉えることは無かった。中に入り込み、街の印象とは打って変わって綺麗に保たれている内部を見回す。
「あー、共用か……」
奥へ進んでも男女で分岐しないのを見て、少女は微かに眉を顰める。此処は、男女共用のトイレであるようだ。しかしそれにさえ目を瞑れば、綺麗で広く、個室も多い、非の打ち所の無い立派な公衆トイレだった。先程のような男に出会う前であれば、少女もさして気に留めなかったかもしれない。
ただ、今のところ他に人影も無い。少女はこれ幸いとさっさと用を済ませて、手を洗った。濡れた手をハンカチで拭い終えた頃、一人の女性が入ってくる。その女性の装いは今の少女とは真逆で、一目で女性と分かるどころか、妙に露出が多い。こんな人でも気にせず共用トイレに入ってくるものなのかと、少女は何処か感心した目を向ける。これだけ綺麗で明るいトイレであれば、むしろ好んで使用するのだろうか。相手が女性であったせいで、少女は一切の警戒心を抱いていなかった。やはり、先程の男の影響だったのだろう。トイレを出ようと視線を外に向けた瞬間、完全に油断をしていた少女は、女性によって容易く個室へと引き込まれた。
何が起こったのかを少女が正確に把握するよりも早く、狭い個室の中、女性は柔らかな身体を少女へと押し付けながら目尻を下げる。
「まだ子供かしら。ね、お姉さんと良いことしない?」
自分が『少年』と間違われているのに気付いた少女が訂正を告げようと唇を開けば、女性は少女の両頬に手を当てて顔を引き寄せ、その唇を奪う。女性には、相手の返答を聞くつもりは最初から無かったらしい。そして無防備に開いてしまった唇の隙間から入り込んでくる舌を、少女は拒み損ねた。身を引こうと動くが後ろは壁で逃げられない。一方女性は、少女がそうして抵抗を見せている間も、角度まで変えてキスを楽しんでいる。女性に対して乱暴に振り払う気にはなれないのか、少女は抵抗を諦め、身体から力を抜いた。執拗に舌を吸い上げられ、少女の肩がぴくりと浮く。女性はその反応を満足そうに見つめると、目尻を下げて、ようやく少女の唇を解放した。
「最近、誰も相手をしてくれなくて、退屈しているの。あなた、初めてでしょう? お金は要らないわ。お試しだと思って、どう?」
そんな誘いの言葉に、少女は思わずと言った様子で、可笑しそうにくすくすと笑う。予想していなかったらしい反応に、女性は目を丸めていた。
「まるで、ドラッグの誘いみたいだね」
違法薬物は、好奇心で一度試してしまえば、求められる金額がどれだけ跳ね上がろうとも止めることが出来なくなるものだ。故に売り捌く側は、最初は無料で渡すなどの方法で顧客を増やす手段を取る。快楽を知ってしまえば、知る前には永遠に戻れないことを彼らはよく理解しているのだ。勿論、女性が差し出す『良いこと』は違法薬物と同じでは無いが、『少年』と見た子供に、初めての快楽を教え込もうとしている点では売り方が同じという印象を受けるのだろう。
「あら、……女の子?」
少女が発した声に、ようやくその可能性に思い至った女性は、更に大きく目を丸め、何度か瞬きを繰り返す。隙間が無いほどに寄せていた身体を少し離し、女性は無遠慮に少女の胸を触った。厚手のジャケット越しであれど、手の平で確認すれば流石にそれが間違いなく女の乳房であることは分かっただろうに、それでも女性はそのまま手を下ろして、更に少女の股の辺りを探った。男であれば必ず持っているものの存在――が、無いことを確認したらしい。流石にそれには少女も慌てて腰を引いたが、既に触れられてしまった後だった。
「残念、間違えちゃった。駄目よ、此処はそういうことに使われるトイレだから、知らないで入ったら危ないわ?」
女性から漏れたのは謝罪ではなかった。しかし少女はそれを気にするよりも、納得をした顔を見せる。過ぎるほどに綺麗に保たれているのも、それが理由の一端なのだろう。作られた当初は普通の公衆トイレだったのかもしれないが、立地のせいか、少なくとも今は用を足す為に置かれていないのだ。少女は呆れたように一つ溜息を零す。そんなこと、一見で分かるわけもない。何も知らない少女が、この街で危険を回避するのは大変なことだった。
「それじゃあね、もう、入ってきちゃ駄目よ」
女性はそう言って個室を出ようと扉に手を掛ける。その時初めて、少女は女性の全身をしっかりと確認した。体型を見せつけるような服。丈の短いスカート。大きく開いた胸元から覗く谷間については、今少女からは見えないけれど、身体を押し付けられた時にこれでもかと見せ付けられている。一瞬、考えるように天井に目をやった少女は、女性と扉の間に腕を差し入れ、その身体を引き止める。驚いた様子で腹部に回った腕を見下ろした女性は、この個室へ引き込まれた時の少女よりも、もしかしたら驚いていたのかもしれない。引き寄せられ、壁へ身体を押し付けられても、女性には抵抗らしい動きは無かった。それを好都合に捉えた少女が、無遠慮に女性のスカートを右手でたくし上げる。
「ちょっ、……えっ?」
「一回目がフリーなのは、女でも一緒なの?」
問い掛けの形を取っておいて即座に口付けで唇を塞ぐのも、女性と同じ段取りだった。まるで揶揄うように、少女はそれを真似ていた。しかし誘いを掛けながらもキス以外では身体に触れなかった女性は、少女よりも幾らか良心的だったとも言える。少女は回答を聞かないままで女性のブラジャーを緩め、スカートの下から差し込んだ手は既に女性の股を好き勝手に触れていた。先程の少女のように腰を引いても、逃れられないのも同じ。女性の爪先が、少しだけ震えた。
唇が解放されても、女性はそれ以上の抵抗を見せない。少女はちらりと女性の表情を確認してから、晒させた肌の上に手の平と唇を滑らせる。愛撫に応じ、少女の耳元へと掛けられる甘い吐息。目を細めてこくりと喉を鳴らし、己の唇を舌で濡らす少女は、まるで獲物へ狙いを定めた獣のそれだった。
「も、う、だめ……」
「んー、中、気持ちいいから、もうちょっと」
女性の脚が酷く震えていることを、少女も知らないわけではないのだろう。その上、女性は言葉でも降参を訴えているのに、少女が愛撫を止める様子は無い。与えられる刺激に応じて形を変える中の感触を楽しんでいるらしい。女性は壁に背を預け、少女にしがみ付くように腕を回していたが、その身体はとうとう限界を迎えてずるりと下がった。それでも、中を掻き混ぜている音が個室から消えていかない。少女は沈んでいく腰へと腕を回して、彼女の身体をその場に押し留めた。
「柔らかくていいね、素直だし、かわいい」
囁く声に、女性はしがみ付く腕を強めて吐息を震わせるばかりで、何も返さない。少女が愛撫を止めないから、声を抑えることに精一杯で何も返す余裕がないのだろう。無遠慮に与え続けられる刺激に、少女が評価した通り『素直に』反応をし続けた末、三度目となる絶頂を迎えた女性からは、残された微かな力も抜けて行った。
「あー、ちょっと待ってね」
少女が何とか片腕で受け止めるが、長くは持たない。女性の中から指を抜くと、備え付けのペーパーで手と女性のそこを拭う。そして歩くことも立っていることも儘ならない女性を、改めて両腕で抱き寄せ、優しく便座へと座らせた。
「お疲れさま。かわいかった、ありがと」
女性の顎を指先で掬い上げ、触れるだけのキスを落とす。蕩けた目でぼんやりと少女を見上げる女性は、少し困ったように笑った。
「……悪い子ね、女を、抱き慣れてる」
その指摘に少女は眉尻を下げて笑みを返し、首を傾けた。
「そうでもない。あなたがかわいくて、つい手が出ただけ」
自らの手で乱した衣服を一つ一つ丁寧に整えている少女は、行為など何も知らないような顔をしていた。女性はまた一つ、苦笑いを浮かべる。
「そういうところよ」
スカートの端に少女が手を掛けると、女性がぴくりと反応を示す。それを見付けた少女の手は一瞬止まり、そして、何事も無かったかのように再び動いて裾を整えるが、最後にはくすりと笑った。
「ほんとに中毒になっちゃいそうだから、もう行くね」
顔を上げて少女を見つめる女性の目はまだ熱を帯びており、また少女が困ったように笑う。女性は何かを言おうと唇を震わせたけれど、遮るように少女が「じゃあね」と言うとそのまま口を噤んだ。立ち去る少女が後ろ髪を引かれている様子も無い。個室から出た後、少女の背後ではカシャンと再度施錠された音が立つ。しばらくは立てないだろうと、振り向くことなく少女は思った。幸い、トイレには未だ人の気配は入り込んで来ない。使用目的から言えば、時間帯として少し早いのだろう。女性が告げたこのトイレの用途に偽りが無かったことを感じながら、少女は再び手を洗って、その場所を後にした。
外は、トイレへ入る前よりも更に暗さを増しており、街の明かりがやけに目立つ。少女は時計を確認し、左右を見た。一度、軽く首を傾けてから、来た道の方へと足を向ける。六番街への探検は、後日改めることに決定したらしい。女性と遊んでいた時間で、予定していた探検時間が潰れてしまったのだろう。
そうして帰路に就いていた少女が四番街の広場まで戻れば、最初に通った時には無かった人だかりが出来ていた。
「――道を開けろ!」
騒がしい中、一際大きな声が響く。同時に、広場へと大型車が入り込んだ。普段は車などが入り込めないように立てられているポールが、今は地面の中に収納されていた。大型車の両脇には、政府専用車であると大きく記されている。立て続けに同じ車が三台通り抜ければ、ポールが再び地上へと引き上げられた。
「慌ただしいな、もしかしてまた犠牲者が出たのか?」
「ここのところ、続けてじゃないか」
遠巻きに見ていた人達が、噂をしている。静かに少女がそちらを振り返ったことを、彼らが気付いた様子は無い。
「無尽蔵に増やせるわけじゃないんだぞ、あの子達は神様からの贈り物なんだ」
「政府もそんなことは分かってるだろうに、一体何をしてるんだろうな」
憤りや不満が隠せない様子で話しているが、声は抑えてある。近くに政府関係者などが居れば立場が悪いとでも思うのだろうか。
「おい、やっぱりだ、見ろよ。もうニュースが流れてる。一名が死亡、一名が重傷だとよ」
「何てことだ……重傷の子は、戻ってくるのか?」
「分からない、少なくともすぐには無理だろうさ」
いつの間にか、広場に集まっていた大勢はその場を離れ、人は
「ああ、俺達の、国の宝が……」
重苦しく呟いたそんな言葉が少女の耳に入り込む。背を向けてしまった今、彼らから少女の表情を見ることは叶わない。しかし少女は喉の奥に押し隠すようにして、表情を変えることなく静かに笑っていた。
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