023「Remember you」

 「美」とは何か。様々な論点があるだろうけれど、「再現不可能性」は一つの重要なファクターだろう。


 僕らが模造品に心を惹かれないのは、それが偽物だからというわけではなく、「同じものをまた作ることができる」と心のどこかで思っているからだと思う。


 芸術品に僕らが魅了されるのは、「それしかありえない」「再現することができない」言い換えれば「その作品にしかできない」何かを感じ取った時だ。代替できない、再現できない、ただ一つしかない。「美」にはそんな儚さがある。


 だから、本物の「美」を目の前にすると、人はたじろぐ。世界に、いや、宇宙に一つしかなく、壊れてしまえばそれで終わり。そう直感した時、対象をどう扱っていいか分からなくなってしまうのだ。


 ササキの「心霊写真」にも同じことが言えた。言葉にできない儚さがあった。奴にしか、才能と技術を積み重ねたものだけにしか撮れない、美しさの圧力があった。


 写真の中には、あの事故があった横断歩道があった。そして、歩道の先にはガードレール、大槻が手向けた小さな花もぼんやり写っている。そして、写真左側からは、ササキがシャッターをきった時に走り込んできた車がある。ただ、車のスピードが速かったため、車体の輪郭はぼやけ、何本もの銀色の流線が尾を引くように写っていた。


 しかし、ガードレールにも花にも車にもピントが合ってない。どれも輪郭がはっきりしない。この写真の中で唯一ピントがはっきりあっているのは……


 流れる銀色の車体の先にある「何もない空間」。そこにピントが合っていた。


 何もない部分だけがはっきりした輪郭を持っている。「何もないこと」が強調されている。不思議なことに、「何もないこと」が強調されるほど、「何かがあった」ことが浮き出してきていた。


 もちろんどんなに目を凝らしても、その空間には何も映っていない。アスファルトと横断歩道の白線がやけにくっきり写っているだけだ。


 しかし……


 背後に映るぼやけた献花、迫りくる猛スピードの車体、そしてその先に「何もない」空間。


 誰がどう見ても、ここで何があったのか分かる。どこまでも物悲しい写真だった。


「……ササキが言ってた。今回は『何もない』を撮ったって」

「そんなこと、できるの?」


 大槻は、小さな声で訪ねた。


「僕もそう聞いたよ。……今のカメラは勝手にピントを合わせてくれるけど、でも昔はそういうのなかったわけだろ。光の量と感度とシャッタースピードなんかを調節しながら、ピントは自分で合わせる……らしいんだ」

「……自信なさそうだね」

「まあ、聞きかじりの知識だからな。で、ササキは今回、自力でピントを『空間』に合わせたんだと。つまり……」



 見えないものを撮るために。

 見えないという事実を撮るために。

 だけど、確かに「誰かがいた」ことを撮るために。

 「大槻いなほ」がここにいたことを撮るために。


 確かにこれは、「心霊写真」に違いない。ひねくれもののササキらしい結論に思えた。


「あいつの言っていること、分からなかったけど、今、この写真見てわかったよ」


 この写真が、すごい作品であることは疑いない。だが、写真の評価を決めるのは依頼人の大槻だ。どんなに素晴らしい写真であっても、大槻が認めないならばこの写真はボツだ。僕は、静かに彼女の反応を待った。


 何とも言えない静かな時間が過ぎた。校庭の部活の声や、廊下を移動する生徒の足音がやけに遠くに聞こえた。


「……赤坂君。なんかさ、色々思い出しちゃった」


 何分経ったか分からない、本当は数秒だったのかもしれない沈黙の後で、大槻は僕に背を向けていった。


「何を……だ?」

「お姉ちゃんとご飯食べたこととか、勉強教えてもらったこととか、お友達と一緒に家で遊んだこととか、クラスの好きな人とか話し合いながら寝た二段ベッドとか……」


 声がだんだんかすれて、震えていく。大槻の背中が一回り小さく見える。肩がかすかに揺れている。


「誕生日のこととか、私の合格発表の時とか、私より喜んで泣いてたこととか、残ったケーキ譲ってくれたこととか、喧嘩したこととか……」


 時系列も、日常も、特別な日も関係なく、とめどなくあふれる姉との思い出を、大槻はしゃくりあげながら少しずつ言葉にしていった。僕は、何も言う事ができず、ただ相槌を打つ事しかできなかった。


「……それで、それでね。もうお姉ちゃんがいないんだってこと、おもい、だしちゃったの」


 大槻の声は、涙で震えていた。声には自責と後悔がにじんでいた。


「お姉ちゃんのこと、覚えていようって、私、こう見えて努力してたんだよ? でも、この写真を見てたらいろんなこと思い出しちゃった。忘れないようにしようっていつも思ってたのに、忘れちゃってること沢山あった。一番大事な『お姉ちゃんがいなくなった時』の感覚も……忘れちゃってた」


「でもそれは……仕方ないことじゃないか? 全部覚えておくなんて、できないよ」


 そんな言葉に意味がないことは、そんな一般論では彼女が救われないことはわかっていた。でも、何か、声をかけずにはいられなかった。

 大槻は、僕の方を向いた。目は真っ赤になって、大粒の涙が溜まっている。


「でもさ、これから時間が経ったら、またどんどん忘れて行っちゃうんじゃないかって。昨日より今日、今日より明日、そうやってお姉ちゃんのこと、どんどん私の中で薄くなっていくって思ったら、苦しくて……あれ」


 大槻は、言葉を発しながら、何かに気が付いたような、はっとした顔をした。僕の方を向いてはいるが、目が虚ろになって、明後日の方を見ているようだ。


「ああ、そっか……もしかしたら、私自身が、もうお姉ちゃんのこと忘れたいって思ってるのかもしれない。口では大好きだって、忘れないって言いながら、いろんなこと忘れちゃってたのは、心のどこかで、もう忘れたいって思ってるから……?」

「そんな……」

「私、あの犯人のおじいさんとおんなじじゃん。私も忘れていくじゃん。なのにいつまでも覚えていて欲しいとか、言う資格、ないじゃん……」


 教室には、誰も入ってこない。放課後、落ちかけの日がはなつ西日が教室の中に入り込んでくる。オレンジ色の温かい光に照らされても、大槻のしゃくり上げる姿は寂しげで寒々しかった。

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