007「フラッシュバック」

 枢木が立ち去ってから、僕はしばらく動けなかった。

 枢木の冷たい表情が網膜に焼き付いてしまった。

 

 しばらく、バイトの業務と学校生活だけを繰り返していたから忘れていたのだ。


 誰かから拒絶される痛みとか。

 自分を無力な子供に引き戻す冷たい視線とか。

「なんでもするから、許してください」そう言って縋りついた、あの感覚とか。



「なんで家で面倒見ないといけないの?」

「いつまでいるのよあの子。うちにそんな余裕なんてないのよ」

「知ってるよ。キセーチューっていうんでしょ。シュン君みたいな人」

「誰が生んだのよあの子。そいつに責任取らせなさいよ」―———


 皮膚が騒ぎ立つ。自動再生される記憶に痙攣のような震えが走る。


 ……考えすぎだ。枢木と僕の過去は関係ない。

 僕は気持ち乱暴に頭を振って気を取り直す。


 落ちていた枢木のブレザーを拾って、僕は「喫茶クロワッサン」に戻った。



「遅かったじゃないか。ちゃんと見つけられたかい?」

 

 店内の客はササキ一人になっていた。店長はカウンターの中で、自分で淹れたらしいコーヒーを飲んでいる。


「ああ。ちゃんと追いつけたよ。話も少し聞けた。お前の言う通り、枢木家のご令嬢だったよ」

「へー。そうかい」

 さして興味もなさそうにササキは返事をした。


「で、それは何だい?」

「ああ、枢木のブレザーだよ」


 ササキは何かに驚いたように少しだけ目を大きくした。


「なんだい? お金持ちとわかるなり身ぐるみでも剥いできたのかい?」

「山賊か僕は……違うよ」


 ササキはさらに目を見開いた。意外とレアな表情だ。

「それじゃあ頭を下げてもらってきたっていうのかい? 君は女性の服に欲情するような性癖でもあるのかな?」

「僕をレベルの高い変態みたいに言うな!」

 

 ササキは額に手を当て、芝居がかった調子で嘆くような声を上げた。


「人のフェティシズムにとやかく言うのは野暮だけれども。でもね、シュン君。若いうちからあんまりマニアックな趣味を持つと苦労するよ? ボクが通っていた芸大にもそういうやつが大勢いて……」

「話を聞け!」

 ササキの大学時代の話など聞きたくない。

 それに、芸大のそういう人達はさらなる高みにいそうだ。そこと並列に語るのはお互いに不本意だと思う。


「じゃあ何なんだい? そのブレザー」

「タバコの臭いが付いたから捨てるんだと」

 

 ササキにはそれだけ言った。

 それ以外のことは何も言わなかった。


 ササキは視線を上に向けた。何かを考えているような顔だ。


「ふーん……ははあ。なるほどねぇ」

「なんだ? 悪ふざけなら僕は付き合わないぞ。そんな気分じゃない」

「いやいや。そんなんじゃないさ。ちょっと気になってたんだよね」

「何だよ」


 ササキはもう冷めているであろうコーヒーに口をつけた。


「いやね。彼女、お忍びでここに来てるんじゃないかって思ったのさ」

「お忍び?」

「そう。枢木財閥のご令嬢が放課後にフラフラと出歩けるものなのかと不思議に思ってたんだ。ほんとは習い事とか外出制限とかあるんじゃないかなって」


 確かにあれだけの大企業のご令嬢が、その辺の女子高校生と同じように寄り道する様子は考えがたい。こんな辺鄙な喫茶店ならなおさらだ。


「嘘をついたか黙ってかは知らないけど。帰ってきた娘の服からタバコの臭いなんてしたら、ご家族はさぞご立腹じゃないかなと思ってさ」

「いや、枢木がここにいたのはものの十五分程度だぞ? お前が目の前で吸っていたわけでもないのに、それで普通制服を捨てるか? それってなんだか……」


 異常だ。彼女の他人とかかわる際の警戒心は異常と言える。

 枢木の過剰なまでの警戒心の背後には、何か問題があるような気がしてならない。


「知らないよ。人にはそれぞれ家庭の事情があるからねぇ。詮索するだけ野暮さ」

 

「でも、一言言ってくれてもいいじゃないか。そしたら別の場所でお前を紹介することだってできたはずなのに……」

「言わないってことは、隠したい理由があるってことだ。それを根掘り葉掘り聞くのは傲慢ってやつだよ。ボクらは言われた通りに仕事を遂行すればいい」


 ササキのいう事は正論だ。仮に枢木が家族の中で問題を僕にそれを解決する権利も、動機も、力もない。


「でも……」


 でも、納得しきれない自分がいた。もしかしたら、僕が力になれることがあるのではないか? そんな思いがぬぐい切れない。

 

「ははぁ……相変わらず、シュン君は優しいんだねぇ」

「うるさい……僕は優しくないし、優しいは褒め言葉じゃない」

 

「ま、彼女だって本当に助けが必要になったら教えてくれるよ。その時手伝ってあげればいい」


 そう言ってササキは席を立った。

 会計をすませ、「じゃ三日後、よろしくね」そう言って店を出ていった。

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