第5話


       (5)


 くーはどんどん跳ねていってしまう。自分の知らない場所へ。

(くーちゃん……くーちゃん……)

 くーの背中がどんどん小さくなって、ついに見えなくなった。

(くーちゃん……くーちゃん……)

 もう、いない。


「……ま……お……おい……ゆま……ゆま……ゆま!」

(……っ!?)

 すぐ近くからの声……それは毎日耳にしている声。

「……お父さん……」

 目を開けると、そこに父親がいた。夕方見たままのよれよれのシャツに紺色のズボンで、白が混じっている短い髪の下にある両目は、ゆまのことを心配そうに覗き込んでいる。

「どうして……?」

 明るい世界。さっきまで世界は真っ暗だったのに、今は空に太陽が顔を出していた。

「嘘ぉ……?」

「お前、一晩中ずっとここにいたのか?」

「……ううん」

 今は仰向けになっていて、『大丈夫か?』そう心配する父親に小さく頷き、上半身を起こす。

「えーと、ここまで案内してくれた人がいるの。その人とずっと……あれ?」

 ついさっきのことなのに、分からない。自分はここでずっと、どうしていたのか?

「ああ、そうだ。あのね、お父さん、くーちゃんがね……」

 ここでくーを見つけた。ここでくーと話した。ここでくーとお別れをした。

「あ……」

 すでにその頬には涙が伝わっていた……思い出した。くーから告げられた真実を。そう認識した瞬間、心の奥底から激しい感情が込み上げてくる。

「ごめんなさい……ごめんなさい!」

 片膝の父親に、ゆまは力いっぱい抱きついた。

「ごめんなさいごめんなさい! わたし! わたし! ごめんなさい!」

 溢れ出る激情は、ゆまの瞳から止めどなく流れていく。

「くーちゃんが教えてくれたの! わたし! お父さんにひどいこと! ごめんなさいごめんなさい!」

 抱きしめる。そこにいてくれる父親のことを力いっぱい抱きしめる。

 大好きだった父親を失わないように。


 ゆまの瞳には、この季節としては大変珍しい色が映っていた。

「凄いね、お父さん、秋に咲くことってあるんだねー」

「たまにそういうことがあるらしいな」

 ゆまと父親の前、そこには大きな樹木が生えている。大人四、五人が手をつながないと幹を囲むことができない大きな木。

「お父さんも初めて?」

「いや、二回目だ」

 二人の頭上には、大空に向かってたくさん手を伸ばしている枝があり、無数の桜色がついていた。

「前回は……父さんが今のゆまよりも、ちょっとお兄さんの頃かな」

「そうなんだ……」

「父さんの父さんが死んじゃうちょっと前、珍しいからって、ここに連れてきてくれたんだよ」

「同じもの、お祖父ちゃんと見てたんだね」

「あー、もう随分遠くなっちゃったなー」

 父親は桜色に向かって大きく伸びをする。

「……そうだ。あの時だ。あの時、今度帰ってきたら、一緒に動物園に──」

「そうそう、お父さん!」

 思い出したことがある。

「あのねあのね、お父さんにね、りょうへいっておじさんが、一緒に動物園にいけなくてごめんなさいって」

「えっ……!?」

 風が吹く。木々がざわめきはじめる。ゆまの見つめる先は、とても驚いたように目を見開いている。その目が向けられるのは、桜色を有した大きな木。

 まるでそこに、誰か知っている人でもいるように。

「どうしたの、お父さん?」

「……お礼を言わないといけないな、父さんの父さんに」

「うん……?」

 大きな手は、二度、三度、ゆまの頭をやさしく撫でてくれる。ゆまは気持ちよさそうに目を閉じ、吹き抜けていく風に後ろで縛った髪を揺らしていた。

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秋の桜 @miumiumiumiu

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