黒本
双傘
第1話 grimoire
冷たい夜風が少年の頬を撫でていた。彼は薄暗い夜道を一人で歩いていた。家路に向かう途中だったが、道に迷ったのだ。あたりは静寂に包まれ、不気味な雰囲気が漂っている。ふと、茂みの先に古びた館が見えた。
「こんなところに…」
少年は興味を引かれるように館の方へと足を進めた。門は重々しく鎮座していて、枯れた植物の蔓が巻きついていた、少し押してみるとふわっと開いたことに驚くこともなく敷地に足を踏み入れてしまっていた。扉は錆びついているにも関わらず、やはり簡単に開いた。中に足を踏み入れると、薄暗い空間に重たい空気が漂っていた。埃の匂いが鼻を突き、床はギシギシと音を立てる。
奥の部屋には唯一、小さな円卓があり、その上に分厚い本が置かれていた。 窓から覗く月光がその本を照らしていた。
「これ…何だろう?」
少年は本の表紙を撫でた。装丁は古めかしいが、どこか荘厳な雰囲気をまとっている。興味本位でページを開くと、驚いたことにその中身は真っ白だった。
「ただの空っぽの本?」
そう呟いた瞬間だった。耳元で誰かの声が囁いた。
「汝、契約を欲するか?」
少年は驚き、周りを見回したが、誰もいない。しかし声は確かに聞こえる。
「何の契約だ?」
「力だ。全てを覆す力。望むなら、汝の名を告げよ。」
少年は少しの間迷ったが、その声には奇妙な魅力があった。心の奥底に眠る願望が引き出されるようだった。
「…知らない人に名乗っては行かないと、ママに言われている。」
「私は君のママを知っている…さあ汝の名を」
「シャケだ。」
その瞬間、本が眩い光を放ち始めた。少年は反射的に目を閉じたが、視界の裏側で何かが動いているのを感じた。そして次に目を開けると、目の前には赤い瞳を持つ女が立っていた。
「待ち望んでいたわ。」
声は甘美で冷ややかだった。彼女は黒いドレスをまとい、床にまで垂れる銀髪の長い髪を持っていた。その姿には不思議と威圧感があり、息を飲むほどの美しさを兼ね備えていた。
「…誰だ?」
少年は後ずさりながら尋ねた。
「私は月の魔導書。この本に封じられていた魔法そのもの。」
「魔法…?」
「そう。そして今、あなたが私を解き放ち、この契約を結んだの。」
少年の胸に不安が湧き上がる。自分が何をしてしまったのか、全く理解できなかった。
「待って、契約って何のことだよ!僕はそんなつもりじゃ…!」
「後悔しても遅いわ。」月の魔導書は薄く微笑む。「これからはあなたが私の主人。そして、私の力を使役する存在。」
彼女の手が軽く振られると、部屋全体が変貌を遂げた。崩れかけていた壁は煌びやかな装飾に変わり、暗かった部屋には無数の燭台が灯った。
「これが…魔法…?」
「さあ、これからあなたが何を望むのか、私に見せて頂戴。」
彼女の瞳が輝き、少年の心の奥深くを見透かしているようだった。彼の運命は、この瞬間から大きく変わることになる。
少年は古びた本を両手に抱え、家へと戻った。ポツポツと雨が降り始めた夜道を急ぎ足で進み、ようやく自宅の明かりが見えてきた。小さな平屋の家は暖かい灯りを放っていたが、少年の心は重く沈んでいた。
玄関を開けると、台所から母親の声がした。
「シャケ?どこに行ってたのよ、こんな時間まで。」
「…迷っちゃって。」
少年は適当にごまかしながら、母親の顔を見ないように靴を脱ぎ、部屋に上がった。しかし、手にした分厚い本を見た母親が不思議そうな顔をする。
「その本、どうしたの?」
少年は少し躊躇ったが、結局すべて話すことにした。古びた館を見つけたこと、本を開いたら白紙だったこと、そしてそこから聞こえた不思議な声と、目の前に現れた赤い瞳の魔女のことを。
だが、話している間、母親の表情は変わらなかった。驚くでもなく、怖がるでもなく、ただ静かに聞き流しているようだった。少年が話し終わると、母親は微笑みを浮かべて言った。
「それでその本を拾ってきたのね。そっか。いろいろあったのね。でも、今は晩ご飯を食べましょう。お腹空いてるでしょ?」
「…信じてくれないの?」
「信じるとか、信じないとかじゃないのよ。」母親はそう言うと、コンロの火を止め、カレーの皿をテーブルに並べ始めた。「疲れてるんじゃない?まずはご飯を食べて、それからゆっくり休みなさい。」
少年は母親の言葉に反論しようとしたが、虚しくなるだけだった。統合失調症を患っている彼の話を、母親が真剣に受け止めてくれたことは一度もない。彼女は怒ることもなく、ただ穏やかに聞き流すだけだった。
食卓につきながらも、少年の心には寂しさが広がっていた。温かいはずのカレーも、彼には味気なく感じられた。
夜になり、少年は自室の布団に潜り込んだ。母親が信じてくれなかったことが胸に重くのしかかり、なかなか眠れない。窓の外には月がぼんやりと輝き、少年はそれを見つめながら、頭の中で何度も今日の出来事を反芻した。
「本当だったのに…。」
そう呟きながら、少年は目を閉じて朝を待った。
翌朝、シャケは母親に起こされた。
「シャケ、朝だよ。少し散歩でもしてきたら?天気もいいし、気分転換になるわよ。」
母親の言葉にはどこか強引な響きがあり、少年は断りきれずに外に出ることにした。玄関を出ると、朝の空気が清々しく、昨日の重い気分が少しだけ和らいだ。
家の近くにある公園まで歩いていくと、子どもたちの姿もなく、遊具がひっそりと佇んでいた。静かな公園を見渡していると、ふと違和感を覚えた。
滑り台の上に、誰かが座っている。
よく見ると、それは昨日目の前に現れた魔女だった。黒いドレスを纏い、長い銀髪を風になびかせながら、彼女は滑り台の頂上で日傘をさし誰かを待っているようだった。
「お前は…」
少年が名前を呼ぶと、彼女はゆっくりと振り返った。その瞳が日光の影であるように暗いでもなく輝いていた。
「おはよう。こんなに早く会えるなんてね。」
彼女の口元には微笑みが浮かんでいたが、その笑顔にはどこか夜の冷たさが感じられた。
「なんでここにいるんだよ。」
「あなたが私を解き放ったからよ。これからはあなたの近くにいるわ。」
「そんな…」少年は動揺し、後ずさった。「ママが信じてくれなくて…もしかしたら、全部夢だったんじゃないかって思ってたのに。」
「夢だと思うなら、それでもいいわ。」彼女は滑り台からひらりと飛び降り、少年の目の前に立った。「でも、私がここにいるのは紛れもない事実。契約はもう交わされてしまったのだから。」
彼女の瞳が少年を見つめるたびに、心の中の不安と期待が入り混じる。
「何が始まるんだ?」
「それはあなた次第よ。」彼女は微笑んだ。「でも、あなたの願いが何であれ、私はそれを叶える力を持っているわ。」
少年は言葉を失い、月の魔導書を見つめた。昨日から始まった不思議な出来事が、また新たな局面を迎えようとしていた。
少年の心に再び湧き上がるのは不安だったが、その奥底には一筋の興奮が隠されていた。彼の運命が大きく動き出すのは、この日だったことは紛れもない事実であろう。
黒本 双傘 @miyutsuka
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