終章
終章
今日も道子は病院で、患者たちの診察を行っていた。どの患者さんたちも変わったこともなく、いつもと変わらない、いい感じだと思った。のであるが、
「ねえ、小森さんちょっと。」
と、小森さんに声をかける。奥さんは、丁度買い物に行っていて、そこに居なかった。何となく、小森さんの様子が変なような気がしたのである。
「ちょっと顔色悪いわよ。熱でもあるんじゃないの?」
小森さんの顔を見て道子はそういった。すると、小森さんは、にこやかに笑って、こんなことを言う。
「はは、先生は、いつも乱暴な口調ですな、怒ると小じわが増えるって言いますよ。気を付けて下ささい。」
そんなことを言われた道子は、ちょっとムカッと来て、
「あら、そういう冗談が言えるってことは、まだいいってことかしらねエ。よし、大丈夫だ!」
と、からかうように言った。小森さんが、にこやかに笑って、次の返答文句を考えていると、
「道子先生、ちょっとこっち迄来てくれませんか。」
と、山下の担当看護師が、道子に言う。
「何?どうしたのよ。」
「山下さんが、なんだか熱があるみたいなんですよ、先生ちょっと見てやってくれますか?」
道子は顔色を変えて、すぐに隣の部屋へ行った。小森さんがそれを、少し寂しげな顔をしてみていた。道子は、その小森さんに、声をかけるのを忘れていた。
「どうしたの、山下さん。」
道子が山下さんの部屋へ入ると、山下さんは、すぐ起きて、ベッドの上に座った。
「ああ、すみません。大したことはないんですけど、この看護師さんが、なんだか大げさなことをいうものですからね。僕は、本当に何も在りません。気にしないでください。」
と、いつもと変わらない、明るい口調でいう山下さんであるが、
「何を言っているんですか。先生、山下さんときたら、朝起きて寒気がするって言ってたんですよ。あたし、ちゃんと聞いてましたから。隠してもだめですよ。」
と、看護師が口をはさむ。道子はすぐに、
「其れは大変じゃない。すぐに点滴しましょうか。今日は外へ行かないで一日安静にしていたほうがいいわ。すぐ、点滴持ってきて。」
と、看護師に言った。看護師は、はいと言って、すぐ点滴を取りに行った。道子は看護師が持ってきた点滴の鍼を、すぐに山下さんの左腕に突き刺した。山下さんは血管の比較的出やすいタイプであったから、打つのに苦労はしなかった。まあ、点滴を打って暫くは、道子や看護師と、テレビの話とか、世間話をしていた山下さんであったが、そのうち点滴には眠気を催す成分でもあったのか、しずかに眠りだしてしまった。
「良かった。高熱でも出られたら、本当に大変なことになるわ。これからもし、一寸でも変わったことがあったら、すぐに知らせて頂戴ね。どんな小さなこと、些細な事でもいいからね。宜しくお願いしますよ。」
道子が看護師にそういうと、
「わかりました。でも道子先生、山下さんの事で、あんまり焦らないようにしてくださいませよ。」
と、看護師は笑っていた。そんな、細かいことが気になるのは当たり前でしょう、と道子は寝ている山下さんの顔を見ながら、ちょっと照れ笑いしていた。いや、照れ笑いというか、別の者だったかも知れない。
「道子先生。ちょっと、小森さんのところへ来てくれませんか?」
隣の部屋から別の看護師がやってきたが、道子はすぐに、
「後にして!」
とぶっきらぼうに言った。その次の患者さんの事は、後になっても思い出せないほど、道子は山下さんの事ばかり考えていた。
翌日も道子は山下さんの事が気になった。病院に出勤すると、真っ先に山下さんの様子を見に行った。山下さんは、あれ以来、ふたたび熱を出すようなことはなかった。まあ、これで安心だろうと、道子はなんだかほっとした。報道関係者も時々訪れて、山下さんの様子を取材しにやってきたが、取材に応じる山下さんだけでなく、道子は主治医として、しっかり応じていた。
とにかく、こういう症状は、油断するとたいへんなことになるから、熱が下がったとしても、暫くは注意深く山下さんを観察する必要があった。何日か、観察を続けると、山下さんは、幸いそれ以上悪化することはなく、数日後には再び外へ出て、ファンの患者たちにサインを求められれば、ちゃんと応じるようになっていた。道子はこれでよかったと一安心する。
しかし、いつの間にか、小森さんが外へ出なくなってしまった。道子はその理由を看護師たちに聞くことも、しなかった。それよりも、山下さんの事ばかり気にかけていた。今しなければならないのは、山下さんを何とかすることだと、道子は本気で思っていたのだ。それは山下さんが、これだけ大勢の人に愛されている俳優であるからである。こうしてサインをもらった患者だって、大いに励まされるに違いない。道子は、どうしても、最悪の事態だけは、避けたいと思っていたのである。其れはどの患者さんも同じであるはずなのに、道子には山下さんしか見えなかった。
「道子先生、一寸来て見くれませんか。」
と、看護師が言っても、道子は後にしての繰り返しだった。
そして、それから、数日たったある日の事である。
「道子先生。昨日小森さんから、お願いがあると言われたんですよ。あの、なんだか様子が変なんです。なんだか、昨日から寒気がするとか、そんなことを言いだしまして。」
と、小森さんの担当看護師が、道子に言った。
「はあ、そうね。ここのところだいぶ寒くなったから、そのせいかしら。もし、必要があれば、毛布をもう一枚追加してあげて。」
という道子だが、担当看護師は、一寸変な顔をして、道子にちょっと語勢を強くして言った。
「先生、私が言いたいのはそんなことじゃありません。ちょっと小森さんのところにいって、見てあげてください。大変そうにしています。」
道子はそこで初めて、事の重大さに気が付く。
「どうしたの、小森さんが。」
「だから、何度も申しますが、熱があるみたいなんです!」
「咳き込んだりとか、そういうことは?」
「先生、私に根掘り葉掘り聞くのではなくて、先生が自分で確かめてみたらどうですか!」
看護師がそういうことを言うので、道子は頭を振り振り、小森さんの部屋に行った。
「失礼します。小森さんどうしたんですか?」
部屋へ入っても小森さんから何の言葉も返ってこなかった。ただ、ベッドの上で目を開けたまま、黙っている。
「どこか具合の悪いところはありますか?もしあれば、すぐに仰ってくれますか?」
と言ったけど、小森さんは何も言わない。道子は、小森さんの額に手を当ててみると、火のようであった。
「ねえ、一寸、すぐに点滴取ってきて!それから、人工呼吸器とか、そういう器具を取ってきて、すぐに、早く!」
道子は看護師に言う。わかりましたと看護師は、すぐにナースステイションに行った。すぐに点滴とか、人工呼吸器などのものが、小森さんの部屋に設置される。
「危ないかもしれない。ご家族にすぐに連絡して!」
道子は看護師に怒鳴りつけた。数分後、知らせを受けて、部屋に飛び込んできた小森さんの奥さんが、
「うそでしょう!」
と金切り声を挙げる。
そんなことは無視して、道子は懸命に小森さんの心臓マッサージを施した。隣に看護師がいて、人工呼吸器のスイッチを入れ、よくテレビドラマにあるような、心臓の鼓動を計測する音が鳴り始めた。いや、正確には、鳴り始めるはずだった。
「ダメだわ。」
道子は、一言言って、小森さんから手を離した。
「其れでは先生、小森さんは、」
道子は黙って頷いた。道子は、その漢字二文字を口にして言うことが、どうしてもできなかった。
とりあえず、遺体の処置をしてもらうため、道子たちはいったん廊下へ出た。喪心したような顔の道子に、小森さんの奥さんは、その襟首を掴んでこう詰め寄ってきた。
「先生、これは一体どういう事でしょうか。どうして主人はここまで悪化したんですか!どうして主人は、逝かなければならなかったんですか!」
「原因は分かりません。私が観察していた時は、シッカリ食欲もありましたし、変に咳き込むこともなく、良好な様子でしたけど。何か思い当たる節が、ありましたでしょうか?」
道子がそういうと、奥さんは怒りを込めて、道子を床へ投げ飛ばし、
「そう、観察してたの!観察!そう言うことが観察なの!」
と、怒鳴りつけた。
「何を言っているんですか!そんなこと何もしてないくせに。あの山下って人に付きっ切りで、主人の事なんか、何も見ては居なかったじゃありませんか!そんな医者に、観察何て言ってほしくありませんわ!看護師さんに、私、主人が辛そうだとか、何回も申しましたよ。ですけど、先生は取り合ってくれなかったそうですね!そんなことが、あってもいい話でしょうか!」
ますます奥さんは逆上して、道子を怒鳴りつけた。道子は、しりもちをついたところから、なんとか立ち上がろうと思ったが、奥さんの言葉でまた倒されそうであった。そう、直接手で倒されるよりも、こうして言葉で倒される方が、もっと衝撃は大きかった。
「先生は医者として、平等にやっているといいますけどね。そんなこと、これっぽっちもありませんよ!あの山下という男にはずっと手をかけて、色々面倒見ていたでしょうけど、主人の事は、放置しっぱなしで、こんなこと、依怙贔屓どころじゃありませんよ。もう、その気になればね、殺人として、立件することだってできるんじゃないかしら!医者が、患者を放置した殺人!先生は、医者という立派な肩書をして、表向きは立派な顔立ちをしているんでしょうけどね。裏ではそういうことをしているんですから、人殺しですよ、人殺し!先生は本当に人殺しだわ!返して!主人を返してください!人殺し!人殺し!ひとごろし!」
「奥さん、落ち着きましょう。ほかの患者さんたちもいらっしゃいます。動揺させてはなりません。」
と、看護師は、優しい声で奥さんに言うが、奥さんは、わあああと、床に突っ伏して泣くばかりだったのだった。やっと立ちあがった道子は、奥さんに、なんという言葉をかけたらいいのかもわからなくて、ただ茫然とそこに立っているしかできなかった。
「そういう訳で。」
道子は涼さんに言う。
「あたしは、小森さんを殺してしまいました。あたしは、山下さんの事に気を取られすぎて、小森さんの事を何も見てやれませんでした。」
涼さんは、そうですか、とみえない目で頷いた。
「其れで、道子さんは、人殺しをしたとおっしゃるわけですか。」
「ええ。」
道子は涙をこぼした。
「あたしは、本当にひどいことをしました。」
「でも、道子さん、それをとても後悔しているのなら、もう何もなさらないと誓うこともできますよね。だから、それを頭に入れておいて、二度と同じことをしないようにするしか、人間に出来る事は、ないんですよ。」
涼さんはそういって、道子を慰めた。
「人に出来る事は、人にしてしまった事に対して、もう二度としないように、気を付けるしかないんです。それだけの事です。それを頭に刻み付けて、生きていくしかないのです。」
「そういう事なんですけれども。」
道子はまた言った。
「あたしは、その奥さんの言葉を、間違って取ってしまったような、気がするんです。」
道子は涼さんに言った。
「そうですか、それはどんなことをしてしまったんですか?」
「ええ、あたしは、そういう訳で、、、。」
ここから、道子はまた泣き出してしまう。
「その部分も、ゆっくりでいいですから、話してみてくれませんか?しどろもどろでも構いませんが、話してみるのが大切ですから。」
と、涼さんは言った。
「ゆっくりでかまいません。そういうことは、心にため込んでしまうのがいけないんです。ちょっと辛いかも知れないけど、口にだして言ってしまうのが、一番早い乗り切る方法なんです。」
「そうですね。ごめんなさい。ちゃんと話せなくて。しっかり話さなければいけませんよね。」
道子は涙を拭きながら、ボロボロとそのことを話し始めた。こうなれば、もう、口に出していってしまおうと決意した。
「小森さんが亡くなってから、数日後の事でした。あたしは、それからも山下さんの担当医として、診察を続けていたんですが。」
道子は涙を拭いた。
「ええ、何があったんですか?」
「はい、山下さんのほうが、すっかり元気をなくしてしまって。あたしは、大丈夫だからと励まし続けたんですが、山下さんは、小森さんが亡くなったのは、自分のせいだと思い込んでしまったらしくて。」
今でも覚えている。病室の中で、診察をしているとき、山下さんが、道子にこんなことを言ったのを。
「もう、山下さんは、そのままでいてくれればいいですからね。皆さんから愛されて、尊敬されて、それだけでもすごいことじゃないですか。」
「そうですかね。」
と、山下さんは肩を落として、しずかに言うのだった。
「僕はいまだに、その小森さんという人に、なんだか、悪いことをしてしまったような気がして、ならないんですよ。小森さんは、二度と返ってこない人になってしまいましたよね。あの奥さんに、先生は人殺しと罵られていましたけれども、あれは先生の事じゃなくて、自分の事なんじゃないかと、今でもつらい気持ちなんですよ。」
「山下さん、そんなこというもんじゃないわ。あなたは、何も悪くないのよ。小森さんは、もう病院に来た時点で、仕方ないところがあったのよ。あたしだって、もう、半分あきらめていたわ。」
道子は思わず、本音の部分を口にしてしまった。
「道子先生、それ、本当なんですか?」
と、山下さんは真剣な顔で聞く。道子はその言い方に、なにか悪いことをしてしまったような気がしたが、かわりにそれを抑えてこういった。
「ああ、ああ、気にしなくていいわ。あの、本当に気にしなくていいのよ。山下さんは、ご自身の体の事を、心配していればそれでいいのよ。」
道子はそういったが、山下さんには、その言葉が、非常に痛烈に刺さってしまったようだ。山下さんは、そのあとだらりと首を垂らしたまま、何も言わなかった。
「其れからも、山下さんは、どんどん元気がなくなっていったわ。看護師に、薬飲んでいるかとか、食事はちゃんとしているかとか、しっかり確認させるように言ったんだけど、それでも、気力を取り戻すことは、出来なかったわ。あたしは、薬さえちゃんと飲んでいれば、必ず回復するって、ちゃんと言い聞かせたつもりだったのに。其れなのに。」
また、道子は言葉に詰まった。
涼さんも、その次になんという言葉が来るのか、わかってきたみたいであった。もし、盲人でなかったら、次のセリフは言わなくていいよとか、そういう事をかけることができるのかも知れないが、涼さんは、そういうことはできなかった。
「言いたくない気持ちは分かりますが、過去を清算するためにも、口に出していってみて下さい。」
盲人の涼さんは、そういうところは、他の療術家より厳しかった。
「ええ、どんどん、衰弱して、しまいには亡くなったわ。山下さんも。」
道子も先に結論をだしてしまおうと思って、そういうことを言った。
「そうですか。それは大変でしたね。本当に。」
涼さんは静かに言った。
「そのあと、山下さんの葬儀にも行きました。山下さんは、確かにファンの方には、すごく愛されているという感じだったけど、他の俳優さんたちは、誰も参列しないで、御金だけ渡していったり、花輪だけ渡して帰っていったわ。葬儀に出たのは、彼のお母様と、お兄さんだけ。あたし、初めて眞實というものを知ったのよ。ファンの人には愛されている人であっても、周りの人には、嫌われていたのね。ああいう芸能界の人って、御金さえあれば、何でも解決してくれるという人ばかりで、山下さんに追悼の言葉をかけたりする人は誰もいなかったわ。」
「まあ、確かにそうですね。ああいう業界の人は、自分の事で精いっぱいで、冷たい人が大井ですよ。そういう世界ですから、でも、道子さんがしたことは、ある意味仕方ないことで、間違いではありません。」
涼さんは静かに言うのだった。
「人間誰でも過ちは犯します。そうして生きているのが人間です。それはもう仕方ないですから、もう嘆き続けるのはやめた方がいい。やめるべきです。」
道子はまだ、泣き続けていた。
涼さんは、泣かないでと彼女を慰めることもせず、ただ、泣き続ける彼女に、しかたないですよという一言だけ、言うだけであった。
「あたしは、あたしは、これからどうしたら。」
泣き泣きいう彼女に、涼さんは言った。
「人間、出来る事は、事実に対して、どう動くかを考える事しかないんですよ。過去にあったことは、もう変えることはできないし、未来を動かすことだって、できやしません。ただある現実を、しっかりと観察し、本当に必要なものは何か、を、考えるようにしてください。もし、それが、どうしても、実行できないのであれば、実行できるようになる日が来るのを、待ってください。しかし、その間に、出来ないからと言って、自棄になってはいけませんよ。できることを、精いっぱいのちからで、辺り委前にやる。これが一番大事なことなんですから。」
道子は、まだまだ泣き続けていたが、涼さんは何も言わずに、暫くしいんとした長い時間がたった。
「わかりました。もう二度と、繰り返さないようにします。あたし、このことは、絶対に忘れませんから。それを二度としないことが、きっと、良い医者になるための第一歩何でしょう。」
泣くのをやめて、道子はそういった。そして、涙を持っていたタオルで拭いた。顔を上げると、丁度彼女の目に、出窓がうつった。丁度、夕日が、山に沈もうとしているのが見えた。
ラスプーチン、頑張る 増田朋美 @masubuchi4996
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