第二章

第二章

そのまま、道子が山下哲夫の担当医になることが、公認となった。数日後、ほかの患者たちの間では、こんな文句が飛び出してくることが多くなった。ある日、病院のロビーで、二人の患者がこんな話をしているのが見えた。

「最近の先生は、困ったなあ、俺たちの事はほとんどほっぽらかしじゃあないか。」

「なんだか、有名人が来ると、こういう風になってしまうのかなあ。」

と、いう様に。

「まあな、ああいう世界的に有名な人を扱うとなると、当然気合の入れ方も違うという訳さ。俺たちは、タイミングが悪かったという事よ。俺たち何て所詮そんなものさ。まあ、身分が低いっていう事、あきらめようぜ。」

多分その言葉の中には、重病人特有のあきらめの感情が入っているんだろうが、もし、それを聞くと、患者の家族ならば、大変な怒りになるだろうなと思われた。

「まあ、人間なんてそういうもんよ。順位を付けたがる動物だ、あきらめよう。」

「全くだ。俺もそう思うよ。」

二人の患者達はそういって笑いあった。


一方、道子は、病院の個室に入院している、

「あの、山下さん。」

と、担当患者である、山下哲夫さん本人と話していた。

「あのね、これは強制ではなくて、あくまでも任意でお受けしてほしい話なんですが。」

もし、この話し方を、ほかの患者たちが聞いたら、嘘ばっかり、俺たちには、これをしないと死ぬとか、さんざん脅かしたくせに、と罵られるだろうが、道子はこう切り出した。

「治験というものに、応募して見る気はありませんか?」

山下さんは、何ですかそれは、という顔をした。

「今年、この病気の治療薬に新しいものが開発されたんです。まだ、一般的に処方されているわけじゃないんだけど、試してみて、すごく楽になれたという、患者さんが多いのよ。あなたはまだ若いし、俳優として、これからやっていかなきゃならないこともあるでしょうから、新しい薬を試して、早くよくなったほうがいいのではないかと思うのね。どう、やってみない?」

道子先生、俺たちにはそんな優しい説明はしませんでしたね。やっぱり、依怙贔屓をしているのですか。と、他の患者さんたちから、文句が出そうな説明の仕方だった。

「そうですか。其れは、ほかの患者さんも、同じことをされるんでしょうか?」

「ええ、みんなそうしているわ。どの患者さんたちも、楽になってよかったと言って、喜んでいらっしゃるわよ。」

本当は、投げ出す人が多いのに、道子は嘘をついた。山下さんは少し考えて、

「わかりました。やってみます。」

と、言った。道子は、天にも昇る気持ちで喜んだ。

「よし、それならそうしていただくことが一番よ。みんな、新しいくすりを試しましょうというと、新しい薬は怖いとか言って、躊躇するのよ。あたしは、良くなるためにっていうんですけどね。良く成ろうという気がない人ばかりで、あたしも困ってたのよ。いざ、試してみたら、非常によくなって、喜んでくれる人が多いのに。山下さんは、躊躇しないから、優等生ね。嬉しいわ。」

道子は、医者らしく、その愚痴を言った。山下さんは、とりあえずやってみます、と言ってくれた。

「じゃあ、さっそく薬を取り寄せて、治験の手続きに入りますわ。新しい薬とは、こういう感じのもので、、、。」

道子は一冊の本を取り出し、そこに掲載されている薬の写真を指差しながら、にこやかに説明した。それをしっかり聞こうとしてくれている、山下さん。道子は嬉しくなって、治験の話を続けた。なんだか、うれしいなと思った瞬間だった。

とりあえず、薬の説明を終えても、山下さんはしっかりと聞こうという意識を持ってくれている人であることがわかった。道子は、さらに嬉しくなって、つまらない世間話を始めてしまった。実は道子も、山下が、主演した映画は、何回か見たことがある。タイトルは忘れてしまったが、なにか訳ありの人の役、例えば不倫している主人公に忠告する男性の役とか、そういう癖のある人物を演じたことが多かった気がする。そういう訳だから、何かもうちょっとくせが強くて、無茶なことを平気でいうような人かなと思ってい居たのだが、そんなことは何もなく、とてもさわやかで、素直で明るい人であった。そんな山下さんに対し、道子は、何だか担当になれて、うれしいなと思ってしまったのである。

世間話は、病院のチャイムが鳴るまで続いた。

「長話してごめんなさいね。じゃあ、とりあえず今日から治験を始めますから、もし、薬を服用し始めて、一寸でもつらい症状が出てきたら、すぐに言ってくださいね。」

道子はとりあえず、薬を製薬会社から取り寄せる作業をするため、部屋を出て、ナースステイションに戻ることにした。

その、ナースステイションに向かうため、のんびりと口笛を吹き名ながら、廊下を歩いていると、

「道子先生。これまでもそうだったんですけれども、もう我慢の限界です。もうちょっとうちの主人の事を、気にかけてやってもらえないでしょうか。」

と、ある中年の女性が詰め寄ってきた。

「あら、小森さん、どうしたんですか?」

道子が聞くと、

「どうしたなんてのんきなこと言わないでくださいよ、先生は、依怙贔屓をしていますね。うちの主人が足が痛いと訴えても、先生は気のせいだと言って、何も手当てをしてくれませんでしたね。其れなのに、あの有名俳優には、平気で薬を渡しているそうじゃありませんか!いまそこで立ち聞きして、もう、怒り心頭です!」

と、小森さんの奥さんは、そんなことを言った。

「奥さん、ご主人は症状に対して、少し過敏になりすぎていらっしゃるだけです。医学的に言ったら、病気が進行した訳でもなんでもないんです。そういう訳で経過観察という事にしているんですよ。それだけの事です。だから、多少痛みを訴えても問題はないという訳で。」

道子は説明すると、小森さんの奥さんは、

「でも主人は昨日、足が痛いと言って一晩中苦しんでいたんですよ。それでも経過観察ですか?それはちょっとおかしいのではありませんか?あの映画俳優は、何も痛みを訴えているわけでも無いのに、こうして中に入り込んで楽しそうに話している。その間もうちの主人の事はほっぽらかし。もし、主人に何かありましたら、どうしてくれるんですか。一般人の私たちの事は放置したままで、有名人であるあの人には、手取り足取り面倒を見るんですか。そんな不条理が、病院というところで、起こってもいい筈はないと思うんですけど!病院はもともと、依怙贔屓をする場所じゃないはずでしょう!」

と、激しい口調で、逆上するように言ったのであった。道子は余計に返答に困ってしまう。。自分ではそんなことをしているつもり何て全くないのに。

「ちょっと待ってください。」

道子が返答に困っていると、後のドアががちゃんと開いて、山下哲夫さんその人が現れる。道子はなんだと思って、山下さんを見つめた。

「僕のせいでご主人が症状を悪化させてしまったのであれば、もうしわけありません。ごめんなさい。」

山下さんは、申し訳なさそうに頭を下げた。

「あなたに謝られても困るんですけどね。病院の関係者に、謝ってもらわないと。」

と、小森さんの奥さんはいう。

「山下さん、山下さんが謝る必要は全くないんですよ。小森さんが、変な言いがかりをつけてくるだけの事ですから。」

と、道子はあわてて言うが、山下さんは、返答を変えなかった。

「いいえ、今回のことは、僕がいなければ、ご主人は普通に医療を受けられるはずでしたから、僕が悪いのです。きっとそうなれば、ご主人が足の痛みで苦しむことも、なかったと思います。言ってみれば、僕みたいな人間が、こちらの病院に来なければよかったんですよ。しかし、残念ながら、僕もご主人と同じ疾患にかかってしまいましてね。今、俳優業が続けられないんですよ。僕もご主人には申し訳ないことをしましたから、奥さんに改めて謝罪します。ごめんなさい。」

山下さんは申し訳なさそうに頭を下げた。道子は、山下さんに、自分のせいにしてほしくないと思うのだが、山下さんはこんなことを続けるのである。

「小森さんは、どちらのお部屋何でしょうか。」

「はい、隣の305号室ですが。」

奥さんがそういうと、

「じゃあ、ご主人に謝罪をしたいので、一寸入らせていただいてもよろしいでしょうか。」

と聞く山下さん。奥さんはたいへんびっくりした顔をして、山下さんに、

「今主人は、ロビーで新聞を読んでおります。病室で寝ているのも、気分が悪くなるというので、一寸でも症状が出なければ、新聞を読みに行くのです。それが、今の主人には唯一の道楽ですから。」

と、言った。奥さんの言葉を聞いて、山下さんは、一寸ロビーへ行ってもよろしいですかと道子に聞いた。道子がわかりましたと許可すると、山下さんは点滴をひきずりながら、ロビーへ向かって歩いて行った。

道子も一緒にロビーに行くと、何人かの患者たちが、新聞を読んだり、テレビを見たりしていた。こういう病気の人たちに出来る事と言ったら、テレビを見るか、新聞を読むかしかできないのである。

「あの、小森さんと仰る方は、どちらにいらっしゃいますでしょうか?」

山下さんは、そこへ通りかかった看護師に聞いた。看護師は、一番端の椅子に座っている男性が、小森さんだと答えた。

「あの、すみません。小森さん、小森泉さんでいらっしゃいますよね。」

「ええ、そうですが。」

小森さんは、にこやかに山下さんの顔を見た。

「ああ、山下哲夫さん。そういえばよく映画を見て拝見しました。随分大変だったようですが、お体は大丈夫なんですか?」

そういう小森さんに、奥さんは、全くうちの人は、人が良すぎるんだから、困ったもんだという顔をしている。こういうときは、病人特有の感情で、こうなると、人の事が妬ましいとかいう感情がなくなるらしい。それは健康な人には、決して現れない感情である。

「ええ、どいっても、今は俳優じゃありません。小森さんと同じ、混合結合病の患者です。」

と、山下さんは言った。

「あら、どうして同じ病気だとわかったんですか。」

「ええ、決まってるじゃないですか。この病院に入院したとなれば、そうでしょう。みな同じですよ。」

「そうですか。それは大変ですな。私どもは平凡なサラリーマンですけれども、大物俳優となれば、またたいへんさが違うでしょ?」

「いえいえ、そんなことありませんよ。僕も小森さんと同じように、これから自分はどうなってしまうのかなとか、よく考えたりしますよ。それは誰でも同じなんじゃありませんか。同じ、不安どうして分け合う事も、大切なんじゃありませんかね。」

と、山下さんと小森さんは、そんな話を始めた。その様子を見て、奥さんは、

「やっぱり、有名な人は違いますね。うちの主人が、病気になって、あんなに笑顔になったことは、久しぶりでした。もう、信じられないわ。」

とポロンと涙を流すほどであった。

「医者のあたしにも出来る事じゃないわ。」

道子も、ため息をついた。

そのまま、小森さんと山下さんは、楽しそうに世間話を続けている。主として、小森さんが、会社の上司に叱られたことを、山下さんが聞くという設定であったが、小森さんは家族以外に愚痴をいえる人ができてうれしそうだし、山下さんもその話が面白いのか、楽しそうに聞いている。

「なんだかうらやましいわねえ。あの二人。」

道子は、なんだか自分には出来ない事だと思って、頭をかじった。

「私も、主人が、あんなふうに楽しそうに話しているのは、久しぶりに見ましたわ。まあ、それができる人が久しぶりにできて、つないでくれたんですから、病気も、こう考えれば悪くないですね。」

小森さんの奥さんは、にこやかに言った。

翌日から、山下さんは道子の許可さえ貰えば、積極的に外へ出るようになった。ロビーでテレビを見るとか、時には点滴をひきずりながら、病院の庭に出て、ほかの患者さんと話をすることもあった。時には、彼のファンだと名乗る女性患者から、声をかけられることもあった。基本的に、山下さんの顔を知らないものは居ない。だから、声をかけられれば山下さんは素直に応じた。若い女性の患者からは、サインを求められることも多く、山下さんは、其れにもしっかり応じていた。

「山下さんって、相当なファン想いなんですね。ほかの患者さんから、サインを求められたら、必ず応じているじゃありませんか。」

道子はその日、診察しながら、山下さんにそんなことを言った。

「ええ、確かにファンの方は大切にしたいですよ。いつも感謝しているんです。こんな病気になっても、声をかけてくれるなんて、本当に嬉しいなあ。」

と、山下さんはちょっと感慨深いことを言った。それを聞いて道子は、一寸意外だった。

「え?大切にする?失礼ですけど、あたし、山下さんのような芸能関係の人は、周りの事なんて、一切気にもしないと思っていましたけど、そうじゃないんですか?」

道子がちょっと聞くと、

「まあ、確かに芸能人には、そういう人もいますけど、僕は、全くの素人から俳優になった、言ってみればたたき上げですからね。それにもともと、こういう仕事に就けるような立場ではなかったし。それがいきなり映画に出れるようにまでなったんですから、ファンの人には感謝したいですよ。本当に、僕はたいしたものじゃありませんから。」

という、山下さん。そうなんですか?と道子はまた聞いてみる。

「まあ、じゃあ山下さんは、もともと子どものころから芸能人を目指していたわけではなかったの?」

「はい。だってそんなこと思いませんでしたよ。初めはただの会社員でしたし。それが、たまたま近隣で撮影されていた映画の、エキストラの仕事でテレビに出て、それがなぜか好評になってしまっただけの事です。僕自身は、理由はよくわかりませんが、そういうことをしてくれた、ファンの皆さんのおかげだなと思うようにしています。だって、本当にわかりませんでしたもの。それは偶然としか言いようがないですよ。」

道子は、そんなことを言う山下さんに、何か別の感覚を覚えたような気がした。

「まあ、そうなんですか。そうやって、自分の成功は、誰かのおかげだって、いつまでも思い続けられる人は、幸せだわ。」

確かにそういう考えをする人は極めて少なかった。

「まあねエ、確かにほかの俳優さんなんかではね、思いっきり苦労をしてきて、自分の努力でこの地位を勝ち取ったと威張っている人もおられます。でも、そういう方に比べたら、僕なんて本当に幸せな方です。ですから、自分の幸せは、ファンの皆さんのおかげなんだって、思う様にしているんですよ。誰でもみんな、誰かのおかげで生きているという事ができれば、みんな、出しゃばることはしなくなると思いますよ。」

と、楽しそうに言う、山下さんに、道子はある意味羨ましいなあとおもうのであった。

そんな風に、誰かのおかげだと公言して生きていられるという事は、周りに不自由なく、ユックリと暮らしていくことができているという事でもあるからだ。ちょっとでも、不安なことがあれば、そのような考え方は出来ないのである。


「そうですか。それでは、どうして人殺しと罵られたんですか?山下さんがそういって、ほかの患者さんと楽しそうにやっているのだったら、もんだいはないのではありませんか?」

涼さんは、道子にきいた。

「そのことを話す前に、あたしの事を少し話してもいいでしょうか?」

と、道子は、言った。涼は、どうぞ構いませんよ、と彼女に発言を促す。

「山下さんのような人は、著名人ですから、時々報道関係の方も見えるようになりました。その時も、山下さんは、あたしのことを、自分の主治医だと紹介し、ここまでよくなったのは、あたしのおかげだって、報道関係の人に話したりしていたんです。山下さんは、決して、自分のせいにはしないで、良いことがあると、何でも人のせいにする人だったんです。悪いことは自分が悪いと言って、率先して謝る癖に。だから、結果として、あたしまでもが、報道関係の人にインタビューされるまでなってしまって。」

道子はそんなことを言った。

「そうですか。やっぱり俳優さんとかそういう芸能人という方は、人を集める力があるんですね。芸能人だけではなく、芸術関係の人というのは大体そうですけれども。」

涼は、なるほど、と一つ頷く。

「ええ、そうなんです。だからあたし、すごい悪いことをしてしまったと思うんです。ああしてインタビューされて、もう、すごい舞い上がっちゃって、治療の事とか、薬の事とか、報道関係の人にぺらぺらと、、、。」

道子はちょっとすすり泣いた。その言葉に涼さんは、

「しゃべってしまったわけですか。」

と、言う。その言葉に道子は頷いた。直ぐに、涼さんが、盲人であることを思い出して、

「はい、しゃべってしまいました。」

と答えを出した。

「其れで、どうなったんですか?」

と、涼さんはもう一回聞くと、

「ええ、山下さんのおかげで、外来の患者さんでも、治験に応募してくれる人が、増えてくれるようになりました。其れはよかったんですが。」

道子は言葉に詰まった。

「でも、あたしは、取り返しのつかないことをしてしまいました。本当に、もうどうしたらいいのか、わかりません。ごめんなさい。なんだか変なお話になってしまうんですが。申し訳ないです。」

「いいえ、僕たちは、変な話であっても、話を聞くことが仕事なんです。だから、良いことも悪いことも、何でも隠さずに話してください。」

涼さんにそういわれて、道子はこう切り出した。

「ありがとうございます。時々しどろもどろになるかも知れないし、ユックリですけど、話してみます。」


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