君が忘れた小説のタイトルを俺は今も覚えている

「七瀬ひじり」と出会ったのは、僅か二歳の時だった。正確には、生後間もなく同じ病院で過ごしたというから付き合いはそれからになるが、記憶がないものは換算しなくてもいいだろう。

 幼なじみという存在として、常に俺の側にいた。俺は、ひじりの側にいることが義務だと思っていたし、あいつが側にいることは、俺の為だと思っていた。

 あいつは……ひじりは、俺が殺したようなものだった。俺がもっとあいつを見ていなかったから、俺がもっとあいつを愛さなかったから。

『愛するって何なんですか?』

 昔の記憶が疼く。

 ──私のことは、愛してくれなかったのに。

 何度もそう言われた。いないはずのあいつに。

 

十年と二ヶ月前。俺の世界では、あいつは、俺の知らない男の女になった。幼なじみという肩書きを捨てて。

 十月だというのに、夏がたった今終ったかのようなあつい日だった。夏の間に燃やしつくせなかった幻想と感傷を抱えて、俺はひじりに会った。

 当時、ひじりは年頃の女の子同様に年上の男が好きだった。あれは一種の憧れというものだろう。あの時、ひじりと関わりのあった年上はあいつしかいない。家庭教師のあいつ。あいつとひじりの繋がりが強くなることで、俺はひじりとの繋がりを失っていた。

 だから、久しぶりに休日にひじりと街中で会ったのは、嬉しかった。

 ショートの纏まりのない髪が、風にそよぐ。黒のニットに淡いベージュのスカート。

 すぐにひじりと分かった。

『久しぶり』

『うん』

 付き合いが減ってから、お互いの距離感がわからなくなっていたのだと思った。ひじりは、前のように俺に笑顔で話しかけてくれることはなかった。

 ひじりにあまりにも素っ気のない態度をとられ、意気消沈した俺は──。

『そんなに俺のこと嫌か?』

『……』

 ひじりは一瞬生気のない瞳で俺を見つめた。そして、なにもなかったかのようにスタスタと歩き始めた。

『何か言えよ』

 尚無視を決め込む彼女に、俺は引き留めることができなかった。無責任に声を掛けることしか出来なかった。

 ひじりのその態度が気になったのもあって、渋々彼女の隣を歩いた。俺がぽつぽつと二言三言問えど、ひじりに反応はない。

 三十分ほど歩いて街の外れに着いた。なぜここまで来たのか俺は分からなかった。特別ここになにかあるわけでもない。

『着いてこないで』

 確かにそう言った彼女に、俺は顔を綻ばせる。それが、ひじりにとってどんなに嫌なことであろうとも、俺はひじりが発した一言の重みに浮かれていた。

『ひじり。どこに行く?』

 それから少しずつ、ひじりは口を開けた。

『死にに行くの』

 すんとその言葉は、俺の胸の内に入った。理解できた、と言えるかもしれない。だから、俺は彼女を止める為の言葉を失った。俺はまだ幼かった。一度死ぬと決めた人間の覚悟は絶対に変わらないと思っていた。なら、体で止めてみせるつもりだった。

『何故死にたいんだ?』

 教えてよ、と俺はひじりに何度も懇願した。

『犯されたの』

 言った瞬間、彼女の体が小刻みに震えた。それは、わかった。

『あいつか』

 口をついて出た言葉に、彼女は頷く。そのとき、彼女の心の痛みが俺には、はかれなかった。だから──。

少し遠い場所から踏切の警告が聞こえる。彼女は死に急ぐように、『行くから』と言った。

 俺はその場から逃げ出した。




「だから俺は殺すんだよ。悪いか? 俺はお前達がひじりのいる世界で生きているのが憎いんだよ」

 夜の公園はやけに静かだった。目の前にいる自分と瓜二つの人間はわなわなと震えている。

「お前が、僕と同じ人間だなんて思いたくない」

「思わなくていいさ。俺だってお前を殺したい」

「そんなの人殺しが言えることじゃない! 僕は、すぐにでもお前を殺したい。だけど、そうすると彼女が悲しむ。僕は真実を持ち帰らなくちゃいけない。七瀬さんに、本のタイトルを伝えなくちゃいけない」

 男は、俺が渡した本を大事そうに胸に抱えた。

「痛い」

 誰に向けた言葉でもなかった。ただ、事実を、状況を述べるように口から出たものだった。

「僕は、その何倍も痛い思いをした」

「痛い」

 既に俺は、男にやられた傷で満身創痍だった致命傷まではいかないとも、それなりに深い傷ではあった。地面に落ちているコンバットナイフは、俺の血が染みついていた。

「話せよ。真実を。もうお前に出来るのはそれぐらいしかない」

 吐き捨てるように男は言う。

「俺がひじりを失ってから、お前のいう七瀬と出会うまで、一年と二ヶ月かかった」


 俺は、ひじりを殺したあいつが憎かった。あいつの住所を知っていた俺は、すぐにあいつに会いに行った。ことと次第によっては……、いやすぐに殺したかった。俺は裁縫鋏を隠し持ってあいつに会った。

『やあ』

 呼び鈴を鳴らして少し、あいつは俺の顔を見て嫌な顔をした。ひじりの幼なじみとして知られていた俺は、あいつに構えられないように、極めて明るく接した。

『入っていいですか』

 そろそろひじりのニュースが流れてもおかしくない、そんな時分だった。あいつはそれをまだ知らないのか、表面上は快く俺を迎え入れてくれた。

『で? 今日は何しに?』

 男はそう訊ねた。俺には、それがわざとらしく見えて、勢いよく立ち上がった。気味の悪い笑顔を貼り付けるこいつに暴力など、気持ち悪くて震えなかった。

『大丈夫か?』

 俺は、足を俺とあいつで挟んでいたローテーブルにぶつける。ダンと音が鳴って、俺は痛みに顔を歪める。それが、きっかけだった。ぶつけたテーブルに不安定な状態で置かれた、女神の装飾がされた菓子カンの蓋を落としてしまった。空だと思っていたそれを俺は見つめた。

『何? って顔してるね。これがそんな気になるかい?』

 中に入っている雑にパッケージされたものをつまんで目の前で揺らす。

『クスリだよ、クスリ』

 嫌らしい笑みが顔に広がった。ニヤリ、と不敵な笑みだった。予知しないものを見て、俺は、一瞬頭が真っ白になった。怒りの理由さえ、忘れてしまいそうだった。

『ねえ、ひじりちゃん、知らない? そろそろ来る頃だと思うんだよねえ~』

 はっと我に返ったような衝撃を受けた。冷や水をぶっかけられた、と言うのか冷静になった。怒りの許容量を超えたというか、怒りを認識できなくなったのだと思う。

 俺は、隠し持っていた鋏に触れることなく、その場を後にした。

 それからすぐに、そいつは車にはねられて死んだ。車道を悠々と歩き、スピードを出した大型トラックに。

 俺は、あいつを殺せなかったからなのか、胸の内にずっとつっかえているものがあった。それが何なのか確かめようと触れると、漠然とした憎たらしさが襲ってきた。誰を憎むべきか分からずに、俺はひじりのいない世界を生きていた。

 そんなとき、ふとある本を読む機会があって、俺はそれに答えが書いてある気がして、必死に読んだ。「平行世界」について書かれた本だったからだ。それで、俺は思い出した。俺にも能力があったことを。

(え、という顔を目の前の男がした。)

何が言いたい。

「お前が、能力を持っていたのか?」

(不思議がる俺の鏡映しに、一笑を付す。)

 当たり前だ、俺以外に誰が持つ。

「僕のこの能力は、七瀬さんにもらったものだ」

(俺は、彼のその発言について暫く考えていたが、どうしても纏まらなかった。俺ではなく、彼女が持つと言うことは、根本的に違うのだから。黙っていると、彼から続きは? と言われた)

 俺はその本を読み終ると、すぐに捨てた。酷いハッピーエンドだった。だが、一つだけわかったことがあった。俺が憎んでいたのは、お前達だった。ひじりのいる世界で生きているお前達を殺したかった。

 俺は、完全犯罪が可能だとすぐにわかった。それから、幾つもの世界を回って、殺した。絶望を味わらせてやりたかった。

 それから──、一年が経った。俺は、ある世界で殺し損ねた。逃がしてしまった、というか殺せなかった。お前がもっている、それはその女が「先生」に書かせたものだ。



 俺は、ゆっくりと息を吐き出した。少し長く語ったせいで、腹の傷が大きく開いた。いた、と無意識に言葉が出る。

「七瀬さんが言ってた本って本当にこれか?」

「ああ」と俺は言う。「そうだ」肯定すると、彼は、本の表紙をなぞった。

「『君が忘れた小説のタイトルを僕は今も探している』」

 視線が、大きく揺れる。

 彼は、頭を抑えた。「うっ」と唸って、俺に背中を向ける。

「〈記憶の不一致〉が起きたのか」

「ああ」と彼は、言う。

「最後に、」と俺は思考の纏まらないまま、声に出した。周りが白けて見える。

 彼が、どんな顔をしたのかわからなかった。もう視力はない。傷口から血が垂れる。


「〈愛〉も〈青〉もタイトルには、入ってなかったな」

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君が忘れた小説のタイトルを僕は今も探している 無為憂 @Pman

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