1章
エリアーヌ=アリス・ローゲ(1)
ローゲ子爵の屋敷では、一人娘のエリアーヌ=アリスが侍女の制止を振り払いながら外出の準備をしていた。
「お嬢様、いけません! お気持ちは分かりますが、あのような恐ろしい事件のあった地に出向くなど――」
「来て頂かなくても結構です。体術にはそれなりに覚えがありますし、わたくし一人で」
「いっ、行きます。私も一緒に参りますから、どうかお一人で外にお出でになるのはおやめ下さい~!」
ローゲ家のご息女はおてんばである、という事は、この小さな田舎町の者なら誰でも知っていた。兄弟に交じって剣をふるってみたり、庭のリンゴの木によじ登ってみたりするのは日常茶飯事で、同い年の子供たちを引き連れて森の洞窟へ探検に出掛けたり、小川のせせらぎが一体どこまで続いているのかを確かめようと、川沿いを延々と一日掛けて歩いてみたりと、彼女のやんちゃぶりは幼い頃から枚挙に暇がなかった。
だが、農耕用にも荷馬車曳きにもできない殺処分を待つばかりの暴れ馬を、一か月で手なずけて自らの愛馬にしたという逸話もあり、彼女のしなやかな強さと優しさに、領民は皆心惹かれていた。
ローゲ卿は手に負えない娘の暴走ぶりに頭を痛めてはいたものの、亡き妻の面影をその瞳に感じては全てを許してしまうのであった。
「待ちなさい、アリス」
仕度をすっかり整え、あとはドアを開けるだけとなった時にそう声を掛けたのは、他でもない彼女の父、ジェラール=クレマン・ローゲ子爵だった。
アリスの傍に控えていた侍女のエマは慌てて一歩下がり、頭を垂れた。
「いいえ、待ちませんわ。いくら父上のご進言と言えど、こればかりは」
「お見舞いに行くつもりなのだろう? ならば、これを持ってお行きなさい」
今朝がた綺麗に磨かれぴかぴかと光る階段を下りきってから、ジェラールは手に提げていた蓋つきの籐かごをアリスの前に差し出した。
「これは……」
「
受け取ったかごの蓋を少し開けてみると、そこから小麦とバター、フルーツの甘酸っぱい香りがあふれ出し、アリスの鼻孔をくすぐっていく。
「わたくしが今日、ソフィア様の元に伺うことをご存じでいらしたの?」
「いいや。だが、予想はついていたさ」
そう言って微笑む父に、アリスは敵わないと言わんばかりに深くため息をついた。
それは七日ほど前の早朝のことだった。ボワロー子爵の使いが早馬を飛ばし、館まで訪ねてきたのだ。使者が血相を変えて伝えたのは、「ボワロー子爵のご令嬢が行方不明になった」という事だった。弟との馬の早駆け競走から帰ったところでその話を耳にしたアリスは、親友であるボワロー嬢――ソフィアが深刻な事態に巻き込まれたことを知り、そのままボワロー子爵の領土まで馬を走らせたのである。
ソフィアを見つけ出すまで帰らないとごねるアリスを、その日の内に二人の兄が引きずって連れ帰り、自宅に軟禁したのだった。
「ボワロー嬢が無事に戻ったと聞けば、すぐに向かうだろうと思っていたからね。昨夜彼女が戻ったという知らせが来てすぐ、ステファニーに準備するよう言いつけたのだよ」
立派に貯えた口ひげを得意げになぞりながらそう話すジェラールに、アリスは力いっぱい抱き着きたい衝動を抑えながら恭しく頭を下げた。
「有難う存じます。ソフィア様の元気なお姿を拝見したらすぐに戻って参ります」
「気を付けていきなさい。間違っても
「……心得ております」
そこまで見透かされていては、言いつけに従わないわけにはいかない。アリスはしおらしく返事をし、エマが開けたドアから外に出た。七日ぶりの外界ということもあって、アリスはノーランを思い切り走らせてやるつもりでいたのだ。しかし、玄関先にはジェラールが準備したのであろう馬車が、首尾よく待ち構えていた。
「さすがご主人様……。お嬢様の行動は全てお見通しでいらっしゃったようですね」
「黙ってちょうだい」
アリスに続いてキャビンに乗り込んだエマの言葉を、容赦なく跳ね返すアリス。エマは肩をすくめてから小さく「はーい」と間延びした返事をした。
◇
「ああ、よくいらして下さったわ!」
ソフィアの自室に通されたアリスは、ベッドの上で両腕を広げて微笑む彼女を見て、いなくなる前と何も変わらないその姿に心から安堵した。
「大丈夫なの? どこかお怪我はされていない?」
抱き合いながら久しぶりの再会と無事を喜んだところで、アリスはソフィアの肩をさすりながら心配そうにそう尋ねた。
「平気よ。痛いところはないし……ほら、五体満足で帰ってきたでしょう?」
ブランケットをめくりあげてベッドから足を下ろしてみせながら、ソフィアはいたずらっぽく笑う。それに釣られて自身の頬を緩ませながら、アリスはソフィアの隣にそっと腰掛けた。
「良かった……。わたし、本当に心配で」
「ふふ、お父様からうかがったわ。あなた、使者が帰るよりも早くにここにいらしたそうじゃない」
「だって、あの時は気が気じゃなかったのよ。ソフィアの身に何かあったら、ってそればかり考えてしまって」
「馬術大会の早駆け種目ではノーランを貸し出してほしいって、お兄様がおっしゃっていたわよ」
「残念だけれど、それはできない相談だわ。あの子はわたし一筋だから」
軽妙な会話も、以前と変わらない。ソフィアを案じる不安で沈み込んでいたアリスの心は、段々とその重みから解放されてはいたが、それでもなお漠然とした憂いを感じていた。
「ああ、そうだ。ソフィア、わたし」
「アリス」
お見舞いのお菓子の事を告げようとしたアリスの言葉を遮って、ソフィアがポツリと呟いた。
「私、どこも変わらないように見えて?」
「え……」
ぎくりと体を強張らせ、アリスは改めてソフィアをまじまじと見つめる。美しく流れる明るい金髪、頬に影を落とすほど長いまつげ、その奥に光る青い瞳――。
「ソフィア……瞳の色が、違うように見えるのだけど」
アリスの指摘に、ソフィアは黙ってうなずいた。
どこまでも続く抜けるような青空と同じ色を湛えていた彼女の瞳は、何故かブルーグレーの落ち着いた色合いへと変化していたのだ。
「囚われている間、ずっと目隠しをされていたの。きっとそのせいで瞳に何か影響が出たのかもしれないと、お医者様は仰っておられたわ」
今は亡き祖母と同じ色の美しい瞳は、ソフィアの自慢でもあった。形見を一つ失ってしまったも同然の彼女に、アリスは必死で頭を巡らせて元気づける言葉を探した。
「……わたし、その色も好きよ。とても優しい感じがするし、大人びて見えるもの」
「そう、かしら」
「ええ。どちらの方がいい、というわけではないのよ。どんな色でも、たとえ形が変わってしまっても、ソフィアがソフィアである事には間違いないから。だから、その……」
この後をどう繋げようか思案する様子を見て、ソフィアは苦笑を漏らした。心優しい親友が自分を元気づけようとしてくれるその姿だけで、充分救われた気がしていた。
ソフィアは、ありがとう、と言いながら微笑むと、ベッドからゆっくりと立ち上がった。アリスも、彼女の体を支えるべく腰を上げる。そしてそのままビューローの方へ向かうと、ソフィアは引き出しから箱を取り出した。
「ソフィア、それは……」
「見て、アリス」
花の飾り彫りが美しいその木箱を開けると、オレンジの精油の香りがふわりと漂う。中に入っていたのは、ソフィアの父であるボワロー卿が外遊に出た折にお土産として持ち帰った絵カードだった。
「見えないの。何も、聴こえなくなってしまったのよ」
「……!」
その言葉の重みを、一体どれだけの人間が理解できるだろうか。
ソフィアは昔から、不思議なものを見、他の者にはきこえない声を聴く力があった。それは揺れる花の姿が表すものだったり、木々のざわめきから拾い上げるものだったり、見え方聴こえ方は様々だったという。
アリスは、ともすれば”子どもの悪ふざけ”と取られかねないソフィアのそういった言動に、幼い頃から耳を傾けてきた。ソフィアが語る世界の魅力にすっかり虜になっていたのである。
ボワロー卿からカードを贈られてからは、ソフィアはそこに描かれる美しい絵画からインスピレーションを受けるようになった。領土内にある大きな常緑樹の絵柄が織り込まれたタペストリーを壁から外してテーブルに敷き、その上でカードを混ぜれば、様々な色が沸き立ち、それと共に小さな囁き声が聞こえてきて、その内の一枚が、ソフィアがその時知りたいことを教えてくれるのだ。
その色が、声が、ソフィアに語り掛けてこないというのは、アリスにとっても一大事だった。
「もしかして、ソフィアを攫った犯人が何かしたのではないかしら」
「分からない。私、ただ暗い部屋に入れられて、目隠しをされたまま座らされていただけなのよ」
その犯人がソフィアに触れたのは、食事の時とトイレに立つ時、そして就寝時間にベッドに寝かされる時だけだった。
朝を知らせる鐘の音で目覚めるたびに激しい脱力感があった以外は、特に何か変わったことをされた記憶がソフィアにはなかった。
「きっと、疲れているんだわ。五体満足だなんてさっきは言ったけれど、自分がどうなるか分からない中で何日も過ごせば、心が消耗するのは当たり前のことよね」
ソフィアはそう言って力なく笑ってみせたが、すぐに視線を落とし、唇をかみしめた。
これまで見えていたはずのものが見えなくなり、聞こえていたはずの音が聞こえなくなったソフィア。もし自分が、例えばノーランに乗って駆ける術を失ってしまったら……。アリスはそう考えて、ソフィアの抱える絶望がどれだけ深いものかを痛感した。
どうにかしてあげたい。せっかく無事に帰ってきたのだから、こんな辛い思いをさせたくない。
アリスの思いは内に秘めた正義感の炎を煽った。
「わたし、犯人を捜すわ」
「えっ……?」
ソフィアが弾かれたように顔を上げ、アリスを振り返る。
「何を言っているの? あの男を捜すなんて、そんな危険なこと」
「犯人は男なのね。他に何か特徴は覚えていて?」
アリスが冗談でこんなことを言い出すわけがなく、そして一度言い出したら絶対に曲げないことをよく知っていたソフィアは、呆れたようにため息をついた。
「やめてちょうだい、アリス。私は力も瞳の色も失った上に、あなたまで失くしてはきっと生きていけないわ」
「だけど……!」
「私は大丈夫。いつかまた、戻ると信じているから」
ソフィアがそう思っていたのには、根拠がないわけではなかった。
去年の誕生日、アリスから贈られた三日月の絵のカードは、アリスが丹精込めて描いたものだった。父親からもらった、名のある画家が手がけたカードに比べるとそのつくりはとても拙いものだが、ソフィアはこのカードが一番のお気に入りだった。親友からもらった、というだけでなく、このカードが持つ色と音は他のものと比べても異彩を放っていたのだ。
このカードだけが今もその輝きをソフィアに見せていて、ソフィアが感じている痛みに、まるでアリス本人であるかのように寄り添ってくれている。
ソフィアが気丈に振舞っていられるのは、このカードがあるお陰だと言っても過言ではなかった。
「本当に? わたしに心配かけないよう、無理をしているのなら」
「本当だってば。あなたに虚勢を張ったって……ああ、そうだ。良いことを思いついたわ」
ソフィアが、ぱっと顔を輝かせた。
「良いこと?」
「ええ、犯人捜しよりももっと素敵なこと」
首を傾げるアリスに、ソフィアは弾けるような笑顔を向けた。
◇
あれから二人はお土産に持参したお菓子を食べながら、ソフィアの提案した”素敵なこと”について話し合った。
「でも、わたしの作るもので良いの?」
「あなたが作るから良いの。私にとって、何よりも価値あるものになるわ」
ソフィアの思いついた素敵なこと、それは、新しい絵カードをアリスが作るということだった。
体を動かすことは得意なアリスだが、刺繍をしたり絵を描いたりなど、その場にじっと留まって何かを生み出すのは苦手としている。父や兄から押し付けられる稽古の一環としての絵カードの作成であれば、迷わずお断りしただろう。しかし、これは他ならぬソフィアの頼みごとなのである。
「……上手にできるかは分からないけれど、最善を尽くすわ」
アリスのその答えに、ソフィアは嬉しそうに手を握ってうなずく。先ほどまで不安でざわついていた心は、安堵で満たされた。
アリスが、止めたにも関わらず犯人探しに着手してしまうことは、ソフィアには容易に想像できていた。絵カードを作ってほしい、と言ったのは建前で、別のことに目を向けさせて手一杯にさせよう、というのが本音だった。自分の身に起きたことのせいで親友を危ない目に遭わせたくない、という思いからひねり出した、苦肉の策だったのだ。
実際、その作戦は功を奏したようで、アリスはその日の内に部屋に引きこもり、熱心に絵カードづくりを始めたのだった。
マ・シェリ/愛しい人(仮) よつま つき子 @yotsuma_H
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