マ・シェリ/愛しい人(仮)

よつま つき子

0章

リベルタス




「私の名はエイビス・リベラ。皆は親しみを込めて、”リベルタス”と呼ぶよ」


 金の髪をなびかせるその男は、そう言って屈託のない微笑みを浮かべた。


「もう一度生きる力が、欲しいんだね」


 暗い路地裏にうずくまり、ぼろぼろに傷ついた赤い髪の男は小さくうなずく。呼吸は弱く、生命の灯はもうあと数分で尽きようとしていた。

 帰路につく途中、ひと気がふと途切れた街道で、彼は背後から後頭部を殴られたのだ。一瞬何が起きたか分からず、振り返ろうとしたところを、今度は足を引っかけられてその場に倒れこんだ。相手は二、三人か、それとももっとか。足を引っ張られて脇道に連れ込まれた後は、袋叩きに合い身ぐるみをはがされて、冷たい北風の吹き込むこの場所に放置された。

 つい数時間前まで、彼は行きつけのバルでエールを呷り、お気に入りの可愛い店員にちょっかいを掛けたり、常連客とのカードゲームで小遣いを稼いだりと、楽しい時間を過ごしていた。久しぶりに入った大きな仕事は無事に納めることができた。今後も得意先として太く長くつながることができそうだから、もう食い扶持に困ることはないだろう。その勢いでした恋人へのプロポーズは二つ返事で受け入れてもらえた。何もかもが順風満帆で、今後の人生は明るいものになる算段だった。

 それが、なぜこんなことに――。


「つまらない強盗に襲われて死にかけていることを、嘆かなくていいよ。こうして私と会えたんだから」


 エイビス・リベラ――リベルタスはそう言ってしゃがみ込むと、泥水で汚れた赤いくせ毛をそっと撫でた。


「君の名前は? ……そう、セス命じられし者というんだね。境遇にぴったりのいい名だ」


 優しい声音でセスの髪をひとしきり撫でた後、リベルタスは彼の体をそのまま仰向けに横たえると、懐から光沢のある巾着袋を取り出し、それをその鼻先にぶら下げた。


「ここに、命の源が入っている。遠い東洋の国で採れる貴重な石でね。神の息吹が宿る一部の土地でしか手に入らないんだ」


 そう言いながら、リベルタスは袋から金貨ほどの大きさの赤い石を一つつまみ出す。屋根と屋根の隙間からわずかに漏れ出る月明かりに照らされて、それは不思議になまめかしく輝いた。


「綺麗だろ? これには、私の力が込められているからね。美しいのは当然のことさ」


 次の瞬間、セスは声にならない叫び声を上げた。暴行を受けた時の痛みとは異なるその感覚の原因を確かめようと、セスは力を振り絞って頭を上げ、胸元に視線を送った。

 リベルタスは先ほど変わらない、穏やかな微笑みを浮かべながら、セスの心臓にナイフを突き立てていたのだ。


「死にかけだって言っても、痛いものは痛いよねぇ。ごめんごめん、でも、こうしないと君は生まれ変わることができないから」


 左右に力任せにナイフを動かす度に、肉と骨が壊される音が不気味に響き渡る。セスは、既に痛みを感じなかった。感じないはずなのに、全身を削るかのような鮮烈な苦しみが駆け巡っていた。意図せず体はびくりびくりとひくつき、ナイフが抜き取られた後の胸の空洞から、血がゆっくりと流れだす。喉の奥からせりあがってきた生ぬるいものが口からあふれ、狭い路地はセスが排出したもので汚れてしまっていた。


「さあ、新しい命だよ。もう君は何も恐れなくていい。暴力も、飢えも、死さえも君を脅かすことはないだろう」


 抉られた胸元に、先ほどの赤い石が一つ落とされる。白くかすみ始めていたはずのセスの視界は、だんだんと夜の闇を感じ始め、その中で瞬く星々の光もはっきりと見えるようになった。


「ほら、見えるかい? これが”世界”だよ。私が創り、人が育てた――美しくも憎らしい世界だ」


 リベルタスはそう言うと、ゆっくりと立ち上がった。


「もうあと数分もすれば起き上がれるだろう。君の目覚めに付き合っている暇はないから、私はもう行くよ。まだ東の国で片づけることが残っているんだ」


 セスが力なく広げた手のひらに、先ほどの巾着袋がそっと置かれた。


「君の仕事は、その石に魔力を食わせることだ。私が与えたその力で聖女から”マナ”を奪い返して来い。終わった頃を見計らって、また会いに来るよ」


 路地に敷かれた石畳を、リベルタスの靴底が叩く音がする。それが遠ざかりすっかり聞こえなくなってから、セスは体を起こした。

 全身を覆いつくしていた打撲痕や、リベルタスに抉られた胸の傷はすっかり消え去っている。まだ少しふらつく足元に用心しながら立ち上がり、辺りを見回した。

 冬の夜気の冷たさは感じるものの、以前のように体が震えることはない。さっきはあれほど着込んでもまだ寒かったはずなのに、今は裸同然の姿でも平気でいられた。

 月の光が、死人を思わせるような青白い肌を照らし出す。アンバー色だったはずの彼の瞳は、血のような深い赤に変わっている。


「……」


 リベルタスから預かった巾着袋の重みを確かめるように、右手を軽く動かすと、セスはにやりと口の端に笑みを乗せた。

 リベルタスから自分に与えられた使命をあの言葉だけで寸分もたがえることなく理解できたのは、自分がリベルタスの一部として生まれ変わった為だ。そう気づくのに、時間はかからなかった。

 リベルタスはセスであり、セスはリベルタス。彼の意志はすべてリベルタスの意志である。

 セスは過去の自分が垂れ流した体液を踏みつけ、一歩二歩と歩みを進めた。そして次の瞬間、音も立てず夜の闇に溶け込むように姿を消した。






 下町では、”死体なき殺人”があったという噂でもちきりだった。狭い路地裏で、おそらく人のものであろう血だまりとナイフが見つかったのだ。血の足跡が数歩続いた後はぱったりと消えており、それもまた人々の恐怖心をあおったようだった。

 町に住む身寄りのない若い男が行方不明になったことから、おそらく死んだであろう人物はその若い男だと決定づけられ、彼の婚約者を始めとした有志によって簡素な葬式が執り行われたという。

 凄惨な現場を目撃した人間は、死体が無いのは殺された恨みから蘇って犯人に復讐をするつもりだからだ、とか、大きな毛むくじゃらの獣に骨まで食われたせいだ、など、様々に憶測を語り合った。

 そしていつしか話題にものぼらなくなった頃。

 国境を越え、海を南に進んだ先にある大きな国で、貴族の娘が誘拐されるという事件が起きたのだった。  






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