其の二十 「やばい」と思っても、もう遅い。「やばい」と思う前に逃げるべし
さっきまで暖かく平穏な空気に包まれていた体育教官室が、冷たく異様な雰囲気に変貌しているのを僕は肌で感じていた。
こちらに背を向けている、ひょろながい『もやし』みたいな背恰好の『鳥居先生』は、メガネを外してからというもの、一言も発する事なく不気味に佇んでいる。
一見、何も変わってないように見える、でも、同じ空間に居るとわかる。
――目の前に佇む『鳥居先生』は、さっきまでの『鳥居先生』と、同一人物とは思えない。先生は何か、『様子がおかしい』。
危険を察知した僕は、先生に気づかれないようにゆっくりと腰を浮かしてその場を立ち去ろうとした。
「……ある生徒が教えてくれたんだ――」
――壊れたラジカセみたいに、鳥居先生がふいに声を上げた。中途半端に腰を浮かせた僕の身体が、びくっと跳ねる。
「……『先生が探している人物、意外と近くに居ますよ』、ってな――」
……なんだ? ……『何を言っているんだ』、ある生徒……?
鳥居先生が、左手に持っているメガネをプラプラと弄びながら、ゆったりとくねくねと身体を揺らしている。
もはやそのシルエットは『もやし』とは呼べない、『クラゲ』だ。
……どっちでもいいわ。
「――いや~~~、まさか、『自分のクラスの生徒』に居たなんてなぁ、半年も一緒にいたのになぁ、うかつだったなぁ、ホント――」
――急に、先生の声のトーンが失敗談を語るお笑い芸人みたいに、一段上がる。
僕の背筋がゾクッと震える。
鳥居先生は僕に話しかけているようにも、独り語りをしているだけのようにも思えた。
実際、先生が言っていることは何がなんだかわからない。でもただ一つだけ言えることがある。
――ここに居たら、まずい。
僕は、今や中腰の状態にまで身体を浮かすことに成功し、そのままの姿勢で後退を試みる。
――そろり、そろり、足音を立てぬよう、忍者の如く ゆっくり、一歩一歩――
目指すは入ってきたときにガチャリと開けた引き扉。
ドアノブを掴むまではひっそりと事を進め……、
ノブに手を掛けた瞬間――、ダッシュで走り去る!
それが、僕の作戦だった。
――数秒前までは。
作戦は、失敗に終わった。
何故なら、『あるモノ』を見て、僕の腰が抜けてしまったんだ。
ずっと背を向けていた鳥居先生が、
ふいにくるりとこちらを向いた。
――血を塗りたくったみたいに、真っ赤に染まった二つの『赤い眼』が、
ギョロリと僕の姿を捉えた。
…。
…。
…。
――ッ!!?
「――うわぁぁぁぁぁッ!?」
――初めて自分の『青眼』を鏡越しに見た時……、中学一年生の時に体験した『異形』への拒絶が蘇る。毛虫が這いまわるみたいなおぞましさが全身を駆け巡った。
腰が抜けた僕は立ち上がる事ができず、――しかし本能的に『鳥居先生』から距離を取ろうと試みようと、後ろについた手と屈めた足を懸命に動かし、後ずさる。
――ガンッ!
――果たして、僕の退路は速攻で失われる。
固い何かが僕の頭にぶち当たった。
棚か、机か、『何か』はもはやどうでもよかった。痛みを感じている余裕は一ミリも無かった。
「……『厄災』を振りまくだけの、無能な『青眼族』のガキが……、よく、ノウノウと生きてられんなぁ――」
――鳥居先生の口調が、『明らかに変わる』。
生徒に寄り添うように、
ボンヤリと、しかし力強く、
僕らの心中を見透かしたように、しかし決して騙ることはない――
『教師特有の、心を包み込むような声の響き』は、そこには無かった。
あるのは、
剥き出しになった『敵意』。
溢れんばかりの『憎悪』。
それらがが表面化した『憤怒』――
二つの『赤い眼』をメリメリと見開いた『鳥居先生』は、
明らかに僕を『敵』と認識していた。
――そして、叫ぶ。
「――『赤眼』の使命の元に……、貴様ら『青眼族』の眼玉を全ッ部くりぬいてやるよッッ!!」
……やばい。
――ヤバイヤバイヤバイヤバイヤバイヤバイ、やばすぎ。
……まず先生のテンションが『やばい』。
そんなやばい先生と同じ空間に居る僕はもっと『やばい』。
……青眼族? ……赤眼の使命? 一体なんのことを言っているんだ……?
……まぁ、でも――
――とりあえず、『腰を抜かしている場合』ではない。
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