其の十七 晴天の青空から、〇〇が落ちてくるわけがない
閉じた瞼の裏からでもボンヤリと、わかる。
僕から少し離れた位置で、くっきりとした輪郭が佇んでいる。
『気配』を感じる、間違いない――
すぐ近くに、人が立っている。
「――して」
……え?
……何か、聞こえたような――
「――して。 ……イメージ、して――」
――今度は、ハッキリと聞こえた。
深く低く、その思考を一切察することの出来ない、機械のようなトーン。
目の前に佇んでいる人物は、おそらく『彼女』だろう。
僕は目を見開きたくなる衝動を必死に堪えて、
ギュッ、と眼を強く瞑りなおした。
「……焼きたての、パンの香り」
……?
「こたつに入りながら食べる蜜柑の味。天日干ししたばっかりのシーツの匂い。寒い日に入ったお風呂の暖かさ」
……何、言ってるんだ。
「イメージして……。 何も考えなくていいから、ただ、想像するの――、少し早起きした朝、カーテンを開けた時に差し込む、太陽の光。静かな夜の公園に響く虫の音、口の中で溶けるチョコレートの甘み」
……
「小説のページをめくる時に感じる、紙の触感。ポップコーンが弾ける音。初めて見た打ち上げ花火の色、積もった雪に長靴が埋もれる感触――」
……『彼女』の口から、止めどなく映し出される言葉の数々が、情景となって僕の全身に流れ込む。
「……想像して、イメージして――、…何も考えなくていいから、ただ、『感じて』――」
――完全に思考が停止してしまった僕が、ポツンと思ったことが一つ。
……そういえば、昨日見たドラマの続き……、気になるな――
気づいたら、雨は上がっていた。
マイナス思考に囚われていた僕はもう居ない。
――『怪現象』が収まった。
僕はそう直感した。
――バシャっ…、バシャっ……
少し離れた位置で立っていたであろう『彼女』が、水たまりを踏み歩きながら近づいてくる足音が聞こえる。
僕は、目の前の人物を確認しようと目を開け――
ようとするのを慌てて止め、再びギュっと目を瞑りなおした。
『怪現象』が収まったところで、『青眼』が元の黒眼に戻っているとは限らない。
目の前に存在するのが、僕が想像する『彼女』なのであれば、決して『青眼』を見られてはいけない。
僕の聴力を信じるならば、いま目の前に立っている人物は、僕が警戒観する『最有力候補』の一人だ。僕の脳は、「眼を開けるな」と全神経に命令を出していた。
「――『水無月君』。 ……眼を、開けてくれないかしら?」
――彼女の口が、確かに『僕の名前』を発した。
なんだか妙にうれしく、背中がむずかゆかった。
「――確認したいことがあるの。 ……お願い、眼を開けて」
――『お願い』されてしまった。
妖美な声に誘惑されるがままに、思わずチラッと半目が開かれようとしたが、『青眼』の僕が慌ててギュっとフタを強く抑え込んだ。危ない危ない……
「……水無月君」
駄々をこねた子供を諭す、母親のようなトーンで彼女が僕の名前を呼ぶ。
僕は固い意思の元 、どんな魅力的な誘いがあっても、決して目を開くことはするまいと、強く決心した。
「――空から、金だらいが降ってくるわ」
…
…
…
……えっ!
ぼくはパっ、とその目を開けて、瞬間的に空を見上げた。
――空には、先ほどの大雨が嘘なんじゃないかと思うくらいの晴天がカラカラと広がっている。
……なんだ、金だらいなんか降ってこないじゃ――
……あっ!?
眼、開けちゃったよ。
「――やっぱり」
僕の視界が開かれる。
『深く低く、その思考を一切察することの出来ない、機械のようなトーン』で、
目の前の『彼女』が、一言漏らす
頬杖を突きながら、
ジトっとした目つきで
僕の両眼をまじまじと見つめる――
――『如月 千草』の姿が、そこにあった。
いつもは遠巻きにしか見ていなかった如月さんが、目の前でしゃがみ込んでいる。
『至近距離でお互い見つめあう』という不慣れなシチュエーションに、僕はシンプルに「ドキドキ」していた。
雨で張り付いた前髪。
人形のように白く透き通った頬。
遠慮がちに存在感を主張する、二つの黒眼。
――あらゆる情報が脳に一気に流れ込む。処理しきれなくなった頭で、僕の心臓は飛び出るんじゃないかってくらいバクバクと波打っていた。
……如月さん、ずぶ濡れだな。エロい。
……えっ、『金だらい』って何? どういう発想?
……っていうか、ちょっと待てよ――
――『青眼』、見られた?――
スッ、と『如月 千草』が立ち上がる。
未だに地面にへたり込んでいる僕を見下ろす形になり、
恐ろしいほど鋭く、深く低い声で――、
「……残念だけど、あなた、殺されるわ」
――そんなことを、言ったんだ。
――バクバクと鳴りっぱなしだった心臓の音が、ふいに聞こえなくなった。
ワクワクしながら見ていた映画のクライマックスを、突如発生した『停電』によって妨害される……、そんな気分だ。
僕は、彼女が言った言葉の意味を、『理解できていなかった』。
……なん、だって?
――キーン、コーン、カーン、コーン…
滑稽な鐘の音が、混沌劇の終末を告げる。
「――放課後、教室で待ってて、…話したいことがあるの」
如月さんはそう言って踵を返すと、濡れた髪をたゆんと弾ませながら、バシャバシャと水たまりを踏み歩き、僕の視界から徐々に小さくなっていった。
――風が異様に冷たく感じる、そういえば僕も全身がびしょぬれなんだった。
立ち上がって、ズボンから泥を払う。
上着を脱ぎ、ぎゅうーっと雑巾を絞るみたいに服から水分を追い出す。
須磨に殴られた腹と蹴られた背中がズキズキ痛むが、動けないほどではなかった。
――残念だけど、あなた、殺されるわ――
ボタボタと地面に落ちる大きな滴を眺めながら、
彼女の声が、壊れたラジオみたいにリピート再生されていた。
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