其の十六 雨の日の足音は、絶望に向かう人を呼び止める


 ――ボキボキボキボキッ!


 巨大な樹木が、根本からもぎれる音が聞こえる。

 長い間全身を支えていた柱が、表面からメリメリと剥がれ落ち、内側に入り込んだ空気によってみるみる腐食していくみたいな――。



 「――な、なんだ……、なにが、どうなってんだ……!?」



 いつの間にか、須磨は僕の身体から手を放していた、

 狼狽した須磨の声が少し離れた位置から聞こえる。

 彼はもう、恐怖を隠そうとすらしていなかった。



 ――これは僕の自論だが、人が何かを怖いと思う理由は、『わからない』からだ。


 家族や友達と食事をするのに緊張しないのは、自分が彼らの事を『知っている』からであり、同じ食事でも、相手が初デートの女の子だったらナイフの持ち方一つにも神経を研ぎ澄ますことだろう。


 須磨にとって、今の状況は『わけがわからない』はずだ。奴はただ、僕を殴るためだけにここにやってきただけで、『それ以外の事が起こる』なんて想定していない。


 須磨に目を付けられたことは僕にとって事故だったが、『須磨が目を付けたのが僕だった』のは、奴にとっての事故だ。


 殴った相手が、

 『怪現象』を発生させる特殊体質だなんて、

 『想定できるはずがない』。




 ――ッピシャアアアアアアアアアアアン!



 ―――轟音。


 全身が貫かれたんじゃないかと思うほどに、鋭利な炸裂音が脳天から一直前に足先へと走った。閉じられた瞼の裏からでも、眩い光が景色を包んだのを感じた。


 ……雷でも落ちたのかな――

 妙に冴えた頭で、すれたようにそう思った。


 

 ――ザァァァァァァァァァァ――



 体中が、ひんやりと冷たい滴にまみれる。

 

 ……雨か。

 今度は瞬間的に理解できた。目を瞑っているせいか、一つ一つの滴が全身にしたたるのを立体感を持って感じられる。



――バシャバシャバシャバシャ……



溜まった雨水を蹴散らしながら、走り去る足音が聞こえ、徐々に遠くなる。


――恐怖の限界に達した須磨が、何が起こっているのかを理解するのを諦め、この場から逃げ去ったのだろう。懸命な判断だ。


 一人になって僕は、冷たい雨を無防備に受けながら、目を瞑ってただ呆けていた。


 須磨という『マイナス思考の原因』がその場から退場した今でもなお、一度脳裏にこびりついてしまった『絶望』のイメージをぬぐう事ができなかった。



 ……負の力によって呑まれる世界と共に、

 僕自身も消え去ってしまってもいいかもしれない。



 そんな考えも頭に浮かんだ。

 真の安寧を手に入れる手っ取り早い方法は、思考する自身を消してしまうことだ。なんでこんな簡単な事に気づかなかったのだろう。『平穏な学園生活』を守るのに躍起になっている自分が、妙に馬鹿らしく思えた。



 ――バシャっ…、バシャっ…、バシャっ……



 『守りたいものがある』からこそ、『いつか失ってしまうのでは』と人は不安になる。最初から持たなければ、誰からも奪われることはない。



 ――バシャっ…、バシャっ…、バシャっ……



 僕は、いつの日からか『楽しく、生き生きとした人生』を手に入れることを諦めていた。

 たまに無性に羨ましくなって、ネオンライトが輝く煌びやかな世界をフラフラと覗き込みたくなるときもある。

 ――そのたび、グッと手綱が引っ張られるように、二つの青眼が僕を睨む。



 ――バシャっ…、バシャっ……



 『ただ、ひっそりと、誰にも迷惑をかけずに、かけられることもなく、生きる』

 ――そんな人生なら、いっそ、終わらせてしまった方が、いいんじゃ―――



 ――あれ…?




 …。



 ――バシャっ――




 ――足音が……、聞こえる?



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