其の十五 一度壊れた花瓶は、破片をかき集めたとしても、『花瓶』と呼んではいけない


 「――グッ……」


 呼吸を奪われ、喉からお腹までの管が閉じられてしまったように声が出ない。僕は文字通り膝からガクリとその場に倒れ込んだ。ぐわんぐわんと頭が回り、急な吐き気に襲われる。身体の体温が一気に失われるのを感じた。



「……だから、どうしたんだよ――」



 ――辛うじて、須磨のぶっきらぼうな声が耳に入ってくる。

 須磨は、今度は倒れこんでいる僕の背中を思いっきり蹴りつけた。



 「――がはッ!」



 激痛によって声が勝手に漏れ出た。痛みに耐えられない僕の身体が勝手に身悶えする。背骨が燃えているみたいに熱い。



 ――グッ、と、須磨の太い両腕によって、僕の身体が強制的に持ち上げられる。抵抗する気力が出ない、僕は全身をコンクリートの壁にドカッと張り付けられたまま、片手で襟首を締め上げられた。



 ……い、きがッ――



 襟首をつかまれた時の呼吸の苦しさは、つい最近体験済みだ。

 朦朧とする意識の中、眼前に飛び込んで来たのは、弱者をいたぶる快感に飢えた獣のように、口角を不気味にニィっと上げた、 須磨の顔。



 「……ど~~でもいいんだよ、お前の話なんか――」


 須磨が、つまらなそうに、言葉を吐く。



 「俺はな、『機嫌が悪い』んだ」


 そして、つまらなそうに、言葉を続ける。



 ……そう、か。



 ――甘かった。すべてが、甘すぎた。




 須磨は、『メンツ』を潰した僕に怒りを感じていたわけじゃない。



 なんでも、良かったんだ。『怒り』の、理由を探していたんだ。

 誰でもよかった。ただ、殴りたかった。


 『殴っていい』と、自分を納得させる、理由が見つかっただけだ。

 須磨にとって、僕が、たまたま、その役だっただけ。


 脳内シミュレーションなんて、ハナから無駄だったんだ。

 僕が何を言おうが、何をしようが、奴は僕を殴ることを決めていた。

 僕がここに来てしまった時点で、『僕が殴られる事は確定していた』。


 

 ――そして、今日一日だけ耐え切れば、なんて、とんでもない――


 身体の自由を奪われ、

 意識が飛びそうな痛みを与えられ、

 悪意以外の何物でもない、ただ人を見下しているだけの、劣悪な表情を見せつけられ―――


 僕にとって、これはもう、立派な『絶望』だ。






 不穏な気配が辺りに漂う。

 生ぬるい風が辺りに吹き始め、カサカサと落ち葉が転がる音が聞こえる。

 さっきまで晴天だった空を、どんよりとした雲が覆った。


 ――僕の『マイナス思考』と、

 『世界』が、リンクしはじめる。




 ……まずい。マズイマズイマズイマズイマズイマズイ。



 焦りが不安を増幅させ、

 負の感情が、借金の金利みたいに膨れ上がる――







 ――暗くて、何もない空間。


 目の前にある、僕の姿にそっくりな人形が、

 ポツンとスポットライトを浴びている。


 ピシっ、と、人形の顔の一部に亀裂が走る。

 僕は慌てて駆け寄る。

 ピシっ、ピシっと、別の箇所にもひびが入る。耳がポロっと落ちる。

 僕は慌てて拾う。

 ボロり、と鈍い音がする。片腕がもげた音だった。

 床に落ちた腕の破片を、僕は必死にかき集める。



 ピシっ、ピシっ、ピシっ、ピシっ――

 


 全身が、崩れていく。

 もはや、『ソレ』は、『僕の姿にそっくりな人形』とは、到底呼べない。ただの破片の塊だ。

 それでも、僕は、必死にかき集める。

 ハァハァと荒い呼吸を繰り返しながら、

 半泣きになりながら、

 地面に膝をつき、情けなく床にへばりつきながら、

 焦燥の中、ただ腕を動かし続けた。


 スポットライトが、一人寂しく破片を掻きまわしている僕を、ただ照らす――







 ―――バチンッ!


 何かが弾ける音が耳に飛び込んだ。

 須磨の、僕を締め上げる力が、一瞬ゆるむ。

 


 ……始まった。


 ――諦めると同時に、そう、確信した。



 

 「……なんだ、今、なんの音――」


 ――バチンッ! バチンッ! バチンッ! バチンッ!



 須磨の声が、連続する炸裂音にかき消される。

 

 須磨の腕によって締め上げられていた僕の身体が、乱暴に振り落とされた。

 地べたでゲホゲホと咳をしながら、僕は半目を開けて辺りの様子を眺める。


 目の前の須磨が、身体の中に入った虫を探しているかのように、慌ただしく自分の身体を撫でまわしている。



 ……なにやってんだ…? こいつ――


 

 「……な、なんだよコレ、どうなったんだ、『俺の学ラン』――」



 ……ああ、そういうことか。



 弾ける音の正体と、須磨の謎のジェスチャーが繋がった。


 一番上のボタン以外ぴったりと閉められていた須磨の学ランが、だらんと前開きになっている。ボタンは一つもついていなかった。

 おそらく、『一つ残らずはじけ飛んだ』。


 

 「――て、てめぇ……、何しやがったッ――」


 座り込む僕に向かって、須磨が再び掴みかかった。

 弱者をいたぶる快感に溺れる獣はナリを潜め、眼前に居るのは、恐怖を怒りで必死にごまかそうとする、哀れな男子高生だった。




 強風が僕の前髪を揺らす。ゴロゴロと雷の鳴る音が聞こえる。

 負の力に呑まれる世界をぼうっと眺めながら、ふと、頭の中で声が響く。



 ――決して、『青眼』を人に見られるな――



 かすれる意識の中、僕はギュっと強く目を瞑った。



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