其の十 憂鬱な昼下がりと陽気な外国人ほど、相性の悪い組み合わせも無いものだ


 「――須磨! 水無月から手を放せ!」



 声が耳に飛び込んでくるのと同時に、僕の首元を締め上げる力が、フッと緩められるのを感じる。

 

 ――身体が、ストンと崩れ落ちた。僕はゲホゲホと大袈裟に咳をしながら、久しぶりの空気をめいっぱい味わった。


 酸素が身体を巡り、思考が頭の中に戻ってくる。

 急速に回転する脳内で、僕はある事実に気づく。



 ……なんか知らないけど、助かった……?




 「……水無月、続きは昼休みだ。校舎裏に来い、逃げんじゃねぇぞ――」


 須磨はチっと小さく舌打ちをすると、捨て台詞を吐いて教室の外へと退場した。手下その一・藤原、その二・難波もコバンザメのようにその後に続く。


 須磨が退場して、喧騒が教室に戻ってくる。

 地面に膝をつき、ゼェゼェと呼吸を整えている僕に近寄ってきたのは、烏丸と―― 


 ――我がクラスの学級委員長、『神代』だった。



 「――水無月、大丈夫か?」


 神代がうつむいている僕の顔を覗き込み、心配そうな表情を浮かべている。



 ……さっきの声は『神代』だったのか――


 僕は小さな呼吸を繰り返しながら、「大丈夫」と弱々しく漏らす。動悸が徐々に収まり、クリアな視界が戻ってくる。


 僕はチラッと顔を横に向け、神代と同じように僕の顔を覗き込む烏丸と目が合う。烏丸は神妙な表情を浮かべたまま、『僕が何を聞きたいか』を察してくれたらしく、『僕にだけわかるサインとして』、小さく力強く頷いた。


 それを見た僕は、『最悪の事態を免れた』と安堵する。

 トイレのカガミで『自分の眼の色を確認する』必要は無さそうだ。


 ――瞼の裏の『青眼』の僕が、ニタニタと不気味な笑顔を浮かべている。







 ――キーン、コーン、カーン、コーン――


 「――オーマイガッ! タイム・リミットですネー、つづきはまたジカイよー、ハバ・ナイス・ウィーク!」


 教壇の前に立つ外国人講師が、下手くそなウインクを見せながら軽快なステップで教室を後にする。普段なら何とも思わない他人の陽気さが、今の僕には「何がそんなに楽しいのだ」と無性に腹立たしく感じる。……いやリチャードに罪はないんだけど。


 ――四限目の終わり、ついにこの時がきてしまった、僕の口から大きなタメ息が漏れる。



 ……『須磨のスマホ盗難事件』の後、須磨達三バカは結局四限目に教室に戻ってくることは無かった。おおかた屋上かどこかでサボっているのだろう。いつもの事だ。

 烏丸は、近くで見ていたのにも関わらず僕を助けられなかった事について謝ってくれた。僕が「気にしてないから、大丈夫」と言うと、罰が悪そうに力ない笑顔を浮かべていた。


 ――実際、僕は烏丸に対して怒りも失望感も何も感じていなかった。

 逆の立場だったら、僕も同じことをするだろう。

 『自身の平和』を壊すリスクを負ってまで、他人を助けようとは思わない。




 ――ちなみにこれは余談だが、『神代』の呼びかけに対して、あの須磨が渋々従ったことが、僕は若干腑に落ちていなかった。学級委員が「止めろ」と言ったからいじめを辞めるような不良がこの世にいるだろうか。『メンツ』を気にするヤンキーが取る行動とはとても思えない。


 この疑問については、後で烏丸が解説してくれた。

 実は神代の家は代々『柔道一家』で、例にもれず神代も幼いころからその手ほどきを嫌というほど受けていたという話だ。

 中学まではその道で全国に名を轟かせるほどの有名人だったらしいが、高校にあがると『柔道部』には入らず、自宅の道場で親兄弟と共に日々鍛錬に勢を出しているとの事。


 そして、神代はある界隈の不良グループにでは、名の知れた要注意人物らしい。

 一見すると真面目で大人しそう、さらにちょっと妬ましくなるほどの美少年なもんだから、何組かの不良達が街で一人歩いている神代に悪絡みした経歴がある。


 ――結果は推して知るべし、見事返り討ちにあった不良達は逆恨みによって報復をすることもなく、『あいつには近づくな』と裏で情報共有をし、神代は不良界隈の「ブラック・リスト」に掲載されることとなる。(そんなものがあるのかは知らないけど)


 須磨も、他の不良仲間から神代の戦闘能力を事前に聞かされていたのだろう。「クラスのみんなの前で学級委員にボコボコにされる」よりも、「学級委員の言う事を渋々聞く」方がまだ体裁が保たれる、と判断したのだと思う。


 ――不良のくせに、変に頭の回るやつだ。うちの高校に入学できたのも案外実力なのかもしれない。




 さて、昼休みの須磨の呼び出しについて、自分達も付いて行こうかと烏丸と神代が提案してくれたが、断った。僕は自分に迷惑をかけられるのが嫌いだが、他人に迷惑をかけるのも同じくらい嫌だった。


 『呼び出しに応じない』という選択肢も頭をよぎった。

 案外、時間が経ったことで須磨の方が僕のことなんてどうでもよくなり、何事もなかったかのようにいつもの日常が戻ってくるんじゃないか――、そんな都合の良い想像が僕を誘惑したんだ。


 一方で、呼び出しを無視したことが須磨の逆鱗に触れ、今後の『平穏な高校生ライフ』が『地獄のいじめライフ』に変貌してしまう未来も同時にイメージできた。それだけは避けなければならない。


 何か起こるのなら、『今日一日だけ』で終わらせたい。

 ……明日からは、何も思考せず、ただ日々を過ごすだけの、海底の貝に戻りたい――



 ――結局、僕は一人だけで須磨の呼び出しを受ける事を腹に決めた。

 鉛のように重い腰をあげ、ゾンビさながらの覚束ない足取りで教室を出た。

 教室を出る時に無数の後ろ指が背中に刺さる感覚が、心地悪かった。



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