最終話 篠崎綾乃「私」

記憶を巡る度に、愚かだなと思う。



生きるということは、自分のためだというのに、それを理解していない私。



恋は盲目。真意を見抜くことができなかった私。


そして、自分の望むことと誰かの命とを引き換えにした私。




「反吐がでる。」


私はつい口に出してしまう。

けれど、構わない。

どうせこんなところに人は来ない。



神社に産まれた私にとって、森は友人だ。

だからこうして、毎日森の奥深くにやってくる。



木々の囁きと、風のにおいに抱かれているようなこの感覚は、好きだ。



故に、この様な感情は相応しくない。

そういう意味も兼ねて、「反吐が出る」という言葉が出てしまったのだ。



私は一つ息を吐き、適当な木によりかかる。



過去を思い出すということは、決して悪いことではない。


もしそうでなければ、私は今ここに立っていないだろう。




しかし、それに囚われるのは、どうだろうか。



私の記憶に住む彼女達は、私の前世なのかもしれないし、あるいは縁者なのかもしれない。

もしかすると、全く関係のない人なのかもしれない。



ただ、一つだけ確かなことは、私自身が彼女達の人生を反面教師として捉えているということだ。



『そうならないように』だとか『こうなるように』といった風に、参考にしている分には問題ないだろう。



けれど私は、自分で言うのもなんだが、真面目すぎる人間だ。


『参考にできるということを、参考にしなくてはならないと履き違えている』と指摘されれば、反論することは出来ない。



この有様は、自分の意思でありながら、まるで自分を束縛しているようではないか。


それを『囚われる』と言わずして、何と言えばいいか、私にはわからない。



「おかしな話だ」と、自嘲する。



私が選んだ筈なのに、納得出来ない。

最適解を出してきた筈なのに、その答えは自分の答えではないように感じる。



まるで私が私ではない様な、謂わば別の「私」に操られている様な感覚だ。



相反する私と「私。」

その両者の存在は、不快以外のなにものでもない。


かといって、それを払拭することは出来ないだろう。


当然だ。

私が思考をするから「私」が生まれるのだから。



仮に止めるとすれば、この息の根ごと止めなくてはならないだろう。


私はそれは望んでいない。


生きていたいし、死を想像などしたくない。



『八方塞がり』

脳裏に、そんな単語が過ぎる。


見て見ぬ振りもできず、真面目でなくなることもできない。

そして死ぬことも叶わず、このまま生きていくのみ。



そう考えてしまい、空を仰ぎ見る。



--私は一体どこにあるのだろう。



木の葉の隙間から顔を覗かせる青空は、そんな疑問に答えることはない。



私自身も、そこに答えがないことはわかっていた。


でも、それでも、どうしようもないのだ。



私は私を信じることさえ出来ていない。



誰かの記憶を参考に、嫌なことを避け続けているだけなのだから。


自分自身の思いとは関係なく、正解を求め続けているのだから。




「嗚呼、そうか。」


私は、どこかで何か歯車のようなものが噛み合った気がして、そう呟く。



今まで私は、自分自身で選択をしたことがない。



哲学的な見方をすれば、根本的には、ある意思に従って選択をしたともいえるのだが、それは方向性を定めただけだ。



方向性というのは、漠然とした行き先である。


雑な言い方をするなら、方角、だろうか。



私には、確固たる目的がない。

行き着く理想の未来のビジョンがない。


しかし、それでありながら、「この場合はどうする』と常に最適なものを求める。



どう考えてもおかしい。



何かを避けるだけであれば、最適なものでなくてもいいはずだ。


けれど私はそうしてこなかった。



見えることはないけれど、何か別の未来を思い描き、そのための選択をさせられていたに違いない。




一人頷く私は、あることを自覚する。





おそらく私は『常に正解を導く「私」』に操られている。




そこに私の意思は無い。



意思とは無関係、ともいえるのだろう。



それ故に産まれたのが、この不快感なのだ。



からっぽな私を操る「私」。


もしかすると、私の感情や思考も「私」によって産み出されたものかもしれない。



私が不快感を覚えることで、なにかを得ようとしている「私」がいてもおかしくは無いような気がした。




誰かが今の私の考えを知ったら、笑うのだろうか。

もしくは、忌み嫌うのだろうか。




「どうでもいい」



そう、どうでもいい。

何故だか、悩んでいることが馬鹿らしく思えてきた。


操られているのなら、それでも構わない。



「私」がなにを目指しているのはわからないし、その結果私がどうなるかわからないのも確かだ。


でも、その結果だって、どうでもいい。



何故なら、たった今、私は私自身を自覚したからだ。



もう、口に出さなくても、理解できる。




私は「私」のために存在しているのだ。



思い描けない未来も、持っていないビジョンも。



この不快感ですらも、「私」が望んだものだと、直感する。




「私」は、きっとなにかのために私を創り上げたのだろう。


私という存在を生み出すことで、何かを成そうとしたのだろう。



つまり、私という存在は、「私」が何かを成そうとした果てに生み出されたものなのだ。




そう気がついてしまえば、全てがどうでもよくなる。



私は『生み出された私自身』を自覚し、生きていけばいい。



私の役割は、ここまでだ。


もう何も悩まなくていい。

何も考えなくていい。




ただ、与えられた選択に身を任せ、生きればいい。


そうすれば「私」が私を運んでくれる。



「……見ているかな。」

私は空を見上げたまま、独り言ちる。




「大丈夫、見ている。」


ただただ雄大に広がる世界。

そして決して滅びることのない世界。



私は私を見つめる。


そこに在るだけの私を。

けれど無価値なんかではない私を。



私がそれを認知することは出来ないが、おそらくは大きく広がる空の果てから。




真っ直ぐに瞳を見据えたまま、私は筆を置き、万感の思いを込めて、たった一つの言の葉を贈ろう。



「ずっと一緒にいるよ。……私は、私のそばに。」


私の私に、伝わるように。

「今だけは、さようなら」と。

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私の私 御陵 詠 @yowai_yyyy

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