その12-新嘉殿の中へ

12.


 わたしは新嘉殿という母胎の中にいる「それ」をみた。「それ」を包む真っ白な御斎服は夕の光を纏って沈む日輪をその身に宿していた。「それ」は光に立つわたしたちに気がついてゆっくりと俯く顔をこちらに向けた。「それ」の眼は方向だけでいえばこちら側を見ていたが、その眼は実際はその表情の先にいるわたしたちではなく、ただ「それ」にだけみることをゆるされたものを見ていた。それは時間と空間の遥か果てにあるひとつの「流れ」だった。

「それ」は一切口をきくことはなかった。

 儀式の最中の変性意識状態からまだ戻ってきていないんですよ。通常、新嘗祭において、その儀式主体は黒酒と白酒と呼ばれるものを体内に取り込みますが、そのうち黒酒のほうが意識を変性状態へと開いていく最後の鍵の役割をしているんです。変性意識の鍵となるポイントは、この新嘗祭において他にもいくつかあって例えば前日に行う鎮魂の儀――これらはもともとは新嘗祭と連続して行う一体の儀式だったと言われています――のなかの真床追衾と呼ばれる掛け布団を被っての忌籠り、そして御魂鎮めのための宇気槽の儀と御魂振りなどがそうです。しかし、何よりも黒酒と並んで重要なのはこれです。儀式主体を変性意識状態に導く最大のトリガー、それはこの御神楽のサウンドに載った警蹕の声です。

 イシカワは人差し指で右耳をとんとんと二回指さした。

 構内に入ってだいぶ慣れてきたので、徐々に意識しなくなっていたが、その音は最初にこの皇居に入ったときから依然変わらずに流れ続けていた。

 この警蹕、じつは二段階あってまだこのバージョンは最初の段階なんです。この警蹕は特殊な倍音になっていて、その音声データは聴くものの聴覚作用の反応パターンを特別なものに変化させるのです。近年の研究で明らかにされていることですが、音声を聞くというのは実際は聴覚野という脳の特定部位が発火するというよりももっと脳全体がひとつのアルゴリズムを呼び出すということのようです。すなわちそれは一種の状態を作用させるので、聴覚野という空間的表現よりも、聴覚作用という運動的な表現のほうが正確です。いずれにせよ、儀式が半端なまま止まっていること、そしてこの警蹕が止まないという二つの要因のために陛下はいまだ反応パターンが通常に戻らず変性意識のままでその更新プログラムが作動し続けているのです。

 イシカワの声がさっき神殿のなかで死体を見せられたときのように遠く聴こえている。まるで水中で音を聴いているように不明瞭で、それでいながら身中の空洞にしつこく絡みついて離れないようにいつまで残り続ける。

 イシカワはわたしのほうに顔を向け笑った。そして、そこからイシカワはわたしに一気に説明をした。

 天皇というのは、つまり新嘗祭を行う儀式主体というのは世界という一定の時空間上のデータをアップデートすることによりプールする保存メディアなのです。

 逆からいえば新嘗祭のその本義とは天皇というひとつのハードウェアにおけるソフトウェアの更新プログラムなのです。

 世界とは、平たく夢も何もない言い方をしてしまえば、ある特定の時空間上物理データの総体です。

 人間とは、この時空間上物理データ、つまり世界データを視覚聴覚を始めとする五感という感覚器官で入力し脳というプロセッサで読み取り総合的にそれをひとつの電気信号パターンとして表現するプログラム処理です。

 一人の人間においてはその世界データの電気信号パターンという一瞬一瞬の脳内クロックタイム上の処理は時間経過とともにほとんどはエントロピーとして拡散し消えていくものです。

 この世界データである電気信号パターンの処理の一定期間の持続が大別して短期と長期に分けられ、いわゆる意識と記憶と呼ばれるものに近似していきます。

 少しややこしいですが、人間という系においては意識と記憶はコインの裏表のように同一のものすなわちデータ処理の持続なのです。

 意識という処理は記憶であり、記憶という処理は意識なのです。

 それらはいつでもエネルギーと質量が等価で、いつでも変換可能な関係にあるのです。

 この意識あるいは記憶という処理系には短期から長期に移行するためのサブシステムとしてさらに中期的なものを含め三つの系があることもわかっています。

 天皇というシステムはその意識として表現される世界データの処理という記憶を人工的な方法によって強制的にその脳内に過剰なまでに圧縮化して高品質の長期処理というかたちで保存し、大嘗祭という一台につき一度だけおこなわれるハードウェア交換のその際の初期化を伴う膨大なデータをリレーしていく、すなわち世界データの歴史データ化過程そのものといえるでしょう。

 どこかの右翼の人間がいうような天皇の歴史としての象徴性というのは伝統などという曖昧なものではなくきちんと生体情報学的に定義できるものです。

 さきほどもいったように、わたしたちは長期記憶のほかに世界データを比較的短いスパンで処理する意識として短期記憶という処理系をもっていますが、そのほかにその短期記憶処理をさらにネゲントロピーするための長期処理系化プロセスとしてつなげるために一時的なプールとしての処理系である中期記憶を持っています。

 これは高品質だがわずかな容量だけ処理しておける小脳の一箇所、そして逆に低品質でありながら大容量として処理できる大脳の海馬一箇所にそれぞれ処理が集中している短期記憶と長期記憶と性質が異なるものです。

 すなわち、中期記憶はどこか一箇所にプールされるのではなく、脳全体に組み合わせパターンとして保存されるのです。

 この組み合わせ保存法により脳は短期記憶と同程度の品質の記憶でありながら小脳の一箇所よりもはるかに大きなデータ量を保存できますが、代償に脳全体を作動させることにより保存するという方法のため、負担が大きいのです。

 通常の人間であれば、それは一年が限度で、それを過ぎればネゲントロピーの再エントロピー化すなわち組み合わせの解け現象が起こり低品質化していき通常の長期記憶になります。

 もし仮に解けがおきなければ、脳はデータ量の過重でその他の作動に影響が出てしまうはずです。

 もちろん、この脳の処理系は天皇という役目を担う人間主体にとっても同じです。

 我々が日々かしづく主体はなにも我々と異なる特別な身体を持っているわけではありません。

 すべては人為的なシステム介入によって一つの主体が特別に天皇というメディア化するのです。

 繰り返しますが、電気信号パターンである世界データの処理、すなわち世界認識は放っておくと中期記憶から通常長期記憶として、解けが起きたうえで低品質なものとして保存されてしまいます。

 しかし、天皇に求められる世界データは高品質なものでなければなりません。

 そのためには解けという自然な生体現象を防ぎ、人為的な処理方法でその保存に介入しなければなりません。

 そのための方法が次のようなものです。

 まず新嘗祭はその準備として、宇気槽、真床追衾、警蹕を用いて主体となる人間を変性意識状態におき脳内の処理モードを通常の短期、中期、長期の三つの処理系の硬性状態に介入して軟性化させ解き放っておき、中期記憶処理モードとして活性化させ読み出しておきます。

 そして黒酒という最後の変性意識状態の鍵を用い脳全体にさらに中期処理と重なるように海馬とはべつに圧縮保存されたこれまでの新嘗祭で高品質保存のうえハードウェアごとに受け継がれてきた天皇独自の長期処理記憶をさらに読み出します。

 こうして一時的にこれまでの2000年以上の超大容量の世界データ処理に最新一年分の世界データ処理を接合のうえ接合して、新たな超大容量世界データの処理パターンを作ります。

 この処理パターンはまだ圧縮化されておらずこの段階で変性意識状態を解くと脳はその負荷に耐え切れずに熱暴走を起こし重篤な障害を負うか最悪機能停止に陥るでしょう。

 このとき主体は2000年以上の超長時間の映画を恐ろしい速さで繰り返しみているようなものと推測されます。

 黒酒のつぎに口にする神饌はほとんどはかたちだけで、通常の食品と変わらないのですが、その一部には生物学研究所で特別に栽培した御供米を練り込んでおり、この御供米は伝統的な麻と古来より掛け合わされてきた一種の麻薬なのです。

 この御供米を練り込んだ神饌を主体は取り込むことによって、長期処理を保存する海馬一箇所に電圧的に零の場所を強制的に作ります。

 そうするといままで強制的に読みだされあふれ出しそうになっている大容量の電気信号処理パターンはその電位差によっていっきにその電気圧零状態のその海馬の一地点に流れ込み一気に収束します。

 結果としてこれまでの2000年以上の世界データ認識処理パターンと最新一年分の中期記憶としてプールされていた世界データ認識処理パターンの混合処理パターンは高品質圧縮のうえで保存することができます。

 案外あっさりしたものですが、これで新嘗祭新嘉殿の儀は終了です。

 天皇というメディアシステムはこれを毎年繰り返すことによって一人の人間の世界認識分の世界データ認識処理パターンを更新保存し一年ごとに継ぎ足すように継承しているのです。

いちおう一度だと失敗のリスクが高いので暁の儀と夕の儀というかたちで1340年分の二回に分けてこの更新プログラムはおこなわれているようですね。

「でも、それはひとりの人間のなかにだけ保存されるんですよね。その世界データ認識処理パターンというものは他の人と共有はできないんですよね。それじゃあその世界データというのも一人の人間が死んだら終わりで継承はできないのでは」

 良い質問ですね。

 新嘗祭というのは同じメディアのつまり同じ天皇のあいだで毎年による即位、いってしまえば同一ハードウェアにおけるソフトウェアの定期更新プログラムなのですが、その践祚のタイミングで一度だけ行う大嘗祭、どうもそれがハードウェアの更新の際データの移設を担っているようなんです。

 当然ハードウェア間における物理的な電気信号パターンの移動ですから、移動のための特別な物理メディアがいるはずなんですが、どうやらそれが天皇が渡御されていく品々であり、そのハードウェアのインストールを担っているのが大嘗祭のようなのです。

 ただ大嘗祭はその性質上ひとつのハードウェアにつき一度しか行われないのでいかんせん観察記録が不十分でまだ確たることがいえる段階にはないのです。

 いずれにせよ新嘗祭という更新プログラム、これに関してはかなり明確に明らかにされているのです。

 そして、イシカワは説明を締めくくるために、出来の悪い生徒をからかうように笑う。

 これで象徴という言葉の意味が少しはわかっていただけたでしょうか。

「イシカワさん、あなたはいったい何をしようとしているんだ」

 五十嵐さん、わたしはね、この国のエンジニアとしてこの優れたシステムそのものをメンテナンスのうえ、さらにアップデートしたいんですよ。

「アップデート……」

 ええ。たった一人の、いや、たったひとつの単一的なメインフレームの天皇から、分散した複数化のクラウド・コンピューティングとしての天皇へ。

 明日、一つの歴史が終わります。

 そして、複数の、解放された無数の歴史が始まります。

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