その8ー2020年に起こったことA

8.


 去年の7月、あなたたちの国をまさしく真っ二つに切り裂いた国民投票の結果が出ました。結果は改正案の承認。その賛成数は反対数に対してわずか6000ほどの差しかありませんでした。もちろん改正に有効な賛成数は2分の一ですから、それが一億の差だろうとわずか一票の差だろうと過半数を越えているので、それは可決承認です。その結果は中央選挙管理会からすぐに総務大臣を経由し第七次安倍内閣総理大臣へ、そして国民の名のもとによる天皇の手で公布されました。

 あなたたちメディアが報じた通り、2019年時点での世論調査においてはじつは反対に投じる人間のほうが、無回答もあるため半数を超えないものの、賛成の人間より多かったのです。2019年の時点でのその世論調査が、それまでのこの国の戦後というものに対するなんらかの明確な意思、というよりもたんにぎりぎりになって怖気づいただけの一時の気分だった。それはいまとなっては明白ですが、少なくとも2019年の時点ではそうでした。一昨年の暮れまでの世論調査では賛成のほうが上回っていたましたが、前年までは賛成のほうが多数でしたからこの2019年になっての逆転は改正案を提出した自民党にとっては相当衝撃だったようです。この2019年時点での調査はなんだかんだ国民投票といっても、近年のメディアを使った国防意識の底上げがある程度成功していた雰囲気があったので2分の一ならば辛くも越えられる、彼らのなかにはそういう願望めいた見方があったようですが、この世論調査は憲法改正はそんなに甘いものではないと、彼らの目を覚まさせることになったようです。

 結果として自民党、そしてその第七次安倍政権は改正に対するテコ入れとして、オリンピックへの祝賀ムードで世論調査の結果はお茶を濁しながら、いまとなってはどこまでが本気だったのかわかりませんが国防軍の憲法明記による対米自立路線を本格的に主張するようになりました。自民党はそれまでの北朝鮮等そして明示こそしていませんが中国という脅威を強調し、それに対する国産100%の防衛という言葉でそれを暗に匂わせてはいましたが、対米自立というはっきりした国名をだしての米軍依存からの脱却を明示するキャンペーンは、大きな衝撃とともに改正に対する大きな起爆剤となりました。これによりけっきょくのところ改正は従米政策の一貫ではないかと疑念視していた知識人をわずかばかりですが言質を得たという向きで、改正派に取り込むことに成功しました。

 もちろん、この対米自立キャンペーンに対して米国の反応をうかがいつつその実効性の程度を冷静に判断しなければならないという現実的なことを言う人間がいないわけでもありませんでした。しかし、この自民党の対米自立キャンペーンに米国は完全に沈黙でした。この米国の沈黙をあるひとりの右派系知識人は『黙認』というふうに好意的に解釈しました。これはいまとなっては国民の願望が反映されたものだったといっていいでしょう。冷静に考えれば、日米同盟につまり米国の外交戦略に関わる、この与党と政権の対米自立キャンペーンにただ米国が黙っているわけはないことなのは、明白です。黙っているなら、そこになにか思惑がないわけがありません。しかしそれでも、沈黙を『黙認』と解釈した。ここには間違いなくそうであってほしいという心理的欲求が冷たい国際政治の状況分析をゆがめるものがあったのだと思います。

 知識人だけではありません。この対米自立のための改憲というお題目に国民の多数の気持ちが傾き、そこにベッドしようと決意した国民がいるのは確実です。この対米自立のための改憲というのは、やはりたしかにこの国の人間の一部の核心に突き刺さるものがあったのです。ネット上に過ぎないことではありますが、これまで対立していた良心的な右派も左派もこの対米自立をよすがにわずかずつではありますが、和解や連帯がみられるようになりました。対米自立ための改憲、この言葉は静かにですがたしかに一つのムーブメントを作り出し、やがて一部で熱狂を呼ぶようになっていたのです。

 そして、誰が言い出したかいまとなってはわかりませんが、米国においても、この対米自立路線は水面下でも承認されている。日米安保の破棄も非公式なかたちでその予告は済んでおり、安倍政権並びに米国双方は改正後すぐにその発表をする用意がある。米国中枢もじつはかねてより「不公平な」日米同盟の軛を解き放って、東アジアの秩序は日本独自で維持してほしいという意向があった、などという、噂がネット上で広がりました。さすがに地上波のテレビ局や新聞メディア上での報道はなかったようですが、新潮や文春などの週刊誌と月刊誌では、このネット上の噂を追随するようなかたちでたびたび米国関係者と日本の中枢のあいだでの水面下の合意が存在するという記事が現れるようになっていました。そして、人々も胡散臭いなと思いつつ、どこかそういった話もない話ではないのではないかと、やはりどこか冷静に判断を徹しきることができずにいたのです。

 とにかく、ことここに至って翌年の2020年年始の世論調査で賛成は50パーセント越えには戻りました。ここにはこれまでの前年度までの世論調査によるなんとなくの賛成からより明白な賛成の国民の意思が感じられるものでした。そして、その世論調査の二週間後、改正案は国会に提出され憲法審査会に通されました。この改正案の国会提出で国民投票へのながれは一気に加速しました。憲法審査会は当初想定されていたよりも、改憲派も護憲派も国民投票に向けて、強引な印象を避けるためか以外にも与野党ともに形式的に議論を戦わせながらも思いのほか協調ムードで強行採決などは行われず、終始手続き的な面ばかりとこれまでの改憲派と護憲派の議論の確認と総括にとどまり、はっきりいってほとんど生産的な論争もなく、本会議に提出されました。そして、2020年三月春には参議院においても、改正案は可決。国民投票は約一三〇日後、すなわち7月4週目の日曜日におこなわれることで発議となりました。この時点ではまだ7月24日のオリンピック開会式の延期は予定されていなかったので、この7月の4週目は国民投票とオリンピックという二つのビッグイベントが重なった国民にとって『戦後もっとも重大な週』といわれていました。

 ここには政権の改憲による国外の反発、すなわち戦後の平和国家を危ぶむイメージとなりうる憲法改正の国家イメージを素早く平和の祭典である五輪開催ムードで火消しをしようというオリンピックの政治利用の意図が透けて見えましたが、皮肉なことにそのオリンピックと政治の近さは、護憲派テロリストたちにとっても同様で、オリンピックという対象はまもなく極左集団によって闘争の対象として、「平和のメディア」ではなく「テロリズムのメディア」となりました。6月の23区同時多発爆波事件を皮切りに、オリンピック関連施設はそのほとんどがなんらかの攻撃対象となり、せっかく過労死者まで出して超特急で建てていた新国立競技場も完成間近で闘争に巻き込まれ使用不可能になってしまいました。

 それでも小池百合子知事と安倍総理は草地でも開催する。それこそが暴力に対するオリンピックという平和の祭典という理念の戦いである。と、延期の上での開催にこだわりましたが、その後の結果はあなたも知っての通りです。唯一憲法審査会でもただ駄々っ子のように周囲にかみつくばかりだった共産党はこのような国が混乱している状況のなかの国民投票において真に国民の真意を問えるのか、そういった論陣を張りそもそも国民投票自体を中止に持ち込もうとしましたが、けっきょくそれは卵がさきか鶏がさきかという話ですし、国民自体もどっちにしろ憲法のカタがつくまでこの騒ぎが収まることはないのはわかっていましたから、ならいっそ早々に結果を進めてしまいたいというムードがありました。

 また、話は前後しますが、安倍政権の対米自立のための憲法改正というお題目にもっとも敏感に反応したのは当然ながら、日本国内において70パーセント以上もの土地割合を占める在日米軍基地を抱える沖縄でした。今回の政権の対米自立路線による憲法改正の猛風はとうぜん沖縄の民意を大きくゆさぶることになりました。

 もともと本土側政権との対立というようにわかりやすい構図を作ることに腐心していた左派系マスコミが報じるように沖縄はひとつではありません。むしろ、沖縄の民意はそういった本土側左派勢力によって攪乱され、その実態はかなり見えづらいものというのが本当のところだったのでしょう。そして、ここにきての政権の対米自立路線、それは何よりも沖縄の人たちには、本土以上に具体的な言葉に聴こえたはずでしょう。

 すなわち、在日米軍及びその基地の撤退です。こうなってくると沖縄の左派勢力は旗色が弱くなっていきます。ある意味では、これまで本土の政権は、そして右派勢力は改憲でありながら従米路線、左派は護憲でありながら反米路線――重要なのはこれがなぜかどちらも対米自立自衛論というふうに積極的に唱えられなかったということであります――というどちらも現実的妥協策というよりもイデオロギッシュに過ぎないねじれた路線だったからです。しかし、ここで政権側が対米自立のための改憲を打ち出すことで、理想はどうあれ少なくともその主張に関しては一貫して筋の通るものになりました。

 こうなると、ここ数年ぼんやりとではありますが、各自治体の地方選挙でプレゼンスが現れてきた沖縄の中道右派層というマジョリティが本土と同じだけはっきりしてきます。そしてこれに対して沖縄左派勢力も対抗して鮮明に自衛隊容認の護憲から自衛隊廃止の強い護憲への主張を鮮明に打ち出してきます。しかし、その強い護憲へついていけなくなる層は当然あらわれて、結果的にそのような「転向」の人たちは中道という微温的なマジョリティに帰還し、かつて本土のメディアから沖縄の民意の表象として祀り上げられていたオール沖縄という政治運動はこれまでの弱体化にも増してほとんどとどめをさされたといわざるを得ないほどになってしまいました。

正直にいって、ここまでは政権の立ち回りはそう下手なものではなくむしろうまくやっていたように思います。沖縄の若い世代の人たちが対米自立という条件のもと保守化していくことに対して、焦った左派勢力は彼ら新世代と対抗するかのように、どんどん先鋭化を強め極左化しとうとう本土のオリンピックを象徴化して闘争を始めていた組織とSNS上で接近を始めて、それがまたさらなる過激化としてとらえられました。しかし、意外にも安倍政権の対応は冷静でテロ行為に対して、終始その残虐性と暴力性を強くアピールし、あくまで粛々と犯罪行為として警察力で対応しました。一部の国際メディアからはオリンピックは選手や観光客の安全のため中止すべきという声があがっていましたが、この対応には国際社会からも非常に冷静なものだと一定の評価を得ることができました。そしてそのような国際社会の評価は、体制側からの民衆への弾圧という極左集団によるイメージ戦略に対する国内中道マジョリティの防波堤となりました。蓋をあけてみれば、国民投票前最後の7月頭の世論調査では、安倍政権と与党自民党は改正賛成単独で60パーセント以上の支持をあつめることができたのでした。

 こうして、7月20日、海の日、国民投票は行われました。

 結果はさっき述べた通りです。

 そして、その改正の速報が出たほんとうにわずか一時間後、憲法とは無関係な新しいニュース速報がひとつ流れました。

あの2020年でこの国にとってもっとも不幸だったのは、情勢が急変したのが、国民投票のその結果が出た直後だったということです。どうせすべてが茶番だったならもうすこしはやく、せめて投票のほんのわずかより前にわかっていたなら、あるいはここまでひどいことにはならなかったとわたしは思います。

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