その6ー国防軍陸上幕僚幹部防衛計画課三船哲二等陸佐

6.




 丁寧に並べ置かれた塩化ビニールの遺体袋は、暖房器具のない神殿のなかでは外に置かれているのと変わりなく、触れると外気にさらされたその表面が指先を滑っていった。かがんで四角い袋のジッパーを少しおろすと、モーニング姿の遺体を確認することができた。袋には男の宮号と名前が油性マジックで記されていた。男には姓はなく名前だけがあった。わたしは遺体の表情を確認するとゆっくりとジッパーをあげて袋を整えた。目は閉じられていた。「わたしたちはべつに皇族方や政府閣僚たちを無差別に殺したくて行動を起こしたわけではありません。もちろん、かつての上司ともいうべき文民たちには日頃思うところがなかったわけではありませんが、それでも彼らの殺害、それ自体はあくまで手段と選択であり、けっして目的ではありませんでした」


 三船は落ち着いた声でわたしに説明する。わたしは立ち上がりこの神殿に整列されて並べられた遺体袋を一瞥してその数を目で数える。一つ、二つ、三つ、数多くの袋がそこに並べられていた。たくさんの死体を前にして三船の声を聴くと、どうしても意識はそこに集中してしまい、その声はどこか遠いところにいる誰かが話しているような気がしてしまう。


「すべては意思表示と効率化のためです」


 三船の言葉を引き継いで、イシカワは言った。無数の死体をまえにさすがに慎みを感じているのか、それともこの神殿という聖なる場所がそうさせるのか、珍しくイシカワの表情は冷厳として、そこに緩んだ笑顔はなかった。


「我々が占拠したのはある意味では政治や経済といった実体的な社会のそのさらに下層に基盤となってある文化というものの中心である天皇家のおわします皇居であり、拘束したのは大げさな言い方でなく、日本『政府』でもなく、近代以来の日本『国家』でもなく、ただ『日本』という存在にとってもっとも重要な存在です。そしてそういう意味では、この人質は拘束主体である我々日本人自身にとってある意味では矛盾した対象といえます」


 三船とイシカワはまるでコーラスのようにかわるがわる話す。それはまるで個人を越えた意思とでもいうかのように。


――我々がたとえば外国人、あるいは既存の国家の外部を志向する左翼的革命家集団なら話はわかりやすいのですが。つまり、通常の場合人質というのは拘束対象と拘束主体が分かれている。


――しかし、今回の場合それはとても曖昧なところにある。それはいってしまえば、天皇は我々にとっても『象徴』ということだからです。殺害の想定ということが定義上外せない与件となる人質という存在は自分たちにとってもその実行の決断が困難な巨大な対象を取りうるだろうか。もってまわった言い方ですか、つまり松永さんがいったように、我々に人質を、つまり天皇を殺す覚悟がほんとうにあるのか。これはそういう問題です。


――ここに置かせていただくことになった彼らは、その覚悟を外部にそして我々自身にとって示すことであり、それがこの場合の手段であり選択です。ここの死体は我々のもっとも強力で暴力的手段を実行に移すことをいっさい辞さないという意思とその表示です。ですので、放送に際してはこの神殿内部の様子も報じていただきます。


 しかし、ここには総理と衆議院参議院議長、最高裁判所長官がいませんね。


 わたしは口を挟んだ。


――その四名に関しましては、反対側の皇霊殿にて生かしたうえで拘束しています。我々の人質の本丸は天皇ですが、彼らにはそのバックアップとしての役割を担わせることにしました。


――我々の覚悟はこの神殿によって示されている。そういう意味では、今の状態が継続されるなら、もう我々はこれ以上誰かを殺す必要はありません。松永さんもあのような状況でなければほんとうはまったく殺す必要はなかったし、そのつもりもなかったんです。


 残念です。イシカワは表情を変えずにいった。






 横の御門口を担当の見張り番の隊員に開けてもらい再び渡り廊下を通って賢所に戻ると、三船は握舎でこんごの詳しい打ち合わせをしたいのでついてきてくれといった。わたしは頷いて、イシカワに続いて再び正面の階段から賢所前庭に出た。


 最初、わたしはコートの内ポケットで振動するそれを無視しようとした。しかし、それはしつこくなり続け、すぐにそれは三船とイシカワの知れるところとなった。三船もイシカワも立ち止まってただみつめ、わたしがなにかをいうのを待った。わたしは歩みを止めるといよいよ観念した。アイフォーンをイシカワにわたすために、コートの内側に手を伸ばして、弄ったその手でバイブレーションを止めようとした。電話が鳴ったのだ。


 これでいよいよ外部との連絡は完全に断たれる。もとより隠れて通話する余裕などないことはわかっていたが、それでもわたしはお守りのようにそれをいみじくもっていたかった。しかたがない。おそかれはやかれ、通信端末は没収されるだろうとは思っていたが、そのタイミングが来たのだ。わたしは自分に言い聞かせた。しかし、三船はわたしに予想外なことをいった。


「あの、出ないんですか?」


「え、出ていいんですか」


 三船の表情は真顔だった。それは目の前の人間がごく自然にするはずの行為を行なわなかったときに人がみせる無邪気な表情だった。三船はわたしの反問に許容する笑顔をみせて言った。


「ええ、もちろんですよ。我々は五十嵐さんに対してできるだけなにかを強制したり、拘束したりといったことは極力避けるつもりです。わたしたちはあなたのことは人質ではなく、協力をいただける限りにおいてはお客くらいには考えているのです。なんでしたら、関係者の方たちから定期的に報告をお願いされているようでしたら、してもらってもかまいません」


「いいんですか。ここの場所を伝えたり、あなたたちグループが何人で構成されているかとか、そういうことも話していいということですか。それは非協力にはならないんですか」


「ええ。いまのところ伝わっても大丈夫なものしかお伝えしてませんし、仮に向こうの関係者がなにを知ろうとどのみちたいした動きはとれないでしょうから」


 そうだとしても、ずいぶん大胆な態度だ。この「拠点」の配置やどれだけの人員がグループの実体として存在するのか。そういうことが伝わることは三船たちの「作戦」にとって不利になるということはないのだろうか。


 いや、三船がいうようにおそらくそれはどれだけ状況を分析しようと、うかつにここには踏み込めないし、その勇気もないだろうという判断があるのだろう。いま捕らえられている人質は過去のどんな人質よりも慎重にことを運ばなければならない巨大な存在なのだ。


 そういえば松永はそもそも「拠点」の場所や人員のおおよその見立てはすでに衛星上で把握しているといっていた。しかし、それでもなおいまもこう着のこの状態が続いていることはたしかに三船のその判断がおおきく外れていないことを意味しているのだろう。


 もっとも、総理ふくめ官房長官や防衛大臣などのほとんどの閣僚がいないいまとなっては、指揮系統やらひとつひとつの責任やらがめちゃくちゃに乱れ飛んで、まともに対策は機能していないという可能性もおおいにありそうだが。そういえば松永はどこかの特別にたてられた委員会が指揮を執っていると言っていたっけ。


 それでは、少し失礼して。わたしは三船とイシカワに断って、できるだけ会話が聴こえないように社殿の陰に隠れた。


 着信のバイブレーションはしつこく鳴動を続けている。


「あ、室長ですか! いまどこですか。なにやってんすか。きょうは午後からの総務省のプレスリリースあるから庁舎のほうに直接来てくださいっていったじゃないですか」


 開口一番、若い人間特有の早口が聴こえてきた。着信の主は後輩の局員の小口宏明だった。警察でも行政の人間でもまして局長たちですらなかった。


 わたしは電話の向こうで話している後輩と自分と現実の落差に奇妙なおかしさを感じた。


「もしかして、寝てたんですか。それじゃあ、昨日の夜送っておいた発表資料も読んでないですか」


 資料なら読んでいた。小口が送ってくれた資料は会見に参加するメディア各社に総務省から事前に配布されたプレスリリースだった。資料は5G通信を用いた新たな行政事業にかかわるもので、途中で局長に呼ばれ、細かく読み込めていなかったが、たしか総務省と財務省の共管でNTTドコモと共同財政投融資によって既存の情報通信研究機構とべつに5G関連を筆頭とする移動通信網整備と専門的技術及びサービス開発を同時におこなうため新たな国立研究中期目標管理法人を立てるとかそういった趣旨のものだった。


 5G自体はすでに国内の通信キャリアであるKDDIやソフトバンクなどの各社がそのサービスを実用化し、すでに既存技術となって久しかった。こと5Gに関していえば、放送業界の人間にとっても、とりわけ我々NHKの情報システム局が放送技術への利用にたいして並々ならぬ熱意と受信料を注いでいて、その技術開発は他局の追随を許さないほどだった。結果としてそのフィードバックは自分たちの職場環境に少なからぬ変化をもたらしていたので、なじみのない話題ではなかった。


「小口、いますぐ局に戻れ。その会見はもういい。おそらく中止がまもなく発表されると思う」


 総務大臣がいないいまとなっては総務省も会見どころではないだろう。それでも、いまだ記者クラブのほうに直前になっても会見の中止ひとつ伝わっていないところをみると霞が関の混乱ぶりがうかがえるようだった。


「はい? 何言ってるんですか」


 お前が待っている総務省のボスはいま自分の隣の部屋で死体袋に包まれて眠っているよ。そういえば小口はどんなに驚くだろうか。


「それから局に戻ったら、大至急調べてほしいことがある。去年の墨田区の爆弾騒ぎのとき、お前、俺と一緒に江戸東京博物館に詰めてたろ」


 わたしは離れている三船やイシカワに聴かれないように、声のトーンを落とした。


「そんときにな。おれはたしかある人物に現地取材をかけてるはずなんだ。そいつのインタビュー記録を調べてほしい」


「はあ、ある人物ですか。誰ですか」


 小口は総務省の話からわたしの話にすぐにシフトしたようだった。あまりながながと説明したくもなかったので、素早く切り替えてくれてありがたかった。


「イシカワリョウという男だ。プロゴルファーと同じ」


「そんな名前だけ言われても。あのとき現場は凄い騒ぎだったから連絡先はおろか名前すら聞けてない人なんてザラでしたからね」


「写真はあとで送る。それから画像検索くらいでいいからできるだけこの男について調べられるだけ調べておいてくれ」


「良いっすけど、新規案件ですか。ある程度社会的に著名な人物なら、キーワード検索でもすれば」


「まあ、そんなところだ。アイフォーンでキーワード検索をかけてみてもおそらく、同名の人物が圧倒的に有名だからそっちばかりで引っかからないんだ。画像検索も相当な有名人でかなりの数の画像がウェブ上になければアルゴリズムに引っかからない」


 通常、グーグルなどで用いられる画像検索というものは、検索エンジンが与えられた検索対象画像──クエリというらしいが──を眺めてそこになんらかの対象を同定して同じものを表示しているわけではない。あくまでそれは類似画像検索ではあり、人間が特定の何かとべつの何かを「意味」というもので同定するのとまったくべつのプロセスだ。


「それじゃあ、調べようもないじゃないですか」


 類似画像検索はあくまで一つの画像を「意味」ではなくデータベースとして処理する。すなわち、そこに「何が写っているか」ではなくカラーヒストグラムやテクスチャ、形状などの位置情報といった「いかなる数値データで構成されているか」を問題とする。つまり正確にいえば、類似画像検索で検索される画像は同じ対象物が写った画像ではなく、同じ数値をもった画像が検索される。「類似」とはそういう意味だ。いま一般に使われている画像検索システムでは検索をかけた画像データにもっとも近似値が取れた画像を表示してくれるが、それは同じ「意味」を持つ対象物にはほとんどの場合ならない。


「そうかもしれん。でも、アーカイブルームにある専用の端末のスペックならなにか探せるかもしれん」


「ああ、あれならGPU積んでるから、有料契約のハイエンド画像検索機能が使えますからね」


 ハイエンド画像検索機能というのは別名高度抽象イメージ生成検索機能と呼ばれ、ちょうど二年くらい前からIBMがグーグルに対抗して企業向けに開発したディープラーニングをアルゴリズムとして実装したハイエンド検索エンジンシステムのひとつだった。最初に社内研修で若い局員からきいたときは普通の画像検索となにが違うのかよくわからないが、使い始めてみるとなんとなくその仕組みがわかりかけてきた。


「グーグルの画像検索アルゴリズムじゃあ、『同じかほとんど同じ写真』を探すのには有効なくらいだが、しかし被写体が同じというくらいの類似性じゃ見当違いのものまで集めてしまってけっきょく意味がないからな」


「その点ハイエンド画像検索機能なら類似点を学習させていくことで、ひとつの確度の高い抽象情報仮想イメージで検索することができるから。少数の検索結果しかない対象でも有効ですね」


 ハイエンド画像検索機能でも、類似画像検索機能と同じでクエリにかけた画像と近似したデータを持つ画像群を検索してくる。ここまでなら、何も変わらないが、ハイエンド画像検索機能はそこで検索結果自身を自動で再びクエリとして再検索にかける。そして再び検索結果を出すというフィードバック構造になっている。


「そういうことだ。ただそれをやるにはGPUを積んでないといけないから、おれのスマフォじゃきつくてな」


 こうすることにより、検索機能自体が検索したい人間の対象物自身を仮想イメージとして学習する。そうして機能自体が一つの抽象情報対象を作り上げ検索対象を「データ」ではなく「意味」として作り上げていくことにより通常の画像検索よりはるかに確度の高い同じ「意味」をもった対象画像を探し出すことができるのだ。


「ああ、でも、ドコモのGLASS2ならできるらしいっすよ」


 最近では、このIBMのハイエンド画像検索機能は警察にも提供され、フォトショップ上で作成したモンタージュ画像と合わせて強力な捜査手段の一つになっているのだという。


「悪いけど、おれはまだスマフォユーザーなんでね」


「いい加減にその『ガラパゴス』買い替えてくださいよ。あと、毎回いってますけど、そろそろ自宅に戻ってくださいよ。いまでも週の半分は泊まりって、局長にキレられますよ。ただでさえ奥さんややこしい人なんだから」


 わたしは、用件を伝えることができたので、そのまま切ることにした。妻はまた局のほうに電話したのだろうか。プライベートのことだから、せめて直接自分にかけてくれればいいのだが。おそらく、局に直接かけるほうがわたしの迷惑になることをわかっていてかけているのだろう。


 しかし、小口がわざわざかけてきてくれたのは本当に幸いだった。彼がかけてこなければ、自分から外部に連絡をしようという気にはならなっただろう。行政のほうも、ましてや局長たちのほうもかけてくるつもりはどうやらないようなので、小口がかけてこなければ外部とのコンタクトは一切なかったろう。


 小口は小言ばかりで、うるさいところがあるやつだが、優秀な人間だ。ほかの局の連中に頼むよりよっぽど信頼できる。このわけのわからないタイミングでかけてきたのも、もしかしたら記者としての直観に近い才能が関係しているのかもしれない。局長たちには、こんかいの件は自分たちの許可があるまで他言無用といわれていたが、もしいまの状況を局のうちで誰か一人だけつたえるなら小口に伝えてよいかもしれない。小口は去年の爆弾騒ぎのときはまだ新人扱いで伝送車で下働きをさせられていたが、今年に入って映像センターの人員削減に伴う異動のときに、局長に頼んで社会部記者として連れてきたのだった。


「総務省の記者会見ですか。情報仮想新国土化構想のための事業体の設立事案ですね。ちょうど本日発表のはずだったとわたしも聞いていましたからね」


 とイシカワは、二人のもとに小走りで駆け寄って戻ってきたわたしにそう話しかけた。「まあ、それも当分は後回しかもしれませんが」イシカワは最後にそう付け加えた。


 わざわざ身を隠したうえに小さな声で話していたはずだが、どうやら聞き耳をたてられていたらしい。距離があったので、筒抜けというほどではないと思うが、小口へのイシカワについて調べろという話まで聞かれていたらバツが悪い。わたしはできるだけ気をそらすようにイシカワの話にのった。


「イシカワさんはNTTでしたね。なにかお聞きになっているんですか」


「ええ。三船陸佐についてきた隊士がなんにんかいるように、自分にもついてきてくれた職員がじつは数名いましてね。そのなかにドコモの横須賀研究所に今年一年出向していたものがいまして、彼経由でいろいろ情報が入ってくるんですよ」


 イシカワ以外にも民間の人間はいるらしい。この拠点には、三船とイシカワ以外ではいまのところ最初に門で見かけた二人の門兵とさっきこの賢所で神殿と皇霊殿双方の御門口を守っている二人しか見ていない。拠点というからには、敷地内の他の場所で役割をこなしているメンバーもいるのだろうが、じっさいのところ集団の総数というのはいまいち判然としない。しかし、人質という最強のカードで手出しは一切できないことを考えると、いま確認している小人数でさえ作戦は成り立っているようだ。それがどこか不思議な感じがしてならない。


「五十嵐さんが確認しているほど少人数というわけではないんですよ」


 イシカワはこちらの考えていることを察していった。ブラフかもしれないが。しかし、三船も付け足すように、「敷地外も含めたらけっこうな数かもしれませんね」と言った。「やはり計画課の伊東さんに早いうちに相談してよかった」おそらく、その伊東という男もコアメンバーのひとりなのだろう。わたしは松永が行動グループはあらゆるパイプの協力者がいるのだろうと話していたことを思い出した。


「情報仮想新国土化構想ですが」


 イシカワは話題を戻して言った。


「じつは1980年代の終わりごろから、総務省とNTTの研究者のなかで計画自体はあったそうなんですよ。そのころは国内の不動産バブルがぐんぐんぐんぐん伸びていたころで、もともとは通信技術の発達によってみこまれるコミュニケーションそれ自体をオフィスやテナントといった商業ベースの空間とみなして、それをさらに投機の対象として扱おうとしたのがその始めだそうです。列島改造論ならぬ電子における列島創造論ですね。じったいはいまから考えればお粗末な話なんですが、ファミコンのRPGみたいなフィールドをチャット空間にして、それをみんなで買ったり売ったりするようなものだったようです。まあ、バブルの頃になんでも投資の対象にできると思い込んだどこかの証券マンと広告会社のアイデアだったようですけど、売買自体は考えられたよりも伸びずけっきょく90年代の中ごろに入ってバブル経済の崩壊でストップしたんだそうです。ただ、経済が弾けても幸いに一部の研究者が新しいソフトウェア・ワールドというSF的な夢は捨てきれなかったようで、その後のCG技術の発達、そして今日のVR技術の進展にあわせて細々とスタンドアロンな仮想世界というのは作られ続けていたんです。そしていよいよ彼らの地道な研究もついには5Gとともにいよいよ花開くことになったというわけです」


 数年前からゲーム産業を皮切りに、現れてきたVR市場もいまや物珍しい見世物から、すっかり実用的な産業技術として定着した感がある。人口は減り続けているものの、それ以上に流入してくる外国人労働者と観光客によって増え続ける人口密度の増大への対策として進められていたが、ここにきて大々的なインフラ整備がおこなわれるという噂は事実だったらしい。


 現在でも、イシカワが言ったような民間企業が活用しているVRオフィス、移動困難な高齢者のための市町村レベルでの地方自治体によるVRパブリックスペースなど、仮想空間はいまや異世界や宇宙空間のモデルが代表していたようなレジャー、エンタテイメント志向のものから実生活に根差した文字通りの人々が交流する場としてかなりの数が存在する。五輪自体が中止になったのでけっきょくおこなわれることはなかったが、パラリンピックの一種目として仮想競技場での陸上競技も本来であればおこなわれるはずだった。


 寝室としての仮想個人空間から社会としての仮想共空間へ。きのう小口に送ってもらった総務省の資料にはそんなキャッチコピーが躍っていたのをわたしは思い出した。情報仮想新国土化計画もそんな時代の流れに乗った5Gを用いた国家レベルでは初の仮想共空間サービスということらしい。


「これまでのモニター上のグラッフィクス・ワールド、そしてVR世界は、それぞれ描画技術やそのほかのセンシング装置の発展で『世界』それじたいの精度を上げていくことに注力していたんですが、いかんせんそのぶんそのデータ量は上がる一方でとくにVRなどは開発の初期段階においては大学などの高性能なメインフレーム、それから開発が一気に進んだ2016年においても軽くても本格的なものはせいぜいがグラフィックボードなどを大量に積んでハイエンド化させたデスクトップPCくらいでようやく描画処理をこなせていたくらいです。つまり、それらソフトウェア・ワールドというのは、あくまで従来はスタンドアロンな環境でのみ成立する、それぞれ『バラバラな単一的世界』でしかありませんでした。当然、そのスタンドアロンな『世界』を共有することも、まして通信にのせることも見込めるものではありませんでした。しかし、すこし話が前後しますが2010年代ごろにはそういった分野とはまたべつの潮流として、携帯電話がフィーチャーフォンからようやくスマートフォンやタブレット端末などの移動通信体のスマート化が進んでいました。移動通信体のスマート化は当初の予想よりもさらに速い形で進行し、10年代の後半には、あっというまにマイクロPCとスペックとしては遜色のないものに追いつき、そして最後の年にはスタンダードなデスクトップPCほどのものにまでなりました。そして重要なことですが、このスマート化という移動通信体の高機能化は同時にその移動体通信システムの発達を領導していきました。この移動通信体の高機能化と並行して進んだ移動体通信システム、このふたつこそが『相互林立する複数の世界』という仮想共空間概念の鍵になります。人々はショルダーフォンの1Gからのポケベルの2G、そしてiモードとしての3GからそしてLTEを経由して4Gへとじょじょにそれぞれの小さな端末のなかの『世界』をスマート化でじょじょに言葉とは裏腹に拡大していく一方でその交易もまた回線が太くなるにつれ増大化していったのです。もちろん、従来の通信端末では、個人個人がアプリを所有するくらいでまだまだ『世界』などというものを所有するほどの高機能化には到達していませんでしたし、既存の無線通信システムの速度では、4Gとなってもいまだデータ容量と見当ったものになっておらず、VR通信という概念すら想定されたものではありませんでした。しかし、昨年2020年にサービスを開始した第5世代無線通信システムでは、「空間経験の共有」ということを念頭に置いた開発がなされているのです。そして、いまちょうど今年の年明けにドコモが各社から皮切りにリリースして、いまや移動通信体通信ユーザーのアーリーマジョリティの壁を越えた『市民』は、小型情報端末としてはVR世界を単独で描画できるほどの、つまり個人の『世界』を文字通り構築できるほどのものへ圧倒的なハイエンド化をケータイからスマフォの切り替え以上の質で達成しました。これはまだぎりぎりアプリの集合という『私有地』にとどまっていたものから、文字通りより『共有地』に近づいたものになったといえます。この現世代型つまり第5世代無線通信システムと現今の移動体通信機はいよいよ「空間経験の共有」実現を可能にしています。それはもはや『情報地域』と呼ぶにふさわしいものです。総務省が進めているのは、このデジタル上の個人が所有する『世界』に各国民が所有するマイナンバーを共通プロトコルのためのとして国家規模のクラウド・コンピューティングを実現し新しい『国土』を創生しようとしているのです」


 横で聞いていた三船もあまりこの手の話には乗ってこないかと思ったが、意外にも提供できる話題を持っていたらしい。三船は口を挟んだ。


「じつはその話、国土防衛にも似たような話があるんですよ。わたしは一時期中央情報部隊に身を置いたことがあるのですが、そのときに背広の人間たちが話していたのが、沿岸部の警備をそういう仮想国土として情報空間上に再現するというもので、それを兵士たちに防衛させるイメージング・ディフェンス計画というのがありました。たしか米国ではグーグルマップを利用した作戦というのが存在するとききつけたある市ヶ谷の背広が言い出したはずです。そのときは予算の関係でなかなか進まなかったのですが、去年になって再び計画の再始動が進められているとかつての部隊の同僚に聞きました。もしかしたら、それと無関係ではないかもしれませんね」


「はあ、仮想空間の国土防衛ですか。それはサイバー攻撃に対する防衛ということですか」


「いえ、それが実体としての国土を仮想空間上で防衛するということらしいのです。」


「よくわかりませんね。どれだけコンピュータ上のシステムをハッカーから守っても実際に対馬やら竹島とか尖閣を実際に存在する隣国の軍隊が攻めてきたら意味がないでしょう。VRで作戦訓練とかそういう話ですか。それはもうべつに珍しい話じゃ……」


「いえ、そういうことではないのです。つまり、仮想空間上に再現したそれらの国土を完全に実際の国土上のデータとリンクさせるということなんだとか」


「どういうことですか」


「つまり、IoT化されたロボティクス兵器を仮想空間上の兵士と完全にリンクさせるのですよ」


「あ、なるほどそういうことですね。たしかにそれなら仮想空間上での国土防衛も成り立つ」


 そう膝を打ったのはわたしではなく、イシカワだった。


「ええ。じっさいに兵士を戦場に送り込まない分かえって倫理的ではないかというのが防衛省での主流な意見でして、おそらくこれは数年来に実現されるじゃないでしょうか。じっさい、ドローンを使った自動国土防衛システムはげんにいま作動しています。完全リンクした人型タイプのもの配備目標は北方領土における防衛作戦の展開らしいですが……」


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