その3-銃声と警蹕A

3.


 さて、それでは。イシカワがそういって背を向けて歩き出そうとした瞬間、わたしは背後から猛烈な衝撃を感じてしりもちをついて転がっていた。うしろの松永の猛烈な前進に押されて転んでしまったのである。わたしが手をついて顔をあげたときにはすでに松永はイシカワの背中にぴったりと張り付いていた。

 イシカワは松永に強く背中に押し付けられたものが腰に入ったのか、小さく、「あ、痛い」とまるでかわいい蜜蜂にすこし刺されたくらいの大げささであくまで飄々と言った。さきほどまで、おおきく太陽を覆っていた雲が晴れ、また日光がさしてきた。 二人の男の間のその暗い金属の針が光を受けて反射した。

「おやおや、ちょっと予想外の展開ですね。こんなにはやく実力行使でくるとは考えていなかった」

 まるで恋人のように二人の男は密着していた。

「いいんですかね。なにはともあれこっちには常識的に考えて我が国で最も重要で最大の人間を確保しているのです。ある意味では我が国の国民ぜんいんに匹敵するくらいのです」

 松永は応えを返すかどうかしばらく黙考していたが、銃把を強く握り締めることでそれを自分に許可したようだった。松永はようやくイシカワの言葉に応えて言った。

「あまりに大きな人質はかえって、人質を取る側にも重荷になるのではないでしょうか」

 イシカワの顔は松永の背中に隠れてこちらからは見えない。ただ明るい日光はイシカワの側にあり、向き合った陽射しがその表情を照らしていることだけがわかる。

「どういう意味ですか」

 声の調子にはゆったりとした余裕がある。

「端的に、あなたたちに人質を殺す覚悟がほんとうにあるのでしょうか」

 松永は一切無表情でいつなんどきその針を背中に撃ち込めるように、僅かに身を低くして前のめりに身体を覆っていた。イシカワの軽口とは打って変わって、瞬きひとつせず引鉄を弾くタイミングを逃すまいとしている松永の声が聴こえる。松永の声は切迫していた。余裕がない。松永はその切迫した声で言った。

「つまり、天皇を。今上陛下をです」

「なるほど。しかし、それはあなたたちも同じでしょう。たしかに、わたしたちにほんとうに陛下を殺す気があるとはあなたたちには信じられないのかもしれない。しかし、あるかないかわからない状況で、性急にもないに賭けて踏み込もうとするあなたたちの態度、それはわたしたちがわたしたちの戴いている人質をまさか殺すはずはない、いや、殺すような人間など想定したくない。そのあなたたちの読みはある種の願望にもとづいた色眼鏡のようだ」

「あなたたちに本当に殺す覚悟があるんですか。それともないんですか」

「陛下だけでは、ありませんよ。ある意味では、陛下よりももっと実体的にこの国を表に裏に動かす仕組みである。行政、立法、司法、という三権の長まで、こちらは預かっているんです。それらが一日のうえで消え去ったら、とうぜん混乱どころの騒ぎではないのは必至でしょう」

「システムの人間などいくらでも替えがききます。しかし陛下という存在はただ一人です」

 イシカワはそこで微笑んだ。表情はみえないが、わたしにはそんな気がした。それは嘲笑いではなく、松永に対する穏やかな敬意を示す恭しいものだった。イシカワは言う。

「その通りです。陛下という万世一系の存在はただ一人、唯一。天皇という機関はそういうシステムをとっている。あなたはそれがどういう意味か本当に考えたことがありますか」

「どういう意味ですか」

「言葉どおりの意味です」

 それから、すこし沈黙が続いた。

 次に口を開いたのは、イシカワのほうだった。

「あそこの稲はかわらずに研究が続けられているんですね」

 それは、わたしがさっきここに来るときに松永に尋ねたいまだ11月の終わりになっても刈り取られず放置されているあの稲のことだった。

「なんのことでしょうか。わたしは正直この研究所のことはあまりきかされていないんですよ」松永はさきほどまでといっさい同じ調子で応えるように務めた。

 しかし、そこにはわずかに相手に優位に立たれたことに対する苛立ちが滲んでいた。知らないことは、いや知らされていないことは知らないと素直に認めて虚勢を張るつもりはない、しかしはそういう態度こそが虚勢であることをイシカワは熟知しているようだ。

 一介の民間人に過ぎないはずであるイシカワには、公家の松永よりもわかっていることがある。松永もそれを認めた。

「あなたにはわたしたち職員よりも知っていることがあるようだ。ですが、いまはそれはどうでもいいことです。そんなことを聞かせていただくまえにまずはあなたに陛下の場所に案内していただかなければ」

「だから、こんなかたちをとらなくても、さっきから三船陸佐のところへお連れしようとしていたんですがね」

「あなたがわたしを案内するのは陛下のましますところです。野蛮な制服姿の武官のところなどはけっこうです。直接陛下のところまで連れていってください。もちろん、あなたたちの陸佐などにその旨の連絡など不要です」

「ふつうに考えて、陛下をおひとりにしておくわけがないでしょう。本行動の最重要事項なのですから、むしろ首謀者である陸佐じきじきにお側にいると考えられる」

「仮にそうだとしても、ピンポイントで拘束されている建造物がどこか明らかになれば、急襲のうえ排除することが可能です。我々も奪還の余地がまったくないわけではないんです」

「あなたひとりで、ですか。ここの隣の吹上署護衛所の職員は全員退去していただくよう指示させていただいたはずですが」

「ええ、存じております。署の総員のうち一部は枢密院の本部の対策室につめてもらっていますが、それ以外は敷地外の自宅で待機させていますよ。ただ敷地内は構造上隠れるところもたくさんありましてね」

「ひとりでも敷地内で発見されれば、拘束中の人間に危害が及ぶ可能性がありますよ」

「ええ、発見されればね。ただあなたたちと同じように彼らもプロですし、あなたたちのグループはじつはこの広い敷地内を拠点の人員を減らしてまで掃討するだけの数はいないのではないですか。隠れ鬼ごっこをやるにはここは鬼にとって広すぎるということです」

「そうですか、わかりました。あなたたちもようやくリスクを取るということを学んだようですね」

「さあ、申し訳ありませんが、はやくご案内いただけないでしょうか」

 それからイシカワはおおよそ一分間ただ前を見据えて抵抗の素振りどころかわずかな動きすら見せなかった。松永もイシカワの次の一手に神経を研ぎ澄ませ、あらゆる状況に応じるために、微動だにしなかった。二つの動かない彫像がこの皇居の内にあった。

 二人はまるで呼吸をすることも忘れたようで、ほかに口を開くものはなく、木々の向こうから聴こえる周囲の生物相の音がその静寂を証明する。その証明をさらに裏付けるように大きく重なっていく音。それは聴こえてくる御神楽とこの聖なる土地の呻きのような警蹕だった。さきにしびれを切らしたのは松永のほうだった。「あの……」

 しかし、イシカワは松永の苛立ちを無視して囁き始めた。

けーひー。けーひー。けーひー。けーひー。

「時間を稼ごうとしたって無駄ですよ」

 イシカワはかまわず囁き続ける。けーひー。けーひー。けーひー。けーひー。けーひー。イシカワの囁きは最初はかすかなものだったが、やがてそれは離れて事態を見守るわたしにもはっきりと聴こえるくらいにたしかなものへ震えていった。

けーひー。けーひー。けーひー。けーひー。

 イシカワはただひたすら訪れを待つように囁き続けた。音の連なりは、さっきよりも明白に大きく濃くはっきりと聴こえる。全身がその空気の振動で波のように振動するのを感じる。イシカワが囁くその喉の震えは空間がそのなかに胎蔵する物質の揺らぎを際立たせ、周囲の生物相の音が、水の足跡、鳥の鳴声、風の移動、虫の擦れ、それらが樹木と地中のスピーカーを通して重なり共振していく。わたしの皮膚が、そのなかの血流が、大きな岸辺となって打ち付けるように走っていく。わたしは大きなクラシックコンサートのなかで揺れている。

 その感覚はわたしに小さな均一な黒い円を思い起こさせた。黒い円はぐるぐると回転を続けて、その高速回転の速度は上がり続けている。時間の流れは単線から、その始点と終端がつながり円環になっている。目の前の何もない空間も触れそうだ。手を伸ばして指を折り曲げれば、奇妙なくにゅっとしたゼリーのような触感で触ることができる。空間全体がそのなかのすべてを介して存在している。すべての動きはつながっており、それ故に何ひとつ勝手に動き出すことは許されず、すべての存在物はわずかな振動で揺れながら硬直している。

 気がつけば、松永の息遣いは荒くなっていきみるみるうちに全身で肩をきってまるでぜんそくのように震えている。イシカワに銃口を向けていることができなくなり、その腕はだらりと力のない蛇のように垂れ下がり、やがて拳銃のトリガーから松永の指がスルりと抜けて足元の草地に金属が落下した。イシカワはたった一人世界のなかで自分だけ異なるルールにいることを示すように軽やかに振り返った。そして、ダウンジャケットに手を突っ込み一枚の白いクレジットほどの大きさのカードを取り出し、それを目の前で震えているというよりももはや痙攣しているといった方が正確なほど身をこわばらせている松永の額にゆっくりゆっくりと翳した。カードが直接額に触れると、松永は一瞬全身の筋肉をぎゅっと絞られたみたいに硬直した。そしてその後、唐突に花弁が開くように脱力して身体を開いてそのまま膝をついて俯いた。

 けーひー。けーひー。けーひー。けーひー。

 気がつくと、事態はあっという間に逆転していた。松永も正気を取り戻したようにイシカワを見上げて状況を把握したが、いまだ言葉にならないようだった。それは柔らかで圧倒的だった警蹕の支配ではなく、目の前に突き付けられたイシカワの銃口による端的な暴力の支配だった。

 松永はまるで状況を信じられす、空っぽの空間をみつめるようにイシカワを見ている。やがて、その瞳には、命乞いをするかのような怯えが浮かんだ。全身の筋肉の力がいまだ入らないのか、口はだらしなく痴呆のように開き、その端から涎をただ垂らし喘ぐだけだった。その表情にはもはや矜持は残されておらず、ただ全身が死への恐怖を表現してていた。イシカワは怯える松永に微笑み、そして語りかけた。

「ほら、あなたがたはなにもわかっていない」

 そして、続けて、「さっきの質問の答えですが、」

 松永はようやく自分の身体を覆っていた何かが取り去られていることに気がついた。そして、水を求めるように両手を素早く動かした。だが、すでに遅すぎた。

 イシカワは言う。

「わたしには陛下を殺す覚悟が当然あります」

 皇居のなかで響く最初の銃声が御神楽と警蹕に混じってわたしの周囲の空気を震わせた。

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