その2-NTTの男

2.


 館の内側から扉を開けて出てきた男は、わたしたちに気がつくとすぐに頭を下げた。そして、苦笑いを浮かべ大げさにへりくだって話し始めた。

「いやあ、どうも遠いところへの御足労まことに恐縮です。本来であれば、お呼びだてした自分たちのほうからせめて正門の当たりまでお出迎えさせていただければならないとは存じていたんですが、作戦の配置都合がそれを許さなくてですね」

 わたしはこの男の話し方に強い既視感を覚えた。男の話し方はまた公家である松永と違ったかたちで形式ばっていた。それは松永の話し方がどこか意固地なまでに格式的で、なおかつ隠語めいた符牒で人を煙に巻くのと対称的だった。わたしはまだ目の前の男が話すのをほんの一言しか聞いていないが、そこにある種の芝居臭さ、それはたとえていうなら保険屋か営業マン、そして同時に公職に就く人間が話す独特な防衛的な匂いを感じた。身近なところでいうなら、男の話し方は受信料を取り立てる集金人の話し方に近いように思えたのである。

「あ、申し遅れました。わたし、NTTのイシカワと申します。どうぞ、以後よろしくいただければと存じます」

「NTTの方ですか」

 男の意外な所属をオウムのように聞き返してしまった。わたしは驚きで差し出された手に思わず反応が遅れてしまった。わたしは慌てて差し出された男の手を取って、その握手に応じた。男は握手のためにすこし前かがみになった顔から上目遣いになって少し覗きこむような表情で言った。その目の底はあきらかに困惑しているわたしを楽しむような光があった。それも歪んだ意地の悪さというよりもむしろ真っすぐで純粋な子どもの悪戯に近い輝きだった。

「はい。NTTです。なにぶん、このような場所でNTTの人間と会うことになるとは想像されにくいでしょうから、驚かれるのももっともです。なにもこんなときに電話線の修理に来たんじゃありませんよ」

 イシカワはビジネスマンらしい黒のスーツズボンを履き、上はユニクロのツルツルとした紫のダウンジャケットを着ていた。襟元からはストライプのカッターときっちりとネクタイを締めているのがみえた。髪は短くビジネスショート風に刈上げていて、ゆいいつ奇妙なのは両手に黒の皮手袋をつけており、それはファッションや防寒などの用途ではなくどちらかというと工業的なものに見受けられた。だがその手袋を除くと、全体としては爽やかな快活さすら与える印象で、見てくれだけでいえば一歩間違えればすぐに胡乱になってしまうテレビマンの自分やときに陰険な印象を与える松永よりもよほど好人物にすらみえる。

「あ、申し遅れました。わたしはNHK報道センターの五十嵐です」

 わたしはイシカワに向けて名乗った。イシカワは営業スタイルな口調を崩さずに続けた。

「五十嵐さん。じつは、あなたとわたしは一度お会いしているんですよ。五十嵐さんのほうは覚えていらっしゃらないかもしれませんが、名刺はいちおうそのときにいただいていますよ」

「え、そうなんですか。すいません、ちょっと思い当たるところがなくて」

「まあ、そうでしょうね。なにせあのときはほんとうにすごい騒ぎだったから、ましてや報道の五十嵐さんなんてまさしく戦場状態だったでしょうから無理もありません」

 もしかしたら、取材先で一度会っているのだろうか。わたしはイシカワの言葉を聞きながら、あわてて記憶の底を攫って考えた。しかし、自分の過去の取材記録にNTTにいったという覚えはなかった。これはたしかだ。イシカワはわたしが皆目見当もついていない様子を察して説明してくれた。

「ほら、一年前の市民マラソンのとき。ちょうど五輪が直前で中止の発表がされる前のあのときの爆弾騒ぎです。あのときにわたしもたまたま現場に家族と一緒に来てたもんですから。そのときに五十嵐さんにインタビューされてるんですよ」

 イシカワはなんてことのない調子でそれを言う。

 わたしはいまだにイシカワと会った記憶を取り戻せずにいたが、彼が話しているのが一年前の五輪開催直前の記念市民マラソンでの爆弾テロのことで、たしかにあの爆弾騒ぎのなかで、わたしはほとんど狂乱状態で躍起になって現場を動き回り、次から次へと局から現場にやって来た映像取材部に目撃者を捕まえさせインタビュー素材を撮影させていたことを指摘していることに思い当たった。

「いやあ、まあ、現場が混乱状態だったのもありますけど、わたしもあんな事件に遭うなんて初めてでしたから、とにかく興奮して死にもの狂いで話しましたからね。ほとんどまともなことなんてなにひとつ言えてなかったでしょう。NHKニュースもあとで見ましたけど、事実、わたしのインタビューは使われなかったみたいですね」

どうやら、わたしはその爆弾騒ぎのなかで目撃者としてこのイシカワにインタビューをしていたらしい。

 イシカワが言うように、たしかにあのころはまだテロに対する人々の反応もいまとはずいぶん違っていた。人々はまだそのころはまともにも混乱と喧騒のなかにいた。

 混乱と騒擾。

 それこそがじつは我々にとって正気の一つの証しであること。それは2020年という混乱の年で我々が得た唯一のまともな知見だ。

 いまでは、どこかのスマホアプリから操作されたIoTコネクティッド端末車がどこぞのファッションビルに突っ込もうとも、人々は不気味な諦念と冷静さを保っている。それは、混乱と喧騒の正気よりも不気味な狂気の冷静さと静寂だ。政府は端末車を取り扱う業界に所有者が外部からハッキングを受けないように何重にもプロテクトをかけるように規制したが、そもそも所有者がテロリストになってしまっては何の意味もない。

「そうでしたか。すみません。あなたがいうようにあのときは恐ろしいほどたくさんの人と話しましたから」

「いえいえ。ただわたしのように無辜な人間にとってはテレビにインタビューされるなんて珍しいことだったのでよく憶えていたのです。いやしかし、いただいた名刺がまさかこんなところで役に立つなんて」

 無辜な人間、イシカワなりの諧謔だろうか。表情をみるかぎりどうも本気でいっているように感じられる。どうにもいちいちつかめない男だった。わたしはイシカワが名刺入れから取り出した名刺を受け取りながら思う。名刺にはたしかにわたしの名前と当時のNHKの肩書きが印字されていた。

 報道番組センタースポーツ部。そう、たしかにわたしはあのころスポーツ部にいたのだ。2020年という、スポーツ部が四年に一度、最もいそがしく、そして政治部より政治化し、社会部よりも社会化したあの2020年のあの一年だけ。まったく不運で間が悪かったとしか言いようがない。

「じつはNHK側にあなたを指名したのもわたしなんですよ」

 イシカワは出し抜けに言った。あまりにもあっさりした口調だったので、わたしは思わず「え、なんで」とこぼすように聞き返してしまった。

「いや、これといった理由はないんですが、そのときに印象にでも残ったんですかねえ。まあ、三船陸佐はNHK職員なら誰でもいいということだったんですが、できるかぎりこちらで指名したほうがよいかとわたしのほうで考えましてね」

「はあ、そういうことだったんですか」

 それでは自分が選ばれたことにとくに理由はないと。イシカワはわたしの拍子抜けした表情に恐縮したようにいう。

「あ、いえいえ、理由がないわけではけっしてないんですよ。ほら、やっぱり爆弾騒ぎのときに出会ってこれをもらったのも」と、イシカワはわたしの一年前の名刺を無作法に振って、「なにかの縁かなと。まあ、いってしまえば運命ですよ」

 イシカワはそういって、またビジネスマンらしい大げさな表情で笑った。

 運命。わたしはため息こそつかなかったが、イシカワの話すその「運命」に徒労感を感じた。局長たちによばれたときも、そしていま隣りに立つ松永も、わざわざ自分を指名してきたと大げさに語ったが、その理由が運命、つまりたまたまだったとは。あまりに、非本質的で、かえって究極の理由にわたしは誰に文句をいえばいいのかわからなかった。いってしまえば、こんかいの件はわたしにとってある意味一年前のあの騒ぎにつながっているということか。

 なにはさておき、わたしが知りたかった。最大の謎のひとつはこうしてあっさりと明らかになったのである。

「さて、それでは。立ち話もこれくらいにして行きましょうか。三船陸佐がお待ちですから」イシカワはまるでわたしたちを遅れてきたピクニックのメンバーに語りかけるかのような軽い口調で誘導した。

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