その1-皇居からの迎え

1.


 ハレーションを起こした光のなかから掌が伸びてきて、わたしを引き上げようとしている。わたしはそれに応じて、光をつかんだ。光はあまりに眩しくて、痛さでまなじりが上がり目を閉じてしまいたいほどだった。わたしは光から頭をそらしながら、上体を起こし、最後のタラップを思いっきり蹴って穴から這い出た。

 10メートルほどもある梯子を休憩なしに昇りきるのは、もう四十になろうとする身体には想像以上に体力を要求することだった。わたしははばからず草地に転がり込んでしまった。渋谷のNHKセンターを出発したのが、たしか10時ちょうどだったから、ちょうどいまは真昼ごろだった。

 空はまったく何ひとついつもと変わらず晴れて、わたしの全身に陽射しを投げかけている。気の早い師走からやって来る風が少し冷たいが、もしかしたら半袖でも少しの間なら過ごせるかもしれない。そう思わせられるほどの陽気だった。息を整えながら、眩しい太陽から目をそらし、草地を眺めるとだんだんと周囲の生物相の声が聴こえてくる。鳥が鳴いているので何の鳥だろうと考えていると、松永がカワセミかヒヨドリだろうと教えてくれた。そうやってじっと温かい陽射しと草地に身を投げ出しているとすぐに微睡みがやってきて、ここに来た目的も、そして、ここが皇居の敷地内だということすら忘れそうになった。まぬけにもそうやってうとうとしていると、鳥の声に混じって、かすかに笛と謡の声が聴こえたような気がした。目を閉じてさらに注意深く耳を澄ますと、それはまるで周囲の木々が謡っているように聴こえる。いや、実際にそれはたしかにどこからか音の波としてわたしの鼓膜の水面に波紋を落とし、だんだんはっきりと大きく脳へとうちつけてくる。

 雅楽だ。遥か古代のオーケストラがこの宮中に響いている。笛は三管と呼ばれる、笙、龍笛、篳篥。そこに鉦鼓を始めとする太鼓の音が加わる。そして、謡に混じってどんな地中よりも深いような人間の身体の内奥を揺さぶった響きが聴こえる。響きはわたしの疲れ切った身体に浸透してますます身体を重たくさせる。身体じゅうにみえない鉛が流し込まれて金縛りにでもあったみたいだ。

 松永によれば、この謡に混じって聴こえる声は警蹕といい、もとは高貴な人間が庶民の群れに入る際に発せられる人払いの声なのだという。転じて、いまでは祭祀の際の御神体の移動のときや宮中祭祀のさいに不浄なものを払う役割として発せられるのだという。

「ここは敷地内でも西の方ですね。この御神楽は賢所様の方からでしょう」

 いつまでも転がっているわけにもいかなかったので、わたしは疲れと聴きなれない警蹕で重たくなった身体をなんとか起こし松永が説明するのを聞いた。

「行動グループが皇居内に侵入し、陛下を始めとする方々を拘束したのは鎮魂の儀が終えられて日付が変わり、その儀を引き継ぐ大祭、すなわち新嘉殿の儀である新嘗祭の夕の儀がおこなわれている最中でした。彼らは大祭に臨まれていた御方々を捕らえ、そのまま賢所のうちのどこかに幽閉したものと思われます。先ほど昇ってくる際にも言いましたが、囚われているのは天皇、皇嗣殿下、その参列関係者と宮内庁職員です。参列していた職員はもちろんわたしのような事務官もおりますが大半は楽部に属する式部職の者たちです。ほかには内廷の職員として儀式に仕えていた采女たちと内掌典たちですね」

 おそらく、この御神楽を演奏しているのも、夕の儀のために用意されていた職員たちの演奏でしょう。松永は言った。おそらく、行動グループによって、演奏を強いられているのではないでしょうか。

「なぜわざわざそんな目立つことをするのでしょうか」

「正直、彼ら行動グループの意図はいまいち掴みかねるものがあります。儀式が行われていなかった三殿のほうで大祭に参加せず控えていた内掌典のひとりがゆいいつ行動グループの「伝令役」として解放され、ここよりさらに西にある皇宮警察本部の方に事態の経緯と行動グループへの連絡手段を伝えに来たのですが、行動グループは少なくともその後の電話通話を通じた前交渉では、金銭の要求は一切ありませんでした」

 松永のいうように、行動グループが金銭目的ではないであろうことは、素人ながら想像がつく。行動グループの目的が金であったとしても、いくらなんでも天皇を人質に取るとなると物事が大きすぎる。ふつうに考えれば、天皇というある意味ではこの国で最大の人質を取ることはどうしたってそこに政治的含意があることを予測させずにはおかない。仮に金が目的だとしても、行動グループは総理を始めとする三権の長までも捉えてしまっている。これではそもそも政府自体が機能不全に陥りその混乱のなかでは交渉すら困難になる可能性すら予想される。必然的に彼らにとって人質とは、何らかの手段を達成するための手段ではなく、人質の拘束それ自体が目的であると考えられるだろう。しかし、ではその目的とは? 松永はわたしの疑問に応えて言う。

「わかりません。もちろん、『天皇』というのはこの国においては重要な政治的ファクターであるのは、間違いありません。戦後の左翼は一貫して天皇制を否定してきました。有名な話ですが、天皇制というのはもともと左派の言葉です。天皇制は、とくに1970年代の新左翼勢力の現れとともに暴力集団と化してきた極左グループやアナキストの一部がその『身分制』や『宗教性』を焦点として政治闘争化してきた経緯があります。しかし、そのような極左運動は時代の流れとともに沈静化していき、平成に入ってからは皆無と言っていいほど激減したと言っていいでしょう」

 もっとも、と松永は付け足した。

「それはことの問題が解決したというよりも、ただ単に風化しただけで、一切その決着がついたということではないと思いますが」

 左翼にしてみればその話は飽きたということなのだろうか。一市民の自分としては世間が静かになったのはいいが、いい加減と言えばいい加減だと思わないこともない。

「いずれにせよ。今回の事態に関しては、極左グループが裏で関与しているとかあるいはいわゆる『反戦派の武官』と呼ばれる者たちによる左からの行動である可能性は低いと思います。そのような左派勢力ならば、そもそも拘束などというまわりくどい手段をとらず陛下の暗殺、それ自体が行動になるのではないでしょうか。その意味でも立て籠もりという現状からそのような集団であるとは考えにくい」

「では、右派勢力という可能性はないのでしょうか」

 御神楽と警蹕は相変わらず鳥の声に紛れて、わたしと松永のあいだに流れていた。

「当然その発想になりますよね」

 だが、松永はそれ以上は言わなかった。仮に右翼集団が犯行グループだとして、やはりその目的は何なのだろうか。疑問はけっきょくまたふりだしに戻った。

「警備に関してですが、もちろん皇宮警察警備部門、とくに吹上護衛所の警備第二課がその中心となって24時間体制で警備にあたっており、簡単に侵入を許すものではなかったはずです。敷地内の警備というのは坂下門、正門、半蔵門、乾門──そして我々が通ってきた地下道も秘密裏にではありますが──といった主要な通行箇所を重点として警備されています。しかし、じつはそれは敷地内への侵入を水際的に防ぐものであり、一旦なかに侵入されその潜伏を許すと、その敷地面積の広さもあってなかなかその発見と排除は至難の業なのです。今回、行動グループはあらかじめ斥候として何名か専門の部隊員を敷地内に忍び込ませ、後発の本隊が予め占拠しやすいように工作をおこなったようです。もちろん、仮に敷地内に侵入を許したとしても、見回りの護衛官もおりますし、御所なども十重二十重に守れてはいたのですが」

「それではなぜ」わたしはすでに立ち上がっていた。

「一つには、やはりその武装練度の差というものがあります。今回、この皇居に侵入したのは警察機構よりもさらに上位の暴力装置である国防軍人たちです。皇宮警察が警備にあたっているとはいえ、やはりそれはあくまで各種兵装をそろえた軍隊組織と違って、それは通常の警察力と変わるところはありません。まぬけな話といえばまぬけな話かもしれませんが、暴力を一元的に担う国家という組織は、その暴力が自身に向けられたときそれに対処する術を持たないのです」

 わたしはなにも返す言葉がなかった。米軍は……という言葉はぎりぎりのところで呑み込んだ。

「そして、第二には敷地内の警備には、その特殊性ゆえ生じる困難があります。行動グループはそこをついてきました」

「祭祀のことですか」

「そうです」松永はこちらを見据えて深くうなずいた。「宮中でおこなわれる祭祀は大祭小祭などさまざまな諸祭あわせて二十ほどありますがなかには、陛下とその儀式にまつらうものだけにしか知ることのできない秘中のものもあります。そのような状況においては、いくら警備の都合とはいえ、その祭祀の事情の方が優先されます。そして、そのようななかでの警備体制ではどうしてもある種のセキュリティホールができてしまいます。ましてや、この度おこなわれていたのは、祭祀のなかでも最も重要とされる大祭である新嘗祭です。新嘗に関しては、陛下ももっとも重要視されており、そしてその秘をお守りになることに関しては尋常ならざるところがあります。陛下のご意向となれば、いくら皇宮警察本部のものが警備都合を申しましょうが、どうしても限界ができてくることは御想像いただけると思います」

 頭上に雲がひとつ現れた。太陽を遮って我々は雲の影に覆われた。松永の表情とその丸い眼鏡の奥にある瞳の青空が暗く覆われていく。

「それに新嘗祭がその途上で賊にさえぎられるなど、聞いたことがありません。それは戦後、いやその二千年以上の皇紀においてすらそうなのかもしれません」

 


 それからわたしは松永の先導にしたがって、行動グループが指定したというポイントに向かって進んだ。歩くに従って、行動グループの拠点に近づいていることを示すように、御神楽と警蹕は大きくなっていきわたしはいっそう身体が重くなるのを感じた。木々に囲まれた森のなかでそうした妖かしにでも遭いそうな音を聴かされると自分の目の前の現実感覚が揺れて眩暈すら起きそうになった。

 そうして、木々のあいだの並木道を抜けるまでは、視界が悪くてなかなか見通せなかったが、五分もしないうちにまた広い敷地に出た。目の前にある前庭はおおよそテニスコートふたつ分よりも少し小さいくらいのように感じられたのでだいたい九〇〇-八〇〇平方メートルくらいだろうか。ただしその前庭はほとんどが水田で実際に通れるのは狭間の細い畦道くらいだった。水田の向こうには、その前庭の主である大きな建造物が見えた。学のない自分には薄いグリーンの屋根から西洋式の館に思えるが、もしかしたらいわゆる帝冠様式と呼ばれるものなのだろうか。

 前庭の水田は、刈入れが済んでいるらしく、いまは農閑期の畦塗りも終わって、来年の田植えを待っているようだ。田に残った水面が反射して空を写して、その上を白鳥がわずかに歩いていた。どうもこの白鳥は人に慣れているようで、松永とわたしが近づいてもまったく動じず悠然と水田のなかに嘴を突っ込み、昆虫などを食べていた。外苑のお濠から飛んできたのだろうか。

「ここでとれる稲は、基本的には奉納のためのものです。伊勢神宮を始めとする全国の天皇家とゆかりの深い神社や三殿に奉納するもの。そして、祭祀の際に用いられるものでもあります」

 すなわち、太安万侶が曰く、宇宙の根元なるものという発想からして、この国の人間は世界全体を巨大な稲の生える水田として見ていた節がある。豊葦原の瑞穂の国などというが、五柱の天つ神一同に命じられた二人の男女が国を作るために取った方法がすでに田植えとしか読めない。この国のもとになったのは、チキンラーメンの油のようにふわふわと浮いているもので、二人の男と女に矛を渡すから、それを使いかき混ぜて、そのチキンラーメンの油を固めてなんとか国をつくれということだったのだ。これは男性器を突き刺すという比喩よりも、雨が降りぐちゃぐちゃとした国土を片っ端から開墾して耕し、そこに矛、つまり伝来してきた稲を突き刺せ、そう解釈したほうが自然だ。どうやらこの国の古代人は男性器を女性器に突き刺すセックスと水田に苗代を突き刺す田植えを等価に見ていたと思われる。

「また、有名な天忍穂耳尊は息子である瓊瓊杵尊が三種の神器とともに雲を掻き分けて天孫降臨される場面は、そもそも瓊瓊杵尊という存在が穀霊であってそれが稲に宿る、つまり稲穂が実るということを意味していると言われています」

 ちなみに、国づくりを命じられた二人の男女の神、伊邪那美と伊邪那岐の二柱とその命じた天つ神々五柱、これを合わせて神代七代というが、これは中国の北辰信仰、すなわち北極星を崇めることから来ているという説があるらしい。

 松永は館の前の入り口まで来ると、説明を切り上げて、一言「まあ、すべては神話の話です。いまとなっては、非科学的でただの物語にしか過ぎません」と締めくくった。

 わたしは、水田の端にいまだ刈り取られず、黄金色の穂を重そうに垂らしたままのものが一角あることに気がついた。

「なぜあれだけ刈り取られないんですか」

「さあ、わたしもここのことはじつはさっき話したようなことくらいしか知らなくて、それほど詳しくはないんですよ」

 畦道を歩いているときは、とくとくと自慢げに稲作と日本神話の関わりについて話していたのに、意外な返事をした。しかし、松永は「戻ったら、書陵部で資料がないか調べてみましょう」と、どうやら本当に知らないようだった。

「さて、わたしがあなたを連れてゆけるのはここまでです。これ以上は進めません」

「え、ここからはひとりということですか」

「あ、いえ、そういうことではありません。行動グループに指定されたルートの終着点がここなんです。だから、我々はここで待たなくてはならないんです」

「わざわざ出迎えを寄越してくれるなんて、よっぽどの待遇ですね」

 松永はわたしの皮肉に取り合わなかった。

しかし、それは厭きれて無視したのではなく、背後の館の正面扉が開いたことに気がついたからだった。

 出迎えが来たようだ。

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