第三章 明転

 甘やかな香りが鼻腔をくすぐる。閉じた瞼の上がいやに明るい。

 アルドリドはゆっくりと目を開けた。


「…………ここは……どこだ」


 アルドリドが半身を起こすと、花びらや葉がぱらりと舞った。

 やわらかな光を照り返す金色の花々がどこまでも広がっているのを見ているうちに、霞がかった頭の芯がはっきりと晴れてくる。

 ルート砦奪還の戦い。父と母の思いを語るエルシー。バルグの処刑を止めたジャスティン。慈悲を叫ぶ部下たち。そして――。

 アルドリドは左の脇腹へ手をやった。妖精の放った矢を受けたはずの場所には痛みも傷もない。


「ぼくは……死んだのか?」


 では、ここは天国なのだろうか。

 そう思いかけ、アルドリドはすぐに頭を振った。敵とはいえ、魔王や妖精をあんな方法で手にかけたおのれが、安らかな天で安寧の眠りにつけるはずもない。


 ふとアルドリドは金色の花の群れに、ぽつんと白い花があることに気がついた。

 腰をかがめ、その花を手に取る。もともと白色だったというよりは、金色の花から不自然に色が抜け落ちてしまったように見える。

 よく見れば、白い花は一筋の道となってどこかへ続いているようだ。

 アルドリドは立ち上がり、白い花の行方を追うために歩き始めた。


 そうしてどれほど歩き続けただろうか。

 アルドリドは空を仰いだ。太陽の見えない天蓋は奇妙に明るい水色が果てしなく広がっている。

 金色の花の群れ、一面の水色の空、白い花の筋。絵画のような光景ではあるが、どこまで行っても同じ風景がこうも延々と続くと気持ちが塞ぐ。ただ、不思議と肉体に疲労はなかった。アルドリドの皮膚の下では血液が滞りなく循環し、心臓は規則正しく鼓動しているのだろう。たとえここが死後の世界であったとしても。

 ふと、金色の向こうに一本の樹があるのが見えた。

 アルドリドは足下に目を落とした。白い花は樹のあるほうへ続いているようだ。アルドリドの足は自然とそちらへ向かった。


 辿り着いた先にあったのは月桂樹だった。

 こちらを見下ろすようにそびえる月桂樹の周囲を、白い花がぐるりと取り囲んでいる。どうやら白い道筋の行き着く先はこの月桂樹だったようだ。


「なんなんだろう、ここは……」


 アルドリドが幹にもたれたとき、視界の端で影が揺れた。

 木の葉が落とす影ではない。それはあきらかに人の形をしていた。

 身構えるアルドリドの右手が空を切った。

 アルドリドははっとして腰に視線を落とす。そこにあるべき聖剣がない。常にその身へ添えていたはずの聖剣は忽然と姿を消していた。


「なるほど。きみがハインライン王家の末裔か」


 静かな声が振ってくる。

 茫然としている場合ではない。その声の主の正体を確かめようと、アルドリドは鋭く視線を上げた。剣が手元にない以上、万が一のことがあれば徒手空拳で対応するしかないのだから。

 アルドリドの目の前に立っていたのは女性だった。

 細い身体を黒いローブで覆うその女性は、アルドリドより年上にも年下にも見える。アルドリドをこの場所まで導いた白い花と同じ色の髪を肩先でなびかせ、アルドリドを見つめている。


「あなたは……?」


 女性は少なくとも武器らしきものは持っていない。敵意はなさそうだ、とアルドリドはひとまず警戒を解いた。


「わたしは――」


 言いかけて、女性が目を伏せる。


「きみの目覚めの時間が来たようだ」

「わたしの目覚め……?」


 では今、アルドリドは眠りについているのだろうか。


「心配しなくとも、またすぐ会うときがくる。アルドリド王子、きみはこのさだめから逃れることはできないのだから」

「待ってください! あなたはいったい……」


 誰なのかと、アルドリドが問いただそうとしたとき、白い花がまばゆい光を放った。

 光は雨のように注ぎ、あふれ、アルドリドの視界は瞬く間に一面の白に覆われた。


「じきにわかる。たとえきみが真実を知るのを拒んでも」


 光の洪水の中で、静かな声が雨音のように落ちた。


「運命の糸を断ち切る者よ、また会おう」


▽▽▽


 アルドリドが目を開けたとき、視界に映ったのは明るい水色の空ではもちろんなく、石造りの天井だった。

 窓から差し込む夕映えの光はすでに夜の気配を漂わせている。どうやら雨は止んだようだ。さらに視線を動かせば、備え付けられた角燈が照らす石壁に聖剣アトロフォスが立てかけられてあるのが見えた。

 聖剣を引き寄せるためにアルドリドが寝台から半身を起こすと、左の脇腹に痛みが走った。思わず身をかがめた拍子に、なにかがはらりと落ちた。

 つまみ上げてみると、それは花片だった。敷布にまぎれてしまいそうな白は、間違いなくあの白い花のものだ。


「夢では……ないのか?」


 手の中に滑り落ちた白い花びらを、アルドリドはじっと見つめた。

 魔王と対峙し、その身体を聖剣で貫き、勝利の果てにすべてが水泡に帰する。そしてそれを誰一人として覚えていない。

 明日は森へ進軍し、明後日は魔王との決戦だ。その戦いの末に魔王を討ち、そしてまた今日この日に戻り、魔王と対峙する。

 あの白い髪の女性は、この終わりなき戦いを運命と嘯いたのだろうか。

 だとすれば。


「この運命を終わらせることが……できるというのか?」


 彼女はアルドリドを運命の糸を断ち切る者だと呼んだ。だとすれば打開策は必ずあるはずだ。少なくとも彼女はそれを知っているのだろう。


「でも、いったい……どうやって……」


 彼女がその方法を語らなかった以上、アルドリドは独り模索するしかないのだろう。何千、何百、何十、何回でも。アルドリドの手が細い運命の糸を手繰り寄せるのが先か、眠りの中で再び彼女に会うのが先か。あるいは――。

 アルドリドは聖剣を引き寄せ、尋ねるように刀身を抜いた。磨き抜かれた剣身は、疲労の色濃い顔を映すばかりだ。

 聖剣の光が翳った気がして、アルドリドははっとして聖剣を翻す。

 聖剣アトロフォスが帯びる白光は、変わらず一点の曇りもない。

 輝く剣身へそっと触れれば、父と母から聖剣を託されたあの瞬間が去来する。

 高く澄んだ空へ底光りのする暗雲があっというまに立ちこめ、雷鳴が轟き、異変を察した父が聖剣をアルドリドへ託した。落雷の青白い光が、父の差し出した聖剣を浮かび上がらせ、アルドリドの胸の奥底まで照らした。


――魔王と戦わずにいれば、時間が遡行することもないのだろうか。


 刀身が驚愕の表情を映した次の瞬間、アルドリドは聖剣を取り落としていた。

 いったい、今、ぼくは、なにを思った?

 背中に流れる汗が冷たい。むき出しになった胸がばくばくと拍動する。脇腹の傷口から血が滲む。どんどんどん、と警音が頭の中をけたたましく駆け巡る。そのすべてがアルドリドを責め立てるように、アルドリドの内側で反響する。


――やめてくれ、その音をやめてくれ!


「………………か…………殿下……殿下!」


 はっとアルドリドが顔を上げると、ジャスティンがいつのまにか目の前に立っていた。

「………………ジャスティン?」

「殿下、気づかれたのですね」


 こちらを窺い見るジャスティンはごく軽装で、湯気の立つカップを手にしている。


「お加減が悪いようでしたら、まだお休みになってください」


 ジャスティンが卓へカップを乗せると、白い湯気がアルドリドの鼻先で揺れた。中身は果実のシロップを香草茶で割ったもののようだ。


「ああ……すまない。わたしなら、だいじょうぶだ」


 頭に響いていたのはジャスティンが扉を叩くする音だったのだ。アルドリドはため息をつき、聖剣を拾い鞘へ収めた。


「恐れながら殿下、明朝の進軍は見合わせるほうがよろしいのではないでしょうか」


 ジャスティンの顔を見ずに、アルドリドはカップを手に取った。一口飲むと懐かしい味がして、カップを卓へ戻した。


「…………だめだ」

「しかし急いては事を過つと言いますし、ここは休養を取られたほうが」

「だめだ!」


 露呈した胸底を覆い隠すように、アルドリドは声を張り上げた。


「…………わたしは民たちに詫びねばならない。国を守るのは王族が果たすべき義務だ」


 今もなお苦しんでいる民がいる以上、一国を担う王子として戦いを放棄して魔王の凶行を看過することはできない。

 二度と戻らない過去の思い出は美しい。それを踏みつけてでも未来を掴み取らなければならないのだと知った以上、感傷も理想も妨げでしかない。


「…………殿下。……この際ですから、はっきり申し上げましょう」


 ジャスティンが膝を折り、アルドリドをまっすぐ見据えた。


「――殿下はほんとうに、我々ハインラインの民のことを考えてくださっているのですか?」


 ジャスティンの視線は大地へ降り注ぐ白日のように、虚勢で塗り固めたアルドリドの胸裡を暴こうとする。


「なぜ……そんなことを訊く?」

「無礼は承知の上です。ですが……今の殿下の在りようからは、魔王を打倒することしか頭にないのではと思われて仕方ないのです」

「そんなことは…………」


 ない、と、はたして言い切れるだろうか。

 ここ最近アルドリドは、魔王を倒すこと――もっと言えば魔王を討伐し、その先へ進むことばかり考えていた。


「聖剣を担い、重責を果たさねばならない殿下のご心労、察するに余りあります。ですがもう一度お考え直しください。このままでは……」


 ジャスティンはそこで言葉を切り、口を閉ざした。


「ジャスティン、きみの言いたいこともわかる。民の心は離れていくと、そう言いたいのだろう。だがそれも、我々の勝利あってのものだ。歴史は勝者の手でつくられていくものだ」

「…………承知いたしました。ぶしつけをどうかお許しください」


 立ち上がったジャスティンが深く頭を下げ部屋を去ろうとするのを、アルドリドは呼び止めた。


「ジャスティン。エルシーはどこにいる?」

「エルシー殿は部屋でお休みになっています。妖精を退けた後、殿下に治療の魔術を施され、心身ともに衰弱しておられるようで……」


 アルドリドはとっさに言葉を返すことができなかった。

 エルシーが臥せっているのだとすれば、まぎれもなくアルドリドのせいだ。

 王都陥落の折にエルシーが放った叱咤激励をあげつらい、その果てに不意の襲撃を受け彼女に魔術を行使させるに至った。


「………………そう……か。ありがとう」


 ようやく口にできたのはこの程度で、アルドリドは深くうなだれた。


「殿下」


 扉を閉める直前、ジャスティンが振り返る。


「我々は……いえ、わたしは信じています。殿下のお優しい心はいまだ失われていないのだと」


 そう言い残し、ジャスティンは今度こそ扉を閉めた。


▽▽▽


 ジャスティンが去ってすぐ、とにかくエルシーと話をしようと、アルドリドは部屋を飛び出した。一定間隔で角灯が灯る回廊にジャスティンの姿はすでになく、エルシーがどの部屋にいるのかを訊いておくべきだったと悔いてもジャスティンが戻ることはない。

 そのとき、右手の回廊から二人組の兵士が曲がってきた。

 アルドリドが駆け寄ると彼らも気がついたようで、驚いた表情で立ち止まった。


「で、殿下?」

「エルシーがどの部屋にいるか知らないか!?」

「た、確か、天使殿は左手の一番奥の部屋に……」

「すまない、ありがとう!」


 礼もそこそこにアルドリドは駆け出した。

 エルシーが人を傷つけるための魔術を厭うことは、ともに過ごしたアルドリドがもっともよく知るところだ。

 今、エルシーはどんな気持ちでいるだろう。

 もしかして、エルシーはぼくに失望したのではないだろうか。

 今さら臆することを覚えた心に反して、アルドリドの足はエルシーの部屋の前に到達する。

 未来を掴むために過去は振り返らない、そう決意したはずなのに、なにを恐れることがあるのだ。言い聞かせても、おのれを苛む矛盾はアルドリドを雁字搦めに縛り付ける。

 だが、いつまでもこうしてはいられない。知らず乱れていた呼吸を整え、アルドリドは控えめに扉を叩いた。


「エルシー?」


 返事はない。

 寝ているのだろうか。悪いと思いつつ、そっと扉を開ける。

 そこにエルシーの姿はなく、空の寝台の傍で角灯が静まりかえった室内をほのかに照らしているばかりだ。


「エルシー……いないのか?」


 やはり返事はない。

 どこへ行ったのだろうか。まさか砦の外に、と思い至れば焦燥感が募る。エルシーならば、巡回の兵士に見つからず外へ出ることなどたやすいはずだ。

 いや、まだ外に出たと決まったわけではない。まずは砦の中を捜してみよう、とアルドリドは旋踵する。かつん、と静かな回廊へ靴音が響き、呼応するように脳裏で声が重なった。


――神様なんて、ほんとうにいるのかな?


 月の光。祈りを捧げる手。届かないと嘆く声。沈んでいた記憶の欠片が胸の底から浮かび上がり、今、明確な形を取った。

 瞼の裏で明滅する記憶に背を押されるように、アルドリドは今度こそ踵を返した。


▽▽▽


 砦の一角にある小さな礼拝堂の前で、アルドリドは足を止めた。

 取っ手に手を伸ばしかけ、わずかに開いた扉の隙間から絹糸のような声が漏れ聞こえるのに気づく。


「天におられる女神クローティアよ、わが祈りに耳を傾けたまえ」


 天使言語で紡がれるその祈りの、一節だけを聞き取ることができた。

 アルドリドは扉の隙間から中をそっと窺った。

 祭壇に向かって跪くエルシーの背で一対の羽が金色に輝いている。


「神様。どうかアルドリドを助けて」


 そう、あのとき――初めてルート砦を奪還した夜も同じように、エルシーはアルドリドのために祈っていたのだ。

 アルドリドは決然と扉を開けた。


「ごめん、エルシー」

「アルドリド……? どうしてここに?」


 振り向いたエルシーは、天井にあつらえられた窓から差し込む月の光に縁取られ、黄金色に燃えているようだった。


「きみは人を傷つける魔術を嫌ってたはずだ、それなのに……あんなことをさせてしまったのは、ぼくのせいだ」


 エルシーが癒やしの魔術を行使することはあれど、誰かを攻撃するために魔術を放ったのは今回が初めてだった。立ちのぼる炎に包まれ、何人か――いや何十人かの妖精が死んだだろう。

 一歩、一歩、踏みしめるようにアルドリドはエルシーのもとへ近づいた。


「アルドリドだって……ほんとは好きであんなことをしたわけじゃないんでしょ」


 アルドリドの視線を避けるようにエルシーがうつむいて、ゆっくりとかぶりを振った。


「アルドリドの背負うものの重さを知らなかった……ううん、こんなに近くにいたのに知ろうとしなかったあたしが悪かったの、だから、ごめんなさい」


 そうじゃない、悪いのはぼくだ。

 言いかけ、アルドリドは喉元までせり上がった言葉を押しとどめた。

 繰り返される時間の分だけ堆積される喪失と絶望は、いつしか高い壁となって暗然と立ちはだかり、目に映るのは勝利へ至る道がただ一筋。ジャスティンの指摘通り、アルドリドの剣はハインラインの未来をつくるためではなく、魔王フィービーを撃破するために在った。

 だが、それももう終わりだ。


「たとえ女神がほんとうにいなくても、神がきみの声を聴いていなかったとしても、ぼくたちはこうしてここにいる」


 あの日と同じようにエルシーの手を取り、それから、とアルドリドは付け加えた。


「…………運命を切り開くのは、神じゃない。ぼくはもう、諦めることはしない」


 エルシーがアルドリドを見捨てなかったように、ジャスティンがアルドリドを信じたように、アルドリドもまた周囲の者たちのために立ち上がろう。それは決して女神クローティアに誓うためではない。

 芯から熱く決意があふれるのを、アルドリドはうれしい思いで悟った。


「アルドリド……あたし、最近ずっと、同じ夢を見てる気がするの」


 ようやく顔を上げたエルシーは、桃色の前髪の隙間から覗く腫れた金色の目を何度か瞬かせ、ためらいながら言葉をこぼす。


「王都が奪われて、山の中を逃げ回って、ジャスティンたちと合流して、王都を取り戻して、ルート砦も取り返して、エルフェイムの森に進軍して、アルドリドが魔王を倒しに行く…………この半年をもう何度も繰り返してる気がして……」

「エルシー!」


 思わず声を張り上げると、エルシーの肩がびくりと揺れる。


「あ……、ごめん、アルドリドを不安にさせるようなこと言っちゃって」

「そうじゃないんだ……! そうじゃない、エルシー、そうじゃないんだ!」


 壁がひび割れる。かすかな光明が差し込み、アルドリドの行く手をわずかに照らす。

 一度は放棄した希望を拾った手で、アルドリドは聖剣の柄を握った。

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