第四章 テキスト・レジー
「じゃあ、アルドリドはもう何度も魔王フィービーと戦ってたの?」
ひとまず礼拝堂からエルシーにあてがわれた部屋へと移動し、二人は長椅子に隣り合って腰掛けた。
二人のあいだを立ちのぼる一つ分のカップの湯気が、エルシーの輪郭をうっすらと滲ませる。
「でも……そうよね。最近のアルドリド、なんだかおかしかったもの。すごく疲れてるみたいで……」
得心したように頷くエルシーが手元のカップを傾け、あ、と声を上げる。
「懐かしい味ね。アルドリド、これ好きだったよね」
「そうだな……」
蒼白だった顔色にずいぶん血の気が戻っているのが一目でわかり、アルドリドは安堵した。と同時にジャスティンや臣下たちへの心苦しさに胸が痛んだ。
「ジャスティンにはずいぶん迷惑をかけてしまった。みんなにも……」
「迷惑じゃないわ。みんな心配してただけよ」
でも、とエルシーはカップに視線を落とした。
「……こんなこと、なかなか相談できないよね。ふつうは信じてもらえないだろうし……あたしだって、アルドリドに言えなかったもの」
もう遠い記憶が、アルドリドの胸裡で稲光のように明滅する。
――あのときも、今も……その前も! わたしは確かにこの手で、あの男を……!
エルシーは知らないことだが、アルドリドは一度ジャスティンに伝えていたのだ。
募る焦燥のまま口走ったその言葉を、ジャスティンは疲れているのだと取り合わなかった。
だが、今思えばそれも仕方のないことだ。
――おそらく、ぼくの伝え方が悪かったんだ。もっと違うふうに言えていたら、ジャスティンも信じてくれていたかもしれない……。
それに、一度試しただけで諦めるのは早計だった。言葉を尽くし、あらゆる可能性を試すことをアルドリドはしなかった。魔王と妖精たちさえ討伐すればよいのだと信じ、いつしかそれが絶対なのだと疑いもしなかった。
「明日、妖精について調べましょう」
アルドリドは思考に沈んだ顔をはっと上向かせた。
「調べるって……どうするんだ?」
「書庫に行けばなにかわかるかもしれないわ」
エルシーの言うように、エルフェイムの森と隣接するこのルート砦には、妖精に関する文献があるはずだ。
「もちろん、砦を制圧してた妖精が焚書していなければの話だけど」
「でも明日は進軍だ。そんないきなり休暇にできるだろうか」
「だいじょうぶよ、ジャスティンに頼めば。アルドリド、すごく顔色が悪いもの」
「そ、そうかな……?」
おのれの顔色を顧みる余裕はアルドリドにはなかったが、エルシーが言い切るのだからきっとそうなのだろう。
「じゃあ、今日はもう休んで明日に備えましょう」
アルドリドの胸が、水色の空の下で金色の花がどこまでも広がる情景を描いた。
「……そういえば、さっき夢の中で不思議な女性に遇ったんだ。白い髪の……」
手の中に残った白い花びらを思い返し、いや、あれは夢ではなかった、とアルドリドは言い直した。
「……彼女は、ぼくを運命の糸を断ち切る者だと呼んだ。だからなにか方法はあるはずだ」
頷き返したエルシーがやわらかく微笑んだ。
「あたし、最初に気づいたときはすごく不安だったけど……今は平気。一人じゃないんだってわかったもの」
「ああ……、ぼくも、そうだ」
どれほど耐えがたい苦難が待ち受けていたとしても、分かち合うことができれば人はこんなにも困難に立ち向かうことができるのだ。
その夜、アルドリドの夢の中に彼女は現れなかった。
▽▽▽
翌朝、アルドリドはエルシーとともに書庫へ向かった。
朝の日差しの差し込む回廊を、二人並んで進む。そこに兵士たちの姿はない。エルシーがジャスティンに掛け合ったおかげで、今日は全陣営が丸一日の休息となったのだ。
「王子殿下にはゆっくりお過ごしいただきたい、って言ってたわ」
ふいに、王子、という響きが違和感をともなってアルドリドの胸に落ちた。
王子――フィービー王子。バルグはフィービーを王子と言っていた。
「エルシー、妖精にも王族がいるのか?」
エルシーが視線をこちらにちらりと向ける。
「前はいたけど今はいないわ。妖精の王家はとっくに滅んだはずだもの」
「滅んだ……? なぜだ?」
妖精にも人間と同じように王の一族がいたのなら、なぜハインライン王家だけが存続しているのだろうか。
エルシーが歩みを止めた。
アルドリドも足を止め、無意識に下がっていた視線を上げる。書庫に着いたのだ。
扉を開ければ、紙の淀んだ匂いが押し寄せる。窓がないために薄暗い空間に所狭しと壁面に収められた書物は隙間なく天井まで至り、囲まれるような圧迫感を与える。
王城の壮麗な図書館とはまるで違う、そこはまさに書物を収めた倉庫であった。
「妖精たちは本を焼かなかったようね」
エルシーが安堵したように言い、天井近くまで羽ばたいた。羽を震わせるたびに淡い光がこぼれるように落ちてくる。
アルドリドはひとまず近くの棚から、妖精に関する本を手に取ってみた。
「妖精……女神が風から創りし者。緑色、もしくは緑系統の毛髪を持つ。風魔術と弓術に長けている。…………」
目新しい情報はなさそうだ。アルドリドは適当に頁をめくっていき、ふいにその動きを止めた。
――人間と妖精が交わるとき世界は滅びるであろう。
「…………どういうことだ……?」
ふと、アルドリドが追っていた文字が光に照らされる。分厚い一冊の本を抱えたエルシーが、アルドリドの前に降り立ったのだ。
「妖精の王家が滅びたのは、大洪水が起きたからよ」
藍色の装丁がエルシーの手の中で照らされ、凹凸が細かい影をつくる。
「なぜ大洪水が起こったかは知ってるでしょ?」
「ああ、争いをやめない地上の民……つまり人間と妖精に怒った女神の制裁、だったな」
「そう、それでラーゼシス大陸以外の大地は海に沈んでしまったの。人間と妖精……多くの命とともにね」
海に沈んだ魂のうちのいくつかが水棲族になったと言われてるわ、とエルシーの指が頁を繰る。
横から本をのぞき込もうとしたアルドリドは、おのれの影がエルシーに被さることに気がつき、慌てて身体を引っ込める。
「そして、降臨した天使の調停により、人間はもう二度と争いを起こさないと誓い……女神は盟約の証に聖剣アトロフォスを一人の人間に託した」
女神に聖剣を賜ったその人間こそがハインライン王家の始祖であり、アルドリドの祖先である。だが、アルドリドが引っかかりを覚えたのはそこではなかった。
「待ってくれ、妖精は盟約を交わさなかったのか?」
「そう聞いたわ。だから妖精は女神の戒めによって王家を滅ぼされ、長いあいだ生まれることができなかった」
「では、ぼくらが……ハインライン家があるのは、神と盟約を交わしたおかげなのか」
「……そういうことになるわね」
エルシーがぱたんと本を閉じた。
大洪水によって滅ぼされた妖精の王家。魔王フィービーを王子と呼ぶ妖精の存在。アルドリドの頭の中で、一つの予感が浮かび上がる。
「もしかして……フィービーは妖精の王家の生き残りなのだろうか?」
「ありえない話じゃないわ……けど、そうだとしたら……この戦いは大洪水以前の再現、ということ?」
かつて女神に同族を滅ぼされた妖精の王子が、その怨念を晴らすために戦争を起こしたのだろうか。その目的は人間の殲滅か、調停に現れる天使を糾弾するためか、それとも……。
湧き上がるいくつもの考えを振り落とすように、アルドリドはかぶりを振った。いくら推定を重ねても、真実はわからないままだ。
「明日、魔王と……フィービーと話をしてみようと思う」
「でも……話し合いに応じるかな。相手は魔王なのよ、ハインラインを滅ぼした……」
エルシーが不安げに瞳を揺らすのも無理はないことだ。
「運命を切り開くのは神などではない……」
「え……?」
「以前、フィービーがそう言ってたんだ」
今際の際に残されたその言葉は、アルドリドの内側で旋回し、いつしかはっきりと焼き付いていた。
思えばフィービーと対話を試みたことはなかった。そうすることが当たり前のように、アルドリドとフィービーは対峙し続けた。
だが、それはほんとうに正しかったのだろうか。
アルドリドが意に反して多くの妖精を手にかけたように、フィービーもまた、望まぬままに戦っていたのかもしれない。
「明日……あたしも行くわ」
「けど、聖剣を持つ者しか魔王の居城には入れないはずだ」
エルフェイム城を支配する邪悪な気と禍々しい闇に、天使のエルシーは耐えられるだろうか。
「あたしだって聖剣の守護天使だもの。自分の役目を果たしてみせるわ」
金色の目を決然と輝かせるエルシーへ、アルドリドは頷き返した。
「ああ、今度こそ、この戦いを終わらせよう」
その方法は戦いによるものではない。
人間と妖精、どちらか一方ではなく、お互いに手を取り合う日が来たのだ。
魔王を手にかけるたびに時が遡ったのも、このためだったのかもしれない。
解放への期待に、アルドリドの胸が打ち震えた。
▽▽▽
聖剣を手にアルドリドは回廊を闊歩する。
禍々しい闇が満ちるエルフェイム城の中で、唯一光を放つその場所へ。
――魔王フィービーは、ぼくらの話を聞くだろうか。
戦いが避けられないそのときは、エルシーだけは守り通さねばならない。
「待ってアルドリド、早いよ」
背後から呼び止められ、アルドリドははっとして立ち止まった。
「あ……ごめん、エルシー」
「アルドリドはそうじゃなくても、あたしは初めて来たんだから」
そう、アルドリドはすでに幾度となく訪れた場所であっても、エルシーにとっては初めて踏み入れる敵の居城なのだ。
逸る気持ちを押さえ、アルドリドは努めて歩調を緩めた。
謁見の間へ通じる扉へ手をかけたとき、エルシーがぽつりと言った。
「濃い闇の気配がするわ。この先に……魔王がいるのね」
扉を見据えるエルシーの横顔は蒼白く、全身が放つ光は翳っている。やはり無理をしているのだろう。
「エルシー、つらいならここで待っていてもいい。魔王と対峙すれば……この程度ではすまない」
「ん……でも平気。みんなに頼まれてるもの」
「頼まれた……なにを?」
「アルドリドのことよ。自分たちの分まで、あなたをどうか支えてほしいって……アルドリド、忘れないで。あなたの無事を多くの人たちが祈ってるわ」
「ああ」
頷いてから、アルドリドは一つ付け加えた。
「きみもだ、エルシー。ぼくだけじゃない、きみのこともみんな心配してるよ」
「ええ、そうね……」
重厚な扉を開けば、隙間から差し込む光が足下を照らした。
果たしてフィービーは最奥の玉座へ深く腰掛けていた。
「きさまがハインラインのアルドリドだな。ふん……天使まで連れて来たか」
傲然とこちらを見下ろすフィービーへ、色とりどりの光が降り注ぐ。アルドリドは中央まで進み出て、仇敵の整った、ある意味懐かしい容貌をまっすぐ見上げた。
「おまえと対面するのも、久しぶりな気がするよ」
「…………おれの記憶では、きさまとまみえたことはなかったはずだが?」
やはりそうか、と、アルドリドは聖剣の切っ先を下ろした。
「おまえと話をしに来た」
「血迷ったか、ハインラインの王子よ」
蔑む眼差しと視線がぶつかっても、アルドリドはもう臆さなかった。
「なぜおまえは……わが国へ侵攻した」
「それを訊いてどうする。失われたものを取り戻せるわけでもあるまい?」
最期まで誇り高かった父と母、守るべき民たち、戦いのさなかに消えた者たち。繰り返す時間の分だけ失った彼らの面影が、アルドリドの瞼の裏で明滅する。
「きさまは国を奪ったおれが憎いはずだ。だからここまで来たのだろう?」
散っていった彼らに報いるために。ハインラインの未来を守るために。そう願い剣を振るうアルドリドの手は妖精の血で濡れ、いくつもの罪に汚れた。
それでもアルドリドが邪悪なる王に成り果てなかったのは、ともに歩み、ときに過ちを正してくれる仲間がいたからだ。
「わたしは戦いを望んでいなかった。おまえだって……、ほんとうは、そうなんじゃないのか?」
光そのもののように輝く金色の髪を掻き上げ、フィービーは冷ややかに笑った。
「なるほど、天使の入れ知恵だな。きさまらの信奉する女神とやらになにか言われたのか?」
「そうじゃない! これはわたしたちの意志だ。たとえ神がすべての生き物の共存を望まなくても、人間と妖精は……」
そのとき、アルドリドの言葉を遮るように、エルシーがふらりと進み出た。
白く輝く羽がわななく。瞬く光が辺りへ散らばり、呼吸をするように空気が震える。
アルドリドがエルシーの名を呼ぼうとした、そのとき。
「あなたが……クローティアさま……」
エルシーの震える声が、女神の名を呼んだ。
あなたが、クローティアさま。
一拍遅れてその意味を理解したアルドリドは、鼓動と呼吸が一瞬止まるかというほどの衝撃でよろめいた。
「ど、どういうことだエルシー、魔王フィービーが……女神クローティアだというのか……?」
フィービーから視線を外さないままのエルシーが、茫然と呟く。
「金色の髪を持つのは……女神だけのはずよ……」
では、この男はほんとうに神だというのか。エルシーの声を黙殺し、祖国ハインラインを滅ぼし、人間に聖剣アトロフォスを託した、神が。
アルドリドは信じられない思いで聖剣の柄を握った。
フィービーが唇を開きかけたとき、突如、唸るような風が足下で巻き起こった。
「な……なに!?」
アルドリドは咄嗟にエルシーをかばうように構えた。
風の中から小柄な妖精が現れる。その緑色の瞳は苛烈な光をたたえ、惑うアルドリドを射貫く。
「モイラ……、なぜ、おまえがここに」
――この少年が……、モイラ?
風が止む。モイラと呼ばれた妖精は、まだ子どもと言ってもよいほど年若い。
「フィービー王子、奴らの言葉に耳を貸してはならぬ!」
フィービーの前に降り立ったモイラは、幼い風貌に似つかぬ口調で叫んだ。
「その天使の言う通り、フィービー王子は神である。ただし、旧時代の神クローティアなどではない!」
創世の女神クローティアをはっきりと旧時代の神と言い切ったモイラは、なおも声を張り上げる。
「これからはフィービー王子が新たなる神となり、妖精の世界は永遠となるのだ!」
魔王フィービーは女神クローティアに成り代わり、新たなる神の座に君臨しようとしているというのか。
「神を僭称し、やることは人間を滅ぼすこと!?」
「黙れ! 大陸の未来のためにも、人間は滅びなければならぬのだ!」
その言葉に、アルドリドの胸が妙な打ち方をした。
「大陸の未来……どういうことだ!?」
アルドリドがさらに問おうとしたとき、モイラが手のひらをかざした。
途端、殴りつけるような暴風が吹き荒れた。
「アルドリド!」
エルシーの悲痛な叫びが風に呑まれる。
まともに目を開けられないほどの風が、アルドリドの身体をバラバラに砕こうと烈しく渦巻く。
「フィービー王子! 奴らを殺すのだ!」
風の向こうからモイラの声が響く。
この風で動けなくしたところへ、フィービーの魔術でとどめを刺すつもりなのだ。
――このままでは……!
そのとき、時が止まったかのように風が、さあ、と凪いだ。
今が反撃の機会だと察知したアルドリドの手が、思考よりも速く剣を振るった。
息をひそめるアルドリドと、瞠目するモイラ。二人を隔てるように、聖剣の軌跡を追う赤い線が走る。
「フィービー王子、妖精の世界を…………どうか……」
アルドリドの足下へ、モイラがどう、と伏せる。
血の中で倒れるモイラを一瞥し、フィービーはアルドリドへ向き直った。
「アルドリドよ。なぜおれがハインラインを滅ぼしたのかと、きさまは言ったな?」
今しがた死んだモイラのことなど一切気に留めない素振りに、アルドリドは違和感を覚える。
「モイラは……おまえの仲間じゃないのか?」
「妖精の世界? そんなものに興味はない。ましてや神などと……」
そいつはおれの力を利用したかっただけだ、と吐き捨て、フィービーは鋭い眼差しをアルドリドへ向けた。
戦慄がアルドリドの身体を突き上げる。
魔王フィービーとの対峙を繰り返し、同じ数だけ勝利をおさめた。だというのにアルドリドは今、魔王に対して底知れぬ恐怖を抱いている。
「アルドリドよ、わが身に流れる魔力の叫びが聞こえるか?」
雷鳴が轟くように空気が震え、フィービーの身体が禍々しい光を帯びていく。
撤退すべきだ、と本能が警鐘を鳴らすのに、竦む足は微動だにしない。
せめてエルシーは逃がさなくては、と、アルドリドは声を振り絞った。
「エルシー、逃げ……」
「この力をもはや一刻でも留めておくことはできないのだ!」
凄絶な光が爆ぜる。
なにもかもを透明に変える光の彼方へ、アルドリドの意識は消えていった。
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