第二章 踊る人形
轟く雷鳴に足が竦む。アルドリドはこわごわと振り返った。
夕映えを照り返して連なる山脈の向こう、王都から硝煙が立ち上ぼっている。
「殿下、こちらです!」
先導する騎士が、立ち竦んだアルドリドを叱咤するように声を張り上げた。
城を脱出する際に託された聖剣アトロフォスが、腕の中でずしりと重さを増していくようだった。
「妖精どもめ……女神との盟約を違えるつもりか!」
騎士の一人が赤く染まる空を見上げ吐き捨てる。
アルドリドに聖剣を託した両親、騎士や兵士たちは、妖精の手で滅びゆく城の中で今なお踏みとどまっているのだろう。
「アルドリド、どうしたの?」
隣を歩くエルシーが心配そうな目をこちらへ向ける。
常であれば桃色の髪や白い羽を輝かせるエルシーは今、目立たないように黒い外套に身を包んでいる。
「………………城に……戻らなくては」
ままならない焦燥に呼吸が逸る。
「殿下、なりません!」
騎士の一人がはっとしたように鎧を鳴らしてアルドリドへ駆け寄った。
「でも、父上と母上をお助けしなければ……みんなが戦っているのにぼくだけ逃げるなど……!」
「アルドリド、あなたは一人の人間である前にハインラインの王子なのよ!」
雨の気配を抱く風が吹き抜ける。
エルシーの小さな身体を覆う闇色の外套がはためいて、白い羽が黄金の光を受け神々しく輝いた。
「今あなたが死んだらハインラインの人たちの未来はどうなるの!」
エルシーの泣きそうに引き攣れる叫び声が、アルドリドの胸の奥へ突き刺さる。
「…………あなたを逃がすために多くの人たちが犠牲になったのを忘れないで」
「エルシー…………」
アルドリドはただその名を呼んだ。
「王子殿下、あなたが一時の感情に流されては、ハインラインの未来は永遠に閉ざされることになってしまう。それだけはどうか……」
本当はわかっているのだ、とアルドリドはうつむいた。
父や母がそうしたように、アルドリドもハインラインの王族としての責任を果たさなければならない。そうでなければ、アルドリドに希望を見出して散っていった人々の思いは永遠に報われないままだ。
――忘れるなアルドリド。正義は聖剣アトロフォスとともにあるのだ。
――おまえの手に聖剣がある限り、いつの日か必ず未来は開けるでしょう。
父と母の声は耳の奥でこれほど鮮明によみがえるのに、もう二度と聴くことはできないのだ。
どうしようもない感傷を追い立てるように稲妻がひらめいた。
「すまなかった、みんな。わたしはもう……振り返らない」
▽▽▽
血だまりの中にフィービーの身体が横たわっている。
妖精たちと戦争を始めてからというもの、何度となく目にした光景である。
そして、もう二度と見ることのないようにと、何度となく神に祈った光景であった。
「おまえたち妖精は……なぜ女神クローティアとの盟約を違えたんだ!」
すでに事切れたフィービーから答えが返ってくることはない。そう知ってはいても、アルドリドは言葉を叩きつけずにはいられなかった。
「女神クローティアの遺物が我々にある限り、おまえたち妖精は敗北の運命を歩むしかないと……わかっていたはずだろう!」
人間と妖精は友好的とは言えないまでも、わずかな陸地で共存していた。山間に集落を作る人間と森の奥に棲まう妖精は互いに関知せず、そうして世界の秩序は保たれてきた。
半年前、魔王フィービー率いる妖精勢力の王都襲撃がなければ、その均衡が破られることもなく、アルドリドは故国で平和を享受していただろう。
「だが、これでもう、ほんとうに終わりだ……!」
時が遡行する直前、アルドリドは苦痛に見まわれる。それは病魔に冒されたかのようだった。
耐えきれずに意識を手放し、そして気がつけば魔王を倒した事実は消える。時が戻っているのだと、アルドリドは幾度となく思い知らされてきた。
だが今、聖剣が魔王を貫いた瞬間にいつも訪れる、腹の奥からこみ上げるあの不快さはない。
今度こそ、魔王を倒して未来への道を歩むことができるのだ。
「………………運命……だと……」
響く声に、アルドリドははっとして振り返った。
「ばかばかしいことを言うのだな、ハインラインのアルドリドよ」
見れば、フィービーは血だまりに手をついて立ち上がろうとしていた。
まだ息があるのか。
とどめを刺すべく、アルドリドは血に濡れた剣を構え直した。
「運命を切り開くのは……神などではない」
「えっ……」
思いがけない言葉に、アルドリドは息を呑んだ。
アルドリドの額から汗がしたたり、血の中へ垂れ落ちる。
魔王フィービーは、青白い皮膚を血で赤く染め上げながら、すぐそこまで迫っている死に抗うのをやめない。灯火が消える直前にひときわ輝きを増すように、フィービーの若草色の目がぎらりと光る。
「…………フ……ども……ファームども、覚えていろ……おれは……必ず…………」
フィービーがアルドリドへ伸ばした腕が力なく下ろされ、跳ね返った血飛沫がアルドリドの足下を汚した。
そのとき視界がぐにゃりと歪み、アルドリドの意識も闇の中へ溶けた。
▽▽▽
あれから何度も時は遡った。
アルドリドは今日もまた、勝手知ったる城の最奥へ向かう。
魔王打倒を叫び、アルドリドに希望を託す仲間たち。城の奥深くで一人待ち受ける、金色の髪の妖精。そのすべてが姿形を変えることなくアルドリドを囲繞する。
そして、アルドリドが行き着く先も、いつも同じだ。
禍々しい闇が満ちる城の中で、ただ一つ光を放つ終着点。
「きさまがハインラインの――」
魔王の口上をかき消すように靴底を鳴らし、アルドリドは玉座へ進む。
聖剣を閃かせれば、傲然たる声は苦悶の呻きへと変わった。
「おまえの言葉は聞き飽きた」
魔王の身体が玉座から転がり落ちる。アルドリドはそれを一瞥し、訪れるであろう衝撃に備えた。
今度こそ、時を進めてみせる。
血だまりの中でフィービーが身じろぎする。その指先がきらりと光るのを、アルドリドは見逃さなかった。
「まだ生きていたのか」
魔術を行使しようとしたその右手の、手首から下を斬り落とす。
さすがに魔王と畏怖されることだけあり、フィービーはみっともなく絶叫するような真似はせず、今度は左手をかざした。
「殊勝な心がけだな」
同じようにアルドリドは魔王の左の手首も落とした。
これで魔術を使うことはできないだろう。
「魔術…………」
もしかして、とアルドリドは思惟を巡らせる。
魔術を使えない人間族が魔術について知ることはさほど多くない。人間の王子であるアルドリドも例外ではなく、知っていることといえばエルシーが教えてくれたわずかな知識だけだ。
――こんなことなら、魔術の勉強をもっときちんとしておくんだった。
人間が魔術を行使できないのは身体の構造上の問題で、魔力を体内に留めておくことができないからだとエルシーが言っていた。
アルドリドは、血の中でもがくフィービーを見下ろした。
魔力の残滓が魔王を死から蘇らせ、時を遡らせているのだろうか。
もしそうであるなら、その魔力の根源は絶たなければならない。
血まみれのフィービーが、手首のない右手をかかげた。
「アル……ドリド……きさま……」
アルドリドを睨み上げる、その緑色の目を潰した。
首を落とし、頭を砕き、両足をもいだ。
剣を振り下ろすたび、アルドリドは血にまみれていった。
最後に、聖剣を心臓へ突き刺した。
肉の塊と呼ぶべき物体がバラ窓から降り注ぐ光に彩られ、血の海の中で沈黙している。
荒い呼吸が邪魔をして、うまく声が出ない。
これでもう、時の流れが遡ることはないはずだ。
血だまりの中に膝をついて、アルドリドはこみ上げる吐き気を必死でこらえた。
▽▽▽
斜めに降る雨は視界を妨げ、唸る風は妖精の行使する風魔術を助長した。
灰色の薄煙の向こうには、ハインライン王国とエルフェイムの森を隔てるルート砦が聳えている。
初めてルート砦を奪還し、その尖塔に王国の旗幟が再び靡くのを見たとき、アルドリドの身体は歓喜に打ち震えた。
だが今、アルドリドの胸を満たすのは、決して喜びなどではなかった。
血と雨でぬかるむ石畳を踏みしめる。飛び交う矢を叩き落とし、切り込む風の中を突っ切り、アルドリドはひたすら聖剣を振るった。
降りしきる雨がアルドリドを打ち据える。
今度こそうまくいくはずだった。今度こそ、魔王を倒した先へ進めると信じていた。
――まだ……足りないというのか?
すべての妖精は魔力を具えているとエルシーは言った。一人一人の妖精がどれほどの魔力を持つのかは分からないが、魔王には到底及ばなくとも、数が集まれば膨大な量になるだろう。
もし、魔王を斬り苛むだけでは不足なのだとすれば――。
斬り捨てた妖精の身体が足下へどっと倒れ込み、滴が跳ねる。
「妖精軍に告ぐ! ただちに攻撃をやめよ!」
雨音をかき消すジャスティンの叫声が響く。
「アルドリド殿下! 指揮官を捕らえました!」
無念の表情を浮かべる妖精たちが攻撃の手を止めると、後には雨と風の音だけが残された。
捕縛された一人の妖精を引き立てたジャスティンがこちらへ向かってくる。
緑色の髪、緑色の瞳。アルドリドの目には妖精の姿は同じように見えるが、彼のことは一目で分かる。
「おまえはバルグだな」
「人間の王子様に名前を知られてるなんて光栄だね」
年若い、まだ子どもと言っても良いバルグの造作には憎悪と、隠しきれない怯えが潜んでいる。
今までは、ここで戦いの手をとめていた。アルドリドの目的はあくまでハインライン城の奪還と魔王の打倒であり、憎しみにかられて妖精を滅亡させることではなかった。
だが。
「処刑しろ」
早く、と、手の中の聖剣がアルドリドを急き立てる。
「生かしておく必要はない」
一刻も早く、王国を光と平穏に満ちた未来へ導かなければならない。
「この者だけではない。妖精は残らず処刑する」
「で、殿下……?」
ざわ、と動揺が波のように伝搬する。
配下の騎士や兵士たちは顔を見合わせるばかりで、アルドリドの命令を実行しようという者は誰一人としていない。
アルドリドはすらりと剣を薙ぎ、バルグを見下ろした。
「きみたちがやらないのなら、わたしがやる」
「殿下! おやめください!」
いち早く我に返ったらしいジャスティンが割って入る。
「とめるなジャスティン。妖精は滅ぼさなければならないんだ、そうだろう」
大柄なジャスティンの身体に阻まれながらも、バルグは挑むようにアルドリドを睨みあげた。
「やっぱりモイラ様の言うとおりだ……人間は残虐だから滅ぼさなきゃならないんだ!」
「先に盟約を違えたのはおまえたちのほうだ」
アルドリドは聖剣を掲げた。
聖剣アトロフォスは、降り止まない雨に濡れ、おびただしい血を浴びてもなお、その輝きを失わない。
「魔王が――いや、妖精がこの大地で生きている限り……わたしたちの未来は永遠に閉ざされたままだ!」
「待って、アルドリド、どうしちゃったの!?」
衛生兵とともに後陣の天幕へ控えているはずのエルシーが飛び込んできて、その小さな手でアルドリドの腕を掴む。
「前に言ってたじゃない! この戦いは妖精を滅ぼすためじゃない、ハインラインを取り戻すためなんだって!」
目を何度も瞬かせるエルシーの睫毛が、雨粒をぽつりと弾く。
「ウィルフリド様もヴァージニア様も、アルドリドがそんなことをするのを望まれるはずがないわ!」
両親の名はただの言葉の羅列として耳朶を打つ。
「エルシー殿のおっしゃるとおりです!」
ジャスティンが声を張り上げる。
「国を奪われ両親を失ったことの心の整理はつかずとも、憎悪で心を曇らせることはできないと、そうおっしゃった殿下だからこそ、我々はお慕い申し上げるのです!」
彼らの言葉は螺旋を描き、芯へと到達することなく消えていく。
腕を下ろせば、聖剣の切っ先が雨と血に汚れた石畳を掠める。
父や母やエルシーたちと王宮で過ごしていたころのアルドリドは、民の望むような清廉潔白な少年だっただろう。
あのときのままでいられたら、どんなに良かっただろう。
「殿下!」
「殿下! どうか!」
それでも、と、アルドリドは聖剣の柄を握り直した。
「わたしはハインラインの王子だ」
王都が陥落したあの日、個としてのアルドリドは死んだ。
残されたのはハインラインの王子であるアルドリド・オブ・ハインラインだ。
「わたしはアルドリド・オブ・ハインライン。一人の人間である前に、ハインラインの王子だ」
アルドリドは空いた左手でエルシーの肩を掴んだ。
「そう言ったのはエルシー、きみだ!」
「あ……アルドリド、あたしは……」
エルシーはたじろぎ、雨水を含み灰色にくすむ羽を震わせた。
冷え冷えと降り注ぐ雨が、蒼白な頬を涙のように伝う。
「…………ごめんなさい……、そんなつもりじゃ、なかったの」
「違うエルシー、わたしは責めているんじゃない」
清らかなまま死するか、汚れた手で未来を掴むか。どちらかしか選べないのなら、アルドリドの選ぶべき道は決まっている。
「わたしが甘かったんだ。これは戦争だ。手を汚さずにはいられない。聖剣アトロフォスを持つ以上、昔のわたしのままではいられないんだ」
「アルドリド……!」
なおも言い募ろうとするエルシーへ背を向け、アルドリドは再び聖剣を掲げた。
「妖精たちよ、おまえたちを討ち、戦争に終止符を打たせてもらう。おまえたちが始めたこの戦いももう終わりだ!」
拘束されたバルグが芋虫のようにのたうつ。
「人間どもの思いどおりになるもんか! モイラ様がフィービー王子についてる限り、妖精は負けない!」
叫ぶバルグの言葉がアルドリドの胸に引っかかる。
繰り返す時間の中で、魔王フィービーはいつも一人でアルドリドを待ち受けていた、はずだ。
「待て、モイラとはいったい――」
アルドリドの疑問を遮るように、脇腹へ激痛が走った。
どこからか飛んできた矢が左の脇腹を貫通したのだと気がついたときにはもう、立ってはいられなかった。痛みに蹲るアルドリドの足下へ、後から後から血が流れる。
「で、殿下っ!」
「妖精だ! 探せっ! どこかに隠れているはずだ!」
「衛生兵! 衛生兵!」
「今だ! この混乱に乗じて人間どもを全滅させろ!」
「バルグ隊長、今助けます!」
――ぼくはここで死ぬのだろうか……。
割れるようなざわめきが近く遠くで交差する中、アルドリドは茫然と思う。
――ぼくが死んだら、時間は戻るだろうか……。
それとも、と己の終幕へ思い至れば胸底が震えるのは、恐怖か、悔恨か、安堵か。
「下がりなさい!」
せめて最期まで剣は手放すまい、と右手へ力を込めたとき、ステンドグラスが砕けるような声が辺りへ高く響き渡った。
目の前に光が現れる。アルドリドは視線だけを上向かせた。
「エル……シー……、なにを…………」
神々しい光を背負ったエルシーが、アルドリドの前に佇んでいた。
「アルドリド」
エルシーは振り向かないまま、暗い声でアルドリドの名を呼んだ。
「…………ごめんなさい」
光を放つエルシーの全身が皓然と薄靄を晴らし、雨をものともしない炎の柱が立ちのぼった。
薄れていく意識の中で、天使の怒りだ、と誰かが言うのを、アルドリドは確かに聴いた。
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