松竹梅

増田朋美

松竹梅

松竹梅

その日は、なんとも言えない快晴で、雲一つない青空であった。こんな日が続くという事は、ありがたくてしょうがないという時代が、もうそこまで来ているのかなと思われる今日この頃だが、天気が良くても、人間の心というものは、無関係に落ち込むときもあるものである。

「ねえ、苑子さん。」

浜島咲は、下村苑子さんに言った。

「気にしなくていいわよ。音楽事務所何て、入れてくれるところは、まだまだたくさんあるはずでしょうよ。別の事務所を探せば、それでいいじゃないの。そうでしょう?」

二人がいるのは、小さなマイクロバスの中だった。富士駅に向かうための、10人乗りのワゴン車と言われるくらい小さなマイクロバス。大型車を用意しないのは、それだけ利用者が少ないという事なんだろうが、このバスは、ほかの乗客は誰もおらず、乗っているのは、咲と苑子さんだけであった。

隣の席で、苑子さんは泣いていた。

咲はそれを聞いて、ため息をつく。

「大丈夫ですよ。一度や二度くらい、こういうことはあるかもしれないですけど、あたし達の活動を評価してくれる、音楽事務所は必ず見つかりますって。だって、事務所何て、インターネットで検索すれば、いくつでも見つかりますよ。だから気を落とさずに。入れてもらえば、それでいい世界なんですから、事務所何て。」

そう言って苑子さんを励ましたけど、苑子さんは泣いたままだった。実は咲と苑子さんは、生徒さんを獲得するため、プロモーションビデオを作ることになったのである。そのために、音楽事務所に所属している必要があったのだが、今日はその音楽事務所の社長さんと、面接する日だったのだ。

「そんなに落ち込まないでくださいよ。其れなら、事務所がどこにあるか、ちょっと調べてみましょうか?この静岡県内だって、探せばちゃんとあるはずですよ。新しい事務所探しましょう。」

「咲さん、そういうことじゃなくてね。」

苑子さんは、目を拭きながらそういうことを言った。

「そういう事じゃなくて、私はね、あの社長さんの一言が一番つらかったのよ。」

「社長さんの一言?」

そんなこと気にしたことはなかったため、咲はちょっと面食らった。

「社長さんが何て言ったのよ。まあ確かに、うちでは見切れないという事は言ったけど。」

「その前のセリフよ。よく思い出して。その前に、社長さん、、、。」

また、泣き出してしまう苑子さん。咲は、ちょっとじれったくなって、

「社長さんが何て言ったのよ。」

と、ちょっと語勢をつよくして言った。

「ほら、言われちゃったじゃない。あたしたちの流派の事よ。生田流では、春の海というすぐにわかる曲があるのに、そういうものが全くない流派の人たち何て、うちには入れませんなというせりふ。」

「あ、ああ、あれね。」

そんなこと、きにするわけでも無かったのだが、なんだか苑子さんは酷く傷ついてしまったようだ。

「苑子さん、きにすることないわよ。そんな、生田流に比べたら、歴史的にだってまだ新しい流派なんだし、名物はまだないと言っても仕方ないじゃないの。そんなところ、比べたってしょうがないじゃない。」

咲はそう軽く受け流していたが、苑子さんにとっては、大きな傷だったらしい。

「まあねえ、同じお箏奏者の人にも、山田流は名物が何もない癖にって、笑われるのがおちだから、そういわれて当たり前と思わなきゃね。当たり前、当たり前。」

「も、もう苑子さん。そんなに大きな傷だったわけ?だって、これからいくらでも新しい曲を作れるって言っていたのは苑子さんじゃないの。」

自分に言い聞かせるようにそういう苑子さんに、咲は、そういったのだが、

「そうねえ、でも、新しい曲を作る人たちは、大体生田流のために作るのよねえ。」

今日は苑子さん、すごく落ち込んでしまっているようだ。

「そんなの気にしてどうするの?他の作曲家が、生田流にばっかり作っているのなら、あたしたちが山田流のために作ればいいじゃない。ほらあ、薫さんの曲だって、前例がないから、すぐに売れたんじゃないの。」

「そうだけどね、咲さん、やっぱり其れは、山田流の事情を知っている人だけで、一般的な人は、お箏と言えば生田流と思い込んでいるでしょう?それとは違う流派ってのを、説明するのに時間が要るじゃない。そして、次に来るセリフは春の海。それを弾けないって言ったら、手のひら返すように追い出すんだから。みんなが知っている曲を弾けないような流派では、うちでは置いて置けませんって。」

まあ、人間には、いくら励ましても、だめな時というのは必ずある。そういう時は、何もしないでそっとしておいてあげたほうが、本人にも周りにもいいというときもある。

咲は、苑子さんは、そういう時なんだろうなと思って、もうこれ以上言わないことにした。

同時に、富士駅にマイクロバスが到着するというアナウンスが流れる。バスは、駅のはずれの停留所で停車した。咲と苑子さんは、運賃箱に運賃を払って、バスを降りた。

「じゃあ、また次の稽古で会いましょう。よろしくお願いします。」

咲はいつも通りに苑子さんに挨拶する。

「はい。今日はごめんなさいね。」

と、言って駅に向かっていく苑子さんは、なんとか自分を保てているんだろうなと思った。


咲も、別のバスを乗り換えて、自宅へ帰るはずだったが、その前にちょっと、寄っていきたいところができた。今度はタクシー乗り場に行き、すみませんが製鉄所へ行ってくださいとお願いする。

数十分タクシーに乗って、咲はタクシーにお金を払い、製鉄所の前でおりた。

「こんにちは。」

と、咲は、製鉄所の玄関の引き戸を開ける。応対したのは、ブッチャーだった。

「何ですか、浜島さん。いきなり何の用ですか?」

「あの、ブッチャーさん、右城君は?」

咲は、ブッチャーにすぐに聞いた。

「水穂さんなら、寝てますよ。ちょっと前まで起きてましたが、薬飲んだら、いつも通りに寝ていますよ。」

ブッチャーがそういうと、

「ちょっと会わせてもらえない?」

と、咲は聞いた。

「何ですか。用があるなら手短にお願いしますよ。もうちょっとしたら、水穂さんにご飯を食べさせる時間になりますからね。」

まあ、そんなことを言いながらも、ブッチャーは咲を中に入れてくれた。門前払いになるかと思っていたので、まず幸運だったと思った。

「ねえブッチャーさん、杉ちゃんも一緒にいる?」

廊下を歩きながら咲はブッチャーに尋ねると、

「杉ちゃんなら由紀子さんと一緒に、蒲団屋さんへ出かけました。新しいかけ布団を買ってくるんだって。」

ブッチャーはそう答えを出した。そこはちょっと咲には不運かも知れなかった。杉ちゃんだったら、邦楽の知識はもっとあるはずだ。まあいい。とりあえず、右城君に聞いてみよう。咲は、そう考えながら、長い廊下を歩いて、四畳半のふすまを開けた。水穂は、布団でしずかに眠っていた。

「右城君、ねえ、右城君てば、一寸だけでいいから、起きて頂戴よ。」

咲は、水穂のわきに座って、その体をゆすった。

「ねえ、起きて。起きてってば。」

もうちょっとつよくゆすると、やっと目を覚ましてくれた。よほど強い睡眠薬でも飲んでるのかなと、咲はちょっとため息をついた。

「浜島さん。」

そういって、起き上がろうとした水穂だが、体力がなくて、布団に崩れ落ちる。

「もう、寝たままでかまわないから、話聞いてよ。今日ね、音楽事務所に行ってきたんだけどね。そこの社長さんが、変なこというのよ。ほら、お箏って、生田流と山田流とあるでしょう。生田流には春の海という、誰でも知っている素晴らしい曲があるのに、山田流には何もないんですかって。苑子さんたら、それで傷ついちゃったみたいで、帰りのバスの中でずっと、泣きっぱなしだったのよ。」

「あ、ああ、そうですか。」

水穂は、そういって、軽く咳き込んだ。このときは咳き込むのも止まって、

「で、僕になんの用があるんですか。」

と聞いた。

「もう、最後までちゃんと聞いて。だから相談に来たの。ほんとは杉ちゃんがいてくれたら、もっと良かったんだけど、今いないから仕方ないわね。山田流で、良く知られている曲って何かないか、ちょっと教えてもらいたかったんだけど。杉ちゃんと関りのある、右城君なら何か知っているかもしれないって思って。もし、知っていたら、教えてもらえないかしらね。」

「そうですか、、、。」

とりあえず咲がそういうことを言うと、水穂は寝たまま、ちょっと考えこむしぐさをした。

「ねえ右城君、何かない?杉ちゃんがよく弾いてた、宮城道雄の手事とか?」

もう一回聞いてみるが、水穂はまた咳き込んでしまうのであった。咲が急いで、枕元に在ったチリ紙を渡すと、水穂は口の周りを急いで拭いた。チリ紙はすぐに朱くなった。

「宮城道雄の手事は、生田流の曲ですよ。山田流の単独で有名な曲なんて、ほとんど知られてないんですよ。」

「そういう事言わないで。苑子さんを励ましてあげられないでしょ。山田にはこういうすごいのがあるあるっていう曲、何かないの?」

「ありません。」

水穂は細い声で言った。

「あるとしたら、生田でも山田でも演奏されている曲くらいです。」

「そう、例えばどんな曲?」

と、咲はすぐに聞く。ところが水穂は疲れてしまったらしく、咳き込んでしまってそれどころではなさそうだった。

「もう右城君、肝心な時に、ちゃんと答えを出してちょうだい。咳で返事はしないで頂戴よ。」

そう言っても、咳き込むのは止まらなかった。持っていたチリ紙がまた朱く染まる。

「浜島さん、もういいにしてやってくれませんか。あんまりしゃべらせると、こうして咳き込んでしまいますから。」

ブッチャーが薬をもってやってきた。これを飲んでしまうと、どうなってしまうか、咲もわかっていた。

「ちょっと待ってよ。答えがまだ出てないじゃないの。あるとしたらの答え、おしえて頂戴。もうそれだけでもいいから。生田と山田で演奏されている有名な曲。」

咲がムキになってそう言うと、水穂は苦しそうに咳き込みながら、

「松竹梅。」

といった。

「松竹梅?ああ、あれですか。あの、明治の時代に作られた、祝賀曲ですね。だけど、あれ、すごい難しい曲ですよねえ。矢鱈長くて、難しくて。あれを演奏する邦楽家、今いるのかなあ。」

水穂さんの代わりに、ブッチャーが答えた。

「其れは、聞く人もびっくりするくらいの、大曲なのかしら?」

「ええ、30分近くかかる大曲だと聞いてますよ。でも、本当に箏曲という感じのする雰囲気もあって、素晴らしいと、カールさんが仰っていました。」

「へえ、なるほど。カールさんが。かえって外国の人のほうが、興味持つのかしらね。」

咲はその曲について、もっと聞いてみたかったので、そんな質問をしたのであるが、

「もう、それ以上聞かないでください。でないと水穂さんがかわいそう。ほら、薬飲んでとりあえず落ち着きましょうね。」

ブッチャーはそういって、咳き込んでいる水穂に薬を飲ませた。

「待ってよ。もうちょっと松竹梅について、教えて。」

と、咲は言ったが、ブッチャーは、もうよしてください!と強く言うのだった。その傍らで、水穂の咳き込むのがピタッと止まる。その代わり、すやすやと眠っている音が聞こえてきてしまうのだ。

「あーあ、右城君に聞いてもだめね。」

「ダメじゃありませんよ。そういうことは、水穂さんじゃなくて、お箏屋さんに聞いてください。お箏屋さん。もう、水穂さんがかわいそうすぎます。」

ブッチャーは、そういって水穂にかけ布団をかけてやった。

「わかったわ。お箏屋さんに聞いてみる。」

咲もそういったが、もうちょっとその松竹梅という曲について、教えてもらいたかった。その曲が誰の作曲で、楽譜の出版社はどこだとか。せめてそこだけは教えてもらおうと思ったのに。

「浜島さん、もう帰ってくれませんかね。水穂さん、この頓服の薬飲むと、こうして眠っちゃうし、ご飯を食べなくなりますから、使いたくないんですよ。」

ブッチャーにそういわれて、そうね、と咲も思い直して、とりあえず帰ることにした。

「じゃあ、お箏屋さんに行ってみます。」

とぼそりと言葉を残して、咲は、よいしょと立ち上がり、軽く一礼して、四畳半の外へ出る。長い廊下を歩きながら、今日はまた別の用事が出来たわ、と思った。とりあえず製鉄所を出て、またタクシー会社に電話し、今度は、お箏屋さんに行って、とお願いした。数分後にやってきたタクシーは、また彼女をのせて、お箏屋さんに向かって走り出していく。


数分後、閉店間際のお箏屋さんの前で、タクシーは止まった。お箏屋さんが、閉店時間になっていなくて、本当に良かったと思った。

「こんばんは。」

と咲は、お箏屋さんの中に入る。

「はい。いらっしゃい。」

お箏屋さんのおじいさんは、一寸眠たそうなかおをしていった。

「あの、松竹梅という曲はありますでしょうか?」

咲はそう聞いてみる。

「はいありますよ。明治松竹梅じゃないですよね?」

と、お箏屋さんは聞いた。咲は、水穂さんに言われた通りにしようと思って、ただの松竹梅と答えた。

「はい、わかりました。ちょっと待っててね。えーと、これだね。」

お箏屋さんは売り棚の中から、楽譜を一冊取り出した。

「はい、こちらです。松竹梅です。」

と言って、見せてくれた楽譜は、「正派公刊箏曲楽譜、松竹梅」と書いてある楽譜であった。

「これは山田流の楽譜なんですか?」

咲が聞くと、

「違います。これは生田流正派というところで出版されている曲です。」

と答えるお箏屋さん。

「あの、これじゃなくて、他の派閥のものはありますか?」

咲がもう一回聞くと、お箏屋さんはちょっと待ってくださいね、と言って、売り棚から、また楽譜を何冊かだしてくる。

「ええとね、これが、大日本家庭音楽会の松竹梅、そしてこれが、邦楽社の松竹梅。まだほかにも何冊か出てるから、取り寄せすることもできるよ。」

「あの、すみません、この楽譜のなかで、山田流のものはどれなんでしょうか?」

と、お箏屋さんに咲は聞いた。

「ええ、山田流の楽譜は現在うちでは扱っておりません。山田流では博信堂というところで出ていましたが、もう博信堂はつぶれてしまいましたのでね。うちでの売れ残りはすべてなくなってしまいまして、一冊もありません。」

と、申し訳なさそうにお箏屋さんは言った。

「山田流の松竹梅を使う予定がおありでしたか?」

「ええ、でも、教えてください。山田流の古典箏曲は、本当に、もう完全に手に入らないでしょうか?」

お箏屋さんに聞かれて、咲はそう聞き返した。

「そうですねえ。そういっても過言ではありませんね。山田流の楽譜は、出版社がつぶれていて、もう10年以上たってますからな。そのうえ再販する見込みもないですしね。」

「あの、どうして再販する見込みがないんでしょう?著作権は当の昔に切れているはずだし、ほかの出版社が名乗り出て、再販するとかそういうことはしないんでしょうか?」

咲がそう聞くとお箏屋さんは、困った顔をして、

「ウーンそうですなあ。お箏の世界に限らず、日本の伝統芸能というのはそうなのかもしれませんが、ほかの流派の悪いところをつつくのは得意なくせに、一緒にやっていこうというのは苦手なんでしょうね。生田流と山田流も、二つが同じくらいの勢力があった時は、互いの良いところを打ち出して、お互い盛況ということもできたんでしょうが、それが衰退してしまうと、手を組もうという気にはならないんでしょうね。なぜなら、互いの悪いところを、批判しあってできているのが流派だからです。」

と、説明してくれた。

「同じ楽器でも、こんなに違うのかっていうくらい、生田流と山田流は違いますからな。楽譜の表記の仕方だってぜんぜん違いますし。」

「じゃあ、これから、山田流をやりたいという人は、どうすればいいのですか?」

と咲は単刀直入に質問した。

「そうですねえ。もう古典箏曲はまず期待できませんからねエ、、、。」

頭を抱えて考え込むお箏屋さん。そうなればやっぱり新しい曲を作っていくしか、方法もないのだろう。それが、どんな曲になるか、は誰にも分らないのだ。

「そうですか。じゃあ、山田流はもうやりたい人もいないという訳ですか。」

「ええ、だからこそ、楽譜を出版したいという気は起こらないのだという事だと思いますよ。若しかしたら、お箏と言えば、もう生田流しか残らなくなる可能性もありますね。まあ、そういうことはしたくないですけど、邦楽をやる人が少なくなっていくから、しょうがないのかなあ。」

お箏屋さんは、大きなため息をついてしまう。

「で、でも。」

と咲は言った。

「新しい曲を作っていけば、また山田流をやりたいという人も出てくるでしょうか。それがもし、古典に近いものだったら?」

「いやあ、どうですかね。そう言う曲を作ってくれる作曲家は、果たして現れるでしょうかね。もう、われわれから見たら、訳の分からないロックみたいな曲が、蔓延っている世のなかじゃないですか。そういう中で、古典のようなものを作ってくれる人はいるのかなあ。」

そういうお箏屋さんの言う通り、確かに現代箏曲はそうなっている。時には、なんでこんなモノを、お箏でやらなきゃならないんだろう?と、疑問に思ってしまう曲も、数多い。

「あたし、探してみますわ。そういう古典的な曲を作ってくれる人がいるかどうか。」

と、咲はそういった。それが苑子さんに対して、自分が出来る事なのかもしれないと思った。そういう古典的なものを作ってくれる人、そういう人がいてほしい気がした。そして、世界のどこかにそういう曲を作ってくれる人はいるのではないか、と考えた。もう、生田流で、かっこよくてとっつきやすい曲は、ありすぎるほど作ってくれた。だから、山田流では、その松竹梅みたいな、古典箏曲、あるいはそれに近いものを探しに行くのが使命なのだと。




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松竹梅 増田朋美 @masubuchi4996

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