エピローグ

 彼は棗のもとに、彼の昔の名を置いていった。

 それが棗への心残りであるのだと。そんな話はあらかじめ聞いていた。


 雨屋の残した段ボール箱の中には、両手で抱えるほどの荷物が一つだけ。クッション材が巻き付けられた外観は簡素で、ローテーブルに置いた際、割れ物の音がした。

 透明な梱包用テープを剥がし、薄膜を取り去った棗の手が止まる。

 無色透明の大瓶には、山ほどの、青い琥珀糖が詰め込まれていた。

 よく見れば中には、夕焼けの茜も、朝日を弾く白銀も、翠も、蒼も。光の届かない藍でさえ、それぞれのひとかけに閉じ込められており――にも関わらず、真っ先に『青』だと直感した理由は。

 それらはみな、海の色であったから。


 季節も場所も、現実かどうかも問わず。大勢の人間が、各々に抱く一等うつくしい海を持ち寄って詰め込んだようなひと瓶だった。窓からの眩しい日差しをうけて、透きとおった色とりどりの光がテーブルにあふれる。

 光の射しこむ方向が変わる度、両手で抱えた小さな海は、くるくる表情を変える。

 きっと、同じ瞬間は二度とない。

「……これで『琥珀』、ね。……僕が付けた名前にしては、安直な気もするけど」

 うすいあおをした琥珀糖を一粒、口に放り込んだ。砂糖の純粋な甘味と一緒に、果実がしっかり香る。棗の好む甘さで、雨屋がいつも作る味。

 ひとつ息を吐いて、取り出したもう一粒を光にかざす。


 あのひとみに似た色が、ちらついた気がした。

『昔のこと、思い出しておいでですか』


 氷崎の診療所で意識を取り戻した雨屋は、一番初めにそれを聞いた。

 簀巻きにされた重症患者は身動ぎもできそうになかったから、仕方なく顔を覗きこんでやった。潰れた左眼を眼帯で隠した風貌はまだ見慣れない。

「知らないし興味もない。それとも僕に聞いて欲しいの?」

「いいえ。その様なことは全く、爪の先ほどもございません」

「文句は無いけど無性に腹立つ言い草しやがるよね」

 主治医から「怪我に障らせないでください」と釘を刺された手前、牛乳色の髪をぐしゃぐしゃに乱すにとどめる。簀巻きにするのは問題ないのかが疑問だ。

「……そういう君はどうなの。重ねてるから、僕に構ってたわけ?」

 乱れた白髪の隙間から、若葉色の瞳が思案に揺れる。

 奇妙な間が、やけに長く感じた。聞きたいけれど聞きたくない。やっぱり答えなくていいと前言撤回すら過ぎりかけて。

 形容しがたい居心地の悪さは「どうなんでしょうね」と払拭された。

「切り離しているつもりですが、ちゃんと出来ているかは分かりません」

 氷崎に聞いた時も、似たような事を言っていた。先祖返りが「そうでない人間」として振舞うことは、記憶喪失を詐称するようなものだと(個人の感想と念押しもされた)。上辺を繕うことは出来るかもしれないけれど、十中八九ボロは出る。

 それに、『前生の記憶』を連続した自己のそれとして認識してしまっている以上。本人は無意識でも、人格への影響は避けられないと思われる――だから、厳密に考えれば無理な芸当と言い切れるのかもしれない。

「君の内心にケチつける気はないよ。押し付けられたと思ったことも無いし」

「左様ですか。……ご慈悲ついでに拘束これを解いて頂けると嬉しいのですが」

「絶対安静らしいから自力で交渉して」

――僕は、自分の目で見たものを信じる。

 救えない殺人者で、腕のいい菓子屋で、いつも気の抜けた顔で笑っている間抜け。病的なまでに約束を違えない義理がたさがあるくせに、忠義は無いとかいう不可解。

 すべてがまことでとち狂った、僕の友人。

「君は変わらず君のままだろ。だいたい分かったからいいよ」

 そう言っただけなのに、あいつがやけに嬉しそうに笑うから――居心地悪くて目を逸らした。呼び止める声を無視して病室を出る。

「じたばたすんな。虫みたいでキモい」

「それは巻いた人に仰ってくださいよ……」


 あいつが自力で拘束を抜け出せるようになるまで、他愛もない話ばかりした。

 本当にしょうもない世間話だ。演劇サークルの部員に妙なもの掴まされたとか、特殊退学(要は鬼化)の相次ぐゼミが大学側から目をつけられだしたとか。あとは飯の話題。

 するべき話は分かっていたけれど、後回しにしていた。

 ある日の脱走は数分でバレたらしい。拘束が更に厳重になり、もはや死体と見まがう雨屋に、「次やったら薬入れるよ」と氷崎が圧をかけていた。力関係は知れた。


 本人の回復(日常動作程度)に医者の許可が追いついて、そこでやっと襲撃計画の話ができた。支部長に味方していたはずの殺し屋は、ひどくあっさりと協力を確約した。

「……どういう割り切り方してんの?」

「順番こに承るだけですよ。いま請けているお仕事はありませんし、割り切るもなにも」

「刺されてないのが奇跡だよ、お前」

「刺されてますよ。いっぱい」

 その辺の感覚がイカれてるらしい奴に話題を振るのを、寸の間ためらった。

 雨屋は呑気に、怪我人を帰し終えたらしい氷崎に話しかけている――「お医者様がいかに優秀かというお話ですよね」「雨屋が勝手に治ってるだけ」「処置ありきの回復じゃありませんか」「うるさいよ」「ほんとのことですよ。もすこし偉ぶってください」「暇ならゴミ捨ててきて」「畏まりました」

 ついでにお遣いが無いか尋ねている雨屋から、袋を半分むしり取る。

 廃棄場までの細い道は、午前なのに澱んで薄暗い。

「……自分のしたこと、償う気はあるの」


 支部長への脅迫は、膿を出しきる意図だ。

 裏街保護のため払われた犠牲を認めさせ、野放しにされてきた殺し屋を検挙する。

 相手が誰であれ、やった事はやった事だ。事実を擁護などしない。真っ当に償わせる気になったことこそ「心変わり」なのかもしれないが、何でもよかった。


 懲役におびえて逃げる性格とは思っていない。

 聞こうとするたび喉が詰まって、確認を先送りにしてしまっていただけ。

「よろしくお願いします。お手数をお掛けしますが」

 また――いつもの困り笑顔で、眉を下げているんだろう。

「わかった」と答えた相槌が不自然じゃないことを、柄にもなく祈ったりした。

「氷崎さん、お腹すかせてらっしゃいましたし。これ捨てたらコンビニ寄りましょう」

「スーパーのほうが近くない? いまの時間ならギリギリ開いてるよ」

「コンビニで取扱っている、おにぎりサイズのお稲荷さんが欲しいんですよね……氷崎さんのお気に入りだと踏んでるんですよ、いつも嬉しそうに召し上がっていらして。今度こっそりご覧になってみてください」

 廃墟の密集する狭間通りから出ると、喧騒とともに陽光が戻ってきた。ちょうど僅かな雲間から、太陽が少しばかり顔を出す。

 柔らかな短髪の白は、ぬくめられたミルクの甘味を纏う。

 ピアスに光る蜂蜜の小石が、とろみのある艶を含んできらきらするのを、何も言わずに眺めていた。


「行きましょうか。棗さん」

――最後の日も同じ。穏やかな晴れ間だった。


 暖かい光をうけた白髪が、相変わらず甘そうに揺れていて。

 支部内に侵入してしまえば、あとは最後までやり通すだけだ。きっと最後の会話になるのに、不思議と言葉が出てこない。

 促された一歩すら、拒否する始末だ。

「……なにか異常でも?」

「……無いよ、そんなもん」

「この日のために、たくさん練習しましたものね」し物みたいに言うな。


 今度こそ本当に、決別だ。

 馬鹿みたいだった。ガキじゃあるまいし、こんな事で取り乱すとか――口ばかり達者で、実際の振る舞いに何一つ反映できていないから笑えた。

「では、先行して配置についておりますので。いつでも始めてくださいね」

 訓練棟に向かう雨屋の、骨っぽい手首を掴んでいた。


 勝手に動いた手に、言葉はついてこなかった。

 だからといって、離していいとも思えずに。気まずいから離してしまいたいはずの手を、子供みたいに握りしめて黙りこくる。

「棗さん」

 ほどかせたのは雨屋だった。

 絡まった毛糸をほぐすみたいに、あっという間に手と手は離れて居づらさだけが残される――わけでもなく。

 今度は逆に、僕の手をあいつが握っていて。


 手の甲に一瞬だけ、やわらかな熱が触れた。

『貴方は、大丈夫です。この先に何があっても』


 その記号は知っていたし、知らなくても理解わからせられた。きっと。

 今でも疼く、もどかしいほど甘ったるいくちづけ。

「……そういう真似すんなら、こっちにはわかんねーようにやれよ。ボケが」

 恨み言を吐いたところで 色が似ている宝石菓子しか此処には無い。

 ひと噛みで砕けた琥珀糖を、際限ない呪詛と一緒に飲み込んだ。


 健全な友人関係ではなかったんだろう。あんな真似するくらいだ。どさくさ紛れに全責任おっ被せたい所だけれど、不健全のそしりは甘んじて受けてもいい。心当たりあるから。

 お互い様に不健全で、不必要なのに隣を選んで。

 友愛と言うには側にいて、依存とするほど癒着はしない。

 連絡が取れなくなることくらいざらだった癖に、消えると思うと、他の何で埋めればいいのか解らなくなった。

 今もどこか現実味がなくて――時おり、足元の地面がここに無いような心地がする。


――この感覚が嫌だから、あいつの手首を掴んだのだと。今さら気づいた。


 気づいて、笑った。

 正しさなんてお行儀のいいものは、あいつの味方をしなかった。正しくない人間に利用されたあげく人生棒に振らされてる奴に、どうしてそんなモノ手渡した。

 駄々こねられてもじ伏せればよかっただろう。支部長とどんな取引をしたか無理やり吐かせて、契約自体を反故にさせてしまえば――

「……くそったれ」

 すべて自分に被せてほしいと。その懇願すら蹴倒せなかったくせに。

 雨屋自身に罪状が山とあることに変わりはない。清算させずに生かしておくなら、それは支部長がしてきたことの焼き直しだ。

 償わせないといけなかった。あいつが真っ当な道に戻れるように。


 よく分かっている。

 それでも道理を曲げようと躍起になる感情が、ずっと、苦しい。



 どうでもいいことばかり語って、冗談を言い合って。日が変わるまでなあなあに、いつまでも酒を酌み交わす。

 何の生産性も無い、ありきたりでしょうもない、くだらないものでよかった。

――くだらないものが、よかった。


 あの穏やかな声と、ゆるい歩調。

 それしか望まなかったのに。

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落日、硝子が割れる 藤野羊 @108003

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