終幕

 訓練棟三階から、管理棟へ繋がる渡り廊下を抜ける。

 階段を四階へ登れば、支部長室はその突き当たりだ。

「さすが、仕事が早いね」

 応接用スペースや飾り棚、本棚が複数備えられたゆとりある空間に、暴動の手際を褒め称える拍手が響く。スーツの立ち姿は毅然としながら若々しく、彼が初老に差し掛かる年齢という事実が余りにもそぐわない。

 後ろ手に扉を閉めた棗の傍に、雨屋が控える。

「大慌てで迎撃部隊ぶつけといて余裕ぶるのは、僕たちを笑わせようとしてくれてんの? 支部長サマ」

「ああ、……急いで駆けつけてくれたろう? 申し訳ないことをした。不穏なところで通話が切れてしまってね。……通信妨害装置まで持ち出される信用の無さは謙虚に受け止めるよ」

「……クソ戦力だったのは同意するけどね。あれで十分と思われてんなら逆に殺す」

「……私としても、君に此処を離れられる事は本意じゃあない。概ねの話をするつもりでいるから殺気立たないでほしいな」

 テーブルを挟む応接用ソファへと着席を勧めた支部長の愛想を、棗は黙殺した。

 支部長は小皺のある目尻を下げただけで、その不躾を咎めもしない。先んじてソファへ腰掛け、ゆったりと両の手のひらを組んだ。

「棗くん。君は『鬼化』というものを、どう捉えている?」

「……僕があんたに求めてるのは、そういう話じゃないんだけど」

 不正に手を染めてでも北支部長の役職ポストに収まった動機。裏街を保護する理由、首謀者の自供。

――他者の人生を犠牲にしてでも為すべき大義とやらを、どう正当化する気なのか。

「準備しとけって言ったよな。さっさと弁解してみせろ」

「核心から始めたつもりだけどな……怒られる気はしていたけど、いささか困ってしまうよ。琥珀くん、君のお師匠様を宥めてくれないかい?」

「痴呆か? 手駒の名前くらい正確に覚えろクソ野郎」

「『在る』ものを無視する方が不自然だと思うよ、私はね」

 二人の視線が、争点である昼行燈に集まる。

 なのに当の本人が眉を下げて長身を縮めるものだから、あっという間に火種は湿気た。雨屋は棗から念入りに頬を伸ばされた。

「……じゃあ、そうだな。中央本部の基本方針は正当だと思うかい」

「妥当」

 正しいかどうかは知ったことではない。

 棗は中央本部に対し、淡々と評価を連ねる。

「鬼も初期段階、弱いうちに狩った方が楽。早期発見でどうにかなるなら、それに越したことはない」

 人材と設備、資金が潤沢な上に投資を惜しまない。

 早期発見、早期駆除の徹底。ほぼ一貫した考え方で整えられているからこそ綺麗事は現実に叶う。昔はあった中央裏街も、ある時期に大規模な一掃作戦が決行された。以来、目立った鬼の温床の発生は確認されていない。

 それは紛れもなく中央の功績だ。

 そして、綺麗事が支持されるべき理由。

「あの辺には中枢機能が集中してるし、曲がりなりにも中央――この国の中心だ。顔みたいなもの。だったら顔らしく、綺麗でよい子の顔をしていた方がいい。多少潔癖なくらいでも。イメージってのは馬鹿にならないからね」

 中央に推奨される顔は、国としての戦略の一環のような代物。斯く在るべき姿。

 田舎支部の北は文字通りお話にならないような。まるで縁のない話だ。

「それに中央は人が多い。監視しなきゃならない市民も、鍛えなきゃならない駆除員の数も、どっちもだ」

 中央はシステムの改良に慢心を挟まない。より効率的に駆除を行うため、人の手の掛かる領分を他支部に比べて随分と減らしている。

 とはいえ、中央の人口を相手取るには一定数の隊員が必要なことには違いなかった。性格的な適性の如何からは逃れようもない職務でありながら、選り好みはしていられない。

 ならば。「選り好みが最小でよい」やり方を適用するほかない。

「有象無象でも、腰抜けでも、一人の戦力に仕立てなきゃならない。中央こそが絶対の正義とかいう錦の御旗みはたと思考停止の洗脳教育は、理にかなってる」

 どちらにせよ、北と安直に比較できる対象ではない。

 数え上げればきりがないほど、条件が違い過ぎる。北と中央に限った話ではなく、どこの支部でも同じだ。

 地方の各支部も、中央本部も。それぞれの土地柄に適した形で発達してきた。


 語り終えて一瞥した先――支部長が小さく笑いを堪え、口元を手で覆っていた。


「やはり君は、好き嫌いの、激しいわりに……っふふ、そういう所がある」

「個人的な好みの話しろってんなら小一時間こき下ろすけどそっちをご所望だった?」

「いや、違わないよ。……そうだね、君の言う通り。中央の方針はきっと、なるべくしてああなった」

 その相槌は、棗の下した評価への肯定。

 支部長が一旦ソファを立った。棚から茶筒を取り出して、紅茶の好みを棗に尋ねる。精緻な紋様の刻まれた缶を選んでから、同様の問いを雨屋に投げた。「どうぞお構いなく」「僕と同じやつでいい」「いいね。そうしようか」

「その上で私は、中央の方針こそが正当だと、手放しで歓迎はできない」

――誤解を招くかもしれないけれど。と、注釈を入れながら。

 白い電気ケトルにランプが灯った。

「……何が言いたいわけ?」

「中央の早期駆除は過剰だと思っている。これは極論だけれど、あれが全支部で適用されてしまうことは避けたい」

 極論と指した通り、支部長の指す仮定が実現する可能性はごく低い。杞憂だ。

 棗がその碧眼を警戒に細めたのは――「ほぼ無意味な仮定を行う理由」「その仮定において言及された憂慮の正体が不明瞭であること」、

 現在の脈絡から指し示したいであろうことは何か。

「あんたが北を……鬼化末期、暴走個体の駆除に特化させてんのも、狭間通りを保護してるのも。ぜんぶ同じ意図があるって話?」

「そういう、私が万事すべて裏で手を引いているみたいな言い方は頷けないな」

「……へー、よく言う」

 支部長の主張が肯定されそうな気配はない。

「この世界で初めて、鬼化について述べた論文。知っているかい」

 論文には当時、科学的根拠も物証も、添えられてはいなかった。

 荒唐無稽な御伽噺、爺の耄碌もうろく。物証は後から付いてきた。そんな代物を、棗は迷う素振りもなくそらんじる。

「『心的負荷に起因する疾患。病態の進行につれ、異常ヒト細胞への置換が全身に至る致死性の変質。異常細胞の産生物質は、生体に強化及びその他副産物をもたらす――』」

 対策部、鬼に関わる組織として、座学で触れるそれ。

 棗は暫くして言葉を切った。支部長が深く頷き、含みをたたえて笑っていたから。

「その通り。人が初めて不可思議を暴いた、歴史的な転換点だ。そして」


――論文が暴こうとしていた不可思議は「鬼化だけではなかった」。


 曇りのない銀のティースプーンに、棗の驚きが映る。

 映りこみは一瞬だけ。匙は静かに、花を纏う茶葉を掬い上げた。

「鬼化は、願いの花が高じた先の、果実の実りだ。感情、願い、欲望、祈り。そんな呪いを身に蓄えて熟れ――じき、腐る」

 誰ひとりと声を発さない沈黙に、湯の沸く音が喧しく響き渡る。

 大きな泡が、ぼこりと鈍い音を立てた。

「そして。果実のうちには、ごくまれに『腐り落ちないもの』がある」


『不老不死を叶えた生物は、既にこの世に存在している』

『環境毒性、外傷、細胞の増殖限界、悪性致死性の腫瘍や疾病。人間の諸機能に致命的な数々の変性に耐え、克服し、治癒を叶え、適応する柔軟性――『彼ら』は、不老不死と呼ぶに相応しい形質を獲得している』

『各地で畏怖をもって語り継がれる、数多の魔物や神の伝承――その幾ばくかが『彼ら』であると考える』

『鬼化変性――異常ヒト細胞への置換が起こらない身体を、只人と客観的に区別する方法は未だ発見されていない。また異能の源が鬼化細胞の産生物質とは異なるためか、観測に成功した例は無い』

『鬼よりも圧倒的な脅威でありながら、音にも聞こえず、不可視の隣人。この論文は、その『彼ら』の存在を訴えるものである』

 

『鬼化変性は云わば、『彼ら』になり損なった個体の成れの果てとも呼べるだろう――』

 

「……それが『不死者』、」

「ご明察」

 原論文を保管する中央本部は、意図的に一部記述を秘匿している。

 その不死を手に入れるため構成された研究班すら存在している――というのは、現状からの脱線になるが。


 華奢な白磁のカップと、対の装飾のティーポット。あらかじめ温められていた陶器に、沸騰した湯が注がれる。

 茶葉が大きく開いて、すきとおった紅と、鮮明な彩りを包んだ香りが溢れ出す。豊かな芳香を小さな蓋が慎ましやかに閉じ込めて、砂時計がひっくり返された。

「とはいえ不死者は、普通の人と全く見分けがつかない。だから……そうだね。『人のうちで偶然生まれた、ある程度、鬼化変性の起きない素質に恵まれた個体』と指した方が適切かな」

「……で、あんたはその不死者とやらの味方なわけね」

 棗の物言いは、支部長の返答を初めから期待していない。

 支部長は笑って「その友人も、紅茶が好きでね」と。茶請けの菓子を探し始めている。じき重箱ほどの大きさのクッキー缶を見つけて、皿と一緒にソファへ戻ってきた。

 焼き菓子が白の大皿を彩っていく。

 市松柄にシナモンシュガー、ナッツの入った濃厚なココア。ドロップクッキーはシンプルなプレーンで、その隣にはおもちゃのようなアイシングクッキー。

 うちの一枚を攫ったついでと、棗が支部長の正面ソファに腰掛ける。

 その背後に控え、「甘いのに釣られないでください」と耳打ちした雨屋は、すみやかに口に焼き菓子を詰めこまれて黙らされた。

「中央の過剰な早期駆除。……導入当時、不死者が大きく数を減らした。そして、不死者が育ちづらい土壌は今も変わっていない」

 支部長の憂慮は、初期の鬼化個体――中央が推奨する駆除閾値の中に、不死者とその幼体が含まれること。

 自然にあるもののバランスを恣意しい的に崩すことは避けた方がいいというのが彼の主張だ。中央におけるやや過剰な潔癖思想も、不死者の芽が育たないということも、どちらも同様にいびつだと。

「環境変化で消えるならほっとけよ。適者生存でしょ」

「人と呪いは切り離せない。彼らが消えることは無いよ、鬼が居なくならないのと同じ」

 再度ソファを立ちながら、支部長は茶器の支度に戻っていく。

「成体に満たない不死者や、鬼。彼らが排斥されなくて済むグレーゾーン……狭間通りの保護には、北支部長の立場がある方が好都合だった。私の目的はそれだけだよ」


 砂時計が落ち切った。

 支部長手づから紅茶を入れ、思いついたように入口へ声を掛ける。一礼して入室した顔に棗が表情を歪めたが、支部長は気にする様子もない――「羽住くんもどうかな。紅茶」「……職務中です」「気にしなくていいのに」

 残念そうに、扉の脇に控えた羽住を紹介するにとどめる。

「彼女たちに頼んでいるのも、私の目的に関連したお手伝いになる。書面上の経歴はどうあれ人格は保証するよ」

「……元対策部の前科者とかいう、どこも引き受けたがらない貧乏くじの受け皿って話?」

「鬼化変性という病態に造詣が深くて、鬼を『ひと』として尊重してくれる。そういう人材をスカウトしていったら自然と除隊者が集まったんだよ。東支部長には話を通してある」

「根回しの心配とかしてないから。対策部の地方支部長が揃いも揃って何やってんだよ」

「元とはいえ他支部の隊員をお預かりするんだ、筋は通しておかないと。血を流さないに越したことはない」

 支部長が紅茶を運んで、自らもソファに腰掛けた。

 向かい合う棗に微笑みかける。

「『彼ら』の話もしておこう。危険な怪物などではないと、信じてもらえたらいいのだけど」


 ■


 雪平はしばらく動かなかった。

 佐倉が安堵の息をつく。呆然と座り込んだままの雪平に寄り添う訳ではなく、施術の成功を喜んだに過ぎないけれど。

 膨大な呪いと記憶を封じていた術は、完全に解けた。


 とうに正気なはずの雪平は、しかしながら俯いたままだ。

 震える両手で、こわごわと顔を覆って――絞り出した低い声には、佐倉への怒りのようなものが、含まれていた。

 あまりにも鈍く、炎の燃え盛った跡でくすぶる灰に似て、力無いものだったが。

「約束が、違う。これじゃ……俺は、何のために」

「約束が違うはこっちの台詞よ、あんた監視で十分とかほざいてたわよね? あたしが多々良に指示して人狼の左腕サンプル回収させてなきゃ最悪いまごろ不死者全員モルモットか抹殺対象にされてたわよ。中央の不始末どう落とし前つけてくれんの?」

 人として生を受けながら永い時間を生き、その身に呪いを蓄えた不死者。

 彼らの望みは存在の秘匿と平穏な暮らしだ。その為に、人間社会に溶け込みやすい有力個体が水面下で監視を担い、不死者というものが暴かれないよう調整してきた。

「遊びほうけたぶん働いてもらうわよ。色魔」

 雪平が額を押さえ、ふらつく足で立ち上がる。

 佐倉の顔をじっと見つめ、長い溜息をついた。

「……だからな、俺は色魔じゃなくて」

「そういうトコくっどいのよねえ……まあ、今回はいいわ。人間のふりしてるアンタに付き合ってやるのも本当にお終いって気がするから。許してあげる」

 鬼化変異が精神疾患に類され、科学技術の発展とともに神秘は薄れた。

 ほとんどの不思議が「鬼化変異だった」と片付けられることで追及を逃れた本物の怪異たちは、生態に応じた生活圏を形成しながら隠れ暮らしている――神秘に光を当てられて、人間と同じ場所には居られなくなった、とも言えるが。

 動きづらくなった怪物は、人間社会への牽制手段を考案した。

 その一つが、理解ある人間に委託する施策――佐倉が北支部長に協力を仰いで構築された組織、「不死者及び第一級危険特別犯罪対策組織」というものがそれにあたる。

 多々良の意向で狭間通りへの支援を行いながら、不死者疑いの個体がいないか目を配る。不死を暴こうとするものを抑止し、不死者の犯罪行為は(社会の目に留まる前に)拘束する。手に負えない凶悪犯罪に対して傭兵じみた役目を果たすこともあった。

「試験運用だけど、あんたのヘマをリカバリしてくれる程度には有能みたいね」

「……さっさと用件を言え。人間じゃ庇えないモノが出てきたから起こしたんだろ」

「自分の尻を拭いてこいって言ってんのよ。黒の歌姫及び偽りの歌姫、その研究データの一切の破棄。関係者の記憶の改竄かいざん

「っな、!?」

「……あたしだって介入なんか極力したくないけど言ってられないでしょう。データはとっくに解析されてる。腕一本取り返せばすむ段階とはワケが違うのよ」

 雪平は言いたいことがありそうな顔のまま、自分の非だと黙りこむ。

 沈黙をいいことに、佐倉が次々まくしたてていく。

「記憶に残らない顔にしなさいよ。……一応聞くけど錆付いてないわよね? あんたの長所、女漁りで磨かれた変身術しか無いわよ」

「それが人にものを頼む態度か?」

「あら、あたしに何て泣きついたか忘れたとは言わせないけど。自分で約束したでしょう。ちゃあんと念書もあるのよ?」

「……俺の目的は何も」

「とりあえず紅茶でもいれて貰おうかしらん」

「俺は、」

「聞こえなかった? 紅茶」

 カウンター席に掛けて微笑む佐倉の圧は、一切の反論を封殺した。


「あの科学者、転生したわ。気をつけなさい」

「、……名前は」

「白幡遊。アレに記憶操作は逆効果よ、捕捉されたら潔く塵になりなさい」

「ならない」



「彼らは僕らと同じ『ひと』だ。鬼がそうであるように、何の変わりもありはしない」

「……貴方は、」

 声を発したのは雨屋だ。

 言葉に迷う素振りに目を細め、支部長は穏やかに先をうながす。

「……すべての『ひと』を救うと。まだ仰るのですか」

「僕は、自分の理想が間違っていたとは思わないから」

 一度は敗れた理想でも。

 この社会構造から人権の保障とまで世論を動かすことは、一朝一夕には叶わない。――だからせめて、彼らが命を脅かされない場所として、非公式に狭間通りを保護した。

 鬼に安住の地を提供する代わり、表には干渉しないよう自治と統率を任せる。純然たるデータとして、北支部の殉職率はぐっと減った。

「鬼や、そこに紛れた不死者の幼体も保護できた。数は少ないし、ほぼ経過観察中だけれどね。……中央だったら処分されていた、北だからこそ奪わずに済んだ命だ」

 必要としている人に、必要とされている仕組みを提供した。

 一般市民の人権を制限するものではない。

 誰にも迷惑はかけていない。より多くが暮らせる形に整えた。

「これを正義とおごる気はないよ。自分の手の届く領分で、正しいと思うことを成しているだけだから。……無論どんなそしりも受ける。この道を選んだのは僕だ」

「……他人の手ぇ汚させた時点で、あんた個人の領分はとっくに越えてんだろ」

 棗の低い声が、支部長を突き放した。


 棗はちらと背後を確かめる。

 支部長が意味ありげに視線を向ける先。――一切の汚れ仕事を任せられていた殺し屋は、棗と支部長を交互に見やってヘラヘラ笑った。居づらいかと気にして損した。

「言い訳は終わり? だったら僕は結論出すけど」

「……当時、裏街廃絶派の支部長候補が最有力でね。彼の就任だけは何としても避けなければならなかった」

「だろうね。あんたの野望は狭間通りありきで成立するし、世論と真っ向対立するのも厳しい。北の世論が廃絶派に傾いたら草の根運動からやり直しかな」

「裏街の壊滅を免れたとて、一度でも掃討の意向を見せた北支部の頭が信頼を得るのは困難だ。機を逃すわけにはいかなかった。……僕はひどく中央から嫌われていてね、監視の目もある中で完璧にオーダーを遂行できる実力者を頼った」

「警戒してて正解でしたって、あんた自身が証明しちゃってんのが笑えるよね」

 ティーカップのハンドルを優雅につまんで、冷めた紅茶をひとくち含む。

 微かな嘲笑すら消し、棗は淡々と続けていく。

「対策部だの支部長職だのに力があるのは、それで市民を守りますって約束事があるからだろ。『鬼や不死者も市民のうちだ』って言い張るのは勝手だけど、対策部の理念と食い違ってんのは自覚した方がいいんじゃないの」

 異類対策部は、いちばん弱くて死にやすい『人間』に味方してやる場所だ。

 対策部が中央の方針――裏街廃絶と早期駆除――を第一選択としているのは、潔癖なだけが理由ではない。

 普通の人間の生活を、より確実に守るため。

 最も単純な対策部の本分を遵守するには、それが最も堅実だからだ。

「人間ひとり殺し屋に引き込んで、都合の悪い輩を排除させて。守る『人間』を選別したあんたの思想は真っ当な受け取られ方しないよ」

「長期的には人間の利益も産む。落命する隊員は減って、死ぬ必要のない人を救えている」

「短期的に切り捨てられた側が納得するかよ。損得勘定のはかりに他人の命のせてる時点で傲慢だって気づかないわけ?」

「僕は、自分の犠牲で社会が変わるなら死んでもいいと思っているけれど……うん。そうだね」

 支部長が微笑む。


「やはり君は、お父上の高潔を受け継いだ武人だ」

――誰が血縁の話しろっつった。


 反射で開いた口は不自然に固まり、――ひと呼吸おいて、閉じた。


 背後に控える昼行灯から、背中をかるく押されていたから。

 多分、支部長には見えないかたちで制止したかったのだろう。一時の激情さえやり過ごしてしまえば、狭まった視野はもとに戻る。

 目の前の男が、わざと棗の神経を逆撫でたことは透けていた。

――別に。普通に諫めればいいものを。

 やけに背景に徹しているというか。発言する気すら感じられない。紅茶も棗より先に手をつけ、いつの間に飲み干してソファを立っていたし。全体的にコソコソした立ち回りが若干気に入らない。「雨屋」「? はい」視線で指図すれば、察しのいい間抜けは訝しげにクッキーをつまんで棗の口元に持ってくる。

 アホの手首を掴んで、指ごと焼菓子に噛みついた。

「あんたら、いちいち他人と比較しないとモノ言えない病気なの?」

「っふふ、すまないね。血筋というのは馬鹿にならないなと、君を見るたび感心してしまって……ああほら止めてあげなさい、噛み千切る気かい」

「喧嘩売りやがったのは誰だよ。ほぼ挑発だろうが」

 ゴリ、と骨をえぐり噛んでから解放した。血の味がする。

 背後からふにゃふにゃ「私の指は骨ガムじゃないんですよ」と情けねえ声がした。

「君たちは……っくく。ほんとうに仲がいいね」

 目の前の最高上官が腹を抱えて笑い死にかけていて、よっぽど唾吐いてやろうか迷った。まともな奴いねえのか此処は。

 震えながらクッキーを摘んだ指が、それを取り落としそうになっていて。

「僕はね。願いに正直に、ひたむきなひとが好きなんだ」

 そう――支部長の見せた顔が、ひどく幼く映った気がした。

 もちろん気の所為だ。壮年の男はまた含みのある微笑を浮かべなおして、胡散臭い北支部長へと戻っている。

「たとえ僕が居なくても、誰かが此処に立っていた。私の役割はその程度のものだ。……それでも僕は嬉しいよ。尊い願いでうまれる彼らを支援できる立場に居られて」

「……私欲しか見てなさすぎて手段選ばねぇ法を外れるクズが出てるだろ。美化すんな」

「確かにそうだね。……ふふ、これが僕の欲なんだろう。贔屓目になるのも仕方ない」

 この男も、不死の化け物にとっては消耗品だろうか。

 厄介事とわかっていながら採算度外視に関わる理由が単純な好意というのは、――不思議と腑に落ちた。この男もまた自分の呪いに正直で、手段を選ばなかった。同類だ。

 本来なら対策部が刈り取るべきだった、願望の危うい発露。

「私の敷いた施策の利点は証明されてる。頭が替わったとしても、北は狭間通りとの敵対を望まないだろう。不干渉と少しの寛容さえ在れば、共存が可能だと解ったからね。……君も言ったろう? 世論は一朝一夕には翻らない」

「一般人は、あんたが思ってるほど害虫駆除にも虫にも興味無い。掃除するなら良いんじゃないの程度に思ってるよ。……当事者になって気付いた時には、発言権なんざ取り上げられてんだから」

「だとしても、前例と実績は残せた。命を救えた」

『棗先生』

 演劇サークルを追われた学生が、狭間通りで生きていた。鬼であることを許容して、裏街で生きる意志を固めていた。

 裏街でしか許されなかった命があることを、よく知っている。

「引導を渡す気がなくなったのなら、私から提案しよう。……棗くん、雨屋くん。二人も一緒に、裏街の均衡と安寧を守ってはくれないかな」

「! 支部長、しかし。死神は」

「羽住くん。君が所属する組織は、死神という工作員の働きのうえに成立しているんだ。いま一度考えてほしい。……それに彼らの失脚はね、過去の悪事の報いを受けるよう細工してあげたに過ぎないよ」


 救われたものは確かにあった。

 そして多分、これからも。

 恐らく既に、犠牲になった数より多くが恩恵にあずかっているだろう。

「……見くびられたもんだね。この僕が、んな詭弁でなびくと思われてんだ?」

 どれほど素晴らしくとも、死人がいる。不条理な割を食った人間がいる。

 これを肯定してしまうと――同じように、裏街の秩序とやらが手段を選ばず壊されることも肯定せざるを得なくなる。『誰にとって都合がいいか』だけが移り変わっていく過程において、裏街および北の社会はあらゆる手段での蹂躙を許す。

 そこに人民の安寧は無い。人間も鬼も、平等に脅かされる未来しか。


 歪みは誰かが償わなければならない。

「それ」は、元凶たる化け物(支部長を唆した何者か)や計画立案の支部長、そして実行犯の殺し屋へそれぞれ課されるべきだ。

 そんな事は分かりきっているのに。


 テーブルを殴りつける音が、部屋中の意識を一点に集めた。


 振り下ろされた棗の拳は、微かに震えている。

 憤りに乱れた呼吸を整えて、深く息を吸った。

「支部長。悪いけど、僕がしに来たのは真逆の話」

 雨屋から、ソファの裏に置いていた黒い鞄を受け取り、躊躇わず逆さに持ち上げる。

――大量の紙を綴じ込んだ事務用ファイルが、濁流のごとく溢れ出した。

 ファイルが綴じなくなるまで膨らんだもの、事務用のクリップで整然とまとめてあるもの。時系列で整理された冊子の集合。

 山が重なっては崩れて広がり、また重なることを繰り返す。

「ここにあるのは、僕が今まで集めてきた、死神の悪事の全てだ」

 死神の模倣犯をのぞく、ほんとうに雨屋が請け負った犯罪の事実。一つ残らず、増やしもせず、まったくの正確な悪事の事実がテーブルを埋める。

「真実を白日の元に、なんて話はしてない。こいつの管轄が君らの組織とやらにあるなら、君らのやりようで社会への影響を考えればいい。世間への公表の有無は問わない」

 最後の一枚が翻る。

 棗が鞄を放り投げ、紙面の海にいびつな黒点が落ちた。


「しでかしたこと全部、正当に法で裁け。証拠が見つかっていない事件だろうと、こいつは正直に自白する。……ただし、」

 当然そこには、支部長を非合法手段を用いて支援した罪状が含まれる。

 しかしながら――内情は事実とは程遠い。

「……死神は、あんたへの支援は自己判断だったと主張してる。すべて自分ひとりの悪事だと。……この意味わかるよな」

 当の実行犯が『汚れ役を最後まで果たしきる』と譲らなかったから。


 支部長が固まる中、棗は淡々と続ける。

「拒否した場合、捜査資料と犯人の身柄は警察に引き渡す。要はあんたも道連れルートだ。……反省してないのはよく分かったからね。真っ当に脅迫させてもらうよ」

「君が納得するわけない。僕や佐倉さんはお咎めなしだなんて」

「当たり前だろ誰が納得するかよ」

 けれど死神は、余罪が死ぬほど多すぎる。

 殺しを始めた切っ掛けが支部長にあったとしても、最たる実行犯が雨屋なのは事実だ。そして何より、本人がほいほい請けてきた殺人代行は正真正銘の自己判断で遂行された。

 死神の正体を知りながら、便利な殺し屋を手放すのが嫌で止めなかった責任はあったとしても、純然たる本人の罪の方が数は多い。その点を庇う気は全く無かった。


 頼まれたからやった。どんな仕事も貴賤は無しに、平等に。

 そう本心から言い切れる時点であらかたのネジはぶっ飛んでいる。

 この殺し屋は十分、立派に言い逃れできない悪だ。


 羽住から借りた手錠が重い。――雨屋と言い争っている支部長はともあれ、組織とやらには筋書を承知する意思があるらしい。話が早くていい事だ。

「織り込み済みで外注なさった汚れ役でしょう? 最後まで全うさせてくださらないなら、此方だって納得しません」

「……僕は最低限の仕事は果たした。職を辞する覚悟もできてる。君自身の罪を償う必要があるとしても、僕の罪まで負わせることは本意じゃあない」

「いいえ。そこまで果たしきることが私と貴方の契約です。お借りした分お返しする為のご奉公なのですから、今更そのように仰られますと収支が合いませんので」

 その『貸し借り』について、雨屋は語ろうとしなかった。

 棗が何を言おうとも、北支部長の秘密も一緒に持っていくと譲らなかったから。どうしようもなかった。

 あきらめ悪くも言葉を尽くす支部長を冷めた目で眺め、割って入って胸倉を掴む。

「悪党らしく居直れよ。最初から切り捨て前提の配役したのはお前だろ」

――雨屋は死んでも喋らない。そういう約束なら、絶対に。

 支部長さえ何も言わなければ。しらを切り通してしまえば、殺し屋の勝手な行動が『偶然』支部長に味方しただけでいい。そういう役を、忠誠心きもちが無くとも約束は守る馬鹿に振った。人格を承知しているからこそ宛てがわれた配役。

 元々そうして逃れる気だったろう。完璧な保身だ。

「貫けないなら辞めろ。……身の振り方に関わらず、僕は一生あんたの首に刀つきつけてると思え。次は容赦なくねてやる」

 その裏にいる、佐倉とかいう不死者のことも。

 支部長を突き飛ばして振り向くと、雨屋がにこにこ此方を見ていた。


 両手を揃えて、身体の前に差し出したまま。


「……手錠、使ったことありませんので?」

「そりゃそうだろ。警察と違って、ぶっ殺して死体袋で運ぶのが基本なんだから……ああ、こうか」

「けっこう重いんですねえ」

「はしゃぐな」

 無駄に動き回ろうとするアホの首根っこ捕まえておく。

 何処かに連絡を入れ終えた羽住が、雨屋の身柄を受け取った。

 従順に後をついていく細い背中には、振り返る気配を感じない。


「いってらっしゃい」

 支部長室を出ていこうとする間際。

 覇気のない呟きを拾い上げたらしい雨屋が振り向いて、残った右眼に棗を映す。


「さようなら。棗さん」

 扉が閉まる最後の時まで、その男は笑っていた。

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