Ed
朝が来る。
八朔はその日、悪夢を見なかった。代わりに、不思議な夢を見た。
「おはよう、八朔。旅は楽しい?」
初めて八朔の前に、生きている「彼女」が現れた。
「早く帰ってきて。待っているから。今の君なら、私が見えるようになっているはず」
そして、八朔は目を覚ました。鈴の音のような彼女の声が、まだ耳に余韻を残している。
「見えるように、なっている……?」
駐車場での死闘を終え、ふたりはそのまま気絶するように眠ってしまっていた。
一足先に目覚めた八朔は柚木を起こさぬよう車を抜け出して、大きく伸びをした。
手元の時計は午前五時を指している。
早朝のひんやりとした空気が肺へと入り、ぼんやりした頭もゆっくりと覚醒してきた。
柚木の母は、渾身の突進を受け、ふたりの前から消えた。
恐らく、柚木の前にはもう姿を現さないだろう。
あの霊は、柚木が無意識に心に抱える母の姿を追って、息子の前に現れていたのかもしれない。今となって八朔は、そんな気がしているのだった。
「長い一夜だった」
八朔は笑いを含みながらそう口にしてみる。
一夜のうちに起きた様々なことが、すでに遥かむかしのことのように感じられるなかで、柚木が懸命に自分の過去と決別しようとする姿は八朔の脳裏に鮮明に残っている。そしてこのタイミングで見た、今朝の夢。「彼女」が八朔を呼んでいる。
「今度は俺の番か――」
八朔は苦い顔で髪を掻きながら、立ち上る紫煙の陰に隠れて呟いた。
煙草にはもう火が着いている。
「おはようございます」
のそのそと柚木も起き出してきた。
「昨日はおつかれさんだったな」
「ありがとうございました――色々とすみません」
柚木の面持ちは晴れやかだが、やや気まずそうな雰囲気を漂わせている。
起き掛けの八朔の脳はしばしのあと、柚木が絶叫していた「好きな人」のことではないか、と引っ張り出してきた。
「お前、好きな人なんていたのか」
「えっ」
「えってなんだよ」
「いえ……」
口ごもっている柚木を訝しげにも思わず、八朔はこの旅最後の行き先を告げる。
「ちょっと俺の家まで付き合ってくれ」
車は中央環状線から荒川沿いを走り、首都高へ入っていく。
早朝の高速道路は空いていた。
連日頑張っていた柚木にかわり八朔の運転で、ほどなく教習所脇の自宅に到着する。
時刻は七時前。助手席で熟睡していた柚木を叩き起こし、ついでに荷物も持たせ、部屋に向かってくる。
「ただいま」
「おじゃまします」
そして、この殺風景な部屋に八朔が柚木を連れて帰ってきた。
柚木が傍らで部屋の感想を喚いているが、八朔は無視して私のほうを見つめている。
それに気付いたのか、柚木は「この空間に何かが起きている」ことを察知して、押し黙った。
やはりこれまで見てきたとおり賢い子だな、と思う。
「おかえり八朔。ああ、やっと話ができるね」
私の姿は死んだ当時から変わらない。
彼にも、肩にかかるくらいの黒髪と若さの残る顔立ち、白く華奢な肢体、そして左目の空洞が見えていることだろう。
「なんで、ここにいる。君が」
これが、私たちの初めて交わす会話だった。
八朔は、ひどく動揺している。無理もない。
「私は、ずっとここにいたんだよ」
あの日、廃工場で八朔が死んだ私に出会ったときから、私は八朔と一緒にいた。
刑務所にいるときも、出所して職探しに難航しているときも、ずっと。
ここに勤めることが決まった八朔は、この部屋で暮らしはじめ、私もこの部屋に居着くことになった。私は左目を通じて、外の様子を知ることができた。
「毎日この部屋で暮らす八朔のことを見ていたよ」
「今朝の夢に君が出てきたんだ。『今の俺なら見える』って。どういうことだ?」
私は、八朔と一緒にいる左目を通じて、八朔の外での生活を見ていたことを伝えた。
「柚木と一緒に出掛けた旅行も、全部見てた。八朔はこの旅で、自分が変わったと感じなかった?」
隣にいたはずの柚木はいつの間にかいなくなっていて、キッチンの辺りで気配がする。八朔は眉間に皺を寄せて、うつむいている。
「彼のようになりたい、って思わなかった?」
長い沈黙のあとに、八朔は静かに一度だけ、頷いた。
固く握った両こぶしが、震えている。
「君に酷いことをした。左目も返せていない。だけど、確かにそう思ったことは、認めたい。認めなくてはいけない気がする」
八朔の顔は、私からの非難を恐れ、長年の罪悪感で引きつっている。
しかし同時に、全身で、これまで自分を縛り付けてきたものに、激しく抗おうとしている。私は、勇敢な彼に向って微笑みかけた。
「そう。だから私のことも見えるようになった。罪を償おうと自罰的になって、向き合うべき自分の本当の気持ちを蔑ろにしていた。だから、私のことも見えなくなっていたんだと思う。柚木のおかげね」
私の穏やかな態度に八朔は面食らっている。
「死体を捨てた俺のことを、憎んでいないのか」
私は首を横に振った。
「私を殺したのは、あなたじゃない。左目を託したのは、八朔に私をあそこから連れ出してもらおうと思ったから」
霊という身分になっても、怖いものがあると知ったのは、このときだった。
それは孤独。冷たく暗い穴に、人知れず取り残され永遠にひとりきりになるのが嫌だった。
だから、八朔に左目を預けた。
彼に及ぼす影響など、一切考えずに。ただ、寂しかった。
「結局、八朔は自分のしたことを悔いて、自分の殻に閉じこもってしまった。私の気持ちひとつで人がこんなふうになるなんて、思ってもみなかった」
怯えていたのは、なにも八朔や柚木だけではないのだ。
聞きたいことが山ほどあるだろうに、八朔は静かに、こちらの声に耳を傾けてくれている。
私は、彼に甘えてさらに続けた。
「八朔は、さ。刑務所から出てきたあとでも、自分で刑務所みたいな居場所を作って、毎日同じような生活をして、休みの日は私のお墓を探しにいって。そうやって日々を浪費して、毎朝悪夢を見て、うなされて。自分を許すことも、何かに逃げたりもしないで。何年もそんな生活をしているのを見て、私に左目を返すまで、この人は死人のようにずっと生きていくつもりなんだと思った」
ごめんね、八朔。
私は、彼とずっと一緒にいた。彼の生活を誰よりも側で見ていた。だからわかる。
八朔の側にいるべきは、過去の亡霊である私じゃない。
思いのたけを伝えきると、八朔はポケットから左目を取り出して、
「ずっと渡して謝りたかった。本当にすまない」
深く頭を垂れた。うごめく自分の左眼球を前にして、何の感情も浮かんでこなかった。彼がこれまでの間に願ってやまなかった光景は、滑稽なほどにあっけない。
目の前にいる八朔が、不憫で仕方がなかった。
許されるのなら人と霊の垣根を越え、彼を抱きしめたかった。
「こんなものにもう縛られなくていい。勝手に幸せになって、勝手にくたばる。私は既に死んでいる。あなたは、まだ生きている。でしょ?」
「……俺は、君のことを忘れない。絶対に、忘れたりしない」
「うん。それだけで十分」
「――なあ、俺は、」
「あの。お取込み中失礼します……」
柚木がおずおずとキッチンから顔を覗かせた。
「お茶、淹れたんですけど、飲みます? 立ち話もなんですし」
先ほどからそこにいたのはそのためか。
沈黙を肯定と受け取った柚木は新妻よろしく、小さなお盆に不揃いなマグカップを載せてちょこちょこと運んできた。
リビングテーブルに置かれたカップは3つ。
ハッとして八朔に「先生、いらっしゃるのは、おひとり……ですよね?」と神妙な顔で尋ねながら辺りを見回している。
その瞬間、私と八朔は目を合わせ、同時に笑った。
「悪いけど、そろそろいくね、八朔」
「はやいな」
「今のあなたならきっと、大丈夫。それに、運命の人は、意外と身近にいるものだよ」
私は八朔の隣でのほほんと茶をすする柚木を見やる。
不可解だと首を傾げている八朔をみるに、柚木の挑戦は実に前途多難のようだ。
「おかしな話かもしれないが、元気で」
「ありがとう。また、どこかで」
「あ、そうだ。言い忘れてた」
「?」
「おはよう。八朔」
「――ああ。おやすみ」
そのとき、柚木は目にした。テーブルの対岸、ベッド以外何もない空間に、光の粒で縁取られた人の姿が浮かんでいるのを。「彼女」は嬉しそうに笑って、確かに、たしかにこう、言った。「この人を幸せにしないと、化けてでるからね」と。
「――誓います」
柚木の確かな答えを聞き、満足そうに頷いた彼女は、朝の日差しに溶けるように散っていき、やがて消えた。
こうして、超常的なふたりの旅は、終わりを告げた。
「結局、お墓参りは?」
「これ」
「げ。忘れてっちゃったんですか」
八朔の手元には先刻成仏したはずの彼女の眼球が残っている。
「どうせ色んなところに行くなら私も連れてって、だと」
「ちゃっかりしてますね」
窓の外では蝉が鳴き出し、気温は昼にむけて徐々に上がりだす。
緊張が解けて初めて、締め切られた部屋はまるで蒸し風呂だということに理解が及ぶ。
頬を伝う汗を合図に、柚木が切り出した。
「あの、また行きませんか。旅行。次は北海道、とか」
「ああ。いいな。涼しそうだ」
ぬっと、骨ばった小指が八朔の前に現れた。「約束しましょう」と柚木は笑う。
「小学生かよ」と、鼻で笑いながらも、八朔は柚木の小指に自分の小指を絡めた。
朽ちた彼女に幸せの誓いを 字書きHEAVEN @tyrkgkbb
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