⑤
「あれ、寝てる」
髪の毛を拭きながら柚木が風呂から戻ってきた。
「はは。死んでるみたい」
八朔は棺桶に入る準備を済ませた死人のように眠っている。
広いベッドで寝ればいいのに、と柚木は、今日の夕方の会話を思い出した。
八朔は、あまり自分を顧みないところがある。
約一ヶ月前、江古田へ無茶な相談を持ちかけたときも、江古田が「君枝君は、いまの生活をこれまでの罰として暮らしています」と呟いていたのが印象的だった。
この旅は、あの夜運転する八朔の寂しい横顔を見ていて思いついた。
『お前は幸せになることができない』
母から不幸の烙印を押された出来損ないの自分が、八朔の役に立っているかもしれないと思えることが、こうも嬉しいのかと、柚木は自分の気持ちに驚いている。
先程まで死人よろしく静かに眠っていた八朔は、額に脂汗をかき苦悶の表情を浮かべている。悪い夢でも、見ているのだろうか。
柚木は屈み、タオルで汗を拭いてやる。
「俺が……バイトで、あの工場で……して……いなければ……」
バイト。工場。
八朔のうわ言が柚木の耳元に入る。
――昔、怪しいバイトに行ってな。
そのとき柚木の脳裏にふと、八朔の言葉と、あるひとつの可能性が浮かんだ。
朝がくる。彼、八朔はどこかで悪夢にうなされているのだろうか。
彼が頑なに続けようとする牢獄のような部屋に、今日も私はいる。
彼が私を見つけたら、長いながい悪夢から醒めるようにと、こう言ってやるのだ。
「おはよう」と。
「何時間寝るんだよ、柚木……」
「その、ドキドキしちゃって寝れなくって……」
「ったく、童貞かよ」
「ど、童貞ですよっ!」
翌日、柚木が驚異の睡眠時間をみせ、ラブホテルを出たのは結局昼すぎだった。
いくつか墓地や交通道路などで霊に聞き込みをし、あっという間に夜がきた。
いつも通り夕飯をコンビニで調達して、ふたりは休憩がてら、川の脇にある競艇場外発売場に車を寄せた。
レースも終わった平日夜の広大な駐車場に他の車の姿はない。
傍らの土手から赤い満月がゆったりと昇ってきている。
「もう明日で終わっちゃいますね」
お気に入りだという赤飯おにぎりを食べながら、柚木がぽつりと呟く。
「お前、そればっかり食うな。飽きないのか」
「不幸なことばっかり起きるからって、めでたいものマニアになった時期があって。それからよく食べてます」
「はは。なんだよ、それ」
それまで和やかに流れていた雰囲気の会話がふいに途切れた。
沈黙を挟み、柚木が言いにくそうに切り出す。
「結局なんの成果も得られなかったですね……すみません」
四日目の夜にして、めぼしい情報は何も得られなかった。
「別にお前が謝ることじゃない。独りで探してたときもこんな感じだったし」
「そう、ですか。役に立てなくて、ごめんなさい」
慰めのつもりでかけた言葉に、柚木は何を思ったか口を噤んでしまった。
先程から一変して車内を漂う重い沈黙。
今にも泣き出しそうに俯いてしまった柚木を見て、八朔は一瞬のためらいを飲み込み、ひと呼吸を置き、口を開いた。
「この前、さ。言った冗談。覚えてるか?」
柚木は頷いた。
「昨日、先生の寝言を聞きました。あれって本当のことなんですか」
「……参ったな。なんでもお見通しかよ……」
そして八朔は語り始めた。
柚木くらいの歳のとき、怪しいバイトに行き、ある若い女性の死体に出会ったこと。
怖くなり逃げ帰ったが、すぐ死体遺棄の幇助罪で逮捕され、二年間刑務所にいたこと。
出所後は職探しに難航し、当時の事件担当の刑事とつながりのあった江古田のいる教習所へ口利きで入れてもらい、現在まで世話になっていること。それと、
――死体から、左の目玉を盗んだこと。
「現場は暗く、気味が悪かった。一刻も早く立ち去りたかった。でも彼女の死体、なかでも、左目は白く浮かび上がって輝いて、それがひどく綺麗な宝石のように見えた……。死体を捨て家に帰ったら、なぜかポケットに、その左目玉が入っていた。死体漁りをした記憶はない。しかし俺は、彼女の目玉を持ち帰ってきてしまっていた」
八朔は右のポケットから、ビニール袋に入った「彼女」の眼球を取り出してみせる。
「服を変えても、家に置いてきても、必ずついてくる。霊が見えるようになったのも、それからだ」
「でも、先生が盗んだわけじゃないんじゃ」
「それでも、死体を捨てたことに変わりはない。俺はあのとき、間違えた。俺は、絶対にあんなことをするべきじゃなかった」
八朔は矢継ぎ早に話したせいで口の中に溜まった生唾を飲み下した。
柚木も、眼の前で動き続ける彼女の眼球を前に、つられて息を呑んだ。
「この話を、信じられるか?」
「先生が、信じろと言うのなら……つとめます」
月が徐々に昇り、広大な駐車場に青白い陰影が浮かび上がる。
月明かりが注ぎ込まれていく柚木の顔は、まるで自分の痛みを抱えるように歪んでいた。
「ひどい顔だな。お前のことじゃないだろ」
「彼女はそれを望んでいるんですか」
「わからない。これを彼女に返すまで、俺の償いは続く」
「それじゃ先生を縛り付けて苦しめているのは、先生自身じゃないですか。彼女がそれを望んでいるかわからないのに」
「――すまん。これしかやり方がわからないんだ。つくづく馬鹿だとは思うよ」
「俺、先生には――」
そのとき八朔の拒絶に食い下がろうとする柚木の言葉を遮り、どん。と鈍く強い衝撃がフロントガラスを揺らした。ふたりは一斉に音の方向に振り返る。
「おい」八朔が声を上げた。
「すっ、すみません」
「おい!」
「すみません!」
「違う! あ、そうかお前見えないのか! お前の母さん来てるぞ!」
「え」
八朔の目線が示すそのさきは、フロントガラスそのもの。
衝撃は次第に回数を増して強くなり、車体が左右に揺れる。
「……母ちゃんに新車なんだから殴るのやめろって言えよ」
「――どうしてここに」
柚木の母は車に馬乗りになり、延々と言葉を反芻しながら、拳を振り下ろしている。あまり聞きたくないが、ガラス越しに八朔の耳に届くのは「ゆるさない」や「お前は幸せになれない」の、流石は怨霊といった王道のレパートリーばかりだった。「もっと母親らしいこと言ってやれよ」と八朔がぼやくと、衝撃が輪をかけて強くなったような気がする。さしずめ、お前に何がわかる、といったところか。
「柚木?」
揺すぶられる車体のなかで、冷静な八朔とは逆に、柚木は狼狽え、硬直してしまっていた。「どうする」と、八朔が声をかけても微動だにせず、顔色が悪い。
無理もないだろう。
いまこの瞬間柚木は、予想こそすれ、姿も見えない母が目の前にいることを、過去のフラッシュバックとともに自分の感覚をもって認めなくてはいけないのだから。
「おい、柚木」
肩を掴んで揺さぶってみたが、反応がない。
目が据わって、額に汗をかき「ごめんなさい」と何度も呟いている。
これはまずい。
母の猛攻はさらに勢いを増している。
車を動かすにしても、まずは柚木をこの状態からなんとか呼び戻さねばならない。
頬へ気付けを一発入れてやろうかと手を振り上げると、柚木は反射的にびくっと体を縮こめた。
「なぐらないで」
逆効果だと感じた八朔は腕を下ろし思案を巡らせる。
殴ることの逆。なぐることのぎゃく。そしてまもなく一つの案が浮上するが、これをやることで何が変わるのか八朔はいまいちよくわからない。
しかし時間はない。やってみるしか、ない。
八朔はため息の最後を気合の呼吸に変えて、座席を乗り超え、小さく震える柚木を抱きしめた。自分の体躯よりも大柄で筋肉質の堅い体は、子どものように熱かった。
「俺はなにをやってるんだ……。ゆぎよしはるーはやくもどってこいーよしはるー」
「……先生」
他人の温かさとともに、不意に下の名を呼ばれた柚木芳春は、はっと気を戻した。
間をあけずに、そのままの体勢で八朔は柚木に問いかける。
「また、旅行行くか?」
「……行きたいです、すっごく楽しかったです……。先生は?」
そこで車に張り付いた母が『つけあがるなお前は所詮できそこないだ』と金切り声をあげた。
「俺も楽しかったよ。また行こう」
「よかった……あの、俺が言うのも変な話ですけど、先生は、もっと自分を大切にしてください。きっと、これまでのことがあってなんだと思いますけど」
心なしか柚木の抱きしめる力が強くなる。
「俺みたいな人間がいるってことでひとつ、自分のやりたいことを自分に許して欲しいんです。俺も、これからそうしようと思います」
『クズは黙ってクズらしく、冴えない人生のなかで野垂れ死ねばいいんだ』
八朔は怨霊の咆哮を耳にして、どきりとする。
柚木の母の放ったそれは、奇しくも八朔が長年自分自身に寄せていた思いそのものだった。
間違いを犯し、彼女への償いを自らに求めるあまり、八朔もいつの間にか自分に「呪い」をかけていたことに、今更気づく。
そして眼前の柚木は、長年母からかけられてきた「呪い」を、果敢にも乗り越えようとしている。
そして、自分だけでいいものを、そこから八朔まで引きずり出そうと手を差し伸べている。なんて我儘なヤツだ、と八朔は胃袋の底が熱くなった。
「……すまん。もういいか」
「あ、す、すみません」
八朔は抱擁を解き正面へ向き直ると、フロントガラスをありったけの力で叩いた。
怨霊は攻撃の手を止め、八朔へと意識を向ける。八朔は、力強く啖呵を切った。
「おい、よく聞け。こいつは勝手に幸せになって、勝手にくたばる。いいか――お前は既に死んでいる」
隣の柚木が間髪入れずに噴出した。
「おいなんで笑うんだ本当のことだろ」
「そうですけど、そうなんですけど」
すぐさま衝撃が再開する。
先程よりもさらに打撃に力がこもっているのは気のせいではない。
「ほらー。母もさっきより怒ってるじゃないですかー」
「む」
大見得をきったつもりでいた八朔は、やや恥ずかしそうに下を向いて、気付いていない。頼もしいその姿を、柚木が微笑んで見つめていることに。
「でも、勇気をもらいました」
そう言って柚木は、ハンドブレーキを外してギアをニュートラルからドライブへ入れる。
「先生、俺の目になってくれませんか。母に伝えたいことがあります」
ハンドルを握るその顔には、怯えのなかに凛々しい反逆の様相が浮かんでいた。
「――わかった」
合図を待って、柚木は急発進で駐車場の真ん中へ躍り出た。
一気にブレーキを踏む。
フロントからルーフにかけて全身をべったりとつけていた柚木の母は、衝撃を受け長い髪を振り乱しながら地面に振り落とされた。
「いいぞ。そこからギアをバックに。ハンドルを水平に保ったまま、アクセル踏んで」八朔の短い指示を受け、柚木は的確に操作をこなしていく。
教習所でサンバを踊っていた当時から、この運転ぶりを誰が想像つくだろうか。
車は真後ろへさがり、距離をとった。
母の霊は不規則な飛び石を越える要領で曲折して近づいてくる。
「大回りしよう。ハンドルを右に切ってそのまま距離を保つ」
霊の懐に入ることのないよう、つねに一手先を見て車を動かしていく。
運転予測が求められる教官の仕事が、思わぬところで役に立った。
「先生」
「まだだ。もう少し」
怨霊が飛びかかってくるきわを狙って、車は急発進した。
飛びかかった反動で振り返るのが遅れた一瞬の隙を、八朔は見逃さなかった。
「今だ! 行け!」
号令とともに、柚木はめいっぱいアクセルを踏んだ。
「お母さん、沢山心配かけましたが、もう大丈夫です。安心してくたばってください。俺――」
霊は振り向き、覆いかぶさろうと両手を上げて待ち構えた。
車はそこ目掛けて突進していく。
柚木はこれまでの自分を縛るなにかへ打ち勝つために、母だったものに絶叫した。
「好きなひとが、できました――っ!」
奇しくも母の、胸のなかに飛び込むかたちで。
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