「くさい」

 信号待ちをする合間に、八朔は自らの異臭に驚いて声を発した。

「ごめんなさい」

「反射的に謝るなよ。問題の本質を見ろ。俺たちはいま、間違いなく臭い」

 焼き討ちに遭っているような赤紫色の入道雲を背負い、八朔の横顔は妙な凄みを帯びていた。

 それを見た柚木の両目は、八朔が怒っていると誤作動を起こしたらしい。

 柚木は人の顔色ばかりを窺い、すぐ謝る。

「そういや、風呂のこととか何も考えてませんでした」

 まあ、どこか間の抜けた柚木のことだ、大方そうだろうと八朔も予想がついていた。多少着替えは持ってきたが、季節は真夏。

 いくら空調のきいた車内にいるとはいえ、ふたりもしょせん代謝を繰り返す生物である。

 ここでやっと車中泊続きのふたりは、この三日間、風呂は愚か、顔すらろくに洗っていないことにようやく気付くのだった。

「俺たち、自分のことにあまりに無頓着すぎやしませんか」

「そうだな。お前も風呂にも入りたいだろうし、そろそろ、ベッドで眠りたいだろ」

 腰の辺りに鈍い予感を抱えた八朔は、悟られぬように己の無理を柚木への気遣いというオブラートへ包んで投げる。

「俺、あと一日だったらいけますよ。とりあえず風呂だけ探して入ります?」

 柚木が珍しく遠慮してくる。いつも空気を読む癖に、なぜそうなる。

 八朔が内心焦りながら次の策を講じようというとき、上空でひと辻の光が走る。

 まもなく大気を震わせる凄まじい雷鳴。

 ふたりは弾かれたように顔をあわせて、いつの間にか暗雲立ち込めた空を仰ぐ。

 大粒の雨が一滴、フロントガラスを叩いたと思ったら、あっという間に猛烈な勢いで夕立が降り始めた。

 ワイパー出力は最大なのに、叩きつける雨の勢いに負けて、視界は煙る。

 かろうじて信号やライトの存在はわかるが、いよいよ前方車両との車間距離が読めなくなってきた。

「これはまずい。どこか入るぞ」


「せんせ。お風呂湧きましたよ。一緒に入ります?」

「入らない」

 そしてふたりは、とあるラブホテルの一室にいた。

「俺は確かに『どこかに入るぞ』とは言った。言ったけど」

「しょうがないじゃないですか。ここしかなかったんですから」

 運悪く市外にいたこともあり、ふたりは雷雨に追い立てられながら、やむなくこのいかがわしい城へ流れ着いた。

 八朔の眼前に広がるショッキングピンクの空間、黒と豹柄を基調とする天蓋付きのベッド。自らを田舎のヤンキーだと錯覚してしまいそうで眩暈がした。

 露骨に機嫌の悪い八朔とは対象的に、柚木は初めて来るラブホテルに色めき立って、気色悪いくらいにうきうきしている。

「ね、ね。先生。テレビでかすぎじゃないですか?」

「童貞がうるせえ」

 童貞を指摘されてやっと我にかえったのか、柚木はばつが悪そうな顔をしながら、そそくさと風呂場に消えた。

 八朔はソファにどかっと身を預け、空気が抜けた人形のごとく深くもたれ、目を閉じた。分厚いカーテンの向こうから聞こえる雨音。

 三日間、都内から徐々に足を伸ばし聞き込みを続けてきたが、有益な情報は得られなかった。明日はどこへ行ってみようか。早く、返さなくてはいけない。彼女に。

 八朔は右ポケットから小さなビニール袋を取り出す。

 それはガーゼに包まれた、人の眼球だった。

 先程摘出したかのように眼球はぬめり、ぎょろぎょろと動いている。

 しかしこれを八朔が手にしたのは、九年前のことである。

『昔、怪しいバイトに行ってな』

 あのとき、八朔が口走ったことは冗談ではない。すべて事実だ。

 眼球の持ち主である「彼女」は怒っているだろうか、恨んでいるだろうか。

 エゴだとは思う。だが、八朔は間違いなく「彼女」を、死体を捨てた。

 そのことに変わりはない。「これ」を持ち主である彼女へ返さなくてはならない。

 彼女の墓を見つけなくてはいけない。

 八朔はその執念と、唯一の手がかりであるこの目玉とともに、九年間という時を、ただ静かに、恐ろしすぎるほど静かに生きてきた。

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