「いやはや、災難でしたね」

 江古田は食堂で八朔の姿を認めるなり近づいてきた。

 あの夜間教習の件から、一ヶ月が経過していた昼のことだ。

「江古田さん、笑い事じゃないです……」

 あのあと教習所に戻った柚木は教官たちにこっぴどく怒られた。

 八朔も多数の同情を集めながらも、監督責任として報告書と始末書の提出を求められ、厳重注意を受けた。

 そのことが影響してか、以来、八朔が柚木の教習を担当することは一切なく、顔を合わせる機会もなくなった。

「皆事情はわかっていますし、今回は上に示すための形式上の注意ですから気を落とさず。むしろあの柚木くんと夜間教習に行って、高速教習までこなして帰ってくるとは。さすが君枝先生です」

 江古田は朗らかに笑っている。

「……江古田さん、何かいいことでもあったんですか?」

 勘が鋭いとは言えない八朔が見て取れる程度に、今日の江古田はやけに上機嫌だった。

「先生。私には好きなものがふたつあります。ひとつめは、生け垣を綺麗に剪定できたときの達成感、ふたつめは」

「ふたつめは、なんですか?」

「若者がなにかに向かって奮闘する姿を見ることです」

「おっしゃる意味がわかりかねます」

「まあまあ。あなたを拾ったよしみで、この老いぼれの話を聞いてください」

 昼食を終えたふたりは、連れ立って事務所へ続く廊下へ出た。

 窓からは突き刺さる強い日差しと、中世絵画のような積乱雲。

 先日梅雨が明けたばかりだと思っていたが、季節はすっかり夏本番を迎えている。

「実はあの一件の直後、柚木くんより相談を受けましてね」

「柚木から、ですか」

 嫌な予感だ。江古田には、霊が見えることは告げていない。

 柚木が余計なことを口走っていないといいが。

「とにかく理由は言えないが、自分が一ヶ月以内に免許を取れたら、君枝先生を五日間貸して欲しい、と」

 驚きで、歩みが止まった。

「な、なっ、なんですか、それは!」

「それはもう、彼は奮闘していました。学科はもちろん、大の苦手である教習も。私はその姿に大変感銘を受け、要望を聞き届け、叶えてあげることにしました」

 江古田は何かを思い出しうっとりと何度か頷くと、おもむろに窓を開けた。

 教習所脇の駐車場に、赤い小型乗用車が入ってくる。

 ゆっくりとバックで駐車を完了したあと、運転席から柚木が飛び出してきた。

 こちらに向かって腕を千切れんばかりに振っている。

 あいつが……ひとりで車に……乗っている……。

「せんせい! めんきょとれましたー!」

 なんだ、この急展開は。いったい、どうなってるんだ。

 混乱を極める八朔は一歩後ずさる。

「……事態を飲み込めていません!」

「無理もない。彼の要望で箝口令を敷いていましたから、先生は知らないはずです」江古田は、絞り出すように悲鳴を上げる八朔の肩へぽんと手を置いた。

「ははのほけんきんでくるまもかいましたー!」

 こちらの様子がまったくわかっていない柚木は、元気よくとんちんかんなことを叫んでいる。

「休みのことなら、もう通してあります。有給もたんまり残っていますし、行ってきてください」

 こうなってしまったらテコでも動かないことを八朔はこれまでの経験から充分理解している。

 しかしあまりに急すぎやしないか。

 八朔はとにかく顔をしかめて、必死に抵抗の姿勢を示す。

「心配はいりません。他の先生方も、真面目な先生の態度を評価して、快諾してくれていますから」と、流石は天下り権力を持つ人間の口ぶりである。

 世話になっているとはいえ、この狸爺め、と胸の内で悪態をつかずにはいられない。

「――休みの日は読書ばかりでなく、たまには出掛けてきてください。気晴らしも必要ですよ?」

 年頃をやや過ぎてもなお、ふさぎがちで禁欲的な生活を淡々と送る八朔への、江古田なりの気遣いのかたちなのはわかっている。

 それ自体は有り難いことだが、それでも納得のいかない八朔は「なぜ柚木となんですか?」と食い下がる。

「せんせー! 墓参りに行きましょーう!」

 墓参り?

 駆け巡る一瞬の思考のあとに、ひとつの結論へ思い至る。

 あいつ、まさか俺を墓参りに連れて行くつもりか?

 まだ、墓は見つかっていないのに。

「柚木くんは、あなたのことをよく考えてくれているようです。『笑顔は一ドルの元手もいらないが、百万ドルの価値を生み出す』。よく笑う彼と一緒に、今一度いろんなことを見つめ直してみてはどうでしょう」と、おちゃめにウインクしてみせる。

 そうして、ふたりの世にも奇妙な墓参りの旅は始まった。


 朝がくる。カーテンのない部屋に、彼はいない。

 彼が日めくりカレンダーを破ってくれないから、今日が何日なのかわからない。


「運転できてる……あの柚木が……これは、夢か?」

「もう先生、大袈裟ですよ」

「かれこれここ二日はそう思ってる。夢じゃないのか。そうか……」

 八朔とともに新車の匂いが残る赤い乗用車で始めた墓参りの旅は、当て所もなく周辺を巡り、すでに二日目の太陽が真上から傾きはじめていた。

 危なげな運転も何度かあったが、八朔の助けを借りながら、なんとか都内の外れから国道を頼って下り、県外へ来ている。

 住宅地を抜けて、建物が低くまばらになり、田園風景が目立つようになった。

「このさきで停めてくれ」

 ふと八朔が会話を遮った。

 彼が駐車を指示したのは田んぼの間にこじんまりと集まった、小さな墓地の脇。

 やや離れた場所に車を寄せると、八朔はひとり、とぼとぼとそこに向かっていく。

 柚木は車から降りて、ドアに寄りかかりながら、この旅通算九回目のコンビニで買った煙草に火をつけた。

 煙をくゆらせながら、暑さで歪む八朔の背中をじっと観察する。

 誰もいないところに向かって話しかけ、何かを取り出してみせている。

 もっと近くで立ち会えたらいいが、「お前は母さんのニオイがついてて霊がビビるから来るな」と言うのだから仕方ない。

 しかし、不思議な光景だなあ、と柚木は思う。道すがら、休日の話になった。

 八朔はこうして話の通じそうな霊を見つけては、ある人の墓がどこにあるのか聞き込みをして回っているそうだ。

 誰の墓を探しているのかは、触れてはいけないような気がして、尋ねられなかった。

 傍らで茂る盛夏の稲が、青々と風に揺れ、こちらの不毛な行いを嘲笑っているようだ。

「見つかるといいなあ」

 柚木は顔を緩めて、ひとりごちた。

 そうこうするうち八朔は、頭をガシガシと掻きながら「こっちが話しているときになんで成仏するんだよ」と怒り戻ってきた。

 それが妙に可笑しくて、柚木は腹を抱えて笑う。

 いつまでも笑っているのが余計癪だったのか、車を早く出せと八朔の拳が運転席を小突いた。

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