②
「ったく、よりによってなんで首都高に乗るんだよ」
教習所への手短な電話を終え、八朔は柚木に向き直った。
「……ちょっと早めの高速教習、ってところですか」
「あのな」
「はいすいません調子に乗りましたごめんなさい」
急に車線変更してきた車を避けようとした柚木は咄嗟にハンドルを右へきり、あろうことかそのまま高速道路へ。
運悪くETCカードは挿したままになっていて、急停止するわけにもいかず、手に汗握る本線への合流を無事果たしたのち、やっとの思いで停車用の路側帯までたどり着き、今に至る。
ここにいても仕方ない。運転手を交代し、教習所へ戻らねば。
八朔が「おい、替われ」と声をかけようとして、驚いた。
すでに柚木はおとなしく助手席に乗り込んでいる。
八朔は面食らいつつも席につき、キーに手をかけようとして、止めた。
早急に帰らねばならないことはわかっているが、このときは珍しく八朔の好奇心が勝った。
絞ったボリュームで、ラジオがふたりのいる首都高の渋滞情報を告げている。
どうせ足止めをくらってすぐには帰してもらえないだろう。
「空気を読むことは、疲れないのか」
「え?」
「俺には到底できないことだ」
柚木はつとめて何気なく話しはじめた。
「死んだ母が教えてくれたんです」
「……わるい。この話はもうここまでだ」
柚木の母親は、やはり死んでいるのか。
八朔の脳裏に、教習所でみたあの霊の姿が浮かぶ。正直あれは思い出したくない。
謝罪に対して柚木は小さく首を振った。俯いた頬がやや緩んでいる。
「いいですよ、先生だったら。からかったり他の人に悪く言ったりしないでしょ」
と、笑っていた。
「そんなくだらないことはしない」
「俺もしません。でも、そうじゃない人もいるから」
柚木はこともなげに言い放つ。
その言葉自体が、彼がこれまで他人にどんな感情を向けられてきたのかを物語っているようにも聞こえてしまう。
「簡単に言うと、うちは母子家庭で、母は幼い頃から俺を虐待してて。俺が高校三年のときに病気で亡くなったんです。どこにでもあるつまらない話ですよ」
八朔は窓を開けて、胸ポケットから煙草を取り出した。
「吸うんですね。意外です」
「ほかの先生には内緒な」
喫煙所での無駄なやり取りを嫌って、教習所では吸わないようにしている八朔だが、今日ばかりはいいだろう。というか、やってられない。
ものほしげな柚木の視線を感じ、「ちゃんと窓開けとけよ」と、ピースの箱を向ける。柚木は拝むような仕草をして一本抜き出し、手渡されたライターで火を着けた。
薄暗い車内に、ふたつの火が灯る。
「お前を不幸にしてやる、って言いながら、死んでいった女です。なんかすごいでしょ。ドラマみたいで」と、柚木は他人事のように滔々と語りはじめた。
煙とともに、八朔の頭にぼんやりとした疑問が登る。
やはり、あの霊は柚木の母親なのか。
詳しいことはよくわからないが、生前の息子に対する執着であの姿になってしまった、と? 八朔は禍々しい姿をまぶたに思い浮かべた。
母の死以来、柚木は遺言通り不幸体質になり、これまで骨折を三回し、好意を持っている人に五回振られ、携帯と財布を数えきれないほど失くし、大きな交通事故にも一度遭っているという。
教習所で事故が起こらなかったのはもう奇跡としかいいようがない。
「俺がなかなか免許を取れないのも、きっとこれが関係していると思うんですけど!」
「……いや、こればっかりはお前の腕前だと思うけど」
――まあ、本当に困っているようだ。
柚木が霊的なものの存在を本格的に疑うようになったのは、交通事故に遭ってからだという。
これはどうもおかしいと大学とバイトの間を縫って寺や神社、霊媒師と手当たり次第に駆け込んでみたが、ことごとく「こんな霊うちではみきれない」と断られるばかり。
そんななか八朔の不自然な様子を見て「もしや」と思い、変なヤツだと思われるのを承知のうえで、今日の教習に臨んでいたらしい。
いや、そんな話をしに教習に来られても迷惑だよと口を挟みたくもなるが、生憎煙草で塞がっているので、もの言いたげな視線を送るだけに留めておく。
そんなのはお構いなしに、柚木は一人でこんこんと喋ったあと、やっとひと呼吸置いて八朔へ向き直った。
「先生。俺、呪われてますか?」
「――お前を探してうろついている化物なら一度見たことがある」
しまった、と思ったときにはもう遅かった。
柚木が複雑な生い立ちをあんまりに明け透けに話すので、普段ならばはぐらかすところを、つられてつい口が滑ってしまった。
「それって母のこと、ですよね……やっぱり見えるんだ」
「あ、いや」
「見えるんですね!」
「……」
八朔は飲み終えた缶コーヒーに潰した吸い殻を入れ、黙って車のエンジンをかけた。わかっていた。わかっていたことなのに、実に面倒なことになってしまった。
左隣から期待の熱い眼差しが注がれている。はやくも彼のなかに満ちてくる後悔。
「というか、見えてなんになるんだよ。あれは化物だ。話も通じない。だいいち、お前が見えないんだから、あれがお前の母さんなのかわからないだろうが」
「わかりますよ」
「いや、確かめる術がないだろ。見えないんだから」
「わかります。俺、童貞ですから。付き合った人もいません。俺に関わった女性は、いまのところ母ひとりだけです!」
――なんともいえない間。今度は柚木が失態をさらす番だ。
しまったという顔を見届けて、八朔は車を発進させながら、長いため息をつく。
「お前、なんというか、可哀そうなヤツだな」
「なかったことに」
華麗に無視を決め込む八朔の運転で、教習車はやや空いてきた道を着々と進んでいく。
「先生は、どうしてお化けが見えるんですか」
「……昔、怪しいバイトに行ってな。それが死体を捨てる仕事で、それから見えるようになった」
「え」
「――ばか、真に受けるなよ。冗談だ」
すでに時計は二〇時を回ろうとしている。
首都高を降り、高架下へ出ると、来た道を戻る格好で、対向車線へ切り替える。
空気は湿気を帯びて、街灯に光の輪を作っている。
その向こうで雲は散り、夏の星座が都会の空で細く光っていた。
明日からまた少しずつ暑くなるだろう。
「今は、ある人の墓を探してる」
「……見つかるといいですね」
最後の八朔の独り言は、柚木に届いていた。
彼は、詮索するでもなく軽蔑するでもなく微笑んで、純粋に、事態の好転を願ってくれているようだ。
夏の訪れを予感する夜とともに、こうして彼らの夜間教習は終わりを告げた。
朝がくる。カーテンのない部屋の開け放たれた網戸からは、すでに強い日差しと蝉の鳴き声が届いている。
最低限のみを揃えたこの部屋には、エアコンも温度計もない。
この部屋は、彼が自ら作り上げて受け続ける罰そのもの。
びっしょりと汗をかきながら、苦悶の表情でタオルケットにしがみつき、彼は今日も夢を見る。
そこは巨大な穴だった。
地盤が崩れたのか、大規模な器具が撤去された跡なのか、わからない。
ただただ、吸い込まれそうな黒が大きく口を開けていた。
底は見えない。
足元の石ころを落としてみたが、音は跳ね返ってこなかった。
直感的に悟る。ここに捨てて後片付けをすればいいのだ、と。
――そして始めるのは、あの日から繰り返す毎日の続き。
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