①
突然だが、八朔には、この世のものではない何かが見える。
教習を終えて受付兼事務所へ戻る階段を登りながら、八朔はつい先日のことを思い出して、ため息をついた。
仕事中は交通安全を司るものとして、とくに気をつけていたつもりだったが、左側の死角、しかもタイヤのすぐ足元に「いた」ため判断が遅れ、ついブレーキをかけてしまった。
「あれ」は恐らく、人「だった」ものの頭と手首、それと無数の目玉が道端のビニール袋ほどの「ちょっとしたかたまりになった」ものだった。
人の形を保っていればまだいい、場合によっては言葉が通じるときもある。
ああいう思念だけが強く残った「なりそこない」を見るのが一番堪える、と八朔は思う。
何も知らない柚木がちょうどそこに停車し、タイヤで踏み潰すような格好になっていたので、直視せずに済んだのが不幸中の幸いだったが。
彼のこの特異な体質は、後天性のものだ。
それは八朔の人生を変えた、たったひとつの過ちに起因する。
階段を登り終え、受付に足を踏み入れようとした一瞬、彼の体は硬直した。
八朔の眼に飛び込んできたのは、カウンターに佇むひとりの女。
受付嬢に尋ねるような格好で何かを延々と呟いている。
「ゆぎよしはるをしりませんかゆぎよしはるをしりませんかゆぎよしはるをしりませんかゆぎよしはるをしりませんかゆぎよしはるをしりませんかゆぎよしはるをしりませんか」
周囲の空間はひどく淀んでいる。
本能がすぐさま「アレ」をこの世にいないもの、しかも「非常によくないもの」だと警鐘を鳴らした。
普段接しているものとは一線を画すほど禍々しい、こんなものが、どこから入り込んできた。
そしてこの化物が、なぜうちの生徒である柚木のことを探している。
当然見えているのは八朔ひとり。
ここで下手に動いて、向こうに姿が見えていることを悟られるのは避けたい。
何事もなかったように、この場を立ち去るのが上策だと、体勢を保ったまま、片足を一歩後退させた、そのとき。
「先生! 授業終わりですか?」
間の悪いことに、大学の授業を終えたリュック姿の柚木が、階段の上り口から声をかけてきた。
しかものんきに笑いながら一段、また一段とこちらに向かってきているではないか。
うつむいている霊が、柚木の朗らかでよく通る声に反応してか、呟きを止め、ぴくりと動いた。まずい。
八朔はうたれたように踵を返すと、顔に胡散臭い笑みを貼り付けて「そうなんだよ。ささ、受付は俺がしておいたから、さっさと降りて、ほら。はやく、降りろ」と柚木の両肩を掴むと、脱兎のごとく階段を駆け下り、外へ出た。
霊はこちらに気づいて追ってくる様子はない。
地縛霊ではなさそうだし、しばらくすればどこかに行ってくれるだろう。
本日二回目のため息をつき、事態をまったく飲み込めていない柚木を置いて、八朔はそそくさと教習車へ向かった。
なぜあの霊が柚木を探していたのか、生前の関係はなんなのか、疑問は泡のように浮かぶ。
八朔はそれを打ち消すように頭を振った。
霊が見えると同時に、他人の仄暗いしがらみにふれる機会も増えた。
しかし見えたところで、なんになるだろうと八朔は思う。
俺がそいつらに何をしてやれるって言うんだ、と。第一、自分のことでさえ、満足な結果を出せていないというのに。
朝がくる。カーテンのない部屋には、鈍色が滲み広がっている。ベランダを小刻みに叩く音、今日は雨だ。テーブルに置かれたままの新聞によると、もう梅雨入りしたらしい。教習所脇の、独房のように殺風景な部屋のなかで、彼はうわ言とともに苦悶の表情を浮かべている。雨の日は左目が痛むのだろうか、悪夢を見ているのだろうか。
暗闇で薄目を凝らして見渡すと、柱の影に隠れるように長細い袋が複数置かれている。これらを「片付けろ」ということなのだろうか。乾いた笑いで彼はためらいを振り払い、粘つく床に一歩を踏み出す。
――そして始めるのは、あの日から繰り返す毎日の続き。
昨晩はまた嫌な夢を見ていた。食堂でおかずを盆に載せながら、八朔はぼんやりと思う。覚えているのは悪夢だった、ということだけ。あらかた何の夢だったかは、だいたい見当はついている。
「お疲れ様、君枝先生。こうも雨が続くと滅入りますね」
通常よりやや少なめに昼食を選び終えた八朔が机のほうへ向き直ると、江古田が席から声をかけてきた。
「お疲れ様です、江古田さん」
平日昼の食堂は教官がまばらにいるだけで生徒はいない。八朔は社宅兼合宿者用宿舎に住み込みで働いているため、基本的に毎食食堂を利用している。江古田が自席の向かいを示し、八朔はそこに会釈しながら座った。
江古田は長年勤めていた警視庁を定年退職後、ここにやってきた。俗にいう天下りだが、実務に追われる職員陣に替わって生け垣の手入れや事務所のリフォーム、その他庶務などを快く一手に引き受けている。
「明日はおやすみでしょう。何をするんですか?」
「そう……ですね。読書、でしょうか」嘘が得意ではない八朔は少し言葉に詰まる。
「晴耕雨読ですか、素晴らしい」
うんうんと江古田は微笑んで、目元の笑い皺を深めた。これ以上踏み込んでこないということは、咄嗟についた嘘は見抜かれているだろうと、八朔はこの話題に触れようとはしなかった。
「ところで先生、今日はついに柚木くんの夜間教習ですね」
この頃にはいつのまにか、八朔はすっかり柚木の専任教官という立ち位置になっていた。
「長く険しい道でした……」
「今日もお気をつけて。夜間教習は生徒にとって鬼門ですからね。先生の教員としての姿勢はとても誠実で熱心だと、上の評価も高いですよ」
江古田はデザートのサクランボを頬張ると、先に席を立った。すれ違いざまに八朔の背中を手のひらでぽんと叩き、なおも穏やかな口調で続ける。
「ですが私は言いたい。先生は時々、自分に厳しすぎる。……あの事件の償いは、もう終わったんですからね」
「――はい」八朔はうつむいたまま返事をする。
「……D・カーネギーの本はお勧めです。今度読んでみると良い」
そうして江古田は去った。八朔の背中に、手のひらのぬるい熱だけを残して。
「夜間教習には、伝説があるのをご存知でしょうか。安全に一夜をともにした教官と生徒は、そのまま一生を添い遂げるという」
「……俺は一体何人の生徒と、一生をともにするんだ」
「冗談ですよ。そんなにうんざりしないで」
柚木の朗らかな笑いを尻目に、のんきなものだと、八朔は肩を落とす。夜間教習。仮免許取得後、夜もしくは夕方の時間帯に実道を走りながら、夜間走行に必要な運転技術を身に着ける。
「左に自転車」
「はいボス。すみません」
「俺はボスじゃない」
いつだったか、教習所の女性陣と柚木の話になったことがある。受付嬢たちは彼を「空気が読める弟」と、学食のおばちゃんは「反抗期のない息子」と形容した。八朔には最初、その意味がわからなかった。しかし付き合いも長くなった今なら、なんとなくわかる。教習に出た柚木は八朔の顔色をうかがいながら運転するからだ。少しでも八朔の顔が曇ると、「すみません」と謝る。敏感に空気を読み、取り繕う癖。それをどうでもいいと感じる反面、他人が望む言動や行動をするばかりで、柚木はそれでいいのだろうか、と八朔は砂を噛むような違和感を抱いていた。
教習車は住宅地を抜け、街灯が少ない細道に差し掛かる。暗闇を縫うように丸い橙の灯りが落ちる。先程まで降っていた雨はやんでいた。
『あの事件の償いは、もう終わった』――。昼の江古田の発言がふと蘇る。違う。事件はまだ、終わっていない。少なくとも、俺のなかでは。
八朔はそこまで考えを巡らせて、柚木が危険な運転をしていなかったかと思考を戻す。ふとのぞくバックミラーの柚木は、いつにない真剣な面持ちで前を向いている。真顔になると目鼻の彫りが深く、やや劇画調寄り。笑顔を見慣れていたこともあって、あんまりに神妙な顔が笑いを誘った。確かに、よく見ろとは言ったが。暗い思考とのギャップで余計にきて、八朔は吹き出した。
「えっなんでいま笑ったんですかひどい」
「うんこを我慢しているヤクザみたいな顔してたぞ」
「どんな顔ですか、それ」
T字路に差し掛かり、恐る恐る曲がったところで、柚木がおずおずと切り出す。
「先生に、聞きたいことがあるんです」
「なんだ」
「……先生って、その、お化けとか、見えるタチです、か……?」
一瞬の間。
「……おい、今の冗談はあんまり面白くないぞ」
「だって、冗談じゃないから、面白いはずない」
「……なに言ってるんだ」
「先生、少し前の教習で、最後に不自然なブレーキかけましたよね。そのときは、『なんだかすごく嫌な顔をしてるな』くらいで、特に気にしてなかったんです。だけど、また別の教習のとき、階段で顔を真っ青にしていた先生を見て、やっぱりなんか変だな、と思ったんです」
「……俺には見えません。けど、先生には何が見えているんですか?」
教習車は奇跡的に危なげなく太い通りへと出た。このまましばらく直進すれば、教習所だというのに、五〇mごとに訪れる信号は軒並み赤。さっさと教習所に着いてくれ、と八朔は眉間に皺を寄せた。この手の話を正直にしたところで、ろくなことにならないことは、これまでの経験からよくよく理解しているつもりだ。
「変なこと、だと思います。でも、聞きます」
四度目の赤信号で、車体は停止する。柚木の真剣な視線がこちらに向いている。しかし八朔は微動だにせず前を睨みつけている。信号がいつ緑になってもいいように。それが彼の仕事だと言わんばかりに。痺れを切らした柚木が、こう尋ねた。
「先生は、母を見ましたか?」
ゆぎよしはるをしりませんか――。
「――母?」
信号が変わる。
車はゆっくりと動き出す。そのとき。
左側からだった。
車線変更の車が鋭く差し込んできたのは。
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