朽ちた彼女に幸せの誓いを

字書きHEAVEN

Op

 しあわせは、あるいてこない、だからあるいて、いくんだね。

 息の切れた「三百六十五歩のマーチ」が無人の廃工場に響く。

 なにかをゆっくりと引きずる音と、荒い息づかい。

 それと、瓦礫の散らばる床のいきつく先に、巨大な穴。

 口を開けて待ち受ける暗闇のふちまでようやくたどり着いた、そのとき。

 布の裂ける音がして、振り返った彼の前に、袋の中身が躍り出る。

 冷たく白い肌、闇に溶けそうな黒髪、彼女は、恐ろしく美しい瞳を持つ死体だった――。


「柚木くんさあ、こんなこと言うのもなんだけど、君の運転は、その、なんというか――」

「はい?」

 その瞬間、左カーブに差し掛かるはずの教習車が、いきなりセンターラインを飛び越え対向車線へはみ出した。

 慌てて補助ブレーキをかけた君枝八朔きみえはっさくは、急ブレーキの余波に体を揺すられながら柚木と呼ばれる隣の運転手へ今日何度目かの声を荒げる。

「呼ばれたからってこっち見ないでいいから、ちゃんと前見て」

「すみません」

 よそ見運転を注意された柚木芳春ゆぎよしはるは、車線に戻ろうと慌ててギアをバックに入れる。が、クラッチ操作がうまくいかず何度もエンストを繰り返す。

 彼らの乗る教習車一二番のトヨタコンフォートは、他の教習車が見守るなかコースの真ん中に陣取り、しばらく踊り狂った。

 実習コースだからまだ良いものの、これが公道ならばさらに大変なことになっていただろう。

「ごめんなさい。また、やってしまいました……」

「先生はごきげんなサンバで首が痛いです」

 やっとの思いで車線へと戻り、のろのろと走る車中で柚木がしょんぼりと呟く。

 彼がこのレインボー中央教習所に来て久しいが、天才の域に達した最低最悪の運転テクニックは、一向に改善する気配をみせない。

「それで先生、今回なんですけど」

「……合格印はあげられない」

「そんな。この教習もう八回目です」

「今の君を路上教習に出したら担当教官の命が危うい」

 八朔がきっぱりと言い切ると、大柄な柚木は背を丸めてさらにしょげる。

 悔しさで梅干しのような皺を作る顎にはお洒落のつもりかヒゲを生やして、さらに伸ばしたままの黒髪を後ろで一本に結っている。

 新宿でDJでもしていそうな風貌に反して彼の中身は、教官に怒られるままに謝罪を連発する、心優しい巨人そのものだった。

 生徒といっても何度か会えば顔ぶれもすぐ変わる教習所で、「古株」となっている彼は、持ち前の愛嬌ですっかり面々と親しくなった。

 もちろんそれはいち教官である八朔も同じ。

「でも、この前よりも半クラできるようになってたから。次に期待」

 コースの終点に差し掛かり、合格の印鑑が極端に少ない教習手帳を横目に、八朔がそう言ってやると、柚木の辛気臭い顔が一気に輝く。

「きみえせんせい……あなたってひとは……」

 柚木がさながら大型犬のような様相をみせた、その瞬間。八朔の視界に、ちょうど小動物くらいの「なにか」が映った。

 弾かれるように反射的に補助ブレーキをかけ、ゆるやかに停車位置へ向かおうとする車体が再びつんのめる。

「あれ」

「……悪い。よそ見してた。もう一度エンジンかけて」

 先の衝撃が八朔によるものだと柚木の理解が追いつく前に、再び動き出した車は定位置へ到着し、八朔はそそくさと降りて事務所へ戻ってしまった。

 普段ならばどんなにヘマをしても最後にきちんと講評を告げてくれるのに、と柚木は彼の様子を不思議に思った。

 去っていった八朔の顔は、なぜか嫌悪感に満ちた表情だったな、とも。


 朝がくる。カーテンのない部屋に直接、柔らかな紫の光が入り込み隅々に行き渡っていく。今日は快晴だ。

 独房のように殺風景な空間で、窓に足を向けて眠る彼へと、ゆっくり朝日が差し込み、徐々に体を登っていく。

 もう間もなく彼は眩しさに目をしかめて起きるだろう。彼が見ているのはきっと、こんな夢。

 ある日、二三歳の彼は、知り合いの知り合いから紹介されたバイトに向かっていた。

 とにかく若く、とにかく金がない彼は、妙に羽振りのいい日雇いの内容を怪しむことすらしなかった。

 自分の車で指定された座標に到着すると、そこは廃工場の跡地。バイトの内容は「後片付け」とだけ聞いている。

 足を踏み入れると、中は驚くほど静かで、外が昼だということを忘れさせる暗闇が待っていた。

 ――そして始めるのは、あの日から繰り返す毎日の続き。

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