水神女の島

 顕は、大学の二回生になった。今年の誕生日で二十歳になる。背丈もすっかり伸びて、百八十センチになった。

 ジャガー大神は、納まり具合の悪い小さな体で、窮屈な思いを、長い間ずっと我慢してきた。そして、成長期が到来し、顕の背丈は一気に伸びた。大昔に後見した、マヤの大王たちの肉体と遜色のないサイズにまで成長したおかげで、やっと快適に過ごせるようになった。

 顕が幼い頃は、日の本における神様同士の付き合い方や、神々の歴史について事細かに伝授した律子さんも、ジャガー大神の気配が微かで、ひっそりとしているために、顕即ちジャガー大神であることを失念しがちだった。

 律子さんだけではない。厳龍寺の周囲の神様たちも、すっかり大人になった顕から、ほどよい距離を取り、関心がなくなっていた。顕は、人間らしい、地味で堅実な毎日を過ごしていた。

 ほぼ大人になった顕ではあるが、まだ学生の身分だ。厳龍寺から通学し、宗圓夫婦の世話になっている状態が続いていた。宗圓が理事を務める学園の中等部へ入学し、そのまま高等部へ進学、卒業した。その後、大学進学にあたり、東京の大学へ行くか、京都市内の大学へ行くかで、迷ったりもあったが、結局、京都市内の大学へ入学した。


 顕は、夏季休業に入る前日、学生課の前の掲示板で、アルバイト募集を物色中だった。

 学費は父親が支払ってくれるが、それ以外はアルバイト賃金でやりくりしようと、努力していた。厳龍寺から通わせてもらっているので、学費以外に必要な費用は、教科書代や、教科書以外の書籍や文房具と、外食費や娯楽費が少々といった所だ。檀家の子どもの家庭教師で、地道に稼いではいる。だが、夏休み期間は、まとまった金を稼ぐ絶好の機会だった。それで、いいアルバイトはないものかと、熱心に眺めていたのだ。

「顕、顕」

 名を呼ばれ、ふり返ると、お公家顔がそのまま育った学が立っていた。顕は人文学部に在籍し、学は経済学部に在籍中だった。

「学、何か用事?」

 顕はしかめっ面で、学を振り返った。

 学は、今だに顕の事を、超能力者だと固く信じており、なおかつ、決して、その秘密を周囲には漏らさない。けれど、学は、何かと思わせぶりな様子で、俺は秘密を洩らさないぜ、とアピールしてくるので、うざったるしくてならない。一緒にはいたくないのだが、何かと理由をつけては、傍にいたがる学のせいで、周囲からは、顕と学は無二の親友だ、と誤解されていた。

「アルバイト捜しているんだろ」

「・・・・名探偵学君、ご名答だよ」

 顕は、学の毎度毎度の詮索に辟易しながらも、懐いた子犬を邪見にするような後ろめたさがあって、無視することはできかねるのだった。

「いいバイトがあるんやけれど、顕も、一口のるか」

 顕は掲示板から、学の方へ体の向きを変えた。半そでの、白い開襟シャツを着て、濃紺のデニムパンツ姿の顕は、ひょろりと痩せているが、背丈は学を追い越し、頭一つ分背が高くなっていた。顕は腕組みし、学を見下ろして言った。

「バイトの中身にもよるよ。去年みたいに、登録するだけだと思って行ったら、その場で問答無用でバスで連れていかれて、一週間ぶっ通しで、夜店の屋台でリンゴ飴やら焼きそばを作って売るバイトなんて、やめてくれよ。なかなか連絡できなくて、無断外泊になったから、伯母さんに、物凄く叱られたんだぞ」

 それだけではない。方々の神社の境内を渡り歩き、屋台の売り子を、異国の神であるジャガー大神が、半ば騙されたようなものとはいえ、つとめてしまったのだ。それを知った律子さんからは、私に断りもなく、よその神社のお祭りのための下働きをするなんて、そんな情けない事をするなんて、あんまりじゃありませんかと、大変なお叱りを頂戴したのだ。律子さんに機嫌を直してもらうため、アルバイト代の半分近くを使って、律子さんとご老神(ご老神には仲裁に入ってもらったために、招待しなければならなかった)に御馳走して、やっと許してもらったのだ。これでは、何のためのアルバイトなのか、分かったものじゃない。

「すまん、すまん、去年は、俺のチェックが甘かった。まさか、あんなに急に連れて行かれるとは思ってなかったから。でも、今度は、大丈夫、遺跡発掘のアルバイトやねん。怪しい業者なんか噛んでないから、安心だろ」

「遺跡の発掘・・・本当かい?去年みたいに、いきなり、ゴリラみたいなオヤジさんが睨みをきかせて、兄ちゃんら、バスにすぐ乗んなよ、って言うのとは違うんだろうな」

 そう言いながらも、顕は、遺跡の発掘調査なら、神社は絡んでこないから大丈夫だろうと、考えた。

「俺の親戚に、遺跡埋蔵品調査研究所の研究員をしている木村 昇さん-俺は昇おじさんて呼んでんねんけど-ていう人がおるねん。そのおじさんから、昨日電話かかってきて、トカラ列島で、物凄い古い年代の遺跡がみつかったから、調査するねんけど、過疎化が滅茶苦茶進んだ離島で、人手が足りへんから、アルバイトせえへんかって、声かけてくれたんや」

「トカラ列島の離島・・・それ、何ていう島なんだ」

 顕の問いに、学は、公家顔を傾げて、昇から聞いた島名を思い出そうと一寸考えた。

「ええっと、何やったかな、たしか、御津三島だ」

「ミツミ島?・・・聞いたことがないな」

「御中の御に、草津の津、漢数字の三で、御津三島だ。悪石島あくせきじまっていうところから、東の方にある離れ小島なんだ」

 まとまったお金を稼げる、バイトの口を紹介してくれているのだと分かってはいても、去年は酷い目にあったので、自然と用心してしまう。

「悪石島からも、大分離れていて、絶海の孤島って感じのところらしいわ。その御津三島でな、この間、梅雨の大雨で土砂崩れがあって、公道が埋まってしもたんや。その整備工事をしている最中に、遺跡がみつかったんやて、工事を急ぐから、遺跡調査を、この夏の間に、さっさと済ませて再開したいそうなんや。けど、調査決まったんが急やったから、夏休みの予定入れてしもてる学生が多いうえに、滅茶苦茶辺鄙な場所やから、行くのを嫌がって人が集まらへんねんて。それで、アルバイト集めの担当になった昇おじさんが困ってしもて、俺にも声かけてくれたんや。なんか漁師さんが二十家族くらいしか住んでない小さい島やねんて、それで、ごはんは食べ放題、海水浴もできるって、なあ、一緒に行こう。絶対楽しいって」

 学は、顕の両肩に手を置き、揺さぶった。が、去年の経験があるだけに、顕は簡単には承知しない。

「遊びに行くんじゃないんだろ。随分遠い所みたいだけれど、交通費は出るのかい」

 学は、力強くうなずいた。

「交通費は、出るんだ。トカラ列島なんて、滅多に行ける場所やないで、なあ、一緒に行こう。期間は二週間、日当も奮発して七千円出すって」

 ここまで聞いてしまうと、人間界の世知辛さにすっかり染まり切っている顕には、断る理由もない。学の誘いを、性懲りもなく、またもや受けてしまった。


 出発は、船便の関係で明日だという。その日帰宅するや、顕は、美佐江に、学に誘われ、アルバイトのために明日から二週間家を空けます、と報告した。しかし、美佐江は、去年の事を忘れてはいなかった。

「顕ちゃん、また、学君からのアルバイトの紹介なの?あなた達、去年も行方不明になって、大騒ぎになりかけたのよ。今度は大丈夫なんでしょうね」

 去年のアルバイトは、賃金こそ、仕事の終わりに気前よく支払ってはもらえたものの、逃亡防止のため、囲い込み状態が続き、電話連絡もままならなかった。そのため、顕を預かる竹園家のみならず、学の実家である北小路家でも、またもや誘拐かと、大騒ぎになりかけたのだ。顕が、夜店の親方に頼み込み、取り上げられていた携帯電話を返してもらい連絡を入れていなければ、危うく警察へ通報されるところだった。

「去年は、本当に御心配をおかけしました。でも、今度は、学くんの親戚からの紹介で、遺跡埋蔵品調査研究所の発掘調査のアルバイトですから、大丈夫ですよ」

「あら、遺跡調査なの。で、場所はどこなの?」

 美佐江は、簡単には納得してくれない。顕は、誤魔化しても仕方ないので、正直に答えた。

「トカラ列島から東の方角にある離島で、御津三島という所です」

 美佐江は、目を見開き驚いた。

「へえ、島へ行くのね。それなら、事件に巻き込まれる心配はなさそうね。でも、まさか毒蛇がいたりはしないでしょうね」

「さあ、今日聞いたばかりだし、初めて聞く島名で、詳細は分からないんです。明日、出発です」

「随分急に決まったのねえ」

「発掘調査の日数が限られていて、明日出発してくれと、急かされているんです」

 美佐江は、渋々ながら、アルバイトへ行くことを許可してくれた。

「仕方ないわねえ。そんな離島へ行けるのも、学生の間でなければ無理でしょうから、気を付けていってらっしゃい」

 

 翌日、早朝。

 大きなナップサックを背負い、白いTシャツにオリーブグリーンのカーゴパンツ、日よけの帽子を被った顕は、学と待ち合わせのバス停へ向かった。

「あらん、坊うったら、大きな荷物を背負ってどこへ行くのよ」

 声をかけてきたのは、迦陵頻伽だ。顕が大人になっても、迦陵頻伽だけは、相変わらず声をかけてくるのだ。

「おはよう、今日からアルバイトへ行くんだよ」

「キャハ、また、テキヤのオヤジさんの所へ弟子入りに行くの」

「・・・・・何で、君がそんな事を知っているんだ」

 去年の大騒動を、迦陵頻伽にまでからかわれて、顕はムッとした。

「だって、律子さん、滅茶苦茶怒ってたじゃない。あんな律子さんを見る機会を、あたしが見逃すはずないでしょ。今度は大丈夫なんでしょうね。夏休みのバイトは、鬼門なんじゃないの」

 美佐江のみならず、迦陵頻伽からまでも、大丈夫かと聞かれ、顕はげんなりした。が、おもしろがりながらも、気にかけてくれている迦陵頻伽を無視する訳にもいかず

「・・・大丈夫だと思うよ。たぶんね。それに、何事にも先立つものは金だから、休みの間に稼いでおかないとね」と、答えた。

「やあねえ、お金に執着するのは感心しないわ。若者は、そんな事にこだわらないで、夢は大きく持たなくちゃダメよ。で、どこへ出かけるの」

「御津三島っていう所なんだ。遺跡の発掘調査を手伝うんだよ」

「ふうん、島なんだあ。その島ってどこにあるの?」

 顕の周りを軽やかに飛び回りながら、迦陵頻伽は尋ねた。

「トカラ列島から東に外れたところにあるんだそうだ」

「トカラ列島って、どこらへんにあるの」

「鹿児島の南、屋久島から奄美大島にかけてに点在する島の総称がトカラ列島さ。そのトカラ列島の東側のどこかにあるみたいだね」

「へえ、随分遠い所へ行くんだねえ。あたしもついて行こうかしら」

「二週間も行くから、そんなに、お寺を空けて大丈夫なのかい」

「凄いっ、去年の倍も働くのね。盂蘭盆会が近いからねえ。そうでなきゃ、あたしも一緒に行ってさあ、息抜きしたいところなんだけれどなあ」

「遊びに行くんじゃないったら」

「坊うったら、修行中の坊さんみたいに生真面目なんだからあ、せっかく南の島へ行くんだから、アルバイトと遊びと両方、要領よくやりなさいよ。がんばってね」

 迦陵頻伽はそう言って顕を見送ると、空高く飛翔していった。


 バス停で待っていると、学が、顕のものより倍もありそうな荷物で、膨れ上がったリュックを背負い、荒い呼吸で走ってきた。

「ごめん、ちょっと寝坊しかけた」

「荷物、多くないか。そんなに持っていくのか」

「お母はんから、昇さんにお土産ことづかったし、シュノーケリングもしたいから持ってきたら、かさばってしもうたんや」

 と言いながら、ガサガサとA4サイズの紙を、ズボンのポケットから取り出した。

「昨日の晩に、昇おじさんがファックスで送ってくれた時刻表や。急な出発で飛行機は無理やさかい、京都駅から新幹線に乗って、とりあえず、福岡に出て、それから高速バスに乗って、鹿児島港から夜の十一時過ぎに出航するフェリーに乗ったら、ええらしいわ」

 顕が、学生であった当時は、新幹線は鹿児島まで延伸されていなかった。飛行機を利用しないのなら、昇が、ファックスで指示した経路が無難なものだった。


 二人は、午前中の早い時刻にも関わらず、すでに満席に近い状態の新幹線に乗り、新大阪で何とか座席を確保できた。それから、福岡で下車し、次に鹿児島行の高速バスに乗車した。鹿児島まではバスに乗りっ放しでいいので、順調だった。

 その後、鹿児島市内で時間を調整し、フェリー埠頭へ移動した。そしてやっと、鹿児島港からトカラ列島を周航するフェリーに無事乗船できた。が、外洋に差し掛かると、船は大きく上下動し、学はひどい船酔いに苦しんだ。何度も、手洗いへ走り、真っ青になって、嘔吐した。

「もう、胃の中は空っぽのはずやのに、まだ、もどしそうや」

 畳敷きの休憩スペースで、胡坐のまま、畳に手をついた前屈みの姿勢で、青い顔で苦しむ学の隣で、顕は畳の上に寝転がり、フェリーターミナルで買った週刊誌を読んでいた。顕の中にいるのはジャガー大神、ジャガーはネコ科動物なので、三半規管は人間以上に発達している。外洋の波の揺れくらいは、へっちゃらだった。

「顕、おまえ、気分悪くないのか」

「別に、なんともないよ」

「やっぱり超能力者は違うなあ。全然平気なんや」

「学、アホな事喋らんと、さっさと寝たらどうなんだ。悪石島に着くまで、まだ、だいぶ時間がかかるんだろ。船酔いを治すには、寝るのが一番さ。それに悪石島に、島の漁師さんが迎えにきてくれて、御津三島まで漁船に乗せてもらうんだろう」

 顕はそう言うと、読んでいた雑誌から学へ視線を移し、にやりと笑った。

「漁船はフェリーより小型の船だろう。たぶん、もっと揺れるぜ。今は、体力を温存しておいた方がいいんじゃないか」

 学は、悪石島からさらに漁船に乗ることを、顕から言われるまで、すっかり失念していた。それを思い出すと、胡坐をかいたまま、ションボリと肩を落とした。

「顕、おまえはほんまにクールな男やなあ。大事なことを思い出させてくれて、ありがとう。ほな、もう寝させてもらいます。お休み」


 トカラ列島は、島と島の間の距離が長い。フェリーは、口之島、中之島と、その一つ一つに寄港する。途中、海の状態次第で遅れが生じ、入港が予定日の翌日になることもある。が、この日の船旅は順調で、悪石島には、翌日の十時頃に到着した。

 フェリーから降りると、顕と学は、迎えの人を捜して、周囲を見回した。すると、二人の方へ、黒いTシャツ、カーキ色のチノパン姿、いかつい体つきの男が近づいて来た。百七十センチくらいなのだが、角刈りでサングラスをかけて、強面な感じがする。二人は何者だろうと警戒した。

「あんたら、木下先生が頼んだアルバイトの学生さんか」

 浪曲師のような、渋いしわ枯れ声だ。男は、サングラスを外すと、タバコで黄ばんだ歯を見せて笑った。柔和な瞳が現れ、潮焼けした顔に笑い皺がよる。強面の印象がガラリと変わり、初老の漁師の、人懐っこい素顔が現れた。二人は緊張を解き、男へ挨拶した。

「はい、北小路 学です。迎えにきていただいて、ありがとうございます」

「月護 顕です。お世話になります」

「わしは、木下先生に頼まれて、迎えにきた、あけぼの丸の船長で、もり 公一こういちという者だ。あんたら、遠い所をよう来てくれたな。すぐに船を出すから、ついておいで」

「はい」

 同時に返事をすると、大股で歩く森船長について行った。が、学は、大きな荷物を背負い、船酔いで胃の中が空っぽなので、遅れがちになった。顕は、少し待ってもらおうと、森船長に声をかけた。

「すみません。北小路くん、船酔いになったので、足元がふらついていて、少し待ってもらえますか」

「おかの上ばっかりで生活してる人は、船の上は辛いもんだよ。荷物持ってやるよ」

 森船長は、引き返すと、学の背からリュックを取り上げ、軽々と片手で持った。

「随分かさばる荷物を持ってきたな。さあ、乗ってくれ、これが、わしの船、あけぼの丸だ」

 森船長が、得意そうに、船を紹介した。

 あけぼの丸は、全長が五メートル余り、横幅は二メートル半余の、強化プラスチック製の漁船だった。ふたりが乗って来たフェリーに比べると、随分小さく、頼りなげに見える。桟橋のコンクリートの杭に係留され、護岸に打ち寄せる波の上で、上下にゆったりと揺れていた。

 顕は、「お邪魔します」と言いながら、一メートル以上の幅と高低差があるにもかかわらず、桟橋から船へと身軽に飛び乗った。ジャガー大神には、何と言うこともないジャンプなので、ついうっかり、無意識に飛び乗ってしまったのだ。

「兄ちゃん、身が軽いねえ」

 森船長は、ひ弱な学生に見える顕の、予想外の身のこなしに目を丸くした。けれど、学にそんな芸当は無理である。船から桟橋へ渡してある船梯子から、怖々と乗り込んだ。その後ろから、学が海へ落っこちないように目を光らせながら、リュックをかついで、船長が乗り込んだ。

 船が港を出ると、学はもう耐えきれなくなり、操舵室の中でしゃがみ込み、ぐったりしてしまった。が、顕の方は、青い海原に見とれ、船首のあたりで風にあたり、気持ちよさそうにしていた。

 森船長は、しばらく行くと船をとめ、操舵室から船首へやって来て、顕に声をかけた。

「あんたら、昼飯まだじゃろ。ちょっとこの辺りで、仕掛けをあげてみるから、待ってなさい」

 そう言うと船長は、海に浮かんでいた黄色のブイをつかみ、朝のうちに仕掛けておいた延縄を引き寄せた。延縄は一本の幹縄に一定間隔で多数の枝縄をつけ、その枝縄の先端に釣針をつけた仕掛けだ。針と一緒に疑似餌をつけることもある。

「さあて、今日は、どんな魚が釣れるかな」

 森船長は、慣れた動作で巻き上げ機を操作し、延縄を手繰り寄せた。

 巻き上げてみると、枝縄の先に、ぜいご(あじ)が次々にひっかかってきた。船長は、ぜいごを針から手早く外し、船上へ降ろしていった。

「顕君、そこの蓋をあけて、魚を中へ落してくれんか」

 森船長の指示に、顕は床から盛り上がる九十センチ四方の蓋を持ち上げ、その中へ魚の尻尾をつかみ、投げ込んでいった。

「そうそう、いい調子だ。あんた、漁師になれるよ。おっと、イソマグロが釣れた。おや、トビウオもだ。今日は大漁だな。トビウオとゼイゴを二、三匹ずつ残しておいてくれんか。それを捌いて、昼飯にしよう」

 森船長は、操舵室からまな板と包丁を持ってくると、トビウオを三枚におろし、刺身にした。ゼイゴは細かく砕き、タッパーで持ってきたネギと味噌の中にいれ、豪快に混ぜていった。

「食ってみな。とれたての魚の味は格別だぜ」

 顕は勧められるまま、割りばしを割り、刺身に醤油とわさびをつけ、口に入れた。おいしすぎて、言葉が出ない。けれど、船長には、魚のおいしさに感動しているのがよく分かり、呵々大笑した。

「うまいだろ。そうだろ、もう、言葉でないだろ」

 顕は、刺身をさらに食べ、目をキラキラさせて何度もうなずいた。

「そっちの味噌和えも食べてみな。絶品だよ」

「本当、絶品ですね。こんなにうまい魚を食べたのは初めてです」

 顕の感激し切った様子に、森船長はますます気をよくした。

「そうだろう。そうだろう。御津三島は何もないところだが、海の幸だけは、他所には負けないからな。どれ、ちょっと待ってな」

 そう言うと、船長は、操舵室から一升瓶とコップをふたつ持ってきた。

「北小路君は、何も食べられないと言うて、床に寝転がってる。船の上の飯はうまいのに、残念だな」と言いながら、一升瓶を開けると、コップになみなみと酒をついだ。

「島も近いから、一杯くらいは大丈夫だ。飲んでみな、うまいよ」

「ぼくは、まだ、未成年なんです…」

 顕は、飲酒年齢に達していないので、断ろうとした。

「何を言ってる、二十歳前も二十歳も大して変わらんよ。わしらの島では、十六歳を越えたら一人前の扱いさ。これは、御津三島の焼酎だ。さあ、遠慮せんで、グッといってみな」

 地元では、未成年だから、絶対飲酒なんかしないのだが、森船長は屈託のない態度だし、海の上で開放的な気分になっていたこともあり、顕は、勧められるままコップの酒を飲み干した。

 一気に飲んで、顕がプハッと息を吐くと、森船長は、目を細めて喜んだ。

「いい飲みっぷりだねえ」

 一杯くらいは大丈夫と言っていたのに、船長は、自分のコップにも二杯目を注ぎ、顕にも二杯目を勧めた。一杯飲んでしまうと、二杯、三杯も変わりはない。

 森船長は、焼酎で気分もほぐれ、上機嫌になった。

 一方、ジャガー大神にとって、人間の飲む酒は、水と変わりがない。何杯飲んでも、酔ったりはしない、全然平気なのだ。

 顕は、魚を食べては、焼酎を飲み、漁師めしを堪能した。

「森船長、どうして、御津三島にフェリーは寄らないんですか」

「御津三島の周りは岩礁が多いうえに、遠浅なんだよ。大型船は寄港できないんだ。それで、本土に用事がある時は、島の者は、漁船で悪石島まで出て、フェリーに乗るんだよ」

「そうなんですか。色々ご苦労がありますねえ」

「まあな、だが、島は絶景だし、いい所だよ。魚はうまいし、温泉も湧いてるしな」

「温泉があるんですか」

 温泉の湧く土地は地力の高い場所なので、非常時にはエネルギーを直接利用できる。発掘調査のアルバイトで、まさかそんな事態が起こるとは思えないが、一応は、知っておく方がいいだろうと、顕は確認した。

「ああ、トカラ列島の島は、火山でできてるからな。御津三島も温泉が湧くし、砂風呂小屋もあるよ。顕君も、温泉と砂風呂を堪能するといいよ」

 

 御津三島に到着したのは、三時過ぎだった。真夏の太陽の強烈な日差しが照り付け、焼けつくような暑さの中、紺碧の海上に、数十メートルの絶壁を成す、険しい海食崖に囲まれた、大小二つの島が見えて来た。

「あれが御津三島だ」

 操舵室で、舵を握りながら、森船長が指さした。

「島が、ふたつに見えるんですが」

 と、顕が問うと、船長は

「手前が御津三島で、奥に見える、大きい島は、水神女みうめ島だ。水神女島は、御嶽うたきの守り人がいるだけで、他は、誰も住んでないんだ」

「みうめ島?・・・御嶽って、何か神様を祀ってあるんですか」

「水に神様の神、女の島と書いて、みうめ島と読む。昔から、水神女様をお祀りしているんだよ。泉の家の者が、ずっと祭祀を守ってきてたんだが、本家の連中が、東京へ出て行ってしまってな。今、あそこには、御嵩の守り人を務める、泉家のおばば様以外は、誰もいないんだ」

 岩礁を避けて御津三島の港へ入るため、その後、森船長は、無言で舵とりに集中した。御嶽は、別の島にあるとのことだし、今度のアルバイトでは、関わりを持つこともないだろうと思い、顕も、水神女島の事を、それ以上尋ねなかった。


 顕と学は、森船長に礼をいい、下船した。

 船長は、釣り客を迎えに行くからと、船のエンジンをかけ、また港を出て行った。

「やっと到着やあ。長い航海やったなあ。ずっと座りっ放しやさかい、腰が痛いわ」

 昼ごはんを食べ損ねた学は、大きな荷物を背負い、ふらつく足取りで、桟橋を歩いた。

「あかん、まだ地面が揺れてる」

 と、よろめきかけたのを、顕が、サッと腕を伸ばし、海へ落ちないように引き戻した。

「学、大丈夫か。リュックを下ろして、そこでじっとしていろよ」

 顕は、学をゆっくり歩かせ、護岸壁で日陰になっている場所へ連れていくと、リュックを背中から降ろしてやり、地面に座らせた。それから顕は、島の様子を確かめようと思い、横の階段から護岸壁の上へあがった。

 無人の護岸壁から、周囲を見回すと、眼前には、南国らしいキラキラと輝く真っ青な海と、白い砂浜、砂浜が途切れる向こうは、海食崖の、垂直に近い断崖絶壁が黒々とした陰をつくり聳え立っている。顕たちがいる周囲だけ、入江となり、波が穏やかな場所で、それ以外、御津三島の周囲は、海は岩礁だらけ、島は断崖絶壁で、容易に人を近づけない地形である。

 島の中央部に目をやると、人の住む、緩い傾斜が続くごく狭い範囲の土地から、すぐに、鬱蒼と茂る広葉樹の森に覆われた急峻な斜面がはじまり、島の最高峰まで一気に続く。緑深い森も、また、人を寄せ付けない、神気めいた気配を帯び、それは、グアテマラのジャングルを思い出させ、顕は、一瞬、懐かしさを覚えた。


「学君、よく来てくれたね」

「昇おじさん」

 デニムズボンに、ストライプ柄のポロシャツ姿で、黒縁眼鏡をかけた実直そうな顔立ちの男が、学へ手を振りながら、港から集落へと続く道からコンクリートの護岸へと歩いてきた。

「よく来てくれたね。おや、学くん、顔色が悪いな。船酔いだろう。外洋は波の揺れがきついからね」

 学の叔父、木村 昇が現れたので、顕も、護岸壁の上から降りてきて、挨拶した。

「木村先生、初めまして、月護 顕と申します。よろしくお願いします」

 木村は、顕の名を聞くと、眼鏡の縁に右手を当て、一寸何かを思い出す風をみせた。

「月護って、君は、ひょっとして、東邦大の月護教授、グアテマラで、紀元前に遡る、マヤの複合遺跡を発見した月護 明宏教授の息子さんじゃないのかい」

 顕は、笑いながら首肯した。

「はい、父は明宏です。父の事をご存知なのですか」

 木村は目を細め、嬉しそうに笑った。自分の専門とするところとは違っていても、海外に通用する輝かしい業績を上げた月護 明宏は、考古学を研究する木村にとって、憧れに近い存在なのだ。

「当然だよ。月護先生は、今や世界的なマヤ遺跡の研究者として有名だよ。月護先生の息子さんが、遺跡調査に参加してくれるなんて、実に奇遇だね。明日から、早速現場へ行ってもらうが、今日は、これから、宿へ行って、歓迎会をするからね。学くんも、その大きな荷物、頑張って持って、ついておいで」

 上機嫌で歩く木村の後に続きながら、学は、顕に、小さな声で尋ねた。

「顕のお父さんて、厳龍寺の和尚さんと違うんか」

「学、苗字が違うだろう。父は、東京とグアテマラを行ったり来たりで忙しいから、母方の伯父の家に世話になっているんだよ。今まで、知らなかったのか」

 顕も、ひそひそ声で答えた。知り合ってから何年にもなるのに、学が天然ボケな質問をしたものだから、呆れてしまった。

 学は、口を尖らした。

「おまえ、そんなん、俺に全然言うてくれへんかったやん」

「そうだったかな。聞かれたことなかったからな」

 素気ない答えに、学の口は、ますます尖って、アヒルの口ばしみたいになった。

「聞かれたことなかったって、おまえ、クール過ぎるわ。で、おまえのお母はんは、何してんの」

「母さんか・・・今はどこにいるかなあ。出張ばっかりして、海外を飛び回っているからなあ」

「・・・へえ、おまえの両親、めっちゃセレブなんちゃうん」

「セレブ・・・そんな、いい御身分じゃないと思うよ。忙しいだけだよ」

 その答えを聞くや、学はいきなり立ち止まり、両手でもって、顕の両腕をガバッとつかんだ。

「おまえって、両親に放ったらかしにされた、寂しい身の上やったんや。生みの親と育ての親との間で思い悩む俺と、寂しい身の上のおまえ…やっぱり、俺らは、出会うべくして、出会う運命やったんや」

 思い込みの激しい学の言葉に、反論する気も起らず、視線を明後日の方に向けたまま、顕は、ただ苦笑いし、コメントを控えた。


 港を出ると、山へと続く緩やかな斜面に、漁師の家が建ち並んでいる。台風の通過が多いので、コンクリート製の白い家が目立つ。それが、間隔を空けずに、エーゲ海の白い街並みのように、階段状に密集して建て込んでいる。道の両脇は、家屋の影が差すので日陰となり、真夏の日差しを防ぎ、さらに、入江からは、海風がまっすぐ吹き上がってきて涼しく感じられた。

 木村は、石畳で舗装された坂道を、右、左と何度か曲がり、二人を宿へと案内した。

「悪いけど、ぼくと相部屋なんだ。道路工事で本土から来ている人たちと、今は釣りシーズンで釣り客も多くてね、空き室がないんだよ」

「ここまで、わざわざ釣りに来るなんて、もの好きな人もおるもんやなあ」

 学が無邪気に言うと、木村は笑った。

「この辺りは、大物釣りの穴場で有名なんだよ。確か、君たちの大学の先生も、ひとり、昨日から釣りに来ているよ」

 顕と学は、一体誰だろうと、顔を見合わせた。


 道から石段を上がった先の、宿の玄関には「貸釣船・料理民宿 森」と墨書きされた、板看板がかかっていた。それに、玄関先にまで、食べ物を煮炊きする、いい匂いが漂ってきていた。

 木下が、玄関先から声をかけると、奥から、民宿のおかみさんが、ひっつめ髪に割烹着姿で、せかせか歩いてやって来た。そして、凄まじい早口で一気に喋った。

「おふたりさん、よう来なさった。私は、この民宿を亭主と一緒に切り盛りしてます。もり 良子よしこといいます。船が予定通りで、遅れずについてよかったです。時間はまだ早いことですし、まあ、温泉でも浸かって来てゆっくりしてください。木村さん、今日は大部屋で宴会にします。六時には席についてくださいね。亭主が、松原先生を連れて帰ってきたら、すぐ始めますからね」

 よほど忙しいのか、おかみさんは、甲高い声の早口で、一気にそれだけ言うと、回れ右して、行ってしまった。

「はい、お世話になります」

 二人は、おかみさんの後ろ姿に、慌てて頭を下げた。

「おかみさん、ひさしぶりの満員状態で、みんなの料理をほとんど一人で作っているから、大変なんだよ。ご亭主は、漁師もしているから、おかみさんの手伝いがなかなかできなくてね。ほら、君たちを連れてきてくれた森船長だよ」

 木村の説明で、民宿「森」は、森船長が経営する民宿なのだと、ふたりは合点した。


 顕と学は木村とともに、宿の二階へ上がり、部屋へ荷物を置いた。その後、タオルと着替えを持って、海岸近くの温泉へ出かけた。そこは、砂浜が途切れ、岩場から海食崖にいたる境の場所にあった。高波が襲うと水没しそうな岩場で、積み上げた岩で囲った風呂があった。砂の層から直に温泉が湧き出しているのだ。

 三人はそこで、温泉につかったり、砂風呂の方へ行ったりして、しばらくのんびりと過ごした。

 五時過ぎに宿へ戻ると、森船長が釣客とともに戻っていた。玄関先で、まだ釣り竿を手にし、長靴姿で、ぼさぼさ頭で真っ赤に日焼けし、手ぬぐいを首に巻いた、漁師と見分けのつかない男が、ご機嫌で、船長へ、お礼がてらに釣果を自慢していた。

「船長、今日の岩場は最高によかったよ。連れていってくれて本当にありがとう。恩に着ますよ。こんなにたくさん、それも大物ばっかり釣ったのは、本当に久しぶりです。今日釣ったのは、こちらの皆さんにも、是非召し上がっていただきたいものです。おかみさんの手を煩わせるのは、申し訳ないが、いきが良いうちに食べるのが一番でしょ」

 玄関先に置いてある床几に腰かけ、タバコをふかしながら、森船長は、子供みたいに喜ぶ釣り客を、満足げに眺めていた。

「いやいや、うちのも、いい魚が手に入って、今日は存分に腕を揮えると喜んでますよ。おや、木村先生、それに顕君に学君、お帰り」

 坂道を上って、宿の前まで来た木村たちに気が付くと、船長は声をかけた。

 と、そこへおかみさんが走るようにやって来ると、船長へ向かって、上がりかまちから大声で話しかけた。

「あんたっ、松原先生の釣った魚を下ろして、活造りにしてくださいよ。私は、これから天ぷらを揚げるから、お願いしますよ」

「おう、任せておけ。松原先生、楽しみにしててください」

 船長は、釣り客へ向かって愛想良く言うと、空き缶でつくった灰皿でタバコを消し、宿の中へと入って行った。

 木村は、釣り客へ声をかけた。

「松原先生、大漁だったんですね」

「おう、木村先生、そうなんだよ。もう、今日は入れ食いでね。でっかいヒラマサが食いついてきたもんだから、危うく、こっちが釣られてしまうところだったよ。ちょうどいいところへ、船長が迎えに来てくれて、手伝ってくれたから、助かったよ」

「へえ、それは、それは、大変でしたね」

 木村は全く釣りに興味がないので、松原の興奮に感染することもなく、穏やかな笑みを浮かべ相槌を打った。松原は、銀縁眼鏡を取り出し、顔にかけると、木村の後にひかえた、顕と学に気が付いた。

「木村先生、後ろのお二人は、君がやっと見つけた、発掘調査の助っ人かい?」

「ええ、そうなんです。ぼくの甥の北小路 学君と、学君の友人の、月護 顕君です」

 松原は、玄関から外へ出て、二人の前に立った。

「こんな恰好で失礼するよ。私は、京都洛北大学で比較言語学を研究している松原 和夫といいます。ここへは、釣りが目当てで来ているんだが、かなり興味深い遺跡だと、木村先生からうかがっているから、また、近いうちに、君たちの作業を見に行かせてもらいますよ。ところで君たち、学生なのかい、どこの大学だね?」

 顕と学は顔を見合わせ、顕が答えた。

「松原先生、初めまして。ぼく達は、先生が教鞭を取っていらっしゃる大学の学生なんです」

「おや、そうなのか。はるばるこんな場所で、うちの学生に会おうとは、驚いたね」

 その時、おかみさんの館内放送が、玄関の柱につけてあるスピーカーから轟いた。

「もうすぐ六時です。一階の大広間に全員集合してください。今から、民宿森の大宴会を始めます。テレビも消して、電気も消して、すぐに集まってください。遅刻はダメですからね」

 機関銃なみの早口が、スピーカーから流れた。その放送を聞くや、松原は慌てふためいた。

「大変だ。君たちも急ぎなさい。ここのおかみさんは、ご亭主の森船長をも尻に敷く、絶対権力者なんだ。遅刻でもしようものなら、握り飯しか食べられなくなるぞ。おかみさんの料理は絶品なんだから、食べ損ねる訳にはいかんのだ」

 松原は、玄関へ駆け込み、長靴を大急ぎで脱ぐと、土間から上がり框へ上がった。そこへ、おかみさんがやって来た。

「松原先生、十五分時間をあげますから、裏庭の簡易シャワーを使ってきてください。はい、これ、タオルと着替え。そのままだと、汗臭くて、他のお客さんの迷惑ですからね」

「おかみさん、ありがとう。恩に着るよ」

 松原先生の口癖は、『恩に着るよ』なのかなと思いつつ、顕は、おかみさんとのやり取りを興味深く眺めていた。おかみさんを恐れつつも、松原先生はおかみさんの事を信頼している様子だし、おかみさんの方も、厳しいことを言いながらも、松原先生の事を気遣っている様子がある。松原先生は、この民宿で、かなりの常連客なのだろう。

 大広間へ行くと、田の字つくりとなった八畳部屋から、欄間の下の襖を外し、四間続きの広間へと、設え直してあった。そこに、脚付き膳が、ひとりに、大中小と三台づつ、それが部屋の周囲に沿って、計十六組がずらりと並んでいる。金持ちの学でさえ、見たこともない海の幸満載の御馳走が並んでいた。大皿の御造り、皿からはみ出しそうな天ぷら、お頭つきの煮魚に焼き魚、貝が山盛り入ったお吸い物…大皿の隙間を小鉢が埋め尽くしている。

「凄い…俺、京都の料亭でも、こんな凄い御馳走見たことないわ。めっちゃ仰山あるやん、ここのおかみさん、すごいなあ」

 お腹の皮がひっつきそうなくらいに空腹だった学は、感激しきっていた。

 向かい側で、道路工事にきている作業員の人も、風呂に入ってさっぱりした様子で席に着き、今日は大当たりの日だと喜んでいた。

 松原先生は、おかみさんとの約束通り、きっかり十五分以内で、身支度を整え部屋へ入ってきた。

 おかみさんは、焼酎の一升瓶を脚付き膳の前に等間隔に数本置くと、皆へ言った。

「島の焼酎です。ごはんはお替り自由です。さあ、お待たせしました。皆さん、どうぞ、召し上がってください」

 そう言いながら、おかみさんは、お茶の入った大きな土瓶と、湯飲み茶わんを盆にのせて運んできて、さらに、大きなお櫃を六つ運んできた。その作業の間に、皆は、コップに焼酎を注いだ。

 松原先生が、コップを手に立ち上がり、

「今晩の料理に腕を揮ってくれた、おかみさんと船長に感謝して、乾杯、いただきます」と、音頭を取った。

 そして、初日の宴会は、大盛況のうちに終わった。

 

 翌日。

 早朝に起床した顕と学は、木村とともに発掘現場へ向かった。民宿から西へ向かい、さらに急峻な山道を登って行く。公道は、海食崖の上のごく狭い平地を通って、島をほぼ一周する生活道路だった。その道路が面している山の斜面が、崖崩れを起こし、先史時代の遺跡が姿を現したのだ。が、遺跡のある場所は、垂直に近い崖を横切らなければ、近づくことが出来ないのだ。早く工事を再開させたい道路工事の作業員の協力を得て、木村は、現場へ続く崖に、鉄パイプで組み立てた簡易な足場と、崖に鎖を渡してもらい、それを頼りに、足を滑らせないように気をつけながら、山の斜面を横断し、現場へ通っていた。木村と顕は順調に進んでいたが、二日酔いの学は、何回か足を滑らせそうになっていた。

「オエッ、海の上では船酔いに苦しみ、島に来ては二日酔いに苦しむ。俺の人生最悪やあ、誰か俺を救ってくれえ」

「何言ってるんだ。夜店の金魚じゃあるまいし、誰が、君なんかすくうものか。だいたい、昨日だって、何回も飲むのをやめろって止めたのに、ちっとも人のいう事を聞かないんだから、自業自得だろう」

「顕、おまえがそれ言うか。おまえなんか、俺の三倍、いや、四倍は飲んでたやろ。まだ、二十歳の誕生日来てへんくせして、なんやねん。胃袋、四次元においてきてんのか。ほんま、どんな内臓してんねん」

「…それだけ、ギャーギャー言う元気があるんだったら、大丈夫だよ。ほら、あと、もう少しだ。そのうち、酒も抜けるだろ」

 顕は、今日は、学の分の作業道具まで担いでここまで登って来ていた。いい加減、学に元気になってもらわなければ、自分ばかりが重労働をすることにもなりかねない。途中で帰るなんて言い出さないように、適当に相手をし、足を滑らせないように目を光らせながら、学の尻を叩いて先を進ませた。

「さあ、到着した。急斜面なものだから、作業員の人が、臨時の足場を組んでくれたんだ。だが、幅が狭くて、不安定だから、十分注意してください。顕君、その荷物は、足場の端に籠を括り付けてあるから、その中に落ちないように入れてくれるかい」

「はい、了解です」

「エエッ、ここが発掘場所なんですか。まるで、ビルの解体工事現場みたいや。こんなんで、発掘できるんですか」

 学の頭の中の、発掘現場のイメージは、平地にしゃがみ込み、土の中から土器の欠片なんかを、スコップや歯ブラシみたいなのを使って、ゆっくり掘り出すものだった。ところが、ここは、垂直に近い崖の中腹で、土砂が崩れ、土がむき出しになった斜面に、簡易な足場が不安定な状態で組んである。想定外の発掘場所なのだ。

 木村は、籠の中の荷物入れから、三脚とカメラをとりだした。

「発掘を始める前には、必ず、写真を撮っておくんだ。毎日、調査前、途中、終了後の写真を、撮影しておくんだよ」

 撮影後、木村の指導のもと、二人は、斜面から土器の破片を掘り出した。破片を傷つけないように土の中から取り出すには、色々手順があるのだが、木村から説明を受けても、学は、言われたことを忘れて乱暴に取扱いそうになる。一方、顕、つまりジャガー大神は、父親である月護教授の記憶を、ごっそり走査したことがあった。そのため、月護教授の発掘調査の知識・技術を、そっくりそのまま記憶として持っていた。だから、学が失敗しそうになるたび、作業をストップさせ、スコップから、刷毛に持ち替えさせ、そっと土を落とさせたりと、細かく指導してしまった。その様子を目にした木村は、本当の事を知るはずもなく、さすがは、小さい頃から月護教授の薫陶を受けてきた顕くんは、違うなあ、と感心しきっていた。

 早朝の七時から、昼過ぎくらいまで、作業は、みっちり続いた。

 休憩をはさみ、午後からは、気温も湿度も上がり、煮えたぎるような暑さになるため、野外作業は終了し、その代わり、崖をくだり、特別に使用させてもらっている公民館の集会所まで発掘品を運び込み、再度土を揮いにかけ、出土品の漏れがないか確認したり、出土品を計測し写真撮影して、目録作りを行った。その作業が、五時まで続いた。


 最初の一日を終え、民宿「森」へ戻ってきた学は、畳の上に倒れ込み、悲鳴を上げた。

「もうあかん。俺、限界や。最初は建築現場の足場みたいなとこから、土掘って、狭い足場で立ったりしゃがんだり、暑さでヘロヘロになるまで働いて、昼からは、やっと終わったと思ったら、今度は、湿った土がついたまんまの重たい土器の欠片が入ったコンテナ箱担いで、麓まで何往復も降ろして…こんな、きっつい作業やって分かってたら、絶対来えへんかったのに、もう最悪や、腰は痛いし、ふくらはぎパンパンやし」

 ダウン寸前の学と対照的に、顕は、自分のリュックを開けながら、涼しい顔で言った。

「二週間働く約束だろ。諦めて頑張りなよ。そのうち体も慣れるさ。温泉へ行くけど、学はどうする?簡易シャワーで済ませるのか」

 学は、畳に寝転んだまま、盛大にため息をついた。

「顕、おまえ、全然平気なんやな。もやしみたいにガリガリのくせして、何でそんなに元気やねん。おまえ、超能力使って、何か狡いことしてるのと違うか。それやったら、おまえの超能力で、俺の、このひどい筋肉痛を治してくれよ」

 顕の体は、ジャガー大神の神気が循環しているのだから、少々のきつい労働をしたぐらいでへたばったりしないのは、当然だった。が、超能力云々は学の決まり文句なので、今さら反論する気もなく無視した。

「疲れを取るには、温泉で温まって、血行をよくするのが一番効くと思うよ」

 学が愚痴をこぼす間に、温泉に行く用意を済ませた顕は、首から手ぬぐいをぶらさげ、寝そべる学を上からのぞき込むと、そう答えた。

「…ハア…おまえは現実的な奴っちゃなあ。分かった。俺も温泉行くわ。どうせ、シャワーで済ませても筋肉痛、温泉まで歩いても筋肉痛、どっちも同じやったら、温泉浸からしてもらいます」

 一方、木村は、顕と学を民宿へ先に帰らせた後、公民館で後片づけと戸締りをした。それから、民宿へ戻る途中、島内放送で定時に流れる天気予報を聴き、自身でもラジオを聴き、明日以降の天気情報を確認した。

 木村は、顕たちから半時ほど遅れて、釣りから戻ってきた松原とともに、海沿いの温泉場へやって来た。

「木村先生、松原先生、お疲れさまです」

 湯舟に入ってきた木村と松原に、顕が声をかけた。

「いやあ、君たちこそお疲れさまでした。今日は、よく働いてくれて、本当に助かったよ。それにしても、顕君、君には本当に驚いたよ。君の発掘作業の様子を見ていると、玄人くろうとはだしじゃないか」

 学もうなずいて、割り込んできた。

「おじさん、顕、今日はメッチャ小姑みたいに、俺にダメ出ししまくってたんです。もう、俺、今日一日で、一週間分働いた気分です」

「おいおい、まだ一日目で、そんな事言ってもらっちゃ困るよ。今週の後半は、台風が近くを通って大荒れになるようだから、明日からはさらに作業のピッチを上げる必要があるんだ。だから、発掘作業の時間を延長することにするよ。それにしても、顕くんの作業は丁寧で、正確だから、有り難い。専門家レベルの、顕君が来てくれて、本当に大助かりだ。さすがは、月護教授の息子さんだよ」

「エエッ、まだピッチを上げるんですか。もう、最悪やあ、俺、本当に死んでしまうかも」

 学が大仰に悲鳴を上げた。

 一方、顕は、無言のまま、ただ笑って誤魔化した。まさか、月護教授の頭の中の知識をごっそり写し取ったから、発掘の事なら何でも知ってます、なんて、言えるはずもない。長い人間生活の中で、笑って誤魔化すという方法が、実に有効だと学習済みなものだから、誉められて嬉しいがっている風を、装うことに徹したのだ。

「おや、君、お父さんは月護先生なのか。それならば、君もグアテマラに住んでいた事があるのかい」

 かけ湯をして湯舟に入ってきた松原教授は、顕に、俄然、興味が湧いて質問した。

「はい、小学校に上がる前、数年、住んでいました。松原先生も、父をご存知ですか」

「月護先生には、古代マヤ文字の資料を集める時に、ご協力をいただいてね。大変お世話になったんだよ。そうか、君は、月護先生の息子さんかあ、そういえば、話し方が似てるなあ。ぼくなんか、騒々しい喋り方なものだから、学者じゃなくて、漫才師じゃないのか、なんて、よくからかわれるんだよ。ところが、月森先生は、美声でもって、口跡がいいときている。君も、お父さんと一緒で、口跡がよくて聞き取りやすい話し方をするねえ。目をつぶると、間違えそうになるな。ところで、話は変わるけれど、君、フィールドワークなんかに興味はないのかい?僻地で、少数言語や、孤立言語の調査なんかするんだがね、やる気のある学生を、ぼくは、募集中なんだよ。最近、僻地調査を嫌がる学生が多くてね。ゼミを専攻する学生が集まりにくいんだよ。きみ、人文学部かね、それなら、うちの教室のゼミを、是非履修してよ。ネッ、ネッ、」

「松原先生、こんな所でも勧誘活動されるとは、熱心ですね」

 話を遮られた木村は、苦笑した。が、人材不足に悩む研究者同士、松原教授が勧誘に励んでしまう気持ちは、理解できるのだ。

「話の途中に、割り込んですまなかった。就職活動を優先させる学生が多いものだから、長期のフィールドワークを嫌がるんだよ。だから、やる気のある学生が集まらなくってねえ。北小路君、君も、良かったら考えてくれないかなあ」

「いや、俺、経済学部なんです」

「そうか、残念だなあ、だがね、編入だってできるからね」

「お声かけていただいてありがとうございます。けれど、俺、編入試験に受からないと思います。顕の事は、先生、どうぞ、よろしくお願いします」

 調子のいい学は、顕の事だけ松原に押し付け、自分は、勧誘の罠からするりと抜け出した。

「じゃ、決まりだね。顕君、来年、うちのゼミの専攻、よろしく頼むよ」

「はあ、まあ、ぼくでよろしければ…」

 松原の邪気のない熱意に押され、顕もつい承諾してしまった。これが、後に言語学者になる月護 顕と、その恩師である松原 和夫との最初の出会いだった。


 翌日から二日間、作業は急ピッチで進んだ。地元の人も、数人、ボランティアで、発掘品を公民館まで降ろす作業を手伝ってくれた。そのお蔭で、三人は、発掘に専念することができた。


 そして作業四日目。

 この日は、台風が接近してきたため、風が強く吹き付けてきた。発掘作業をもっと進めておきたいところだが、木村は、作業を一時間早く切り上げることに決めた。そのため、前日に中断していた場所から発掘品を取り出すだけにとどめ、後片付けと、現場保存のため、ブルーシートで覆いをする作業を行った。ところが、その作業中に、突風にあおられた学がバランスを崩し、足場から右足を踏み外してしまった。

「うわあ、落ちるぅぅ」

 学の叫びに、傍にいた顕が素早く腕を伸ばし、足場板から宙に浮いた学を、間一髪のところでつかみ、落下を喰い止めた。命綱が外れ、垂直な崖から二十メートル下の公道まで真っ逆さまに落ちたら、確実にあの世行きだ。

「痛い、腕もげるうぅ」

「学、文句言ってないで、早く、足場板をつかんで上に上がれ」

 墜落しかけた学の全体重を右手一本で引き受けた顕は、苦痛に歯を食いしばり、唸るように、学を急かした。

 学は左手を伸ばして、足場板をつかもうとするがうまくいかない。指先が、あと少しの所で届かないのだ。

「あかん、届かへん。肩が痛い。脱臼しそうやあ」

 顕は、学の右手をがっちりつかんだまま、身を乗り出し、左腕を伸ばすと、命綱を付けたウェストバンドをがっちりつかんだ。そしてグイッと持ち上げて、足場近くまで体ごと持ち上げた。

「うわっ、凄い、持ち上がった。おおきに、顕、やっぱりおまえは、俺の守護神や」

「いいから、早く足場へ上がってくれ。重いんだ」

 神様活動は一切しないと約束の上で日本に滞在中なのに、勝手に守護神にされては困るじゃないかと思いつつ、顕は、覚めた口調で、学に足場へ上がるよう促した。

『・・・サマ』

 学を引き上げるために身を乗り出した時、顕の耳は、微かな呼び声をとらえた。

「顕、どないしたん?」

 足場へ上がった学が、危なっかしい姿勢のまま、下をのぞき込む顕へ声をかけた。

「学、ぼくの足を抑えていてくれないか。足場の下の、鉄パイプの根元辺りに、何かが見えるんだ。ちょっと確かめてみたいから」

 いうなり仰向けになると、顕は、足場板から投げ出さんばかりに身を乗り出し、下を覗いた。

「顕、危ない、やめとけって、おまえが墜落するやん」

 学は、顕が墜落しては一大事と、必死で足首を抑えた。

「ここだ」

 足場の七十センチほど下の崖から、露出する何かが、キラリと光った。

 位置を確認した顕は、空中ブランコで相手を受け止める要領で、上半身を弓なりにそらし、鉄パイプの側の土からはみ出している何かを、そうっと引き抜いた。引き抜いたのは、十五センチくらいの円筒形の何かだが、泥がついてるので、正体は分からない。が、顕が、それを完全に引き抜いた瞬間、脳裏にまぶしい光が広がった。

『サオシカノヤツノミミですよ。・・・・さま、ミユウはお待ちしています。いつまでも、お戻りになるのをお待ちしています』

 激しい水音とともに、微かな声が聞こえた。

「学君、顕君、君たち、何をしているんだ。危ないだろ」

 足場の向こうからやって来た木村は、顕が足場から今にも落ちそうな姿勢になっているのに驚き、慌てて学の側に駆け付けた。

「顕が、何か見つけたみたいなんです」

「顕君、大丈夫か」

 足場から、木村がのぞき込み、声をかけた。

「大丈夫です。普通に掘り出すのは無理そうなので、今、土から引き抜きました。このまま、引き上げてもらえますか」

 学が左足首、木村が右足首を握り、顕の下半身を足場へ引き上げた。顕は腕を伸ばし、足場と掴むと自力で上半身を引き上げた。

「顕、危なかったやん。何を見つけたん?」

「ケガがなくてよかったよ。何を見つけたんだい?」

「勝手に取り出してしまって、申し訳ありません。これが、崖からのぞいているのが、見えたもので…」

 顕は、右手を開き、握り締めていた土の塊を取り出した。土の中には、薄い緑色に乳白色が混じり合った何かがある。

 木村が、高倍率ルーペを取り出し、熱心に観察した。

「これは、玉だね。何か、線彫りしてあるな。ウウン・・・顔と胴体みたいだねえ。人形ひとがたかもしれないな。泥は、公民館へ運んでから落とすことにしよう。午後から、台風が接近して、雨が本降りになるそうだ。早く撤収しよう」

 木村は、重要な品物は、ほぼ土中から採取し終え、現場の詳細な見取り図も完成させた。そして、遺跡の範囲がごく狭い範囲に限られていること、出土品に生活用品が見当たらないことから、ここは、生活跡ではなく、祭祀跡であろうと、推測した。しかし、現場の詳細な見取り図を作ることに忙殺されて、発掘品をまだじっくりと点検することができないでいた。それで、台風の間は、発掘品の精査に時間をかけることにした。現場保存を終えると、降り出した雨の中、木村は、顕と学を指示し、持ちうる限りの発掘品をケースにつめ、崖から降り、公民館へ向かった。

 

 公民館には、荒天で釣りができず、暇を持て余した松原が来ていた。

「木村先生お疲れさまでした」

 松原が、木村に声をかけた。

「松原先生、いらしてたんですか」

「ちょっと邪魔させてもらったよ。船長は急用で出かけてしまったし、夜には海が大しけだって予報だから、釣りは高波が危なくて行けやしない。だが、釣りをしないとなると、もう、する事がなくてねえ」

 そう言いながら、松原は、見ていた土器から視線を上げ、木村に近寄った。

「木村先生、ぼくは、土器の事なんてまったくの門外漢だが、それでも、素人目に見たって、ここから出て来たものは、随分、古い時代のものじゃないのかなあ。弥生土器では、絶対ないと思うよ。これって、縄文土器じゃないのかい」

 確かに、ひと目見ても、口が広く底が狭い形だし、縄目のような模様や、複雑な曲線模様の装飾、野焼きのためかと思われる、黒い汚れもある。だが、専門家の木村は慎重で、すぐに結論に飛びついたりはしない。

「そうですね。これから精査しようとは思っているのですが、独特の様式が見てとれますし、かなり古い年代である可能性が、高いと思います」

「祭祀跡だろうって、顕君たちから聞いたんだが、何か呪具のようなものでも見つかったのかい。あったら、見てみたいなあ。世紀の大発見かもしれないしね」

 好奇心の強い松原は、古代のシャーマンが使ったであろう呪具とやらを、見たくてたまらない。

 木村は、素人らしい松原の好奇心に苦笑しつつも、子どもっぽいはしゃぎように、邪気の無い人柄を感じ、それほど悪い気もしなかった。

「そうですね。祭祀跡だろうと結論付けた根拠のひとつは、人形ひとがたが見つかったことです。撤収作業の最中に、顕君が見つけてくれたんです。凄い発見ですよ。玉製の人形なんです。それも随分変わった、今まで、恐らく日本では、見つかったことのない類のものでしょう」

 そう言いながら、木村は、壁際に設けられたスチール製の棚に近寄り、上から二番目の棚から、小さなコンテナボックスを降ろして持ってきた。松原の待つテーブルの前に、それを置くと、蓋を外し、中から小さな人形を、慎重な手つきで取り出し、トレーの上にそっと置いた。

 松原は、眼鏡のフレームに指をかけ、上からのぞき込んだ。

「なるほど、大きさは、八センチくらいかねえ。しかしこれは驚いたな。ほぼ完全な形じゃないか。なるほど、木村先生、これは、大発見かもしれないね。土偶じゃなくて、玉みたいな石に彫ってある。写実的と言ってもいいほど、精緻に造られているね。この長い髪は、一筋一筋丁寧に彫られているし、顔だって、随分小さいが、優しく微笑んでいるようじゃないか。衣の襞まではっきり分かる。縄文時代に、こんな精緻な彫像を作っていたとは、驚きだねえ」

 松原は、ただ無邪気に指摘しただけなのに、木村の表情は曇ってきた。木村たちの成果を、我が事のように感じ、気持ちが弾んで、ひとり喋っていた松原は、彼の浮かない様子に気づき、戸惑った。

「木村先生、どうしたんですか。大発見かもしれないのに、何だか嬉しくなさそうに見えますが」

 木村は、松原の方を見て、悩まし気に答えた。

「この人形だけ、まるで、異質なものでしょう。私も、この遺跡は、縄文時代、それも、かなり早期のものじゃないかと推測しているのですが…そうだとすれば、この線刻された人形は、あまりにリアルで、技巧的すぎるような気がするのです。報告書を作るにしても、慎重に扱う必要があるなと思って」

 縄文時代の遺跡から発掘される土偶に比べ、今回の人形はあまりにリアルで、写実的といってもいいくらいのものだ。土偶の中から、ギリシャ彫刻が出てきたみたいな、強い違和感があるのだ。

 木村の言う事にうなずきながら、松原は眼鏡のフレームに手をやり、今一度人形をのぞき込んだ。

「なるほど、下手すると、オーパーツって事ですかな」

「オーパーツなんて言ったら、出土品が可哀想です。発掘現場の地質調査や、放射性炭素測定、あらゆる方法で調査し、年代を明らかにしてみせます」

 オーパーツとはOut of place artifacts、直訳すれば、『場違いな出土品』である。出土状況や年代と、出土品があわない、その時代にはありえない技術で作られた物が発見された時など、宇宙人が来て作った、とか言って、大騒ぎする者が、しばしば使う言葉だ。が、いやしくも専門家である木村は、そんな言葉で、出土品を十把一絡げに評価することなど、絶対に許せない。口調こそ穏やかではあったが、慎重に調査の上、地道に検証していくのだという信念が、滲み出る言葉だった。

「失礼した。つい、素人の悪乗りで馬鹿なことを言ってしまったよ。そうだね。大変な作業になるだろうが、木村先生、是非、この祭祀跡の謎を突き止めてくださいよ」


 顕と学も、ふたりのやり取りを興味深く聞いていた。とりわけ顕は、転落の危険をも顧みず、人形を土中から引き抜いたのだから、関心は非常に強かった。あの時、人形から呼ぶ声が聞こえ、顕は必死になって、その人形を土中から取り出したのだ。一体あの声は誰の声だったのかと、その時の声を、思い返していた。

『サオシカノヤツノミミですからね。ミユウは、待ってます。だから、絶対、戻ってきてね』

 人形を手にした瞬間、大量の水が流れ落ちる音とともに、可愛らしい少女の声が聞こえた。少女の言う『サオシカ…』という言葉が、気にかかってならない。そして、今もまた、人形のそば近くに寄っただけで、その声が聞こえてきた。

「顕、どないしたん。ぼうっとして、疲れたんか」

 学の呼びかけに、顕の意識は現実に戻った。

「えっ、いや、何でもないよ」

 学には、そう答えたものの、少女の声は、顕の耳奥で、何度も繰り返された。ミウといのが少女の名らしい。懐かしい思いが湧き上がってくる一方で、大切な事を思い出さなければならないという焦りも、同時に湧き上がってくるのだ。

「台風が来る前に発掘作業を一区切りさせることができて、よかったよ。島の人まで、ボランティアで手伝ってくれて、スピードアップできて助かった」

「おじさん、今晩から天気大荒れだそうだよ。しばらく、作業はお休みだね、で、俺たちのアルバイト代は、その間も、払ってもらえるんでしょうね」

 学は、作業が休止になるものだと独り決めし、アルバイト代まで払ってもらおうという魂胆なのだ。

「それなんだがね。今から、発掘品の一部を民宿の方へ運ぶのを、手伝ってくれないか。公民館は、避難場所に指定されているから、場所を空けておかなければならないんだ。それに、天候が悪い間は、民宿の方で、土器の計測作業を行って、図面に記録しておきたいんだよ」

「分かりました」

 学は、げんなりした声で返事した。連日の過酷な作業で、足の筋肉痛はひどくなる一方で、もう、勤労意欲は枯渇寸前だった。ついに休めると喜んだのもつかの間、期待が外れて、もう枯渇どころか、マイナスゾーンに突入だった。


 その日の夕方、午後からの作業を手伝った松原教授も一緒に、黒いレインウェアの上下を着こんだ木村、学、顕が、出土品の一部をいれたコンテナを担ぎ、横殴りの雨の中、民宿へ戻ってきた。四人が、民宿前の石段に到着したとき、唸りを上げる風音の中、それでも聞き取れるほどの大声で言い合うのが聞こえてきた。

「このウナギ殺しのごうつく女め、また、性懲りもなく、鎮守の森の泉から、ウナギを盗みおったな」

「おばば様、私、そんな事はしてません。あの時は、村の掟を知らなかったからですよ。今は、よくわきまえておりますから、ウナギを取るなんてこと、絶対いたしません」

「じゃあ、このウナギ漁の罠は、誰が仕掛けたのじゃ。ここの村の者は、皆、泉の森の掟を、よおく、知っておる者ばかりじゃ。他に、誰が、こんな真似をするというのじゃ」

 おかみさんと、誰かが、激しくやり合っている。そこへ、港から続く坂を上って、森船長も帰ってきた。顕たちに気が付いた船長は挨拶しかけたが、玄関先からの声に気づくと、ギョッと固まり、次の瞬間、大慌てで石段を駆けあがるや、玄関土間へ飛び込んだ。

「おばば様、どうしたんですか。台風がもうすぐ来るっていうのに」

 船長が扉を閉め忘れたため、腰まである白髪を三つ編みに束ね、藍色の着物姿の、ものすごく小柄な老女が、女将さんと対峙しているのが見えた。老女が、森船長の方を振り向いた。

落人おちうどを住まわせた恩も忘れ、おまえは、嫁の盗人根性を直すこともできんのか」

 丸顔に、ちんまりとした鼻で、糸のように細い目の、愛嬌のある顔立ちの老婆だが、今は、しかめ面で、恐ろしい形相である。

「おばば様、いくらなんでもあんまりです。私、本当に盗みなんかしてません。いい加減にしてください」

 おかみさんは、とうとう怒りだし、まなじりつりあげ、金切り声で抗議した。が、そんな事で怯むおばば様ではない。手にした編み筒をブンブン振り立てて、おかみさんを上回る声量で怒鳴り上げた。

「キーキーうるさい、おまえでないというなら、このウナギ筒を御嶽から湧き出る聖なる泉から、流れくだる水神女川にまで、仕掛けたのは何者じゃ。村の者は、落人の行く当てもないご先祖が、泉家の格別の厚意で、この島に住まわせてもろうた恩を忘れてはおらぬはず。その時交わした約定は、今だに堅く守っておる。他所から嫁入りするなり、水神女様の島に忍び入り、ウナギを取ろうとしたおまえが、一番怪しいのじゃ」

 『おばば様』と呼ばれる老女は、抱え込んできたウナギ筒を、玄関の土間へバラバラと落とした。森船長が土間に落ちたウナギ筒を拾い上げ、確認した。

「おばば様、これが泉や川に仕掛けてあったと、おっしゃるのか」

「そうじゃ、わしが拾い上げて持ってきた、証拠の品じゃ」

 船長は、真面目な顔つきで、小柄な老女を見下ろし話しかけた。

「神聖な約定が、またもや破られたことは、村の役員のひとりとして、心からお詫びします。しかし、おばば様、うちのかみさんは、今週はずうっと、泊り客が多いもので、民宿からは一歩も出ておりません。水神女島へ渡る時間なんてありません」

 真剣そのものな船長の態度に、おばば様は、しかめ面のまま、あらためて、おかみさんを睨みつけた。確かに、おかみさんは、髪にもほつれ毛が目立ち、顔色もあまりよくない。この一週間の多忙ぶりが、外見からもうかがえた。

 しかし、おばば様は、腕組みし、フンと鼻息を吹き出し、船長とおかみさんを見上げ、全然納得しない様子でさらに続けた。

「そんな事言うて、わしを誤魔化そうとしても無駄じゃ」

 言われない中傷を受け、おかみさんはフルフルと体を震わし、もう爆発寸前だった。

 玄関先から恐る恐るのぞき込んでいた木村たちの中から、顕がいきなり声をかけた。

「どうしたんですか。そんなに怒らないでください。船長さんが話しているとおり、おかみさんは、ここしばらくの間は、本当に忙しく働いていらしたのです。ここから、一歩も出る暇なんて、ありませんよ」

 船長をふり返ったおばば様の顔を見た顕は、どういう訳か、その怒りを鎮めなければという思いに駆られ、つい声をかけてしまった。

「顕・・・・」

 普段の顕は、何事にも、我関せずで、超然とした態度で距離を置くことを知る学は、呆気に取られた。

 顕の方をふり返り、おばば様は、あんぐりと口を開けた。それから、頬に赤身がさし、土間から飛び出すや小走りで近寄ると、その手を、皺だらけの小さな手で、キュッと握り締めた。

「どこから来た?」

 おばば様は、大好きな飼い主をみつけた子犬みたいに、目をキラキラさせて顕を見上げ、別人のように可愛らしい声で尋ねた。

「京都から来ました」

 顕は手を握られたまま、笑みを浮かべて答えた。おばば様はボオッと顕に見とれ、何をしに来たのか、すっかり忘れた様子だった。

 おばば様の怒りが薄れたのを幸いに、船長は、おかみさんに目配せし、奥へ下がらせると、おばば様へ近づき、声をかけた。

「土間で立ち話なんてしないで、おばば様、どうぞお上がりください。もうすぐ台風が来るから、これからもっと雨脚が強まって、大風も吹きます。今日は、泊っていってください」

 おばば様は、顕の手を握りしめ、見上げたまま固まっていた。顕は背を屈め、おばば様の目線の高さへ目を合わせ、優しく声をかけた。

「おばば様、雨の中を来られたのでしょう。お着物が濡れてますね。さあ、一緒に上がらせてもらって、着物を乾かしましょう」

 おばば様は、無言でコックリうなずくと、顕の手を握ったまま、一緒に土間から上がろうとした。けれど、雨具から水を滴らせて、そのまま土間から玄関を上がるわけにはいかない。びしょ濡れになったコンテナーも運び込む必要がある。顕と学は、木村と松原とともに、庭の方へ回り、縁側から上がることにした。おばば様は残念そうに顕の手を離し、船長に案内されて、土間から上がって行った。

 おかみさんは、部屋へ戻るとすぐ風呂の用意をし、おばば様に使ってもらい、その後、木村や松原たちに、風呂を使うよう声をかけた。


「おかみさん、さっきは随分ご立腹の様子だったが、それでもちゃんと、あの気難しいおばば様の世話をするんだから、本当に偉いよ」

 湯舟に浸かる松原が、体を洗う木村へ話しかけた。

「あのおばば様って言う人は、何者なんですか」

「彼女はね、水神女島にただ一人で暮らす、泉家の本家のご当主なんだ。泉家は代々女系の一族で、当主になるのは、本家に生まれた長女なんだそうだ。そして、あの島にある、水神女神の御嶽の守り人を務めているんだ」

「へえ、あの隣の島は、無人島なのかと思ってました」

「船長から聞いた話だが、戦前は、本家と分家で、百人以上の人たちが住んでいたそうだ。が、戦争で兵隊にとられ、大勢の人が亡くなった。そのため、分家の大半は、働き手を失い、生活するのが苦しくなって、島から出て行ったそうだ。さらに、高度成長期には拍車がかかった。現金収入につながる仕事を求めて、泉家の人々は、本土へ次々に渡っていったそうだ。今、残っているのは、本家のご当主であり、御嶽の守り人でもある、あの、おばば様ひとりだと、いうことなんだ」

「随分と、寂しい思いをしていらっしゃるのでしょうね。顕くんに声をかけてもらって、喜んでたじゃありませんか」

 松原教授は、頭に手ぬぐいをのせながら、うなずいた。

「顕くんは、若いのに、なかなかの人たらしだな。実に見どころがある。フィールドワークには是非参加してもらわなければ―」

 気難しそうなおばば様を、すっかりなつかせてしまった顕の手腕に、松原教授は教え子にしたいと、さらに決意を強くした。言語学のフィールドワークで、音韻の調査となれば、調査対象に話をしてもらい、その音を聞き取らなければ調査にならない。気難しい高齢者や、警戒心の強い少数部族の人々を手なずける手腕の持ち主は、是非にも参加してもらいたいのだ。

 

 松原と木村が上がった後、顕と学も風呂に入った。

「顕、おまえが、ばばさまキラーだなんて、知らんかったわ」

 かけ湯をし、浴槽に浸かった学が発した第一声に、頭をシャンプーで泡だらけにした顕は、しかめっ面で振り向いた。

「何だよ、そのばばさまキラーっていうのは」

「だって、あんなに猛烈に怒っていたのに、顕が声をかけたら、すぐにおとなしくなったじゃないか。そういうのって、やっぱりキラーっていうのがふさわしいと思うな」

 学のお気楽な言葉を無視し、顕はシャワーで髪と全身を洗い流した。そして、風呂場の扉をガラリと開けた。

「顕、風呂浸からへんのか。ひょっとして怒ってるんか?」

 顕は、頭から手ぬぐいを垂らしまま、げんなりと息を吐いた。

「違う。蒸し暑いのに、お湯なんか浸かったらのぼせそうだから、やめておくよ。学は、ゆっくりしなよ」

「そうか。ほな、ゆっくりさせてもらうわ」

 顕は、閉めかけた扉の隙間から

「浸かりすぎて、湯あたりしないようにしろよ」と、ひと声かけた。

 その後、顕は、おかみさんが用意してくれた浴衣を着て、縁側に積んだ、コンテナーを見に行った。

 縁側は、風雨の侵入を防ぐため、雨戸を締め切ってあり、薄暗かった。縁側の突き当りの壁の前に、顕の背丈に近い高さにまで、コンテナーが廊下の幅一杯に積み上げてある。出土品が壊れたりしないよう、そのサイズに合わせて、様々な大きさのコンテナに収納してある。それを、下の方は大きめのもの、上は弁当箱くらいの小さなものと、荷崩れしないように積んであった。一番上の方の、弁当箱くらいのコンテナーの一つに、人形も入っていた。

 おばば様と呼ばれるあの老女に、顕は、なぜか声をかけてしまった。そんなお節介な真似をする気など、全くなかったのに、まるで操り人形みたいに声をかけてしまった。自分の中に、もうひとり分身がいて、勝手に動いているみたいな、妙な感じだった。

(あの人形を見つけた時から、自分が自分でないような気がする時がある。一体どうなっているんだ。何か思い出さなきゃならない気がするのに、思い出せない。あまりに昔の事すぎて、思い出せないのか…)

 人間の体内にいるジャガー大神には、限られた範囲でしか記憶を思い出すことはできない。何千年にも及ぶ、マヤの都市国家群の盛衰と関わってきた神としての記憶は、あまりに膨大なもので、人間の脳には負荷がかかりすぎるのだ。それなのに、少女の声を聞いてからというものの、古い時代に遡る何かが、自身の中で揺さぶられるのを感じ、ジャガー大神以前の記憶が関わっているような気がしてならないのだ。そうなると、もっと事態は厄介だ。マヤの神になる以前の記憶は、ジャガー大神であった頃でさえ、思い出したことはなかったはずだ。そもそも、マヤの神以前の記憶が、自分自身に残っているのかさえ疑わしいというのに、どうして、以前の記憶があると思い、それを気にする気持ちが生じてきたのかが分からない。答は、自分自身が知っているはずなのに、結局思い出せないという堂々巡りで、もどかしい思いが募るばかりなのだ。

(何なんだろう。サオシカノミミって言葉は、どこかで聞いたことがあると思うのだが、一体どこで、誰から聞いたんだろう)

 コンテナの前で、ぼんやりともの思いに耽っていた顕は、右手をそっと握り締められ、驚いた。

「おばば様…」

 浴衣に着替えたおばば様が、やはり子犬みたいな目で、顕を切な気に見上げていた。

「…皇子様、会いたかった」

 おばば様の口から、あの少女の声が聞こえた。

「ミコサマ?私の事を知っているのか」

「ずうっとお待ちしていました。あなたが戻って来られるのを、皇子様は、私が大きくなったら、いつか会いに来てくれるって、あの時約束してくれた。ずうっと待っていたんです」

「ずうっと待っていた…」

 顕は、少女の言葉を繰り返した。けれど、それに応えてやることができない。少女の声は、ひどく懐かしく、聞き覚えがあるのに、思い出そうとすると、濃い靄が立ち込めたようになり、ジャガー大神には思い出すことができないのだ。

「私が誰なのか、分からないのですか」

 少女は、悲しそうに囁いた。

「すまない…私は―」

 少女に何か言わなければと、顕が口を開きかけたところへ、縁側へやって来た船長が声をかけた。

「おばば様、お食事を召し上がってください」

 その声に、おばば様は、はっと我に返った。そして、顕からパッと手を離した。

「あれまあ、わしは、今、何をしておったのじゃ」

 声はしわ枯れてしまい、少女の気配は消えてしまった。おばば様を通して語りかけて来たのが、何者であるのか、その正体は、分からないままだった。

 顕は、おばば様へ優しく微笑んで、声をかけた。

「食事の用意ができたそうですよ。おばば様も行きましょう」

「そうじゃな、あの嫁の事は気に食わんが、作る飯は絶品じゃ、食べてやるとしようか」

 様子のいい若者から声をかけられて、おばば様も悪い気はしない。顕に促されるまま、縁側から部屋へ戻った。

 廊下を歩き、ふすまを外した広間へ入ると、急ごしらえのおばば様のお膳以外は、松原以下四名分しかなかった。

「今日、昼過ぎにフェリーの臨時便が悪石島に到着したので、それに乗船して、先生方以外のお客さんは、全員帰ったんです。臨時便の知らせは、今朝入ってきたもんで、わしは、お客さんを、悪石島まで大急ぎで送っていったんです。松原先生を放っておいて、すまんかったね」

「船長、気にせんでください。高波がくるかもしれないのに、おちおち釣りなんか、してられませんよ。それに、昼からは、木村先生の発掘作業の手伝いをして、楽しく過ごさせてもらったからね」


 風呂から上がり、席に着いていた学は、伽藍とした広間を見渡した。

「しかしまあ、ごっそり減ったもんやなあ。もう、俺らしか残ってへんやん」

「工事現場の人のうち、連絡要員で二人残った以外は、皆、釣りのお客さんと一緒に引き上げることになって、臨時便のフェリーに乗って帰ってしまったからね」

 学と松原の会話を聞きながら、顕は自分の席についた。そこへ、おばば様が、やって来て、遠慮がちに声をかけてきた。

「横の席に座ってもいいかね」

「ええ、どうぞ。空いてますから」

 顕は笑みを浮かべ、おばば様のために座布団を置いた。配膳中のおかみさんが、それを目ざとくみつけ、お膳を持ち上げ、おばば様の前に置き直してくれた。

 膳を持ってきてくれたおかみさんを、おばば様はチロリと見上げ、声をかけた。

「相変わらずの働き者よのう。さっきは疑うて悪かった。ウナギ筒を見つけて、掟を破る盗人がいると思うて、頭に血が上ってしもうたのじゃ」

 おかみさんも、おばば様をチラリと見た。

「私は、奄美から嫁入りしたよそ者です。けれど、ここに住んで、随分になりますから、島の掟はようく承知しております。あの時は嫁に来たばかりで、掟の事は知らなかったんです。でも、今は、大切に守られているウナギを取ったりは、絶対にしません」

「そうか、それならいいんじゃ。きっと釣り客じゃな。よそ者の仕業じゃろうて」

「ええ、そうですよ。うちに泊まった人たちには、掟の事は説明してますが、他の民宿のお客さんも結構いましたからねえ。ご存知ない人もいたかもしれません。おばば様、海がしけで、いい魚は手に入りませんでした。お口にあうかどうか分かりませんが、召し上がってくださいね」

「ありがとう。あんたが一生懸命つくってくれたごはんだから、おいしく食べさせてもらうよ」

 おばば様とおかみさんは、お互いに歩み寄り、何とか仲直りした。


 おかみさんが「ごゆっくり」と声をかけ、部屋から出て行った。すると、おばば様は、顕に声をかけた。

「あんたら、京都から来なすった学生さんだそうじゃな」

「はい、そうなんです。発掘作業の手伝いをしに、北小路 学君と一緒に来ました」

「ほお、発掘作業かい。なるほど、御津三島も、わしが御嶽を守っておる水神女島も、神武天皇さんの時代をさらにさかのぼる、ずうっと古い歴史のある島なんじゃ。遺跡くらい、ちょっと探せば、いくらでも出てくるわい。泉家と違うて、この島の村人は、平家の落人の子孫じゃから、大して古い血筋と言う訳でもないがな」

「落人って、平家の落人の事だったんですか。あの壇ノ浦で滅んだ、平家の事なんですか」

 顕の向かいに座る学が、驚いて口をはさんだ。

「そうじゃ、こっちの御津三島に住む者は、その昔、小船に乗り、難破寸前で島にたどり着いた、平家の落人の子孫なんじゃ。行くところのない落人たちを、水神女島に住まうご当主が哀れに思い、その当時は無人島だった御津三島の土地を開墾し、暮らしていくことを許されたのじゃ」

「水神女島の方が、大きく見えるのに、こちらの方に人が多く住んでいるのは、そういう訳だったのか。なるほど」

 学の隣に座る木村も、興味深そうにフムフムとうなずいた。

 おばば様は、糸みたいな細い目のまま、ギロリと皆を見回した。

「水神女島は、水神女様を祀る神聖な島なのじゃ。平家の一門といえども、おいそれと住まわすわけにはいかぬ。そもそも、水神女島には、泉家の者しか住むことは許されてはおらぬのじゃ。泉家の者は、水神女様を祀り、お仕えする役目を担ってきたのじゃ。

 ところで、おまえたちは、この島で古い遺跡を調査しておるのじゃろう。それは、恐らく、水神女様に縁のある遺跡に違いないから、台風が北へ上がって、海のしけが治まり次第、水神女島へ渡り、水神女様を祀る御嶽にお参りせねばならんぞ。水神女様の許しもなく、神様のために捧げられたものを持ち出そうとすれば、どのような怒りに触れるやもしれん。必ず、お参りするのじゃ、よいな」

 木村は、そんな事に時間を取られたら作業が滞ってしまうと、抗議しかけた。それを松原が目配せし、黙らせた。

「はい、おばば様のご指示通り、お参りさせていただきますよ」

 釣りのために、何度かこの島に通ってきている松原は、泉家の現当主であるおばば様が、御津三島の土地の大部分を所有する大地主であることを承知していた。土地の所有者にへそを曲げられては、発掘調査自体が続行できなくなるやもしれない。その事情を説明する時間も余裕もないので、自身が話に加わり、お参りの指示を承諾し、おばば様の機嫌を損ねないように会話を誘導した。

 木村は、松原が、自分が失言しかけたのに気が付き助けてくれたのだと察し、そのまま松原の言葉に同意して、にこやかにうなずいた。


 食事が一段落し、おかみさんがスイカを切り分けて持ってきてくれた。皆はスイカを食べたり、お茶を飲み始めた。

「おばば様、水神女様って、どのような女神様なのですか。謂われのある神様なのでしょう?」

 顕が、おばば様に尋ねた。途端に、おばば様は、嬉し気にニカアと笑った。

「水神女様に興味がおありかね。嬉しい事だね。最近の若い人は、古い謂われのある神様を、ちいっとも大切に思わんで、外国から来た、新規なもんにばかり、気を取られてしもうていかん。水神女様は、大層古い、謂われのある女神様なのじゃ。泉家の者が、水神女島に住むようになった時代より、はるか以前から、島の御嵩に御座っさったのじゃ」

「泉家の方たちが、島に住むようになったのは、いつの時代なんですか」

「泉家に代々伝わる話では、泉家は、駆け落ちした若者と娘の乗った船が、潮の流れに乗り、南の方からこの島へ流れついたのが、始まりなのじゃ。娘は、神に仕える巫女で、不婚の誓約をたてておったのに、若者と恋仲になってしまい、島から二人で逃げ出したのじゃ。その島というのが、どこであるのかが、もう今となっては、はっきりしないのじゃ。奄美から沖縄にかけてのどこかの島らしい。泉家の記録によれば、二人が来た時代は、定かではないのじゃが、十四代目の当主の頃に、孫権が治めていた呉の国の民が、海を渡って来たという記録が残っておる。その者たちは、機織り機を作り、養蚕の技を、泉家の者に伝えたのじゃ」

「・・・・・・・」

 おばば様は自慢げに話すのだが、松原、木村以下、目を点にして無言のままだった。

 平家の落人を受け入れた話でさえ驚きなのに、孫権の時代の呉であるなら、未だに論争が終わらない、魏志倭人伝に邪馬台国の記録を残した魏の国と同時代だ。そんな時代から泉家が存在し、それが二十代目の当主の時代であったと言われても、にわかには信じがたい。研究者である松原と木村は、物事を分析し、突き詰めていく質であるから、おばば様の話を素直に受け入れることはできない。けれど、おばば様が怒るのは分かり切っているから、「それ、本当の事ですか。何か証拠がありますか」と尋ねる勇気もない。

「機織りを伝えた呉の人たちは、その後、どうなったのですか」

 顕が、おばば様の話を、全然疑ってない様子で尋ねた。

「泉家の者と夫婦となったと伝わっておる。分家のどれかが、その者の直系の子孫のはずじゃが、本土へ行ってしまってから、もう何十年と経っている。今は、どこでどうしているのやら…」

「泉家の人と結婚して、泉家の一員になれば、外から来た人でも、水神女島に住むことができるという訳ですか」

「そうじゃな。さっき話した落人の者たちは、自分たちは都人、公達きんだちだと言い張り、泉家を見下した態度を取ったのじゃ。それで、当時の当主は、水神女島ではなく、隣の島である、この御津三島に住まわすことにしたそうじゃ」

「機織りの技術が伝わって、何か変化があったのでしょうか」

「うむ、もちろん、自分たちが着る分や交易用の品にも加えたようじゃが、何と言っても、水神女様に捧げる反物として、代々の守り人がつくる織物の品質が上がったことが、大きな変化といえば変化じゃろうな。呉から伝わった機織りの技術を改良し、色々な糸を作っては試し、水神女様が喜ばれる、薄く、しなやかな反物を織るように、代々務めてきたのじゃ。

 そういえば、大正の頃じゃったかな、東京の方から、民俗学を研究しているとかいう者たちが来て、機織り小屋の事や、反物の事を、色々調べて帰ったそうじゃ。まあ、細かい事をくどくど聞かれて困ったと、先代の当主がこぼしておったよ」

「それで、泉家の人たちが、水神女島に来る前は、だれが女神様を祀っていたのですか」

 顕は、水神女神は、自分が、土中から取り出した人形と、何か関係があるに違いないと思い、人形との関係を知りたかったのだ。が、おばば様には、興味を持つに至ったきっかけについては話さずに、ただ純粋に、水神女様の事を知りたい風で尋ねた。

 おばば様は、湯呑から茶を喫し、ふうっとため息をついた。

「水神女島は、泉家の先祖が上陸した頃は、無人島じゃったそうだ。浜に打ち上げられ、気を失っていたご先祖は、気が付くと、水神女様が自分たちを見ていらっしゃることに気が付き、助けてくださいとお願いしたそうなのじゃ。そして、水神女様のお導きで、清浄な川の流れに沿って上流へ上っていくと、森閑とした森の中、半ば崩れた石垣に囲まれた空地の中に、古びた小さな祠のある御嶽をみつけたのじゃ。じゃから、大昔、人が住んで祀っておったのは間違いないことなのじゃ。しかし、その後長い間、無人島になっておったのじゃ」

「ご先祖様の方から、声をかけられたのですか」

「そうじゃ。上陸した女は、不婚の誓いをたてた巫女じゃ。誓いを破ったとはいえ、もともとそういう能力を持っておったのか、神のお姿を見、声を聞くことができたのじゃ」

「その時の女神様のお姿や、お言葉は、どのようなものだったのですか」

 松原も木村も、顕の聞き出し上手ぶりに感心しながら、興味津々でおばば様の答えを期待した。

 おばば様は困ってしまい、眉尻を下げた。

「それはのう、代々当主から当主への口伝でな、他言してはならぬ事になっておるのじゃ」

 けれど顕は、おばば様の湯呑にお茶を注いであげながら、優しく丁寧な口調でお願いした。

「差しさわりのないところまでで、何とか教えていただけませんか。こんな由緒のある女神様のお話なんて、滅多に聞けるものじゃありませんからね。おばば様が困らない範囲で、少しでも教えていただけないでしょうか」

 ただの好奇心や、研究対象としての興味で尋ねられたら、おばば様は速攻で拒否するところだ。しかし顕の態度は、単なる好奇心とは違い、水神女さまの事を、真摯に知りたがっている風に見えた。それに、目の前にいる顕の願いを、無碍むげに断ってはいけないと、心の中の何かが訴えてくるのだ。

「そうじゃのう、全部話すわけにはいかんのだが、差しさわりのない範囲で話してあげよう。水神女様は、この島にずうっと昔からおられた。大昔、この辺りの島々は、互いに連なる山の峰であったそうじゃ。その当時は、ここはたくさんの人間が住む村があり、村人は水神女様を祀り、厚く敬っておったのじゃ。ところが、ある時、北の方で天変地異が起こり、黒い瘴気が大空を覆い尽くし、樹木は枯れ、食べ物もなくなり、人間たちは、島から去ってしまった。その後、海が、山の谷あいにまで流れ込んできて、山は分断され、今のような島となったのじゃ。そんな頃から、水神女神様は、たったおひとりで、ずうっと島におられたのじゃ」

 いつしか真剣に話に聞き入る松原と木村、しかし、顕の真向かいに座る学は、連日の疲れが出て、船を漕いで居眠りしていた。

 おばば様は、咳払いをし、茶を一口喫すると、話を再開した。

「長い年月が過ぎたある日、追手から逃げるうちに、偶然流れついた若い男女から、水神女様は助けを求められた。そして、若い男女の身の上を聞き、同情なさって、島で暮らすことを許された。ただその時に、御嶽と周囲の土地を清浄に保つこと、それと、水神女神のために、機織りをし、織り上げたものを毎年捧げること。その捧げ物は、水神女様が、ある方との誓約を果たすため、是非にも手に入れなければならないものなのだ。じゃが、その誓約の内容と、捧げ物を水神女様が必要とする理由は、巫女であった女と、その子孫で跡継ぎとなる女子以外、誰にも教えてはならぬという約束なのじゃ」

 松原と木村は、顔を見合わせた。島々が山となって連なる時代と、それが海で分断された海面上昇の時代、最終氷期の終わりから縄文海進にかけての事ではないのかと、二人して顔を見合わせたのだ。氷河期には、海面水位は低下し、五千五百年から六千年前の縄文時代に、もっとも海面水位が上昇したのだ。おばば様の話は、何千年もの時代に渡るものなのかもしれないのだ。

 話し終わったおばば様は、よっこらしょっと立ち上がり、欠伸をした。

「そろそろ休ませてもらうよ」

 顕も素早く立ち上がると、

「お部屋の前までご一緒します。廊下が暗いから、足元に気をつけてください」

「そうかい、送ってくれるのかい、そりゃ嬉しいね」

 顕から親切に声をかけてもらい、おばば様はご機嫌だ。

「じゃ、我々も、そろそろ部屋へ引き上げるとしましょうか」

 松原と木村も立ち上がった。

 皆がぞろぞろ部屋を出て行く気配に、学も寝ぼけまなこで立ち上がり、一緒に部屋を出た。縁側に続く廊下の雨戸は締め切っているが、その雨戸がガタガタと振動し、外では風が唸りを上げて吹き荒れていた。蛍光灯が点滅し、今にも消えそうだ。

「台風、いよいよ上陸ですね。停電しなきゃいいんだが」

 木村が停電といったのに反応し、すっかり目が覚めた学は素っ頓狂な声を上げた。

「ヒエエッ、停電したら、クーラー止まってしまう。この上、クーラー止まったら、俺、もう本当に生きていかれへん」

 松原がふり返り、学へ言った。

「この宿は、非常用の発電機があるから、停電してもしばらくは大丈夫さ。だが、復旧がいつになるか分からないから、停電後は、クーラーは切っておいた方が、いいかもしれないな」

 そんな話をしている最中、顕はおばば様にすうっと近寄り、その耳元で、

「サオシカノヤツノミミをご存じありませんか」と、ごく小さな声で尋ねた。

 その言葉を聞いた途端、おばば様は肩をビクッとさせ、細い目を大きく見開き、顕を見た。

「何で、その言葉を知っておるのじゃ」

「末娘のミユウが、水神女なのか」

「どうして、水神女様の真名まなを知っておるのじゃ」

「・・・・・・」

 おばば様が尋ねたのに、顕の顔からは表情が消え、無言だった。が、すぐに笑顔となり

「お休みなさい、おばば様、風音がうるさいけれど、よく眠れたらいいですね」と、声をかけた。

 声をかけられたおばば様も、それ以上追及する意欲は失せてしまい、顕の不思議な発言に首を傾げながら、自分用の部屋へ入った。


 真夜中、御津三島は暴風域に入った。木々を横殴りにする暴風が吹き荒れ、雨は滝のように降り続け、雷鳴が轟いた。


 真の闇の中、深い夢の底。

 ジャガー大神の眠る顕の意識の奥底へ、訪ねてきた者があった。白くぼおっと光る小さな姿、輪郭は薄れて今にも消えそうな姿だ。小さな訪問者は、巨大な黒い闇のジャガー大神に近寄ると、そっと耳の後を撫で、自身の頭らしき所を遠慮がちに押し付けた。

「ミユウなのか」

 ジャガー大神が、後ろへ耳を動かし尋ねた。

「やっぱり、皇子さまです。その声は、皇子さまの声。ミユウは、ずうっとお待ちしてました。南海龍王に嫁いだ姉様は、皇子さまは、人の世には還っては来られないだろうと言うておりました。けれど、ミユウは、皇子さまは、必ず誓約を守ってくださると、信じておりました」

 ジャガー大神は、前足に力をいれ、背中を反らし伸びをすると、立派な牙の生える口を大きく開け、立ち上がった。

 ミユウは、ジャガー大神の首もとから転がり落ちてしまった。

 ミユウを見下ろすジャガー大神の目は緑色に光り、巨大な姿は闇に潜む魔神そのものだった。が、ミユウに恐れる様子はない。ジャガー大神は、ミユウの顔あたりに自身の顔を近づけ、牙を剥き出し、いかにも凶暴そうな顔つきで尋ねた。

「我が、恐ろしくはないのか」

 怖がらせて追い払ってしまおうとしたのだが、失敗だった。ミユウは全然平気だった。

「怖くなんかありません。だって、お姿が変わっても、皇子さまです。私には分かります。でも、どうして皇子さまは、そのようなお姿に変わってしまわれたのでしょう」

 ジャガー大神は、いよいよ訳が分からなくなり、すっかり困惑していた。

「ミユウというそなたの名は、何だか昔に知っていたような気はする。だが、それ以上の事は何もわからない。そなたが待っているミコサマとやらは、本当に我のことなのか。そなたの思い違いではないのか」

「いいえ、だって、私が山に登り、皇子さまとの再会を祈り、あの滝つぼの近くに埋めた、割れてしまった翠の玉の片方に彫刻した人形を、見つけ出してくださった。『サオ鹿のヤツの耳』という誓約の言葉を聞き取ってくださった。これほど長い年月が過ぎても、その事を覚えていてくださったから、見つけ出すことができたのです。決して偶然なんかではないし、私の思い違いではありません。どうか、私の言葉を信じて、思い出してください。今、どのようなお姿となられていても、あなたこそ皇子さまです。間違いありません。お願いです。ミユウと初めて会った時のことを、思い出してください。そして、お別れの日に、皇子さまと私がかわした誓約を、思い出してください。私は、皇子さまと交わした誓約を、果たさなければならないのです。そのために、父や母や姉たち、一族の者たちが皆、天界へ昇っていっても、たった独り、この島に留まり続けたのです。でも、もう、それほど長く留まることはできません。私に仕える、最後の泉家の当主がこの世を去れば、私は崩れて消えてしまいます。私には、もう、時間がそれほど残ってはおりません。諦めかけていた時に、やっと皇子様と再会できたのです。ミユウは嬉しいです。皇子様、明日、水神女島にいらしてくださいね。そうすれば、きっと記憶が戻ります。ミユウは待っていますから、来てくださいね」

 

 はるかに遠い、遠い、悠久の昔。

 ここは、今よりずっと寒い土地だった。杉の巨木が山肌を覆い尽くし、霧が白く立ち込める深い森の中には、サオシカという巨大な鹿がいた。牡鹿の角は、大人の男が両腕を広げた幅よりも大きく枝分かれし、四つに枝分かれした二本の角を、昂然と上げ、森の中にたたずむ姿は、神々しくさえあった。冬が近づくと、雌鹿を求めて、サオシカの雄が恋鳴きする声が、山の峰の方々で響き渡った。

 ミユウは、七人姉妹の末っ子だった。母は、この島から近海にかけてを治める女神で、父は、気が向いた時だけやって来る東風こちの神だった。

 その頃は、神と精霊と人間は、一緒に暮らしていた。ミユウは、まだ小さかったので、神と精霊、人間の区別が、よく分からなかった。けれど、両親が神だということは、分かっていた。

 上の二人の姉は、もう嫁いでいた。そして、この度、三番目の姉の婿となる神が、もうすぐやって来るというので、母と、母に仕える人間たち、それに、久しぶりに父までやって来て、もてなしの用意に大わらわな状態だった。

 付添い人とともにやって来る姉の婿となる神は、南海に棲む龍王の子息のひとりで、大層身分の高い方だという。それを知った他の姉たちは、龍王の子息や、その眷属に、自身が縁づく機会となるかもしれないと、身支度に余念がなかった。が、ミユウは、まだ小さく、子どもだったので、そのような縁談話には興味がなかった。

 大人たちの邪魔になってはいけないし、退屈だったので、その日も、ミユウは、潮のひいた磯辺へ行き、流れてきた貝殻と海藻を拾い集めて首飾りを作り、ひとりで遊んでいた。


 突然、ミユウの頭上に巨大な影がさし、磯辺が暗くなった。見上げると、黒い雷雲が頭上に現れ、その雲の合間から、彼女が知る大蛇よりも、もっと巨大な、鱗のある生き物の体が見え隠れした。その鱗は黒々とした艶があり、その一枚がミユウの頭ほどもある大きさだった。頭らしきところには、海中で揺らめく藻のような、漆黒の立派なたてがみがあり、若いサオ鹿の角と同じ、ひとつだけ枝分かれした、一対の角が見えた。顔は、ミユウの知るどんな生き物とも似ていない。サオ鹿に似た耳と面長な輪郭、蛇の目と、サメの歯と、虎の鼻と部分ごとに似ているが、そのどれでもない。輪郭は、蜃気楼のようにゆらゆらとし、はっきりとは定まらない。その生き物の頭の後から、何者かが彼女へ呼びかけた。

「おおい、そこの小さな女の子、ここはミウメ様の治める土地なのか」

 ミユウは磯辺から立ち上がり、伸び上がって頭上を見上げた。

「ミウメは、私の母です。女神の名をみだりに呼んではなりません」

 ミユウは、姉たちや、母に仕える人間たちから、女神の真名をみだりに呼ぶことは不敬なことだと教えられていた。だから、その声の主に注意したのだ。

「これは失礼した。では、そなたは、女神の末の娘子だな」

「名乗りもせずに、私の事をあれこれ言うのは無礼でしょう」

 笑いを含んだ若々しい声に、どうした訳か反発してしまい、つい、きつい言い方になってしまった。

「怖い、怖い、小さな女神さまに怒られてしまったよ」

 という声がすると、もう、ミユウの目の前に、その者は降り立っていた。ほっそりとした、背の高い若者だった。搾りたての乳のように白い肌、腰までとどく長い髪は青みがかったところと、白銀色に輝くところが混じり合い、真珠のような光沢を放っていた。うっとりと見惚れてしまうほど、美しく整った顔には、穏やかで優し気な笑みが浮かんでいた。

「・・・・・・」

 見たこともない、襞の多い、柔らかそうな白い衣を、片肌脱ぎでまとう若者に見下ろされ、ミユウは驚いて、何も言えなくなった。

 若者は、膝に両手をあて前屈みになると、ミユウの顔をのぞき込んできた。地元の若者たちとは違う、切れ長の大きな目と、すっきりとした鼻筋、蕾からほころびかけた花のような唇。若い牡鹿みたいに様子の良い若者だった。

 ミユウを見下ろすうちにも、大空の蒼から山の緑の碧、それからまた紺碧の海の青へと、若者の瞳の色は変化した。その瞳にのぞき込まれ、ミユウは頬が熱くなり、真っ赤になっていた。

「末の娘さんは、たしかミユウという名だ。そうだ、君はミユウだね」

「ええ、そうよ。私はミユウよ。あなたの名は何んなの」

「こらっ、皇子さまに向かってなんというわきまえのない口の利き方だっ」

 いつのまにか、もう一人、真っ黒な髪が蛇のようにうねる、気難しそうな若者が、ミユウをしかめっ面で見下ろしていた。その目は、肉食獣のような金色で、縦に狭まった黒い瞳が、ミユウを獲物のように見据えていた。

「・・・・・・」

 ミユウは、女神の娘として、かしずかれて育ってきたので、大人から、怖い顔で睨まれた経験がなかった。黒髪の若者から睨まれたミユウは、恐ろしさにフルフルと震え、目から涙が溢れ出した。それでも、弱みをみせるものかと意地を張り、必死で睨みかえした。

 けれど、皇子さまと呼ばれた方は、彼女が怖がっていることなど、お見通しだった。

「ヘイロン、子どもなんだから目くじらをたてるな。おまえが恐ろしい顔をしているから、怖がって泣きそうではないか。おまえは、女どころか、子どもまで泣かすつもりなのか」

「ひどい事をおっしゃる。そのお言葉、そっくりそのまま、皇子様へお返し申し上げる。俺のどこが怖いっていうんだ。怖くなんかないだろ」

 と、言いながら、金色の目でのぞき込まれ、ミユウは、とうとう我慢できずに泣き出してしまった。

「フェッ、エッ、エーン」

 泣きやもうとしても、一度溢れた涙は簡単には止まらない。目に手をあて、ミユウは泣き続けた。

「大丈夫だよ。ヘイロンは、おまえを取って食ったりはしない」

 最初に声をかけて来た若者は、そう言いながら、ミユウをひょいと抱き上げた。

「・・・・・・」

 ミユウは、うっとりする香りに包まれた。それは、暖かな日差しのような香りだった。

「さあ、泣き止んで、機嫌を直しておくれ、怖がらせてしまって悪かった」

 と、言いながら、衣の袖でミユウの顔を優しく拭ってくれた。

「あっ、衣が汚れます」

「気にすることはない。衣は着れば、汚れるものなんだから」

「もう、皇子様、そんな小さな女の子にまで手を出すなんて、どれだけ、気が多いんですか」

「人聞きの悪い事を言うな。それよりヘイロン、おまえ、そのおっそろしい顔を何とかしないと、この子のお姉さんに嫌われるぞ」

「エエッ、これじゃダメですかね。竜宮で一番の、姿変えの術師って先生について、猛特訓したんですよ」

 ミユウを片手で抱き上げたまま、皇子は、ヘイロンを横目で見た。

「その師匠とやらの教え方がなってないのか、おまえがどうしようもなく不器用なのかどっちかだな。だいたい、人間の姿になっているはずなのに、どうして、瞳が、猛獣みたいになっているんだ。それに、おまえ、口から、大きな牙まで見えるぞ。まさか、頭の角まで残ってはいるまいな」

 ヘイロンは、大慌てで、頭に手を当てた。ミユウは、その様子を見て、吹き出してしまった。

「機嫌が直ったね。よかった」

 若者は、ミユウが泣き止んだのを見て、微笑んだ。

「それでは、ミユウ、そなたの母上のところへ、案内してくれないか。こちらのヘイロンは、そなたの姉上の婿となる方だ。はるばる、南の竜宮から参られたのだ。私は、ヘイロンの付き添いで、・・・ヒコという者だ」

 ヒコと聞いた途端、ヘイロンが、プーッと吹き出した。

「皇子様、何ですか、それ、そのまんまじゃないですか」

 ふたりは東方の地からやって来た。そこでは、大人の男のことをヒコと言う。皇子がヒコと名乗ったのは、偽名を考えるのが面倒くさかったからだ。それに気が付いたので、ヘイロンは、大笑いしたのだ。

「ヘイロン、私の事をミコと呼ぶな。偽名は単純な方がいいんだ。でないと、忘れてボロが出るからな。とにかく、ここではヒコで通すことにする。私の事を暴露したら、おまえを置き去りにして、先に帰ってしまうぞ」

「ダメですよ。俺を見捨てないでください。皇子、じゃなかった、ヒコ様」

「様もつけるな、ヒコでいい。付き添いなんだから、様はヘンだ」

「はい、じゃ、ヒコ、俺を見捨てないでください。ちゃんと、俺が娘さんに気に入られるように、知恵を貸してください」

「分かった。おまえの父上を失望させないように、お互い頑張ろう」

 ふたりのやり取りを聞くうちに、黒髪の怖そうな男が、姉の婿となる龍王の王子で、ヒコと名乗る若者は、彼の付添い人であることが、ミユウにも分かった。

 ヒコは、ミユウを地面にそっと降ろすと、尋ねた。

「ミユウ、君の母上のところへ行くには、どの方角へ行けばいい?」

「はい、ご案内します。ついて来てください」

 ミユウは、磯から浜の方へ進み、次に、海辺の雑木林を抜け、山道へと入っていった。その間も、ヒコは、ヘイロンが花嫁に気に入ってもらえるには、どうしたらいいのか、熱心に助言していた。

「とにかく、まず、その剣歯虎サーベルタイガーみたいな、でかい牙をなんとかしろ。人間の歯なら、そんなに長くないだろ。小指の先までの長さに揃えてしまえ」

 剣歯虎は、サオシカすら一撃で倒す猛獣だ。その犬歯は、大人の手首から肘の長さほどもあるから、大袈裟だなと、ミユウは思った。

「こうですか」

 そう言うと、ヘイロンは、アーンと口を開けた。

 ヒコは、ジロッと口の中をのぞき、

「うん、それでいいだろう」と、言った。

「で、ヒコさ、じゃない、ヒコ、他はどうすりゃいいんですか」

「瞳だ。そんなに糸みたいに細くしたら、獲物を睨み据えた蛇みたいだ。黒目を、思いっきり大きくして、真ん丸にしろ。目元も、もう少し、クリッとした感じ。そうだな、子犬の目みたいな感じにしたらどうだ」

 ヘイロンは、両手を頬に当て、天を見上げて叫んだ。

「エエッ、難しいっ。子犬なんて、そんな可愛らしいもの、俺には無理だあああ」

「うるさい。子犬を頭に思い描いて、集中しろ。できるだろ」

 ヒコは、ヘイロンの後頭部をペシッとはたき、促した。

 ヘイロンは、眼を固く閉じ、しかめっ面となり、ウウッと唸り続けた。

「ヒコ、これでどうだろう」

 ヒコは、ヘイロンに顔を近づけ、眉を寄せて考え込んだ。そして、ミユウの脇の下に、後からそうっと手をまわすと持ち上げて、ヘイロンへ正面向きで近づけた。

「ミユウ、そなたも見てごらん。どうだい、ヘイロンは、怖い顔をしているだろうか」

「・・・・」

 ヒコに促され、ミユウも目を真ん丸に開け、ヘイロンの顔をジイッと見た。

「角がなくなってるし、牙もない。一回、にっこり笑ってみて頂戴」

 ヘイロンは、ミユウに言われるまま、何とか笑顔を見せた。

「可愛い、ヘイロン、可愛い、子犬みたい。わあい、ちっとも怖くないよ」

 ミユウは、ヘイロンの顔が怖くなくなり、歓声を上げた。

 ヘイロンは、ハアッとため息をついた。

「ありがとう、ミユウ、これで、俺は、あんたのお姉さんに、気に入ってもらえるかもな。ヒコ、御指南ありがとう。ったく、竜宮のじじいは、俺にいい加減な術を教えやがったな。帰ったら、文句言ってやる」

 ヘイロンがブツブツ言っている間、ヒコは振り返り、山道から離れた雑木林のあたりをじいっと見ていた。

「どうしたの」

 気になったミユウは、尋ねた。

「なるほど、ここの人々は、ああいう姿形をしているのか」

 雑木林の中で、二、三人の村人が背中に籠を負い、キノコを採っていた。それを見ながら、ひとりごとを言うや、ヒコは、自身の姿をあっと言うまに、黒髪で、浅黒く日焼けした村人の姿に似せてしまった。

「・・・・・」

 ミユウは、それを茫然と眺めた。先刻までの輝くような若者の姿は消え失せ、どこにでもいる、このあたりの若者のひとりにしか見えなくなった。ヒコは、驚く彼女の前にしゃがむと、顔をのぞき込んで、微笑んだ。その微笑みは、姿かたちを変える前と変わりなく、優しいものだった。

「驚いたのかい、ミユウ。最初に見た私の姿は、内緒にしておいておくれ。ヘイロンの付添い人で来ただけだから、目立たないようにしたいんだ」

「はい」

 ミユウは素直にうなずいた。ヘイロンのことを大切に思っているヒコの気持ちが、幼いながらも、彼女にだって理解できた。後で、皇子様がお姿を変えていることを、教えてくれなかったと、姉たちから責められたが、ミユウは、ヒコとの約束を守り、ヒコが村に滞在中は、その事を秘密にして誰にも教えなかった。

 ミユウは、峠をひとつ越え、緩やかな坂を下り、山間の狭い盆地にある村へ、ヒコとヘイロンを案内した。

 村の入口には、ここが女神の御嶽の村であるしるし、礎石の上に二本の大木をたて、その二本の大木の間には、太い縄を絡ませた横木を渡してある。横木の真ん中には、女神の徴が飾られていた。白くて、透き通るような繊細な花を編みこんだ、大きな花輪だった。夏から秋にかけて、その花が咲いている間中、村人は花を集め、瑞々しい花輪を鳥居の真ん中に飾ったのだ。しかし、氷河期の終わりとともに、この草花も、この地から姿を消してしまった。

 ふたりを村の外へ待たせ、ミユウは鳥居をくぐり、長老のところへ、二人の到着を知らせに走った。長老は、大慌てで、ふたりを迎えに出た。

「龍王の王子様、ようこそ、ミウメ女神様のもとにお越しくださいました。出迎えもいたしませず、申し訳ございません。わしは、長老のクァンと申します」

「いえいえ、こちらこそ、先触れもなく突然に来てしまい、失礼をお許しください。予定より、到着が早まってしまい、ミユウ様が案内してくださったので、そのまま来てしまいました。こちらは、南海龍王の五男、ヘイロン様でございます。私は、龍王の命を受け、付添い人として参りました、ヒコと申します」

 ヒコは、愛想良く長老と挨拶を交わし、ヘイロンを紹介したが、ヘイロンはすっかり緊張して、満足に挨拶の言葉を話せなかった。

 挨拶が終わると、ヒコは

「此度の婚礼の祝いの品を、南海龍王様より預かってまいりました。その品を、こちらに運ぶため、村の男手おとこでを二、三人、お借りしたいのですが」

 と、長老に頼んだ。

 長老は、広場に集まってきた者から、体格のよい男たちを選び、祝いの品を運ぶよう指示した。

 さきほど海辺で二人に会った時は、何も持ってきてはいないようだった。けれど、男たちと一緒に海辺に戻ってみると、波をかぶらない程度に砂浜の奥まったところに、大量の荷物が山積みとなっていた。ヒコは、それを、村人に手伝ってもらい、すべて、女神の御座所である御嶽の広場へ運びこませた。

 女神の御座所である御嶽は、村の北の端、木々が生い茂る薄暗い森の奥にあった。森の中ほどに、清水の湧き出る泉があり、その周りだけ草地となっていて、泉を囲むように、大人でも抱えきれぬほどの太い檜柱、朱色に塗った六本の支柱の上に、高床を設え、さらに、その上に、船の舳先のように天へ反り返る、巨大な舟形屋根を葺いた神殿が、数棟建っていた。中央にある、一番大きな建物が、女神の神殿だった。

 神殿の正面に、祝いの品を運び込むと、ヒコは、目録を読み上げた。村人たちは、祝いの品が間違いなく揃っており、女神のもとへ納められたことを確認した。その中には、子どもなら全身が入ってしまうほどの、大甕一杯のハチミツが十甕もあり、皆、大層驚いた。

「うおお、ハチミツじゃ。しかも、あれほど大きな甕に十甕とは、東方の地は、何と豊かな所なのだ」

 ハチミツは、村人の好物なのだが、春から秋にかけて、少しづつしか採れない貴重なものなので、皆、量の多さに驚き、狂喜した。他にも、大量の魚や貝の干物や、干し肉や、木の実、聞いたこともない調味料や、初めて目にする美しい貝殻細工の装飾品や、ずうっと手を触れていたくなる柔らかな織物や、毛皮まであった。けれど、ヒコは、これをどうやって持ってきたのだろう、ミユウには、それが不思議だった。二人は、見たこともない生き物に乗ってきたのに、船が一緒についてきていたのだろうか。

 ミユウは、ヒコに訊いてみたかったが、ヒコもヘイロンも、村人に囲まれ、神殿の中へ案内されてしまい、もう話しかけることはできなかった。

 

 その夜は、婚礼前夜の宴となり、村人は祝い酒を開け、たらふく飲み食いし、陽気に騒いだ。御嶽の奥、女神の御座所でも、女神と東風の神、その娘たちは、ヘイロンと女神の三女の婚礼を祝い、宴をひらいた。

 東方の遠い国、村人らは、『ニライカナイ』と呼んでいた、海上のはるか彼方にある土地だった。その土地から、南海龍王の子息の婚礼を見届けるためにやって来た、付添い人のヒコに、姉たちの注目は集まった。あれこれ話かけ、関心を引こうと懸命だった。

「ねえ、ヒコ、あなたのご両親は、ニライカナイでは、どんな役目についていらっしゃるの」

「役目ですかあ、さあ、何だろう。私は、龍王様の王子とお付き合いいただいたりして、外で遊んでばかりいるもんで、親の役目の事は、何にも知らないんです。そういう事には疎いもので」

 ヒコは、どの姉からの質問にも愛想良く答えていた。けれど、彼の答えは曖昧で、東方の地での、自身の出自や、身分を悟らせないものだった。ヒコは、自分の事を知られたくないのではと、ミユウは、幼いながらも推測した。けれど、その秘密めいたところに、姉たちは一層惹き付けられるのか、ヒコ自身から手がかりを引き出そうと、この辺りの女たちがつくる白い濁り酒を何度も杯に注いでは、瞳をきらめかせ、無邪気そうな笑みを浮かべ、巧みに質問の方向を替え、ますます熱心に探りを入れ続けた。

 ミユウには、そのような男女の駆け引きめいた会話は退屈でたまらなかった。そう感じる一方で、姉たちのように、ヒコと楽しく話がしたくてたまらなかった。島の外から客人が来ることは、滅多にないことだったから、ニライカナイがどんな所なのか、ヒコから話を聞きたかったのだ。けれど、ミユウは、自分からヒコに話しかけることができなかった。なぜなら、姉たちは、きらびやかな貝殻細工の、真珠の腕輪や、胸元を覆わんばかりに幾重にも巻き付けた首飾りをきらめかせ、艶やかな黒髪は豊かに広がり、腰まで届く長さである。若者ならば惹かれずにはおられない、美しい姿である。一方のミユウは、体は小さく、やせっぽちで、髪はまだ肩の辺りでバサバサと広がるみっともないもので、今日の昼間に作って、お気に入りだった首飾りも、長時間たき火の傍にいたために、紐替わりに使った海藻が、すっかり干からびてしまい、色あせて、みっともないものになっていた。姉たちの中に分け入り、ヒコに話しかける勇気なんて、まったく出てこなかった。

「・・・・・・」

 ミユウは、無言で、つまらない思いのまま、神殿の外に出て、泉の畔へ行った。泉で首飾りを浸したら、海藻が水を吸って、昼間のように見目のよい状態へ戻らないものかと思ったのだ。が、首から外そうと海藻を手にとると、海藻は切れてしまい、胸元から地面へ、貝殻はこぼれ落ちてしまった。

 月明りの下、ミユウは涙を拭った。姉たちのような素敵な首飾りは、彼女の背がもっと高くなり、髪が腰までとどく頃に、村人たちが捧げてくれるに違いない。ただ、それは、もっと先の事なのだ。だから、哀しむことなんかないと、自分自身を慰めた。

「ミユウ、そんな所で独りなのかい。何をしているの」

「ヒコ・・・」

 突然、声をかけられ、驚いてふり返ると、すぐ後ろにヒコがいて、微笑んで、上から見下ろしていた。

「あれ?首飾り、壊れちゃったのかい。海藻が渇いてしまったんだね」

 そう言いながら、ヒコはしゃがむと、貝殻を拾い集め、地面に首飾りのように並べ始めた。

「何をしているの」

「ミユウに似合う、貝殻の並びを考えているのさ。でも、貝殻だけじゃ、何だかな。そうだな、これを使うか」

 ヒコは、独り言を言いながら、思案した。そして、自身の首飾りを頭の上まで持ち上げて外した。

「ミユウに似合うのは、翠の石だな。じゃ、これを真ん中に使おう。それと、玻璃の玉もあった方がいいな」

 ヒコは、自分の首飾りから、緑色の玉ひとつと透き通ってキラキラ光る玻璃の玉ふたつを外し、貝殻の間に配置した。

「綺麗・・・でも、それは、ヒコの大切なものでしょう」

 地面に並んだ貝殻と玉は、本当に素敵で美しかった。けれど、その玉は、ヒコが首にかけていたものだ。首飾りは、危険から身を護るための、強力な護符であると信じられていた。ヒコの身につけている首飾りも、ヒコが息災でいる事を願う人が、思いを込めて作ったものに違いないのだ。そんな大切なものを、自分のおもちゃのような首飾りの為に、気軽に譲ってもらうわけにはいかない。

「紐がないな。そうだ、これを使えばいい」

 ヒコは、首飾りを作ることに夢中で、ミユウの言う事が聞こえないみたいだ。彼は、自分の腕にはめていた飾り紐を外し、何やら小声で呪文をブツブツ唱えた。複雑な結び目でできた飾り紐は、あっと言う間に解けてしまい、一本の真っすぐな紐となった。

 ヒコは、紐を貝殻と玉の上に置き、呪文を唱えかけた。

「ダメ、ダメです。やめてください。それは、ヒコの、大切な首飾りと腕輪でしょう。私が、それをいただいたりしてはダメなんです。私は、まだ小さくて、一人前じゃありません。そんなものを、いただくことはできません」

 ミユウは叫び、ヒコの呪文を遮ってしまった。思い返せば、恐しい不敬の行いだった。が、その時は、ヒコの大切なお守りを、自分のような半人前の、精霊とも神とも言い難いものがもらってはいけないのだと必死だった。

「・・・・・・」

 ヒコは無言で、ミユウを見下ろした。見下ろされたミユウは、ヒコが怒ったに違いないと思い、怒鳴り声を覚悟して堅く目を瞑った。

「ミユウ、目を開けてごらん」

「ごめんなさい」

 ミユウは目をますますギュッと瞑った。瞑った目から、涙が零れていった。我慢していたのに、また泣いてしまった。が、頬を落ちる涙を、そうっと拭ってくれたのは、ヒコだった。

「泣き虫さんだな。さあ、目を開けなさい。怖がることはない。怒ってなんかいないよ。ミユウに泣かれると、どうしたらいいか分からないな。こんなに小さな女の子と付き合ったのは、初めてなんだよ」

 ヒコの声が間近に聞こえ、ミユウは恐る恐る目を開けた。

 ヒコはしゃがみ込み、彼女の顔をのぞき込んでいた。先ほどまで、姉たちとお喋りしていた時のような、軽薄な様子ではなく、真面目な顔つきだった。ヒコは、ミユウの目をのぞき込み、頭をそおっと撫でてくれた。そして、こう言った。

「ミユウは、まだ小さい。けれど、そなたはいつの日にか、母上のように立派な女神になるだろう。私は、それが実現するよう祈りを込めて、首飾りをそなたに贈ることにしよう」

「私のために、私が、立派な女神となれるよう、祈ってくださるのですか」

 ミユウの問いに、ヒコは微笑んでうなずいた。その微笑みから、最初に会った時と同じように、暖かさと優しさが伝わってきた。一方、その青みを帯びた目は月明りの下、澄み渡り、遠い未来を見通すという大鷲の眼となり、彼女を捉えた。

 ミユウは、首飾りの前に膝まづき、ヒコを見上げた。ヒコも、また、片膝をつき、首飾りを、まだ通していないはずの紐ごと、両腕で捧げ持った。首飾りは、月明りの下で、ぼおと青白く光り始めた。

「ミユウが、健やかに育ち、良き女神、美しく、情け深い女神となるまで、翠の玉と玻璃の玉よ、色あせ、真砂まさごと果てるまで、彼女を守護せよ」

 ヒコの言葉は、厳かな響きとなり、夜の静寂の中に広がった。そして再び、ミユウの上に集まってきて、光の粒子となって降り注いだ。光の粒子を浴びたミユウの全身は、金色の柔らかな光を帯び、今まで感じたこともない幸福感に、体中溢れんばかりに包み込まれた。ミユウは、ヒコに感謝し、立派な女神となるために努力しようと決意した。

「さあ、首飾りが出来上がった。そなたのために、最初に首飾りを捧げる者が私だなんて、とても光栄なことだ」

 と、言いながらヒコは、ミユウの頭から首飾りをかけてくれた。

「ヒコ、ありがとう。本当にありがとう」

 ミユウは、ヒコにお礼を言い、その後、急に疲れて眠ってしまった。

「おおい、ミユウ、寝ちゃったのかい」

 ヒコの声が聞こえたが、ミユウは眠気に負けてしまい、返事もできなかった。母上の声も聞こえたが、もう、眠りの中へと落ちて行き、何を話しているのか分からなかった。

 

 ミユウを抱き上げ、ヒコが神殿へ戻りかけたところへ、かぐわしい花の香を従え、女神がやって来た。

「ミユウ様は、眠ってしまいました。どこへお連れいたしましょう」

 ヒコは、女神へ丁重に尋ねた。が、女神はフフッと微笑んだ。

「皇子様、ミユウに、素敵な贈り物をありがとうございます」

 ヒコは、眉尻を下げた困り顔で、

「いま、私の事をミコと呼ばれましたか」と、女神に尋ねた。

「ええ、皇子様、お姿を変えていらっしゃるので、全然気がつかず、失礼いたしました。まさか、あなた様が、ヘイロン様の付添い人として、わざわざお越しくださるとは、思ってもおりませんでした。けれど、ミユウへ、ご神託を授けていただいて、それで、やっと、あなたは皇子様でいらっしゃると、私にも分かりました」

「いやあ、見ていらしたのですか。ミユウが、寂しそうにしているので、つい、構ってしまいました」

 ヒコは、小さなミユウを抱き上げたまま、女神へ言った。

「皇子様から、ご神託をいただくなんて、この子は、何と幸運なのでしょう。私だって羨ましいくらいです。さあ、ミユウは、私が臥所ふしどへ連れてまいります。皇子様は、大広間へお戻りになってください。皆が、貴方さまが宴の席に戻るのを待っておりますよ」

 差し出された女神の腕に、ヒコは、慎重にミユウを移した。女神は、ミユウをふうわりと受け取った。

「ヘイロン様は、あなたと離れてしまうのが、お寂しいことでしょう」

 女神の言葉に、ヒコは笑った。

「いや、ヘイロンは、もう一人立ちです。いつまでも、私の騎乗龍を、務めさせる訳にはいかない。だから、甘やかすつもりはありません。明日の婚礼以後は、女神様の身内として、存分にこき使ってください」

「ホホホッ、皇子様ったら、ヘイロンがそれを聞いたら、泣いてしまいますよ。もちろん、私の身内として、ミユネの婿は大切にいたします。ですが、皇子さまの御用ならば、遠慮なさらずに、ヘイロンを使役してください。あなたを、自分の背に乗せることが、あの者の誇りなのです。どうか、娘と結婚したからといって、邪険になさらないでください」

 女神の寛大な言葉に、ヒコは感謝した。

「ありがたいお言葉です。女神もご存知のとおり、東の地では、イツァムナ大神の降臨を祝う大祭が、近々開かれます。南海龍王も、その眷属も、東の地の精霊や人間たちも、皆、その準備に大わらわなのです。ヘイロンの婿入りなのだから、もっと随行の者をつけてやりたかったのですが、まったく人手が足りない状態で・・・せめて、私だけでもついて来て、婚礼を見届けてやろうと思ったのです」

 女神はヒコを見上げ、花がほころぶような笑みを浮かべた。

「本当に皇子様は、情け深く、優しいお方です。あなたの騎乗龍であるヘイロンは幸せ者ですね。そして、妻になるミユネも幸せ者です。それに、ミユウも、皇子様直々の神託をいただき、きっといつの日にか、情け深く、優しい、ひと柱の女神となることでしょう。さあ、宴へお戻りになってください。娘たちは、皇子様だと知ったら、ますます大騒ぎして大変ですから、私も、皇子様の事は、秘密にしておきますからね」

 ヒコは、苦笑しながらうなずいた。

「ええ、絶対に秘密にしてください。その方が、のんびり楽しく過ごせますから。ヘイロンの婚礼で、大騒ぎを起こすわけにはいきませんから、よろしくお願いします」

 

 翌日、女神の三女ミユネと、南海龍王の五男、ヘイロンの婚礼が行われた。女神とその夫である東風の神の御座所の前で、ふたりは夫婦となるための誓約を成し、村の女が造った濁酒で、杯を交わした。女神の娘たちは、白い花冠と白い花輪で身を艶やかに飾ったミユネの傍に整列し、ヘイロンにはヒコが付き添った。ミユウは、一番端で、胸元には、昨夜ヒコからもらった首飾りをかけ、婚礼に立ち会った。すぐ上の姉、ミユヒは、時々、ミユウの方をチラチラと見た。

 婚礼が終わると、ヒコは、東方の地へすぐ戻ると言った。大がかりな祭りの準備のため、戻らなければならないそうだ。海辺近くまで、女神と長老が、ヒコを見送りに行った。女神の娘たちも、ヒコを見送りたがった。けれどヒコは、仰々しくなるからと丁重に断った。それに、女神は、娘たちに、婚礼の後の祝いの祭りに、自分が戻ってくるまで名代を務めるよう言いつけた。そのため、娘たちは、見送ることができなくなり、とても残念がっていた。

 ミユウは、名代を務めるには幼かったので、広場から離れたところで、冬が来る前に渡り始めた鳥が、群れとなって飛ぶ空を見上げたり、木の実を探したりしていた。

 鬼胡桃おにぐるみの実を拾おうとして、しゃがんでいると、上からミユヒの声が降ってきた。

「ミユウ、あんた、その首飾りどうしたのよ」

 ミユウはしゃがんだまま、姉を見上げた。姉は、口を尖らし、不機嫌な顔つきだった。ミユヒと彼女は年が近い。が、ミユヒは去年から、女神に付き従う天女となり、上の姉たちの指導を受けながら、神殿で女神に奉仕するようになっていた。その胸元には、姉のために、村人が捧げた首飾りがきらめいていた。

「ヒコが、くれたの」

「ヒコが…どうしてヒコが、あんたに首飾りを贈ったりするの。嘘言って、それ、村から盗ってきたんじゃないの」

 ミユヒは、何でも思った通りを口に出す。ミユウは、盗ったと言われて腹が立ち、言い返した。

「嘘じゃないわ。昨日の晩、ヒコが、私が自分で作った首飾りが壊れたから、自分の石を足して、直してくれたのよ。盗ったりなんかしていないわ」

 ミユヒは、ますます意地悪な顔つきになった。ミユヒは、他の姉に比べ、年が近いせいか、ミユウをいじめる事が多かった。ミユウには分からないことだったが、ミユヒは、天女となったばかりで、それまでの気儘な子供っぽい振舞いを注意されることが多く、いら立っていた。さらに、ヒコが、ミユウにだけ首飾りを贈ったことに、嫉妬したのだ。

「へえ、本当かしら、そんな石、珍しくも何ともないじゃない。どうせ、自分でどっかから拾ってきたんでしょう。本当だって言うんなら、それを外して見せてご覧なさいな」

 ミユウは、ミユヒの言いがかりを無視すればよかったのだ。けれど、彼女には、首飾りをミユヒに自慢したい気持ちがあった。それで、大切な首飾りを外し、姉へ渡してしまった。姉は、首飾りをひったくるように取り上げた。そして、一瞥するや、腕を振り上げ、地面へ首飾りを投げつけた。

「何よ、こんなものっ、天女にもなっていないくせに、一人前に首飾りなんか、つけるんじゃないわよ」

 首飾りは地面にあたり、玻璃の玉がきらりと光った。

「やめてよ、酷いわ」

 ミユウは、慌てて、首飾りを拾い上げようとした。が、大鴉が物凄い勢いで飛んでくると、首飾りを持って行ってしまった。

「アアアッ!」

 ミユウは悲鳴を上げた。大鴉は、光るものが大好きだ。近くの木に止まっていた一羽が、玻璃の玉の光を見逃さなかったのだ。

 ミユウは、涙目になって、必死で大鴉を追いかけた。空を飛ぶ大鴉を見上げ、必死で走った。ヒコからもらった、大切な首飾りを取り戻さなくてはと、懸命だった。

「ミユウ、危ない、止まりなさい。それ以上、行ってはダメエエッ」

 姉の叫び声が聞こえたが、ミユウは大鴉を追いかけるのに夢中で、村の外れまで来ていることさえ気が付かなかった。

「キャアーッ」

 駆けていた足が、突然、地面を見失った。ミユウは、足元から真っ逆さまに、斜面を転がり落ちて行った。村はずれの崖まで来ていたのに、空ばかり見ていて気が付かなかったのだ。深い谷間へと、ミユウは、真っ逆さまに落ちていった。


 女神と長老に送られ、山を下りたヒコは、海岸に戻っていた。

「遠路はるばる、お越しくださって、ありがとうございました。東方の地、ニライカナイの方と、わしの寿命がつきる前に、お目にかかることができて、幸せなことでございます」

 長老は、海の彼方にある、東方の地の話を、色々聞いたことがあった。交易に来る船乗りたちの噂話では、ニライカナイと呼ばれる東方の地には、信じられないような高い家があり、そこに多くの人々が住み、毎日水汲みに行かなくとも、人の手で作られた湧き水を流す水路があって、誰でも利用でき、驚くほどの速さで動く乗り物があり、何日もかかる遠方でも、数時間で到着するとか、とにかく、信じられないような話ばかりを聞いてきたのだ。話を聞くにつれ、憧れが募るばかりの土地から、本物の東方人がやって来た。その当人のヒコは、分け隔てのない気立てのいい若者であった。長老はすっかり気に入ってしまい、別れがたく感じていた。自分に、年ごろの娘がいたなら、ヒコの嫁にしてもらいたいとまで思っていた。

「本当に残念です。こんなに美しい土地に滞在できることは、滅多にないことなのに、すぐに戻らなければならないなんて―大祭が終われば、また、寄せていただいてもよろしいでしょうか」

「ああ、いいとも、じゃが、冬はちと寒いから、春になったら、是非おいでなされ。美味いものが、たんとありますからな」

「ええ・・・」

 ヒコは笑顔を浮かべ、返事をしかけたが、突然顔を強張らせ、山の方を凝視した。

「ミユウが・・・大変だ」

「どうされました・・・」

 長老が、ヒコのただならぬ様子に戸惑い、声をかけた。が、瞬間、ヒコの体がまばゆく輝き、突如突風が吹き荒れた。その眩しさと風の激しさのため、長老は目を腕で覆った。

「皇子様、いかがなさいました」

 女神の問いかけに返事もせずに、ヒコは元の姿、そして背には九枚の翼を生やし、空へ飛び上がった。その瞬間、女神もヒコが捉えたものを感じ取った。

「ミユウが、大変だわ。長老、村へ戻ります。ミユウが、崖から落ちました」


 ヒコは、大空にまばゆい光の筋を残し、村はずれの崖へ飛んできた。そして、崖の下に、頭から血を流し、ぐったりしたミユウを見つけた。

「ミユウッ」

 ヒコは、ミユウの傍に降り立ち、自身の衣の袖をはぎとり、血まみれの顔をそっと拭った。

 ミユウは、うっすらと目を開けた。血のにじむ真っ赤な視界に、海岸で会った時と同じ、美しいヒコの姿があった。

「ごめんなさい。首飾り、大鴉に盗られて…」

「ミユウ、喋らないで、血を止めるから、気をしっかり持ちなさい。諦めては駄目だよ」

 ヒコは、ミユウへ懸命に声をかけた。が、ミユウの頭の傷は、骨が見えるほどのひどさだった。崖から落ちる途中で、岩に激しくぶつけたのだ。足も妙な角度に折れ曲がってしまっていた。

「まあ、ミユウ、何てことっ」

 ヒコの後を追い、衣をはためかせ、空から降り立った女神も、ミユウの姿に、悲痛な声を上げた。

「女神よ、ミユウを、どこか清浄な場所に寝かせておいてください。私もすぐに行きます」

「はい、皇子様」

 女神は、ヒコからミユウを受け取り、崖の上へと昇って行った。それを見送ったヒコは、両手を上げ、玻璃の玉と、翠の玉を召喚する呪を唱えた。

「玻璃、翠よ。汝ら、守護すべき者、ミユウの下へ戻れ、ミユウの守護を汝らに命じた我、キニチ・アハウが命じる。汝ら、ミユウの下へ直ちに戻れ」

 その後、ヒコが取った行動は、『東方の白い神が起こした奇跡』として、村人は子々孫々に渡って伝えた。

 まず、女神が、衣の袖をひらりと払い、広場を、自身の神力で清めた。土がむき出しとなっていた広場は、たちどころに緑の若草が生い茂り、白い花が咲く草原となった。

 女神は、ミユウを、白い花畑の中へ横たえた。そこへ、輝く翠の玉と、対となった玻璃の玉が、猛スピードで飛んできて、ミユウの頭の辺りにふわりと落ち着いた。さらに、村人たちが眩しさに目が眩み、目を開けてはいられないほど輝く何かが、崖の下から現れ、ミユウへ近づいた。その姿は、あまりにまばゆく、神威の風は嵐となって吹き荒れ、村人は誰一人として、はっきりと見ることができなかった。そのため、頭が三つ、いや、六つあったとか、巨大な羽が空を覆わんばかりに広がっていたとか、腕が何十本もあったとか、体中が真っ赤だったとか、翼を耳と間違え、巨大な耳や目があったとか、実際の皇子の姿とは、似ても似つかない姿が伝わることとなった。

 ヒコは、ミユウの傍へふわりと降り立った。

 女神は、涙目で、ヒコを見た。

「この子の魂は、離れてしまいました。まだ天女ですらない、幼い子です。このケガでは、魂を引き戻すことはできませぬ」

「いいえ、ミユウの魂は、私が連れ戻します。私の授けた神託にかけて、必ず、ミユウを、この世へ連れ戻します」

 ヒコは宣言するや、再び空へ飛翔しようと、翼を広げかけた。そこへ、ヘイロンが駆け寄り、叫んだ。

「皇子、待って、俺の背に乗ってくれ、俺も行く。俺の妻の妹なら、俺の妹だ。俺も一緒に行くぜ」

 と言うや、ヘイロンは立ちどころ、巨大な黒龍となり、空へ上がった。その背にヒコはひらりと飛び乗った。

「皇子様、どうか、ミユウを連れ戻してください」

 女神は、空に浮かぶ黒龍を見上げ、皇子へ祈った。

 空に昇ると皇子は、時空の狭間をこじ開けた。雲の切れ目の中に、冥界への入口が、禍々しい鈍色の霧を湛える、暗い洞窟となって現れた。が、皇子は、逸るヘイロンを止め、冥界に入る決意を質した。

「ヘイロン、冥界へ行くと死穢に触れる。そなた、結婚したばかりなのに、よいのか」

「皇子、何を言ってるんだ。あなたの方こそ、大祭を控えているのに、死穢に触れちゃまずいだろ」

 ヘイロンのもっともな指摘に、皇子は、苦笑しながら答えた。

「そうだな。後で、滝に打たれて禊をするさ。さあ、早く、ミユウの魂を取り戻しに行こう」

「合点だ」

 ヘイロンは、厚い霧が立ち込める、湿ってかび臭い冥界の入口へ、躊躇うことなく飛び込んだ。ヘイロンが飛行すると、霧の先に、黒い大鴉を肩に乗せ、骨格だけの大角羚羊おおつのれいように乗って駆けて行く、死神の姿が、ぼんやりと見えた。

「待てっ、死神、私が守護する者の魂を返せ」

 皇子は叫び、まばゆい光を放ち、死神を照射した。

 光に当たると、死神の黒い装束が粒子となって崩れ始めた。

「ヒイイッ、誰だ、俺の体をばらそうとする奴はっ、冥界に光なんざ要らない。その眩しい光を消せ」

 死神は、ふり返り、怒鳴り上げた。

「真砂になりたくなければ、さっさとミユウの魂を私に返せ。きさま、大鴉を使って、女神の娘の魂を、盗もうとしたのだろう」

「ゲッ、九枚の翼…あなたさまは皇子様、エエッ、この子は、皇子様が、守護しておいでなのか」

「そうだ。だから、早く魂を返せ。それを、きさまに渡す訳にはいかぬ」

「エエッ、前々から狙って、やっと手に入れた女神の娘なのに…皇子様は、手が早くていらっしゃる」

 死神は、大角羚羊の角に触り、減速した。そして、方向転換し、皇子を乗せたヘイロンの方へ、トボトボと戻った。

「手が早いとは、人聞きの悪い。たまたま昨夜、神託を授けたのだ。だが、神託を授けた以上、私には責任がある。きさまは、己の神格を上げようと、女神の娘を狙っていたのだろうが、その者の魂は、返してもらうぞ」

 真っ黒な襤褸ぼろを纏う死神は、肩をがっくり落とし、ため息をついた。そして、大角羚羊から降りると、自身が手にしていた布袋を、皇子へと差し出した。

「皇子様のご命令とあらば従います。謹んでお返し申し上げます。しかし、皇子様より、直々に神託をいただけるとは、この娘は、何と幸運なことか。それに比べ、私の不運なことよ。神格を上げようと、何年にもわたって狙い続けて、やっと手に入れたというのに、無念極まりない。皇子様、私にも、何かいい神託を授けてはいただけませんかね」

 袋を受け取った皇子は、死神を見下ろし、冷たく返事した。

「嫌だ。野郎に神託なんて、面白くも何ともない。博打みたいな事をしていないで、せいぜい、死者を冥界に送る仕事に励んで、神格を上げることだ」

 皇子の素っ気ない言葉に、死神は、ますますガックリと、肩を落とした。

「やっぱり皇子様は、女子にしか優しくないんだ。俺も、女ならよかった」

 ブツブツ言いながら、死神は大角羚羊の背に乗り、冥界の霧の中へと去ってしまった。

 それを見送った皇子は、ヘイロンに声をかけた。

「ミユウの体が冷え切ってしまう前に、この魂を戻してやらなくては、急ごう」


 真っ黒な雷雲に覆われた空が突如裂け、まばゆい日の光を背に、巨大な黒い龍が裂け目から飛び出し、ミユウが横たわる広場へと急降下した。その背から、皇子がひらりと降り立った。

「皇子様」

 女神が駆け寄ると、皇子は、片手に持つ袋を掲げてみせた。そして、横たわるミユウのもとへ近寄ると、その顎に手を当て、口をそっと開けた。そこへ袋を近づけ、かたく縛ってあった口紐をほどいた。ミユウの魂、桃のような形の魂が、フワフワと飛び出し、ミユウの口の中へと呑み込まれていった。

 女神は、ミユウの傍で跪き、様子を見守った。ミユウのまぶたが震え、目がうっすらと開いた。

「ミユウ・・・」

 皇子は、低く、呪を囁いた。それは、ミユウの回復を願う呪だった。

 翠の玉と、玻璃の玉が輝き、その光がミユウの全身を覆った。緑の玉は、亀裂が入り、真っ二つに割れてしまった。

「ヒコ…、母様…」

「ミユウ、もう大丈夫よ」

 女神は、泣きながら微笑み、ミユウに優しく声をかけた。

「ミユウ、何も心配いらないよ。首飾りの事も気にしないでいい。ちゃんと、玉は戻ってきているからね。ゆっくり休みなさい」

「取り戻してくれて、ありがとう、ヒコ」

 ミユウは、ヒコに礼を言うと、眠りに落ちた。

 

 翌朝、目が覚めたミユウは、広場へ行った。頭の傷はすっかり治っていたが、歩くと右足が少し痛かった。

 村人たちは、ミユウの姿を見るや駆け寄ってきて、

「ミユウ様、お元気になられてよかった」と、次々に、声をかけてくれた。

 が、昨日の記憶が曖昧なミユウは、村人たちが涙を流し、自分に声をかけてくれるのが不思議でならなかった。と、そこへ、女神が現れ、ミユウに近づいた。

「ミユウや」

「お母さま・・・」

 母とはいえ、女神から直々に声をかけてもらえる事は、滅多にないことだ。ミユウは、嬉しさに、頬をほんのり上気させた。

「そなたは、村はずれの崖から転落したのです。首飾りをつかみ、飛んで逃げた大鴉を追いかけ、落ちてしまったのです」

 ミユウは、昨日、姉のミユヒと言い争い、その後、大鴉を追いかけたことを思い出した。

「そうだ、私、首飾りを大鴉に持っていかれて、追いかけたんだ。その後、どうしたんだろう」

 誰かが、声をかけてくれた記憶が、ぼんやりと蘇ってきた。

「そうだわ、ヒコが傍にいたような気がする。ヒコが、何か言っていた」

 女神は、身を屈め、娘の顔をのぞき込んだ。

「ミユウや、そなたは、谷底へ真っ逆さまに墜落し、大けがを負い、魂は体から離れてしまい、死神に攫われてしまったのです。そなたが、今朝、目覚めることができたのは、ヒコ様のお蔭なのですよ。

 ヒコ様は、ニライカナイの地では、最高神イツァムナ様の次に位する太陽神、皆から『日嗣ひつぎの皇子様』と呼ばれる、大層神格の高い神でいらっしゃるのです。その皇子様が、直々に、ヘイロンとともに、死神を冥界にまで追いかけて行き、そなたの魂を、取り戻してくださったのですよ」

「…ヒコは、神様だったんだ。それに、ヘイロンが、そうなんだ。私を助けてくれたんだ。お母さま、ふたりはどこにいるの。私、お礼を言わなくちゃ。まさか、もう帰ってしまったの」

 女神は優しく微笑み、ミユウの髪を撫でた。

「おふたりは、山を登り、滝へ行かれました。そなたを助けるために冥界へ行き、死穢に触れてしまったので、禊をしに行かれたのです」

 死穢という言葉に、ミユウの表情は曇った。それを、人々の暮らしの中に持ち込むことは、最大の禁忌だった。

「私は、冥界の死穢を、村へ持ち込んでしまったのでしょうか」

「大丈夫、私が村全体を清めました。心配ありません。ただ、皇子様は、ニライカナイに戻られたら、すぐに、イツァムナ大神を祀る、大切な祭りに出席しなければならないので、念入りに、禊を行う必要があるのです」

 イツァムナ大神を祀る祭りは、滅多に行われない大祭で、ニライカナイ全土を上げて行われる大切な行事なのだと、ミユウも、東方から来た船乗りに聞いたことがあった。そんな大切な祭りの前に、自分のために、冥界の死穢に触れてしまった皇子さまに、ミユウは申し訳ない気持ちで一杯になった。

「私、滝へ行ってきます。そして、皇子さまとヘイロンにお礼をいってきます」

「気を付けていってらっしゃい。そうだわ、荷物になるけれど、お二人のためにこれを背負っていきなさい」

 女神は、ミユウの背に大きな荷物を背負わせた、頭から飛び出るほどの大きさだが、軽い荷物だった。ミユウが右足を引き摺り、歩きだすと、長老のクアンが呼び止めた。

「ミユウさま、この杖をお使いなされ。その足で山道は、辛かろう」

 と、言いながら、自分の杖を手渡してくれた。

「でも、これは、長老の大切な杖でしょう。私が使うわけには・・・」

 ミユウが躊躇うと、長老は、ぐっと押し付けた。

「いやいや、山道は危のうございます。わしが使い込んだ杖なら、ミユウさまを滝へと無事に送り届けましょう。なあに、後で、お返しいただければいいのです」

「ありがとう、じゃあ、お借りしますね」

 普段のミユウなら、何と言うことのない山道だ。けれど、ケガの治りきらない右足は思うように動かない。長老の杖の助けを借り、ミユウは、ヒコにお礼言いたい一心で山道を登り、長い時間をかけて、滝へ到着した。


 ミユウが、そろそろ到着しようという頃、ヒコとヘイロンは、滝の流れに全身を打たれ、震え上がっていた。秋も深まり、水温は下がり気味、山の中腹あたりにある滝で、ずぶ濡れになると、体の芯まで冷え切り、全身が震え、歯はガチガチと鳴り続けた。

「皇子様、もういいんじゃありませんか。これだけ冷たい水にあたれば、死穢だって、とうの昔に流れ落ちてますよ」

「そうだな、そろそろ上がろうか」

 人の姿に変装し直したヒコは、今は神力を使わない。だから、冷たい清水に打たれた体は、ヘイロンと同じく、冷え切っていた。

「皇子様、ヘイロン」

 岸辺に上がり、たき火で暖をとるふたりへ、ミユウは声をかけた。

「ミユウ、こんな所まで来て、大丈夫なのかい」

 ヒコは、ミユウへ近寄った。

「大丈夫です。私、皇子様とヘイロンにお礼を言いたくて、来ました。私を助けてくれて、ありがとう。本当にありがとう」

 ミユウは、ヒコとヘイロンへ、頭を下げ、礼を言った。

「ヒコでいいよ。わざわざ礼を言ってくれるために、こんな山奥まで来たのかい。足を、まだ引き摺っているじゃないか。大変だったろう」

 皇子は、ミユウをねぎらった。ミユウは、その言葉で、疲れが吹き飛んだ。

「元気になってよかったな。その荷物重そうだな。降ろしなよ、俺が持ってやるよ」

 ヘイロンに言われ、ミユウは、女神から預かってきた荷物のことを思い出した。礼を言うのに夢中で、すっかり忘れていたのだ。

「そうだ、これ、女神様から、お二人にって」

「女神様が、我々に―」

 ミユウの背から荷物を下ろし、ふたりは包みを解いた。真っ白な二枚の毛皮が現れた。

「暖かい。助かった…」

「さすがは、女神様、感謝感激だよ。もう、凍えそうだったんだ」

 ヒコも、ヘイロンも、真っ白な毛皮をまとい、大喜びした。

「ごめんなさい。私を助けるために冥界へ行って、死穢に触れたから、おふたりは、冷たい水で、禊をしなくちゃならなかったんでしょう」

 ヒコは真顔になり、ミユウに近寄ると、頭をそっと撫でた。

「死穢に触れようとも、ミユウを取り戻すことが一番大事な事なんだ。そなたが元気で健やかでいることを守るのが、神託を授けた者としての責任なんだから、当然だよ」

 ミユウの頭を撫でるヒコの衣は、村人が身に纏うものと同じ生地だった。それは、大量のカラムシを、水に数日漬け置きし、根気よく叩いて、繊維にしたものをより合わせてつくった細い紐から編み上げたものだ。丈夫だが、ごわごわした、着心地の悪い生地だった。それを目にして、ミユウは、ヒコが自分の額から流れ落ちる血を、白い袖を真っ赤に汚しながらも、躊躇うことなく拭きとってくれたのを思い出した。

「私、また、ヒコの着物を汚してしまったんだ。あれは血がついて汚れてしまったから、大祭が近いニライカナイへは、着ては帰られないのね」

 ヒコは、微笑んだ。

「着物は、着れば汚れるものだと、言っただろう。気にすることはない。それより、まだ足が痛そうだね。ちょっと見せてごらん」

 そう言うと、ヒコはしゃがみ、ミユウの右足に手を当てた。手から、柔らかい光が広がった。すると、足首から痛みがなくなった。

「もう痛くないわ。ありがとう」

「そうだ。ミユウ、これを直しておいたから、また、身につけておくといい」

 ヒコは、自身の首から、首飾りを外し、ミユウへかけ直した。死神の使い魔である大鴉の触れた首飾りも、禊を一緒に済ませてしまおうと、直した後で首にかけたまま、滝にあたっていたのだ。それは、ミユウに与えた翠の玉と玻璃の玉の首飾りであったが、真ん中にあった緑の玉は、二つに割れてしまったため、対となる勾玉に形を変えていた。

「翠の玉、割れてしまったんだ」

 ミユウは、首飾りを見下ろし、残念そうに言った。

「ケガを直すのに、翠の玉の力を、大分使ったからね。だが、まだまだ翠の玉にも、玻璃の玉にも力は残っている。これからも末永く、そなたを守護してくれるだろう」

 ミユウは、玉にそっと触れた。玉から暖かさが伝わってきた。ヒコの、お日様のような匂いと同じ暖かさだった。

「大切にします。ありがとう。でも、私は、ヒコにも、ヘイロンにも、何にもお礼ができないわ」

「お礼なんて、気にしなくていいよ。そなたが元気でいれば何よりだ」

 しかし、それではミユウの気が済まない。彼女は、突然思いついた。

「そうだわ、私、ヒコ様が言われた通り、必ず、いつの日にか、お母様のような立派な女神になります。そして、ヒコ様に衣を捧げます。その時には、ヒコ様、私に会ってくださいね。私は、必ずヒコ様の汚してしまった着物に代えて、新しい真っ白な着物をお返しします。サオシカよ、八つに分かれた角の下、その御耳を突き立てて、私の誓いの言葉をしかと聞き届け、誓約うけいの証となっておくれ」

 ミユウの言葉に答えるかのように、森の中から恋鳴きするサオシカの声が、物悲しく響き渡った。

「ミユウ・・・・・」

 幼い子供だと思っていたミユウが、女神さながらに厳粛な誓約を行ったので、皇子もヘイロンも、驚いて言葉が出なくなった。

 ミユウは、ふたりを見上げ、にっこり笑った。

「お二人とも、ミユウは誓いました。皇子様、いつかまた、必ず、ミユウに会いにきてくださいね。サオシカのヤツノミミですよ。ミユウは待っていますから」

 皇子は、変装を解き、まばゆいばかりに神々しい姿へと戻り、ミユウへうなずいた。

「分かったよ。近いうちにまた、そなたに会いに来よう。大祭が迫っているので、今からすぐに、戻らねばならない。女神には、お礼を伝えておくれ。ミユウ、大祭が終わったら、女神となったそなたに会うため、また戻ってくるよ」

 皇子は、そう言い残し、巨大な黒龍となったヘイロンに騎乗し、滝の畔から、ニライカナイへと飛行し、帰って行った。

 その様を、多くの村人が目撃し、山の中腹にある滝から、巨大な龍が現れ、有り難い神様が跨り空を飛んでいったと大騒ぎした。その後、滝壷のあたりにいる黒いウナギが、巨大な黒い龍へと姿を変えるのだと信じた村人によって、黒い龍となるウナギは、今後一切食してはならないという掟ができた。


 ミユウのすぐ上の姉、ミユヒは、その後ほどなくして、村人の一人と結婚した。そして天女の位を降りてしまい、人として、ごく短い生涯を夫とともに精一杯生きた。


 ミユウは、ヒコの着物を再現しようと様々な衣を作ったが、村人が知る、葉っぱや茎を叩いて柔らかくしたものから作る紐を、編み上げて作った着物は、全然手触りが違い、とても渡せる品物ではなかった。

 ヒコが飛び立った後、半月も経たないうちに、ニライカナイで大きな災害が起こり、ヒコは行方知れずになった。ニライカナイから、大勢の人々が、命からがら逃げてきた。避難者がやって来るのと同時に、村の周囲でも、いつまでも止むことのない大雨や、大嵐、大地震など、今まで起きたことのない天変地異が、立て続けに起きた。

 数年後、ニライカナイからようやく戻ってきたヘイロンは、女神と妻へ、大祭の後、何者かが大切な神器を盗み出し、勝手に動かそうとし、大事故が起きたこと、ニライカナイは、そのために、大津波に呑み込まれ、大かたが消えてしまったことを伝えた。イツァムナ大神や、皇子の行方を案じる女神に、ヘイロンは、ニライカナイの神々とは、一切連絡が取れなくなったと伝えた。

 皇子は、天変地異の原因が、神器の暴走により、天界と地上界をつなぐ天の御柱の何本かが折れたことにあると突き止めた。それを修復するため、自ら、月と星が消え、漆黒の闇が滲みだした空へと上がった。それは、天界と地上界をつなぐ御柱が折れたため、滲み出してきた晦冥界かいめいかいへの入口だった。途中まで、ヘイロン自ら、皇子を背に乗せて近づいた。が、晦冥界は凄まじい力で、周囲の物質すべてを、その裡へ取り込んでしまう巨大な渦だった。これ以上は危険だから帰れと命ぜられ、ヘイロンは戻ってきたのだ。皇子は、たったひとり、巨大な渦の中へ呑み込まれていった。それっきり、安否不明のままなのだ。

「ヒコ、いえ、皇子様は、どこへ行ってしまったの。もう、戻っては来られないの」

 天女となったばかりのミユウの前で、ヘイロンは辛そうに首を振った。

「晦冥界は、天界とも地上界ともまったく性質の異なる異界なんだ。あそこへ入り込んだら、たとえ神であっても、無事に通過できるか分からない。何か月も闇夜だけが続いたり、大空に太陽が三つも現れたり、北の大地の大氷河が溶けだして大洪水が起こるのも、たぶん、天の御柱が揺らいでいるせいだ。皇子は、自身の力で、地上が崩壊するのを、必死で喰い止めようとしている。だが、それもうまく行くかどうかは分からない。ニライカナイの者たちも、土地を失い、散り散りになってしまった。親父の住んでいた南海の竜宮も、大地震で倒壊しちまった。一族の仲間も大勢死んでしまった。だから俺は、竜宮の再建のために、南海へ、妻と一緒に戻らなきゃならない。ミユウはどうする。北の大地では、氷が溶けだして、大洪水が起きているそうだ。ここも、どんどん地形が変わってくるに違いない。できれば、もっと大きな陸地に避難した方がいいぞ」

「私は、ここに留まります。だって誓約がありますから、それに、村人たちを護る者がいなければ」

「そうだな、女神様は、ニライカナイの異変で逃げてきた神々や、精霊の受入で忙しくなる。おまえは、ここを護らなきゃならないな」

 ヘイロンは、ミユウの姉である妻とともに、南海の竜宮へ旅立っていった。


 その後、さらに年月が過ぎた。女神となったミユウは、母の神名ミウメを名乗るようになった。ミユウが女神となった頃には、父の東風の神も、母女神も、とうの昔に天界へと去っていた。ニライカナイが失われた後、立て続けに起こった天変地異のため、人間はいにしえの神々への信仰心を失い、わざわいを神々のせいにし、憎むようになった。神々を祀る神殿の多くは打ち捨てられ、神話を伝える者もなくなった。東風の神も、母女神も、祀ってくれる者たちを失い、地上に留まる神力を失ってしまったのだ。


 さらに月日が過ぎたある日、北の方から聞いたこともない大音響が響き渡った。海の底の火の山が、大噴火を起こしたのだ。真っ黒な瘴気を帯びる雲が、何か月にもわたり空に停滞し、雷鳴が響き渡った。島は灰に覆われ、生き物は死に絶えてしまった。生き残った村人は、船で遠くの陸地を目指し、島を捨てて、出て行ってしまった。それでも、ミユウは、誓約を果たそうと、島に留まり続け、ひとり、皇子に捧げる着物を作り続けた。


 さらに月日は過ぎた。それでも、ミユウは、翠の玉と、玻璃の玉の力のお蔭で、地上に留まり続けることができた。

 ミユウは、誰もいない寂しい無人の島で、古の神々を直接知る、地上界で唯一の女神となり、古の出来事を歌いながら、皇子へ捧げる衣を作り続けた。やがて、玻璃の玉は光を失い、濁りを帯び、勾玉となった翠の玉も、かつての鮮やかさがなくなった。その翠の勾玉のひとつに、皇子の面影を移し込み、今はもう枯れてしまい、小さな沼と変わった滝壷の畔に埋め、ミユウは再会を祈った。

 さらに数千年、海が島の中まで入り込み、島の大半は沈んでしまった。もともと一つの島であったのが、海によって二つの島へと別れてしまった。それほどの年月が経るうちに、祀ってくれる者もなく、朽ち果てた御嶽のうちで、ミユウの姿はぼんやりとしたものとなり、輪郭が今にもなくなりそうになっていた。

 そんなある日、ミユウを尋ねてきた者がいた。純白の衣に、海のように真っ青な領巾ひれを纏う貴婦人だった。

「ミユウ、どこにいるの。私を覚えていますか。ヘイロンの妻となったミユネです。いるのなら、出てきておくれ」

「ミユネお姉さま」

「まあ、ミユウ、そなた・・・」

 朽ち果てた御嶽から、ミユウは現れた。が、それはもう、影のようにおぼろな姿となっていた。

「ミユウ、そなたを迎えに来たのです。私の夫であるヘイロン、南海龍王様は、代替わりをなされて、天界へ昇られることを、決意なさったのです。私も、龍王様に従い、天界へ参ります。ミユウ、そなたも一緒に天界へ行きましょう。もう、女神としての務めは、十分すぎるほど、そなたは果たしました。このまま地上に留まれば、そなたは神力を失い、塵芥のように崩れ、なくなってしまいます。私たちと一緒に天界へ参りましょう」

「ありがとう、お姉さま、私の事を覚えていてくれて、本当にありがとう。でも、私は誓約をしたのです。皇子様と再会するまで、ここから離れることはできません」

「ミユウ、皇子様は、南海龍王様も、手を尽くして捜されましたが、何の手がかりもないのですよ。誓約を守りたいという、あなたの気持ちは分かりますが、地上で再び会えることは、ないのかもしれませんよ」

 朧げな輪郭がフルフルと揺れた。ミユウは頭を振ったのだ。

「私は、塵芥となるまで、ここに留まります。だって、皇子様が助けてくださらなかったなら、あの時、私は冥界に囚われ、この世には、もういなかったのです。誓約が果たされず、私の神力が尽きてしまい、塵芥と化そうとも、それは仕方のないことだと、覚悟しています。もともと死んでいたかもしれないのですから、今さらです」

 ミユネは無言で、影のような妹に近寄った。そして、涙目で微笑んだ。

「龍王様は、ミユウの決意を翻意させることは、無理だろうとおっしゃっていましたが、その通りですね。分かりました。では、龍王様から、あなたへと預かってきたものを、受け取ってくださいね」

 ミユネはそう話しながら、衣の袖から青く輝く宝珠を取り出し、自身の領巾でくるんでミユウに渡した。

「お姉さま、これは、龍神の宝珠では…」

「龍王様は、自分も、皇子様に会いたくてたまらないのに、力が尽きそうにおなりで、天界に戻らねばならないことを残念がっておいででした。そして、ミユウの決意が固いのなら、その宝珠の力を使い、地上に、いましばらく留まり、皇子様を待つがよいと、おっしゃっておいででした」

 ミユウは、遥か昔、ぶっきら棒だけれど、本当は、気立ての良い若者だったヘイロンを、懐かしく思い出した。

「ありがとう、ヘイロン」

「ですが、その宝珠の力も、よく持って千年というところです。お願いだから、その宝珠の力を使い果たす前に、天界へ昇っておいでなさい。それから、龍王様は、もし皇子様と再会できたなら、我ら龍王の一族は、子々孫々の代に渡り、皇子様の騎乗龍として、お仕え申し上げると、伝えてほしい、との仰せでした」

 ミユネはそう言い残し、去って行った。


 さらに月日は流れ、宝珠の光が薄れるとともに、ミユウの神力もまた衰え、その姿は薄れていった。塵芥となり散ってしまう日が、またもや、迫りつつあった。


 ある日―その日は、嵐の過ぎた翌日で、晴天だった。

 御嶽から海辺に下りてきたミユウは、首飾りを作ろうと、歌を口ずさみながら、昔のように貝殻を拾おうとした。ところが、貝殻は、ミユウの手をすり抜けていった。

「私、もう、貝殻を拾うこともできなくなってしまった。こんなに体が透けてしまっては、今年は、もう、皇子様に捧げるための着物づくりは、できないかもしれない」

 神力を失い、塵芥となり果て、天界へ還ることもなく、地上界で消え失せてしまうことよりも、皇子様との誓約を果たすための、着物づくりが出来なくなってしまうことの方が、ミユウには、悲しく感じられたのだ。

 自分に残された時間が、あとわずかであることに気が付き、悲しい思いに囚われながら、浜辺を彷徨っていたミユウは、浜辺の向こうに、人が二人、倒れているのを見つけた。

 昨日の嵐によって、岸辺へ打ち上げられた、男女だった。倒れた二人の傍には、粗末なつくりの、丸太を蔦で括った船が、バラバラに砕け、波に洗われていた。

 ミユウは、もう、二人は、溺れて死んでいるのだろうと思いながら、近寄った。ところが、意識を失っているだけで、男女二人は生きていた。

 ごく若く、まだ、あどけなさすら残っている二人だった。女の方が、ミユウの気配に、意識を取り戻した。それが、遠い島から、不婚の誓いを破って逃げてきた、巫女イズミとの出会いだった。

「お願いです、私たちを助けてください。私は、イズミと言います。南の方の島で、巫女となるよう育てられました。でも、幼馴染みのムイと、どうしても、一緒に暮らしたくて、掟を破って逃げ出したんです。ここへ匿ってください。見つかったら、この人は、巫女を犯した大罪人だと、むごたらしく殺されてしまいます」

「イズミ、そなたには、私が見えるのですか」

 海水に濡れて乱れた髪の間から、イズミの両眼は、ミユウの姿をまっすぐ見つめた。

「ええ、私は、不婚の誓いを破ってしまいましたが、それでも、女神さまのお姿が、薄っすらと見えます。私と、ムイを、匿ってくださるのなら、女神さまに、誠心誠意お仕え申し上げます。何なりと、必要な事は、お言いつけください」

 それが、泉家の先祖である、逃げてきた巫女、イズミとの、出会いだった。

 その後、島で暮らすことを許されたイズミは、約束どおり、夫のムイとともに、御嵩を手入れし、周囲の土地を清浄に保つよう気を配った。またイズミは、ミユウを心の底から信仰し、厚く祀った。

 ある時、イズミから、これほど古びた祠となった訳を尋ねられ、ミユウは、皇子様との出会と再会の誓約を成した経緯を話した。

「まあ、お可哀想な女神様、そんなに長い間、その方が戻って来られるのを待っておいでだとは―本当に、お戻りになると信じておられるのですか」

 あまりに長すぎる歳月に、イズミはミユウに同情するやら、呆れるやら、複雑な反応を見せた。だが、それでも女同士、一途に思いつめるミユウの気持ちは、十分理解できるし、共感したのだ。

「分かりました。私とムイを助けてくださった、ほかならぬ女神様の願いです。私も、その誓約が実現するよう協力いたします。ただ、その方がいつ戻ってくるか分かりません。だから、私が死んだあと、後々まで、女神様がその方を安心して待っていられるよう、私の娘の一人にだけ、この話を伝えることをお許しください。それを、代々続けるように言いつけましょう」

 また、実体が薄れてしまい、自らは、着物づくりができなくなったミユウの代わりに、生地つくりと縫製を行い、それを女神のための儀式として、子々孫々に渡り、続けるように取り決めてくれた。

 その後、子孫も増え、また、島の噂を聞いて、はるばるやって来て、泉の者と通婚する者も現れた。その後も、御嶽は清浄さを保たれ、古の村人たちが定めた掟をミユウが伝えると、新しい村人たちも、忠実に守ってくれた。また、大陸から流れついた呉の国の者が、機織りの技術を教えてくれたおかげで、ミユウが、どうしても実現することのできなかった、柔らかく、美しい純白の生地を織れるようになった。毎年、ミユウの為に、真っ白な反物で仕立てた着物が奉納され、それは、長い年月、変わることなく続けられた。

 宝珠の力と、イズミとムイの子孫である、泉家の者たちの信仰の力に支えられ、ミユウは、女神として、ひっそりと、地上に留まり続けた。しかし、近年、泉家の者たちは次々に島を去り、宝珠の力も失われ、ミユウは、再び神力を失い、塵芥と化す危機が近づいていた。けれど、それでもなお、皇子に再会し、誓約を果たしたい、という思いだけを支えに、地上に留まり続けていたのだ。


 台風は夜の間に北上していったが、吹き返しが強く、唸りを上げる風音がうるさく響いた。普段は早起きが苦手な顕だが、まだ薄暗い時間帯に、はっと目覚めた。何か得体の知れない胸騒ぎを感じ、横で、高いびきで眠る学を起こさないように起き上がると、シャツを着、ズボンをはき、障子をあけて廊下へ出た。そのまま玄関へ行き、靴を履くと、傘も差さずに海岸へ向かった。

 船が引き上げられた護岸には、先客がいた。白髪を三つ編みに編んだ小柄な姿は、おばば様だ。おばば様は、漁船の間から、他の船に比べたら玩具に見える小舟の縄を解き、海へ押し出そうとしていた。

「おばば様、何をなさっているんです」

「ワッ、驚いた。学生さんかい。暗いから、誰か分からんかった」

 風音が大きいので、おばば様は声を張り上げた。

「まだ、風が強いのに、船なんか出して、どうするつもりなんですか」

「どうするも、こうするも、御嶽の様子を見に帰るんじゃ。昨日の台風は物凄かったからの。御嶽へ戻って、壊れたところを調べて、水神女様をお守りせにゃならん」

 そう言いながらも、おばば様は高齢とは思えない力強さで、小船をズズッと押して、浜へ移動させ続けた。

「森船長に送ってもらった方がいいですよ。そんな小舟では、危険すぎます」

 船べりに手をかけ、顕は止めようとした。しかし、おばば様は、船をそのままさらに押し、海へ続くコンクリート製のスロープへ移動させようとした。

「小っちゃいがモーターだってついてるし、丈夫なグラスファイバー製だよ。心配いらん。もうすぐ凪ぎになる時間帯なんじゃ。心配いらん」

 顕は、坂道を必死で駆け戻り、森船長を呼びに戻った。早起きの森船長はもう起きて、宿の外へ出て、空模様を気にしていた。そこへ、顕が物凄い勢いで走ってきて叫んだ。

「森船長、早く来て止めて下さい。おばば様が、小さな船を出して、帰ろうとしてます」

 それを聞くや、森船長は目を剥き、坂を駆け下りた。

「まったく、おばば様は無茶をしなさる。よく知らせてくれたよ」

 顕と並走しながら、森船長は叫んだ。顕はうなずくと加速し、おばば様のもとへ急いだ。おばば様は、もう船をスロープから海へ降ろしてしまい、乗り込んでモーターを始動させようとしていた。

「おおい、顕君、おばば様を引き留めてくれ、わしの船は、おかに上げちまったから、降ろさなきゃならん」

「分かりました。船長」

 顕は、ふり返ることなく大声で返事し、そのまま、おばば様の小舟目指してまっしぐらに浜を駆け下った。が、おばば様はモーターを始動させてしまった。小舟はするすると海の上を進み始めた。

「おばば様、ダメです。待って」

 顕は、濡れるのも厭わず、スロープから海中へ泳ぎ出し、おばば様の船の縁をつかんだ。

「何をしておいでだ。上がっておいで」

 おばば様は、顕の腕をつかみ、船へ上がらせた。

 海上を進み始めた船を止めるのは、人力では無理だ。顕は仕方なく、船へ体を引き上げた。

「ちょうどよかった。この船は定員四名なんじゃ。あんた、後ろの席へ座ってなされ。ついでだから、水神女様にお参りし、挨拶しなされ」

 おばば様は呑気に言いながら、船を操縦した。

 顕は、ずぶ濡れのまま、操縦席に座るおばば様の方へ、身を乗り出した。

「おばば様、まだ吹き返しの風が強くて、海は荒れているんですよ。危ないから引き返してください。波の高い海を渡るには、この船は小さすぎます」

「生意気なことを、おか育ちが言うものじゃない。わしは、この船を操縦して、水神女島と御津三島を何十年もの間、往復してきたんじゃ。こんなしけぐらい、平気さね」

 おばば様が怒鳴るように喋る間にも、大波が押し寄せてきて、船は、風に舞う木の葉のような状態で、辛うじて進んでいった。おばば様は、巧みな操縦で、海水を被らないように大波を抜け、船は水神女島に接近した。が、その時、辺りを圧する雷鳴と凄まじい横風が襲い、船は海から宙を舞い、真っ逆さまに落ちた。そこへ高波が押し寄せ、船は横倒しとなり、おばば様と顕は、海へ投げ出された。

 顕は、船が横転した時に頭を船べりに強くぶつけてしまった。頭から血を流しながら、顕は投げ出された海中から浮上し、おばば様を捜した。顕の周囲に、おばば様は見当たらない。顕は、再び海中へ潜り、おばば様を捜した。

 おばば様は、海中で気絶していた。顕は、おばば様の脇の下に腕を差し入れ、そのまま浮上した。頭の傷は、水圧で激しく出血し、ズキズキと傷んだ。それでも、おばば様を離さず、何とか海上へ頭を出した。

(そうだ、ミユウだ。私は、ミユウを、頭から血を流したミユウを見つけたのだ)

 突如、脳裏に古の記憶が甦り、ジャガー大神は、自身が何者であったのかと、ミユウが何者であったのかを、鮮やかに思い出した。頭を負傷したショックで、大昔の記憶を隔ててしまった、時間の壁を飛び越えたのだ。

 それは、闇の中に封印され、分厚い時間の地層の中に埋もれていた古の神の記憶が、皇子を深く信じるミユウの思いによって、ついに解き放たれた瞬間だった。

「ミユウ、そなた、私を待って、ずっと地上に留まっていたのか・・・何ということだ。早く、そなたを天界へ帰してやらねば―」

「待って、皇子様、ミユウをまだ天界へ帰さないで、皇子様にお渡しするものがあるのです」

「ミユウ」

 おばば様の声がミユウの声に変わっていた。年老いたおばば様の顔に、ミユウの顔、大神の記憶の中に残る、ミユウの幼い顔が重なった。

「嬉しい、皇子様は、私の事を思い出してくださったのですね。本当に嬉しい」

「ミユウ、済まない。誓約をしたのに、こんなに長く待たせてしまい、本当に済まない」

「いつか、皇子様は、誓約を果たすために、戻っておいでになると、信じておりました。だから、謝ることなんかありません。皇子様は、誓約を果たすために戻ってきてくださった。ただ、それだけでよいのです。皇子様に会いたい、それだけが、私の望みだったのです」

 ミユウの声を聞きながら、しかし頭を強く打ったのと、出血のため、顕の意識は遠のき始めた。脆弱な人の体にいる皇子は、意識を保てなくなった。それでも、おばば様の体を決して離さずに、海上を漂った。

「ああ、あそこだ。あそこにいる。早く、船を近づけてくれ」

 後から追ってきた森船長が二人を見つけ、助っ人を頼んだ丈三たけぞうさんと一緒に引き上げてくれた。


「・・・・・・」

 意識がまだはっきりしない状態で、顕は、ぼんやりと目を開けた。網代模様の天井が目に入った。まだ痛む頭に手をやると、包帯に触った。誰かが、応急手当をしてくれたようだ。少しずつ意識がはっきりして、今朝からの出来事を思い出し、ミユウはどうしたのかと気になり、上半身を起こした。濡れた衣服は脱がされていて、純白のさらさらした着物を着せられていた。顕は、その生地を撫でると、肌障りが良く、微かにミユウの気配を感じた。

「皇子様、お気がつかれましたか」

 顕は、声の主へ視線を向けた。寝かされていた布団の脇に、おばば様が、ちんまり座っていた。が、その声は、やはり、ミユウのものだった。

「ミユウ、そなた、いや、おばば様は無事だったのか」

「ええ、大丈夫です。皇子様が、意識を失われても、おばば様の顔を、海面から上げていてくださったので、この通り元気です」

「やれやれ…無茶をするから、飛んでもない目にあったよ」

 ミユウは、微笑んだ。

「また、皇子様に命を助けていただきました。ミユウは、皇子様に迷惑ばかりかけています。ごめんなさい」

 顕は、真顔で、年老いたおばば様を通してミユウを見た。

「謝るのは、こちらの方だよ。そなたの事を、あまりにも長い年月が過ぎたために忘れていた。本当に済まない。ところで、この着物は、もしかして、ミユウが作ったのかい」

「ええ、そうなんです。そっくり同じものではありませんが、皇子様の御召し物に近いものを作ろうと、ずっと色々作ってきたんです」

「よくできているよ。長い年月、女神としての務めも果たし、本当によく頑張ったね」

 ミユウは、うなずいた。誓約はついに果たされたのだ。

 顕は、ミユウへ手を伸ばし、その額に触れた。せっかく再会できたのだから、古の日々を懐かしみ、ミユウとともに過ごしたいと、皇子自身も思っていた。しかし、地上で過ごした時間が、あまりにも長いミユウの神体は、今にも消えてしまいそうなほどにはかない。まして誓約を果たした今、ミユウを、地上に、形あるものとして留める力もなくなっていた。直ちに、天界へ昇らせる必要があった。ただ、問題は、ミユウ自身に、その力が残っていないことと、人の体の中でひっそり過ごす身なのに、自分ひとりの神力で、それができるかだった。

「皇子様、私は、もう、塵となって消えてしまっても構いはしません。ですから、どうか、ご自身のお体の回復に力をお使いください」

「何を言うんだ。そなたを、このまま散らしてしまっては、そなたの母上、父上、それに、そなたの姉たちや、かつての村ひとたちに、申し訳がたたない。誓約をなしておきながら、長きに渡り、そなたの事を忘れてしまった私の責任だ。何としてでも、ミユウ、そなたを、天界へ昇らせてみせる。それに、どうせ人間の体は、怪我がすぐに治るようにはできていないのだから、気にすることはない。そなたに、私の力を少しだけ分けるから、それで天界へ上がりなさい」

「皇子様・・・」

 顕は、ミユウに近寄り、額のあたりにそっと手を当てた。ミユウを不安にさせないように、少しだけと答えたが、顕は、水神女島と御津三島の地脈を探し当て、そこからの力と、自身の力をあわせて、与えうる限りの力をミユウへ与えようとした。地脈から溢れ出すエネルギーは、一瞬大地を鳴動させ、地鳴りが起こった。

「皇子さまは、天界へは戻らないのですか」

「私は、色々事情があって、天界へはまだ戻ることができないのだ。地上へ戻ってきてからも色々あってね。要するに当面は無理だな」

 顕が触れる指先から、光が泉のように溢れ出た。それは、ミユウの全身を包み込み、まばゆく輝いた。ミユウの神力は再び強まり、実体化が始まった。一方、顕の中の皇子は、もろい人間の肉体の中で、懸命にミユウへ神力を与え続けた。ミユウが神力を得、女神としての姿を取り戻せるようにと、与えうる限りの神力を、自身が器とする肉体が傷み、苦痛が増すのも構わず、送り続けた。

 ついに、ミユウは、おばば様から離れ、美しい女神の姿となって現れた。鏡のような艶を放つ漆黒の髪、ぬけるような真珠色の肌、気高い神秘の光を纏う、一柱の女神となって現れた。

「ウワッ、ミユウ、すっかり女神らしくなっていたんだね」

 顕は、ミユウの美しく、気高さに満ちた姿に瞠目し、感嘆の声を上げた。

「女神となるように、神託を授けてくださった皇子様に、この姿を見ていただけて、私は、本当に幸せです。皇子様を地上界に残して、天界へ昇るのは、悲しいし、残念でなりません。いつか必ず、天界へ戻ってきてくださいね」

 顕は、立ち上がると、障子を開け放ち、外へ降り立った。そして、ミユウとともに、御嶽まで歩いていった。

 ミユウは、名残り惜し気に、御嶽を見回した。御嶽は、あの頃と同じ場所、もとは、村の北の外れであった広場の、泉の畔にあった。ただ、女神の御座所であった神殿はとうになくなり、石を積んだ、小さな祠があるだけだった。

「皇子様、ここは、母女神さまの御座所のあった、村の広場なのです。覚えておいでですか」

「ああ、この辺りは、面影が残っているね。あの日、女神は、傷ついたそなたを横たえ、広場を、ご自分の神力で清め、白い花を一面に咲かせたのだ」

「私が、ここを去れば、御嶽もなくなってしまうでしょう」

「悲しいのかい、ミユウ」

「いいえ、悲しくはありません。ですが、長い時間、ここで過ごして来たので、ここから去ってしまうとなると寂しいのです。けれど、ヒコと名乗られていた皇子様に、再びお目にかかれた喜びは、何物にも勝るものです。寂しさなど厭いません。皇子様と再会し、誓約を果たして、私には、もう、何も思い残すことはございません。

 あら、そうだ、忘れるところでした。ヘイロンからの伝言をお伝えします。『我ら龍王の一族は、子々孫々の代に渡り、皇子の騎乗龍としてお仕え申し上げる』とのことです。それから、これは、もう力を使い果たして空の器となってしまいましたが、ヘイロン、南海龍王様からの賜り物です。皇子様が、お持ちになっていてください」

 ミユウは、首から下げた守り袋から宝珠を取り出し、袋と一緒に顕へ渡した。手渡された顕は、宝珠を手の平に乗せ微笑んだ。

「本当だ。微かに、ヘイロンの気配が残っている。南海龍王になっていたんだね。懐かしいな」

「南海龍王さまも、随分昔に、天界へ昇ってしまわれました。皇子さまは、地上界では、お一人になってしまわれますね」

 ミユウは、孤独な皇子の身を案じた。

「今は、私自身が誓約をなした身で、地上に留まらねばならない。まあ、当面は、人として暮らしていくつもりだよ」

 ミユウは、華奢な腕を差し出し、顕の手をそっと握った。

「お名残惜しゅうございますが、皇子様、お別れです」

「さよなら、ミユウ、元気でな」

 ミユウは、ふわりと地上から浮き上がるや空高く昇り、光となって消えて行った。


「・・・行ってしまったか」

 ミユウを見送った顕は、胸の奥底がチリリと痛んだ。が、直後に、現実的な頭痛に襲われた。皇子つまり顕は、ズキズキする頭の痛みと、膨大な神力を放出したことが原因の、極度の疲労感に耐えながら、たったひとりトボトボと坂を下り、おばば様の家へ戻った。戻る途中で、さっきの女神の実体化と昇天を、輝く光と地鳴りに感じて騒いでいた森船長と、その助っ人の、丈三さんの記憶を、ただの吹き返しで起きた家鳴りの記憶に改ざんまでしたので、ますます疲れてしまった。


「顕君、頭をケガしているのに、歩き回っちゃいかん。早く、寝てなさい」

 森船長が、御嶽から、ヨロヨロした足取りで戻ってきた顕をみつけ、駆け寄った。眠りこけるおばば様ひとりを置き去りにして、顕がいなくなったので、慌てて捜していたのだ。

「ご心配おかけして、すみません。ちょっと御嶽を見てみたかったもので」

「やれやれ、それだけ元気があるなら大丈夫だろうが、頭を打ったんだから、無理しては駄目だ」

 顕は、おばば様の家を見回した。瓦を白い漆喰で固定した、南国ふうの造りの丈夫そうな平屋だ。御嶽と同じように、台風のせいで一部倒れた庭木もあったが、それでも小綺麗に手入れをされた家だった。

「おばば様に、ケガはありませんでしたか」

「おばば様は、ピンピンしてるよ。顕君の方こそ、おばば様を抱えたまま、危うく溺れるところだったんだ。わしと、丈三で、あんたら二人を、船に引き上げたのはいいが、風が強くて、水神女島の方へ流されてしまったんだ。それで、おばば様の家にあんたらを運んだんだ。昼過ぎには、吹き返しも収まるだろうから、御津三島へ戻れるよ。頭痛いんじゃないのかい。顔色が悪いよ」

 顕は、ミユウを送り出すのに力を使い過ぎてしまい、疲れ果てていた。ミユウには少しだけと言ったものの、ミユウ自身に神力が残っていない状態で、女神一柱を天界へ昇らせるとなると、それはもう凄まじい神力が必要だった。地脈の力も借りたとはいえ、ロケットをたったひとりで、月めがけて打ち上げ、なおかつ地球へ戻すくらい無謀な事だった。

「そうですね。色々あり過ぎて、疲れました。しばらく、横にならせてもらいます」

 本当に具合の悪そうな、力の抜けた調子で、顕は、森船長へ返事した。

 そこへ、縁側から、おばば様が声をかけた。

「あれ、学生さん、あんた、御嶽へお参りへ行ってくれたのかい。そりゃ、ご苦労様だったね」

「おばば様、おはようございます。溺れなくてよかったですね」

 顕の言葉に、おばば様はきまり悪気に笑った。

「あんたが助けてくれたお蔭で、船御霊ふなみたまにならずにすんだよ」

「おばば様みたいな、おっそろしい船霊ふなだま様は要らねえです」

 森船長が心底迷惑そうにつぶやいた。が、その声を無視し、おばば様は、顕へ近寄った。

「その着物、よく似合ってなさる。わしのお礼の気持ちじゃ、持って帰りなされ」

「えっ、いいんですか。こんな、上等なものをいただいて」

 おばば様は、穏やかに微笑んでうなずいた。

「それは、この島に自生する、珍しい植物の繊維で織った反物から仕立てた着物なんじゃ。毎年、代々の守り人が、水神女様に捧げるために作っておるのじゃ。だが、わしの代で終わりじゃ。もう、わしも年を取って、糸をつむいだり、生地を織るのが辛くなってきた。本当なら、最後の品として、御嶽に納める品ものじゃった。けれど、それは、あんたにあげることにしよう。あんたは、なぜか、水神女様に大層気に入られていらっしゃる。危うく溺れるところを助かったのは、恐らく、水神女様の加護があったからに違いない。だから、その着物は、水神女様から、あんたへの贈り物じゃ。大切にしておくれ」

 顕と森船長は顔を見合わせた。森船長は、黙ったまま、顕へうなずいた。

「ありがとう、おばば様、ありがたく頂戴します。大切にします」

 その後、昼寝をさせてもらい、おばば様に見送られ、森船長と、助っ人してくれた丈三さんとともに、顕は、水神女島を後にした。

 

 それから、数日後。

 顕は、京都へ戻っていた。

 二週間の予定だった発掘調査だが、台風のために崖崩れが発生し、発掘現場は、海中へ崩れ落ちてしまった。そのため、調査は打ち切りとなり、学と顕は、予定の半分のバイト代を手に島を出た。

 美佐江は、去年に引き続き、トラブルに見舞われた顕に呆れるやら、怪我をしたことに驚いたり、怒ったり、大変だった。

「まったく、どうして顕ちゃんったら、ただのバイトで、そんなトラブルに巻き込まれるの。島だから安全だと思っていたのに、額の横に八針も縫うケガをするなんて、もう、学くんの勧めるバイトは、絶対にやめて頂戴」

 鹿児島に到着してから松原先生に付き添われ、診療所を受診した顕は、神力の不足で治りきらない頭の切り傷を、縫ってもらったのだ。

「はい、御免なさい。今度から、バイト先はよく考えて選びます」

 氷河期が終わる頃に交わした誓約を果たすために、水神女島へ呼ばれたからなんです、なんて、話す訳にもいかない。額の横にガーゼをはりつけた顕は、美佐江に平謝りするしかなかった。


 まだ、他にも厄介な事があった。迦陵頻伽だ。

 久しぶりに見かけた顕をめがけ、空から急降下した迦陵頻伽は、柳眉を逆立てて、いきなり詰問した。

「この浮気者、どこで女とねんごろになったのよ。それに、龍臭い、龍の匂いがプンプンするわ。どういう事、浦島太郎ごっこでもしてきたの」

 顕は、迦陵頻伽の勘の鋭さに戦慄した。

「浮気者って、何だよ、島へ行って、発掘調査を手伝っただけだよ。女っ気なんか全然ない島だよ。何言ってるんだ」

 そんな抗議は、迦陵頻伽に通用するはずがない。

「違う、その女じゃない。私が言ってるのは、天女とか、女神よ。あんた、絶対どっかで、女神にお手付きされたでしょ」

「お手付きって、そっちこそ何だよ。それ、訳わかんないぞ」

「キイィーッ、坊うは、私のお手付きなのに、勝手に唾つけるなんて許せない。一体どこの野良女神のらめがみよ」

 げに凄まじきは女の嫉妬。だが、実際には、かれこれ一万年近く前からの先約者だ。迦陵頻伽には勝ち目がない。が、もちろん、そんな事を教える義理もない。

「これから、律子さんのところへ行くから、急いでるんだ。その話は、また今度な」

 と言い、お土産の入った大きな紙袋を抱え直すや、迦陵頻伽を置き去りに、一目散で逃げ出した。


 迦陵頻伽からは逃げ出せたものの、最大の難関は、やはり律子さんだった。

 家へ上げてもらった顕は、紙袋の中から、遠慮がちに「お土産です」と言いながら、軽羹と、御津三島の焼酎と干物を取り出した。

 律子さんは、そんな顕を正座したまま、難しい顔つきで見つめていた。

「その左側の頭の傷、随分治りが遅いじゃありませんか、それに、神気の循環が、物凄く悪くなっておいでだわ。一体、何をなさっておいでだったの」

「・・・・・」

 律子さんの鋭い目は誤魔化せない。神力を使わないと約束しているのに、またしても、それもかなりの神力を使ってしまったのが、バレバレなのだ。

「顕さん、どうせ、あなたの事だから、何か事情があって、やむを得ずなさったのでしょう。怒ったりしませんから、話して頂戴。それに、あなた、元気がなさすぎですよ。辛いことがあったのなら、話しておしまいなさい。でないと、滞ってしまった神気の循環が直りませんからね」

 顕は、小さくため息をついた。そして、御津三島と水神女島での出来事を、律子さんに話した。

 その話をするうちに、日が暮れてしまった。律子さんは、灯りをつけた。

 ジャガー大神が、水神女神を、自分独りの力で天へ昇らせたと聞くや、律子さんの顔色が変わった。

「顕さん、あなたひとりで、水神女神を天上界へ上げておしまいになったの。彼女には、もう神力はなかったのでしょう。そんな無茶な事を、よくもまあ、・・・」

 少々の事には動じることのない律子さんも、顕の無謀すぎる行いには、驚き呆れて言葉が途切れてしまった。

「いえ、まあ、あのあたりは、火山島だらけなので、地脈の力も使って、何とか、昇らせることができました」

 顕が、水神女神が、別れを告げ、天へ上ったと話し終えると、律子さんは居住まいを正し、顕へ、深く拝礼した。

「律子さん、やめてください」

 律子さんの思いがけない所作に、顕は慌てて制止した。が、律子さんは、頭をしばらく下げ、ゆっくり面を上げて、顕をまっすぐ見つめた。

「いいえ、皇子様、『始原の光』を見た時、もしや、とは思いました。我々、高天原の一族にも、あなた様の伝説はいくつか伝わっているのです。ですが、あまりに幼いお姿でいらっしゃったので、確かめることは控えておりました。『日の皇子』と呼ばれた皇子様ご自身にお目にかかれる日が来ようとは、私も、女神冥利につきます」

「そんなに仰々しくされては、困ります。私は、水神女と出会った頃の事は思い出すことができましたが、それ以外の事は、まあ、さっぱり分からないことだらけです。それにどうも、元の神体を失くしてしまったらしい。だから、あなた方が伝えていらっしゃるようなものとは、ほど遠い存在ですよ」

 顕に向ける律子さんの眼差しは、本当に優しく、暖かだった。

「いいえ、皇子様、よくぞお戻りになられました。水神女様は、あなた様を、地上界へたったお一人で残して置かれることが、さぞ、心残りでいらっしゃったことであろうと推察いたします。ですが、皇子様、どうぞ、心を安らかに、この日の本の国でお過ごしください。私も、ご老神、それだけでなく京の都の神たちは、あなたを見守っております。ですから、元気を取り戻してください」

「律子さん…」

 顕は、言葉に詰まった。が一方で、体の中に暖かいものがじわじわと広がっていき、水神女神ミユウを見送った後、滞っていた神気が、再び、力強く循環し始めたのを感じた。顕の中の変化を感じ取った律子さんは、微笑みながらうなずいた。

「ありがとう、律子さん」

 顕も微笑んで、律子さんに礼を言った。

 その日のうちに、頭の傷はすっかり治り、翌日には、近所の外科病院で抜糸してもらった。


 迦陵頻伽は、何があったのかを突き止めようと、数日間、顕にうるさく付きまとった。だが、顕は、何のことだか分からないと、とぼけ通した。


 水神女神から頂戴した着物は、律子さんが預かってくれる事になった。ただ、空の宝珠は、顕自身が、南海龍王ヘイロンをしのぶため、自分自身のお守り代わりに持つことにした。

 真夜中、顕は、宝珠を握りしめ、二階の窓から身を乗り出し、中天高く満月が輝く夜空を見上げた。そして、ヘイロンの黒く輝く龍体が天翔けていき、その背に騎乗し、自由自在に地上界を移動した頃のことを、ひっそりと懐かしむのだった。




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神はナワールを巡り行く なのき @n-n8n-n

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