指切り

 顕は小学四年生になった。

 宗圓が理事を務める学園は、中学部からで、小学部の設置はない。そのため、近所の公立小学校に通学していた。

 中身は、中南米の国グアテマラからやって来たジャガー大神とはいえ、外見は小柄で、愛くるしい男の子である。立居振舞だって、子どもらしい様がすっかり身についていた。だから、小学校生活は、何の問題もなく、平穏に過ぎるはずだった。ところが、ジャガー大神の楽観的な予想は、見事に外れた。顕にとっては、気苦労の種が尽きることのない毎日だった。


 律子さんは、日の本の神の総元締めである、高天原会たかまがはらかいという組織の婦人部長を務める、大変偉い女神様だった。初めての出会いで、ご老神とともに、ジャガー大神が日本へ来ることになった経緯を聴き、律子さんは、ジャガー大神の立場に、すっかり同情してしまった。律子さんは、ジャガー大神が、人間として暮らしていけるように、ご老神とともに、力を貸すことを決心した。そして、京都市内に、日露戦争後に閉ざしていた屋敷を復活させ、珠算塾と書道教室を開き、生徒として顕を通わせながら、日の本の神様の事や、神様同士の付き合い方について、色々とレクチャーしてくれるようになった。そこまでは良かったのだが、日の本の神様界では超有名神である律子さん、日露戦争後は、人間界との交わりを、きっぱりと断っていた律子さんが、直々にお出ましになり、教育を授けている人間の子どもがいる、あれは何者だと、たちどころに、京都の街中の、あらゆる神々から、精霊、魑魅魍魎の類が、顕に注目し始めた。何しろ、京都は、江戸時代の終わりまで、日本の都であり、神社仏閣、また、辻やら、橋のたもとやら、至るところに、神様が祀られているのだ。その町中の神様や、仏様やら、眷属、諸々に、噂が広がってしまったのだから、大変なことになってしまった。普通の人には見えなくても、顕の視界は、寺の敷地から一歩出るや、ハロウィーン装束で交差点に群がる群衆か、はたまたコミケ会場一番乗りを目指して並ぶオタクのごとく、群がり集まる神様やら他諸々の姿が見え、声が聞こえるのだ。

「あれが、律子さんが見込んだという、子どもかいな。えらい、可愛らしい坊やないか」

「ほんま、可愛らしいお子ですなあ」

 好意的な反応ばかりならよいのだが、脅かしてやれと、大口開けて襲い掛かってくるものまで現れる始末だ。

「こらあ、小さき子どもに何という事を仕掛けますのや。やめなはれ」

 大口開けた行灯お化けめがけて、草履の神様が、草履をハッシと投げつけた。さらに憤慨した地蔵さまが、石頭でもって、行灯お化けに頭突きを見舞った。たちまち、無政府状態となり、大騒ぎが始まった。が、顕は関わりにならないよう、大きなランドセルを背負い、身を屈めて、学校へと小走りに急いだ。こんな事が、登下校のたび、ほぼ毎日起こった。

 幸いにも、宗圓が住職を務める厳龍寺は、禅寺だけあって、ご本尊の仏像は、顕の事は、あるがままに受け入れてくれた。

 帰宅した顕が、濡れ縁ごしに、線香の香り漂う、薄暗い本堂の中をのぞくと、本尊である観音菩薩は、顕を薄目ごしにちらりと認めた。が、表情を崩すことなく、ただ一言「坊、お帰り」と声をかけてくれるのだ。ご本尊が、寛大で、クールな態度で接してくれるのが、顕には本当に救いとなっていた。寺の中では、顕は、程よい無関心さの中で、くつろぐことができたのだ。そうでなければ、ジャガー大神には、こんな毎日の騒ぎは、耐えられなかっただろう。

 常人からは見えないとはいえ、これほど大勢の神様やら魑魅魍魎やらが、ガヤガヤと集まり騒ぎ、早朝から夕方まで、百鬼夜行ならぬ百鬼ひねもす入り浸り状態で、異様な雰囲気があたりに満ちていた。その気配に驚き、散歩中の犬が狂ったように走り出し、自転車の前に飛び出し、あわや事故寸前になったり、魑魅魍魎が暴れた為に、庭木の枝が折れ、それが道路に落下したりと、随分物騒な事も起きていた。

 ジャガー大神は、小学校に入ってから日も浅いある日、書道教室でお稽古の後に、慎重に言葉を選び、気を悪くさせないよう、寺の前での騒ぎが、何とかできないものかと、律子さんに相談した。

「見守っていただいているのは、本当にありがたい事だとは思っているのです。けれど、あまりに大勢が集まりすぎて、神威の風も吹き荒れてしまい、常人が影響を受けて、今にけが人が出はしないかと、それが心配なのです」

 律子さんは、頤に人差し指をあて、眉をひそめた。

「まあ、よく知らせてくれたわ。そのような事になっているとは、思ってもみませんでした。確かに、一般の人々に影響が出るようでは、何とかしなくてはいけないわね」

 律子さんは、一寸思案した後、両手をパンと打ち合わせた。

「そうだわ、回状を出しましょう。あなたの事を、遠い異国から来た、お客神だと紹介して、身元引受人は私です、と添え書きいたしましょう。ねっ、そういたしましょう」

 律子さんは、いい考えでしょうと、顕の方を見、同意を求めた。が、顕は浮かない表情だった。

「どうしたの。それではご不満なの」

「いえ、そうじゃありません。ただ、私が神だって事は、できるだけご内密にしていただけたらと―」

「あら、私が身元引受人なんですから、何にも心配いりませんよ。大手を振って出歩いて、いいんですよ」

「それは、本当に感謝いたします。ですが、律子さんもご存知の通り、私は、体をなくしてしまってますから、神だなんて言っても、なかなか信じてもらえないでしょうから。もう、人間の子どもって事に、しておいて頂いた方が、気楽に過ごせます」

「そうだったわねえ。あなた、ご神体がどこかに行ってしまっていたわねえ」

 神が地上の世界で顕現するとき、実体化する形がある。律子さんや、ご老神の姿は、地上界で実体化した時の仮の姿だ。ところが、ジャガー大神は、人の夢の中でこそ、黒いジャガーとなって現れることができるが、実体化した姿である神体を持たない神だった。というか、いつの間に無くしたのか、もとはあったはずの神体が、行方不明なのだ。

 ジャガー大神は、顕の体内に入る前は、セノーテの水底深くにひっそりと暮らし、たまに、岸辺に水を飲みに来たジャガーに取りつき、辺りを巡回するのが日課という単調な生活を送っていたのだ。神体がなくとも、不自由することもなく、気にすることもなかったのだ。それに、セノーテで眠りにつく以前の記憶は、ひどく曖昧なものだった。自分の神体を、どこで失くしてしまったのかも、日本に来て数年たつというのに、未だに思い出せないままであった。

「そうね、それでは、こう致しましょう。あなたは、私の所で、修業中の見鬼けんきということにしましょう。そうして、他人に迷惑がかかるので、あなたには、付きまとわないようにと、皆へ宛てた、注意書きを入れておきましょう」

「ありがとうございます。でも、ケンキって何ですか」

 初めて聞いた言葉なので、顕は、律子さんに意味を尋ねた。律子さんは、袂で口元を覆い、クックッと笑った。

「わたくし達の姿が見える者が、古来より、人の中にはいるのです。そのような能力を持つ者を、見鬼と呼ぶのですよ。あなたのおっしゃる通り、異国の神だなんて紹介しようものなら、力比べしようという、不届き者も現れましょうから、見鬼という事にしておくのが、ようございましょうねえ」


 回状の効果と、そして、珍しいものであっても、時が過ぎれば飽きられてしまうのは、人間の世界も神の世界でも同じこと、一年生から二年生へと学年が上がる頃には、寺の周囲で、顕を待ち受ける者も少なくなっていた。が、それでも、四年生となった今でも、体育の授業中、顕めがけて飛んできたドッジボールが、突然失速し、反対方向に転がったりと、不思議な事は、いまだに起きていた。律子さんの回状にも関わらず、相変わらず、顕に付きまとうものが、まだ残っているのだ。そして、困った事に、同じ学年の中にも、顕のことに興味を持つ者が現れた。


 ある日、下校途中の顕は、葉桜へと装いをかえた、桜林の見える、平野神社の横手の道を歩いていた。すると、後ろから、いきなりランドセルをぐいと押し下げられ、顕は、たまらず、尻もちをついてしまった。

「何するんだっ・・・なんだ、麿か」

 尻もちをついたまま、顕は犯人を見上げた。すると、クラスメートの北小路きたこうじ まなぶが、にやりと笑い、のぞき込んできた。戦隊ヒーローもののキャラクタープリント入りのシャツに、紺の半ズボン姿で、うりざね顔に、面相筆でさっと描いたような眉と目の少年だ。笑うと、その細い目が、ますます細くなり、キツネ顔が強調された。背がひょろりとして、表情の乏しいのっぺりとした顔立ちのため、『麿まろ』とあだ名がついていた。

「今日のさあ、あのボール、けったいな転がり方したなあ。あれ、何なん?俺、おまえ狙うて、思いっきり投げたのに、何で、あんな反対の方向へ、ヘナヘナ転がってしまうねん。おかしいやん」

 顕の顔を見下ろして、学は、陰険にネチネチと追及してきた。

(また、鬱陶しい奴に出くわしてしまった)

 顕は、ハアッと盛大にため息をつきたい気分だった。好奇心があり余り、元気一杯の子どもと付き合うのは、ジャガー大神には非常な試練だった。気に食わないからと、神力を発揮して、追い払ってしまうわけにもいかないのだ。さらに厄介なことに、子どもというのは、異質な存在には、実に、敏感に反応するのだ。どれほど用心深く、子どもらしく振舞おうとも、大人の目は誤魔化せても、子どもの目を誤魔化すことは、難しいのだ。

 そこで顕は、その対策として、学校では、できるだけ本を読み、休憩時間は、ひとりで過ごすようにしていた。

 一年生の時には、担任の先生から、皆と遊ぶように促されたりもした。しかし、家庭訪問の場で、海外で事件に巻き込まれていた話など、住職夫婦から聞かされた担任は、顕がひとりでいたがる理由に納得すると、黙認するようになった。

 今では、休み時間に顕がひとりで何をしていようと、教師は誰も干渉しなくなった。また、他の子らも、顕はひとりでいるのが好きなのだろうと、構わなくなっていた。ところが、クラスメートの中で、ただ一人、「麿」こと北小路 学だけは、顕の皆と異なる点が、どうしてなのかと、しつこく追及し続けていた。顕は、学とは関わらないように避けているのだが、学の方は、お構いなしに、顕に付きまとっていた。

「坊う、こいつ、締めてやろうか。鬱陶しいだろう」

 物騒なもの言いだが、鈴を転がすような美声だ。学には聞こえない声が、顕には聞こえた。これが、また、目下の頭痛の種だった。

「締めるなんて、やめてくれ。これ以上、面倒事はごめんだ。痛っ」

 学が、顕の頭をペシッっと平手で叩いた。

「俺が喋ってんのに、何、ぶつぶつ独り言いうてんねん」

 学は、キツネ目を吊り上げ、顕を睨みつけた。

 顕にしか見えない、黄金色のオーラを放つ、玉虫色に輝く五色の翼を広げる、上半身裸の美女が髪を逆立て、憤慨した。その下半身は、五色に輝く羽毛に覆われ、猛禽の鋭い鉤爪つきの鳥の足、尾羽は、鳳凰のように長い飾り羽が、ふさふさとメタリックに輝き、実に豪奢だ。

「このガキ、坊うに手ェ出すなんて、許さんで。やっちまいな」

 美女が右腕もろとも翼をバサッと動かし、合図した。顕は、制止しようと叫んだ。

「ダメだっ、やめてくれ」

「カー、姉御の命令だ。皆の者、やっちまえ」

 顕の制止も空しく、電線に止まり、待機していたカラスたちは、姉御の命令一下、学めがけて襲い掛かった。

「ワア、なんや、このカラス、あっち行け」

 学は、給食袋を振り回し、カラスを追い払おうとした。

 顕の前で、翼を持つ、エキゾチックな顔立ちの美女、迦陵頻伽かりょうびんがが得意げに仁王立ちし、その様子を見守った。

「坊うにチョッかい出す奴は、あたしが許さないよ」

 彼女は、厳龍寺の近所にある、金剛寺に住まう迦陵頻伽である。律子さんが、回状を出したにも関わらず、迦陵頻伽は、

「私は仏さまの眷属だよ。神様の言うことなんか聞くもんかい」と、相変わらず、顕を構い続けているのだ。

 顕は立ち上がり、半ズボンについた汚れを払った。

「やれやれ、迦陵頻伽さん。助太刀はありがたいのですが、これは子供同士の内輪の事ですから、どうか、あまり、立ち入らないでいただけないでしょうか」

「あんた、子どもの癖に、ジジ臭いもの言いをするんだねえ。あんなガキが付きまとっちゃ、鬱陶しいだろう。あたしと、ゆっくりお喋りする暇もないじゃないの。さあ、追っ払ってやったから、うちの寺へお寄りなさいな。お姉さんが、何か、楽しい事を教えてあげるからさあ」

 ほんのりと紅潮した、透けるような乳白色の、絹のような柔肌を、顕の目の前に近づけ、迦陵頻伽は、妖しい目つきで誘ってきた。けれど残念なことに、顕は、まだ子どもだった。目の前で、ゆさゆさと揺れ動く、二つのたわわな乳房から立ち昇る、得も言われぬ色香にも、惹き付けられるには、まだ数年早かった。

「御免なさい。今日はこれから、家に帰って、すぐに律子さんのところへ、算盤のお稽古へ行かなきゃならないんです。助けていただいて、ありがとうございました」と、顕は、迦陵頻伽の誘いを、あっさり断った。

「顕、俺おいて、どこ行きよんねん」

 顕は、学の呼びかけを無視し、常人の目には、何も見えない虚空へ、ペコリと頭を下げると、急降下してくるカラスから、逃げ惑う学を置き去りにしたまま、行ってしまった。


 その日の夕方、あたりは、そろそろ暗くなり始めていた。

 算盤と練習帳を入れた、美佐江のお手製の、稽古鞄を右手に持ち、顕は厳龍寺へ帰る途中で、また、平野神社の横手の道を通った。と、黒い影が突然歩道へ飛び出してきて、顕の行くてを塞いだ。

「ゲッ、麿…」

 それは、カラスに追い回され、逃げ出したはずの、麿こと学だった。顕はそのまま進み、学の前で立ち止まり、頭一つ分背の高い学を見上げた。普段の学は、公家顔で表情が分かりにくいのだが、今は、怒りの表情がはっきりと見て取れた。

 学は、いきなり顕の襟首をグイッと掴み、顔を近づけて来た。

「俺に、カラスなんかけしかけて、それで、俺が尻尾巻いて逃げてしまうと思ってたら、大間違いや。おまえの正体突き止めるまで、俺は、おまえから目ぇ離せへんからな」

「苦しい、手を離せよ。カラスなんか知らないったら。訳の分からないことを言うのは、やめろよ」

 窒息しそうになった顕は、学の手をつかむと襟元から押し返し、抗議した。

「嘘つけ。カラスだけと違うぞ。おまえ、今日の体育の時間、ドッジボールの球、勝手に向き変えたやろう。先生も、誰も、気がつかへんでも、俺の目は誤魔化されへんぞ。そういうのを、念同力サイコキネシスっていうんや」

「ヘッ?」

 顕の目は、一瞬点になった。まったく意味不明の言葉だった。

「おまえ、自分が超能力者やって、自覚がないのと違うか。それやったら、早よ、自覚して、自分の能力が暴走せんように、コントロールできるようにならなあかんねんぞ」

「超能力者、何それ? 意味不明だよ」

 予想外の展開に、戦闘モード寸前だったジャガー大神は、フニャッと脱力してしまった。

(ああ、もうっ、ガキの相手は嫌だ。突拍子もない、訳の分からないことばかり言い出しおって…腹が減っているんだから、おまえの相手なんぞしてる場合か、早く、寺へ帰らせてくれ)

 ジャガー大神の事情など分からないものだから、学は、口から唾を飛ばしながら、自身の妄想に酔いしれ、まくし立てた。

「ほんとに、真剣に考えないとダメだぞ。超能力者だって知られたら、秘密結社の悪い奴らや、軍の秘密研究所の奴らに連れ去られて、モルモットみたいに、檻の中に閉じ込められてしまうんだ。そうして、人間兵器に仕立てあげられるんだぞ」

 一体、どこからそんな事を思いついたのかと、突っ込みたいところだが、ジャガー大神は、馬鹿らしくなって、いちいち言い返すのも面倒臭くなってきた。そのため、あらぬ方を横目で見たまま、脱力して、学の言う事を全然真剣に聞いてない態度が露骨になってしまった。その態度は、学を、ますます熱くさせてしまった。

「おまえ、真剣に聞けよ。正体ばれたからって、無視すんのはやめろよ」

「……、ハアッ、もう、帰る。さよなら」

 顕は、学の言葉に反論する気力もなく、脇を通り抜けようとした。が、学は背後から顕の首から肩へ腕を回し、ヘッドロックをかけてきた。

「ギャッ、ぐ、苦しい、いい加減にしろよ」

 顕の中のジャガー大神は、もうブチ切れ寸前だった。

 と、歩道の前に黒塗りのワゴン車が急停車し、中から男が二人飛び出すや、学へ飛びかかった。二人は、学を車内へ引きずり込んだ。ところが、学がヘッドロックをかけたまま顕を離そうとしないものだから、顕まで引きずられて、車の中へ押し込められてしまった。

「何だよ、おっさんたち、降ろせよ」

 状況を理解できない学は、男に食ってかかった。

「うるさい、黙ってろ」

 学の頭を、サングラスをかけた五分刈りの男が拳骨で殴った。

「ヒィー」

 学は頭を抱え、泣き出した。

「殴らんでもええやろ。酷いことすんのはやめてくれ」

 運転席にいる、髪を肩まで伸ばした若い男が、五分刈男へ振り向いて抗議した。

「うるさい、おまえの借金でこないな事になったんや。文句ぬかすな。さっさと車出さんかい」

 五分刈りの男の方は、四角張った体形で、力も強そうだが、長髪の若い男の方は、痩せていて、気が弱そうな感じだ。

 何が何だか分からないうちに、車は急発進した。顕は、お稽古鞄を歩道へ落してきてしまった。が、車はスピードを上げて、離れていった。


 途中で目隠しされ、散々車で連れ回された後、二人は屋内に連れて来られた。

「ドアホ、二人も攫ってきて、何さらしとんじゃ、このボケっ」

 襖の向こうから、怒鳴り声が聞こえてきた。顕と学は、足首と両腕を縛られ、背中あわせに、薄暗い六畳間に転がされていた。二人とも、誘拐されたのだ。

「顕、おまえ、超能力者やってばれたから、組織の奴に攫われたんや。俺まで、巻き添えになってしもたやないか。どうしよう、俺、殺されるんとちゃうやろか」

 背中越しに、学は、自説を主張した。

「・・・・・」

 顕はげんなりして、返事をする気にもなれなかった。

(どう見たって、あいつらはチンピラだろう。どうせ、金目当ての誘拐さ・・・でも、狙われたのは、麿の方だよなあ。ぼくは巻き添えだとしか思えないなあ)

 ジャガー大神が首を傾げていた所へ、迦陵頻伽が現れた。

「あーあ、縛られちゃって、どうしちゃったのよ」

 迦陵頻伽は、横たわる顕の目線に合わせ、顔を横向きにしてのぞき込んできた。平野神社を縄張りにするカラスからの知らせに、駆け付けてくれたのだ。

「迦陵頻伽、いい所へ来てくれたよ。あいつら何者なのか。調べてくれないか」

 迦陵頻伽は顕の前でニヤリと笑った。

「もう、調べたわ。あいつらは、金貸しの取り立てを請け負うやくざ者よ。この子のお母さんの弟が、あいつらに借金してるのよ。厳しく取り立てても、なかなか返さないもんだから、金になるだろうって、連れてきたのよ。手際悪いし、頭も良くなさそうな連中よ。坊うまで間違って連れて来ちゃうなんてねえ」

「やっぱり、巻き添えは、ぼくの方なんだ。やれやれ…でも、麿は、確か、呉服屋の息子だよ。お母さんは、上品そうな人なのに…弟が、やくざから借金ってどういう事なの?」

 顕の反対側で、シュンとなったままの学をチラリと見ると、迦陵頻伽は、顕の耳元で報告を続けた。

「あの子のお母さんは、あの奥さんとは違うのよ。学は、呉服屋の社長さんと芸妓はんの間のお子なのよ。その芸妓の弟が、あの髪の長い、優男さ。どうしようもないごく潰しで、博打ばっかりして、借金で首が回らない状態って訳なのよ」

「へえ、参観日の時に来てたのは、本当のお母さんじゃなかったのか」

「まあ、そういう事ね。本当のお母さんは、芸妓をやめて学を生んだ後、旦那さんにお金を出してもらって、スナックのオーナーママをしているのよ。とっても働き者の気立てのいい女の人よ。だけど、弟の方は、どうしようもない馬鹿なのよ」

 迦陵頻伽は肩をすくめた。

 話を聞くうちに、ジャガー大神は、だんだん腹が立ってきた。ここが、グアテマラのジャングルの中であったなら、ジャガー姿で襲い掛かり、あんな連中はさっさと噛み殺してしまっているところだ。しかし残念なことに、ここ日本では、手ごろな大きさの猛獣がいない。それに、律子さんと神力は使わないと約束もしている。それでも、やはり、何とかならないかと考えてしまった。

「動物園も、ここからは遠いなあ、あそこなら、虎やライオンや、強いのがより取り見取りなのに…」

「坊う、何ぶつぶつ言ってるのよ」

「いや、ちょっと考え事を…」

 迦陵頻伽に問われて、顕は誤魔化した。

「逃がしてあげようか。早くここから出た方がいいよ」

「いや、見つかったら、捕まってしまう。子どもが走っても、大人に追いつかれてしまうよ。それに、この家、犬を飼ってるんじゃないのかい」

 ジャガー大神は、犬の気配を察知していた。かなり大型の犬が四頭いるのは分かっていた。けれど、ネコ科動物でない犬に降りた事はないし、何となく相性が悪い気がして、降りていき、体を操る気にもなれなかった。

「坊う、どうして分かったのさ。ドーベルマンと土佐犬とか言ってたわ。獰猛そうなのが、四頭も庭をうろついてるわ」

「まずいな」

 自分ひとりなら、庭から抜け出して、犬なんか脅しつければ逃げ出せそうだが、学を連れては無理だった。ジャガー大神は、どうしたものかと思案した。

「ねえ、私があいつらをやっつけてあげようか。学のアホな叔父さんと、チンピラがひとり、それに上役らしいのがいるだけだよ」

「君は、仏様の眷属だろう。乱暴な事をしちゃ駄目だよ」

「キャッ、坊うってば、何て健気けなげな事を言っておくれだよ。大好きだよ」

 迦陵頻伽は、顕をムギュッと抱き締めた。顕の顔は、大きな乳房に挟まれてしまい、息ができなくなった。

「ぐっ、苦しい、離してくれ」

 ふすまが乱暴に開けられ、五分刈の男が恐ろしい形相で怒鳴り上げた。

「何さっきから、ピーピー言うとんじゃ、じゃかあしい、猿ぐつわかますぞ。こらっ」

 それだけ言うと、また、襖をピシャリと締め切った。

「ヒイィー、怖いよう」

 学は震えて、泣き出した。

 乳房に鼻を挟まれ、窒息しそうになりながら、ジャガー大神は、突如思いついた。

「助けてくれる気なら、迦陵頻伽、ひとつ協力してくれないか」

 迦陵頻伽は、緑色の目を輝かせ、顕をのぞき込んだ。

「なあに、何をすればいいの」


 その頃、八時を過ぎても帰宅しない顕を捜しに出かけた美佐江は、平野神社の横手の歩道で、稽古鞄を見つけた。それを拾い上げるや、慌てて寺へ戻り、宗圓を呼んだ。宗圓は、すぐに、警察へ連絡した。

 同じ頃、学の家にも、犯人から一回目の電話がかかってきて、母親は警察へ通報した。私服警官が周辺で聞き込みすると、学と顕が話しているのを目撃した人がいて、ふたりとも誘拐されたかもしれないと分かり、厳龍寺と北小路家では、大騒ぎとなった。


 顕は、迦陵頻伽の耳元へ囁いた。

「ぼくの姿を、麿そっくりに、変えてほしいんだ」

「エエッ、姿変えは難しい術だからねえ」

 迦陵頻伽は、眉を寄せた。

「ぼくを変えるんじゃなくて、あの連中には、ぼくが、麿とそっくりに見えるようにしてくれればいいんだよ。それからね―」

 顕がゴニョゴニョと指示すると、迦陵頻伽は、手を打った。

「坊、頭がいいね。それならお安い御用だよ。何だか面白そうな事になりそうだねえ」

 顕が迦陵頻伽に指示を出していた頃、襖の向こうの部屋では、北小路家に二回目の電話をかけようとしていた。

「おい、あのキツメ目のガキだけ連れてこい。一応、親に声だけ聞かせとけ。そしたら、本気になって金の用意しよるやろさかい。それで、もうひとりのチビは邪魔やさかい、おまえ、ちゃんと処分せえよ」

 イボイノシシみたいな幅広の低い鼻に、ガマガエルのような口、ブルドックみたいな頬の、凶悪な面構えの男が、五分刈男と優男へ顎をしゃくって指図した。優男は真っ青になり、ガタガタ震え出した。

「身代金もろたら、それでよろしいやろ。あの子は、家に帰したら、いいんと違いますか」

「ドアホ、何ぬかしとんじゃ」

 五分刈男が、優男を殴り飛ばした。優男がひっくり返り、顕たちのいる部屋まで揺れた。直後、五分刈男は、学を連れて行こうと、ふすまを乱暴に開けた。

「おい、クソガキ、…あれっ?…」

 五分刈男は、六畳間に入って来ると、蛍光灯から垂れ下がる紐を引っ張り、灯りをつけた。そして、両ひざにごつい手を置き中腰になったまま、縛られた二人の子供の一方からまた一方へと、何度も視線を動かした。しまいには、サングラスも外し、ジーッと見た。

「何や、おまえら…双子か?どないなっとんねん」

 迦陵頻伽の幻視の術で、五分刈男には、顕の姿が、学そっくりに見えているのだ。

「こら、早う、連れてこんかい。何しとんじゃ」

「兄貴、こいつら、双子みたいです。どっちがどっちか、見分けつきまへんわ」

「何やと、ひとり息子のはずやろ。寝ぼけたこと言うな」

 兄貴と呼ばれた男が、襖越しに部屋をのぞいた。

「な、何や、どういうことや?おい、あつし、おまえ、嘘教えよったんか」

 敦と呼ばれた優男は、震えながら、首を振った。

「いいえ、嘘なんか言いません。学は、ひとり息子です。本妻さんに子どもができへんもんで、姉さんのところから、旦那さんが跡取りにするからって頼み込んで、強引に引き取りなさったんです」

「おまえも、見てみい。こいつら、見分けつかんぞ」

 敦は、恐る恐るのぞいた。

「ヒーッ、学がふたり、そんな馬鹿な―」

 敦は、パニックを起こし、髪を掻きむしった。

「キャアー、おもしろくなってきたわ」

 迦陵頻伽は歓声を上げ、さえずった。人の耳には聞こえない、その囀り声が、幻視を引き起こすのだ。

(律子さん、少しだけ約束破ります。ゴメンナサイ)

 顕は、心の中で謝りながら、手足の縛めを断ち切った。もちろん、学のも同時に断ち切った。そして、家中の電気系統に干渉して停電させ、学の腕を取り、

「麿、逃げよう」と声をかけ、立ち上がらせた。

「おい、真っ暗になったぞ。敦、ブレーカーのスイッチ上げてこい」

 イボイノシイみたいな上役が、大声で指図した。

「顕、どうしよう、俺が狙われて誘拐されたんや。俺、お母さんの子やないんや」

 学は、誰かが着物の袂を目に当てて泣きながら、自分に何かを言おうとしている夢を見たことが何度かあった。夢だと思っていたその光景が、現実にあった記憶に違いないと、敦の言葉で気が付いてしまった。そして、母親だと信じていた人が他人だと知ってしまい、すっかり動揺していた。

「麿っ、誘拐なんかする奴らの言うことなんか真に受けちゃダメだ。今が逃げ出すチャンスなんだから、とにかく、ここから逃げるんだ。本当の事かどうかは、あとで確かめればいいよ」

 顕は、学の腕を引っ張り立ち上がらせた。

「顕、あいつらに見つかったら、また、頭殴られる」

 タンコブになった所がひどく痛かった。学はすっかり怯えていた。

「大丈夫だよ。あいつら、それどころじゃないから」

 ブレーカーのスイッチが入り、灯りが灯った。その瞬間、顕は、ハアーッと大きく息を吸い込むや、思いっきり大声で叫んだ。

「警察だぞっ」

 顕は、迦陵頻伽に、停電した後に、自分と学が、警官に見えるようにしてくれと頼んでおいたのだ。

「ここは包囲されている。おとなしく手を上げろ」

 毎週木曜日に放映される刑事もののドラマを、主役俳優のファンである美佐江は欠かさず観ていた。顕も一緒に観ていたので、そこで放映された、警察が立てこもり犯を包囲するシーンを迦陵頻伽に伝え、そっくり再現した幻視を見させたのだ。

「学くん、逃げよう、走れっ」

「えっ、でも…」

「急いで、大声出して、警察だって言いながら走るんだ」

 テレビドラマの一シーンとはいえ、顕は映像記憶が得意なので、迦陵頻伽にはかなり具体的な映像を伝えてあった。その臨場感と夜の暗さもあいまって、誘拐犯たちは、すっかり騙されてしまった。

 顕と学が「警察だっ」と叫んで走り出すと、ふたりが警官に見えてしまう誘拐犯たちは、大慌てて逃げ出し、玄関から転がるように飛び出た。が、家の周囲は、顕の指示通り、迦陵頻伽が警察部隊による包囲網を幻視で作り上げていた。赤い警告灯が点滅するパトカーに囲まれ、銃を構えた警官に包囲されてしまったと誘拐犯は思い込まされた。

 幻視とも知らずに、誘拐犯たちが目の前の光景に圧倒され立ちすくむ背後で、顕は学を連れ出した。

 土佐犬一頭とドーベルマン三頭が駆け寄ってきたが、顕はキッと犬たちを睨みつけた。闇を統べるジャガー大神の、本気のひと睨みにあっては、勇猛果敢な犬でも戦意を失った。犬たちはビクッと立ち止まるや、回れ右し、犬小屋の方へ逃げていった。

 顕は、公衆電話を見つけ、すぐに厳龍寺へ電話した。美佐江から交代した警察官に、近所の家の住居表示を教えて、現場を知らせた。警官が急行し、顕と学は無事に保護され、どういう訳か、玄関先に突っ立ていた犯人一味も、あっさり逮捕された。

  

 保護された顕を警察署まで迎えにきた美佐江は、顕を見るなり、駆け寄ってギュッと抱き締めた。

「顕ちゃん、無事でよかったわ」

 美佐江は、そう言うや、おいおい泣き出した。

 グアテマラでは、反政府ゲリラによるバスジャック事件に巻き込まれ、言葉を話すこともできなくなっていた顕が、またもや誘拐事件にあってしまい、この子はどれほど恐ろしい思いをしたのだろう、二度もこんな目に会うとは可哀想でならないし、無事に戻ってきてくれて本当によかったという美佐江の思いが、激しい流れとなって、顕の中にいるジャガー大神の所にまで押し寄せてきた。これほど激しく、強い、人間の思いに直面したのは、ジャガー大神にとっても、何年ぶりかのことであった。

 美佐江に抱きつかれた顕は、戸惑ったように、側に寄って来た宗圓を見上げた。宗圓は、厳しい面持ちで、顕の頭にそっと手を置くと、

「よく頑張った。無事に戻って来られたのは、御仏のお導きに違いない」

 と、合掌し、短く経を唱えた。が、よく見ると、目元に涙が浮いていた。

 宗圓の思いは、美佐江のような激しさこそなかったものの、自制されながらも、強く、真摯な愛情と、自身が深く帰依する御仏への心からの感謝の念が混じり合ったものだった。ジャガー大神は、人間から、このような信仰心を寄せられる仏様を、羨ましく感じた。二人とも、ものすごく心配し、また顕自身を愛してくれているのだ。二人の気持ちに影響され、顕も、何だか目元が湿っぽくなってきた。

「心配かけてゴメンナサイ」

「謝ることなんかないのよ。こんな子供を誘拐して、お金をせしめようとするなんて、人間の屑のやることだわ」

 普段は穏やかな美佐江も、誘拐犯へは、強い憤りを露わにした。

「これ、美佐江、落ち着きなさい」

 宗圓は、美佐江の肩に手を置き、たしなめた。

 犯人が逮捕に至った事と、学の父親が呉服会社の社長で、表沙汰になると影響が大きく、また、同じような事件が起こらないとも限らないため、新聞記事になることもなく、事件は解決した。


 数日後、下校時間になると、校門の前で待っていた学が、顕に声をかけて来た。

「顕、一緒に帰ろう」

「うっ…」

 一瞬嫌だと、断ろうとしたが、学は何だか深刻な顔つきで、話を聞いてもらいたい様子だった。顕は、結局断らないまま、学と一緒に通学路を歩き出した。

「こないだは、ゴメンな。あれ、やっぱり、俺を誘拐するつもりで、おまえも一緒に連れて行ってしもてんて・・・

 それから、あの髪の長い男の人は、俺の本当の叔父さんやって、お父はんとお母はんがこっそり喋ってるの、立ち聞きして分かってん。

 そやさかい、やっぱり俺は、お母はんの本当の子やないって、養子やって分かってん。何か、俺、ずっとそうと違うんかなあって思っててん。お母はんは、目がパッチリ二重瞼で、女優さんみたいに美人やもん。俺、全然顔が似てないもんなあ・・・そやけど・・・お母はん、泣いてたわ。俺を警察に迎えにきてくれて、家に一緒に帰ってくるまで、ずっと泣きどおしやってん。

 家に帰った後、夜中に、出張から慌てて戻ってきたお父はんに、俺が誘拐なんか、もう二度とされへんように、あの女に金をもっとやって、ちゃんと縁切ってこいって、中途半端な事するから、あの女の身内が、私の可愛い坊んに手を出したりしますのやって、ものすごい事怒って、泣きながら言うてはったわ。

 お母はんは、俺の事、本気で心配してくれてんの、それで、よう分かってん。

 そやけど、俺、ほんまのお母はんの顔、見てしもてん。夢で見たとおりの顔の人やってん。警察署の前で、こっそり、俺の事見ててん。俺と目ぇ合ったら、慌ててどっかに行ってしもてん」

「・・・・・・・」

 顕は、黙ったまま、学と一緒に歩いた。

「俺、こんなにお母はんに心配かけたのに、やっぱりほんまのお母はんに会いたいねん。俺、アホや・・・・」

 俯いた学は、黙り込んでしまった。学は、右手で顕の腕をそっとつかんだ。何か言ってほしいと、せがまれているような気がしたジャガー大神は、しばらく間をおいてから、話しかけた。

「麿、ぼくら、まだ小学生だろ。子どもなんだよ。だから、親に黙ったままで、勝手な事をしたりしてはいけないんだよ。今は、お父さんと、お養母さんの言う事を聞くしかないよ」

 学は、顕を見た。

「そうやな、おまえ、大人みたいな事言うなあ。でも、その通りや。俺、まだ、子どもやもんなあ。何にも、自分で勝手には、できへんわなあ」

「警察署の前で、君の本当のお母さん、来てたんだろう。それは、きっと、君のお養母さんと同じように、君のことを心配していたんだよ。だから、大きくなれば、君は、本当のお母さんと会うことだってできるよ」

 顕の言葉を聞きながら、学は目をこすり、涙をぬぐった。そして、顕の肩をパンッと叩いた。

「痛テッ、何だよ」

「おまえ、やっぱりいい事言うよなあ。超能力者は、やっぱり言うことが違うよなあ」

「もうっ、超能力者なんかじゃないってば」

「ハハッ、誤魔化すなよ、誰にも言うたりせえへんさかい」

 学は小指を顕の目の前に出した。

「?」

 顕は、学を見て首をかしげた。

「顕、指切りって知らんのか。おまえも小指を出すんや」

 学に言われるまま、顕は小指を同じように出した。学が、自分の小指を顕の小指に絡めた。

「指切りげんまん、嘘ついたら針千本飲うます」

(針千本なんか飲んだら死んでしまうだろ。呪いの言葉か)

 ジャガー大神は、うなじの毛を逆立て警戒した。が、学は晴れ晴れとした顔で笑った。

「これで、約束成立や。俺は、おまえが超能力者やってことを誰にも言わへん。秘密にするから、おまえも安心しろ」

「ハア・・・どうも、ありがとう」

 呪いかと警戒したのが馬鹿らしくなり、ジャガー大神は脱力した。それに、もう超能力者じゃない、と反論する気も失せてしまった。


 その後、久しぶりに、律子さんの処へ、書道のお稽古へ行った。すると、律子さんは、他の生徒の稽古はお休みにして、顕ひとりを待ち受けていた。いつもの、にこやかな様子とは違い、厳しい面持ちである。これは、自分が神力を使ってしまったことを咎められるに違いないと思い、顕は緊張した。

 律子さんは、顕を部屋へ通すと、紅茶とイチゴのショートケーキを出してくれた。

「どうぞ、召し上がれ」

「いただきます」

 律子さんと、テーブルに向い合せに腰かけ、顕は手を合わせると、ケーキを食べた。

「迦陵頻伽から、事件のあらましは聞きました。災難でしたね」

「はい、迦陵頻伽には色々助けてもらいました。それに、少し、ほんの少し、神力を使ってしまいました。ゴメンナサイ」

 この国からすぐに出て行けと言われはしないかと、気をもみながら、ジャガー大神は、律子さんに頭を下げてお詫びした。が、律子さんは、顕に対しては全然怒ってはいなかった。

「あら、そんな事、気にすることはありませんよ。あの程度の騒ぎで収めてくれて、こちらがお礼を言いたいところですよ。迦陵頻伽は、優美な外見に似合わず、気性の荒い子ですからね。あなたがうまく指揮をとってくれたお蔭で、流血沙汰にならずに済んでようございました」

「はあ…」

 迦陵頻伽の気性の激しさは、カラスを使嗾しそうし、悪ガキを蹴散らすのを散々目撃していたから、顕だって、ようっく理解できていた。だから、自分の指揮がよかったかどうかなんて分からないが、あの程度の騒ぎですんでよかったという点については、律子さんの意見に賛成だった。

 最悪の事態は避けられて、ジャガー大神は安堵した。が、やはり、律子さんの殺気だった様子が気にかかった。

「でもね。あの連中、神である、あなたを誘拐するなんて、許し難い涜神とくしん行為ですよ。神罰を与えないことには、私の気がすみません」

「エッ…?」

 律子さんの怒りの矛先が、誘拐犯たちに向かうとは、ジャガー大神には予想外だった。律子さんは柳眉を吊り上げ、まなじりも吊り上がり、目は妖しく金色の光を放った。

「まったく、どうしてくれましょう。天津罪、国津罪にも匹敵する大罪です。このままにしてはおけません。生皮ひん向いて、曝しものにしたっていいくらいです」

 自分の保護下にある、身内も同然の顕が危ない目に遭いかけたことに、律子さんはすさまじく腹を立てているのだ。それが、ジャガー大神さえびくつかせた、律子さんの物騒な気配の正体だった。

「律子さん、お心を鎮めてください。別に、実害があった訳ではありませんから、どうか冷静になってください」

 誘拐されていた時には、動物園の猛獣に乗り移ってでも、犯人たちを始末してしまおうかと、物騒な事を考えていたのに、ジャガー大神は、律子さんの怒りを鎮めようと懸命になった。

「いいえ、実害がなかったからといって、あ奴らの仕出かしたことを、見過すわけにはいきません。私の保護下にある者に手を出そうなんて、とんでもない不届き者です。絶対に、許すわけにはいきません」

 古今東西、一旦女神の怒りに火がつくと、それが、破滅的な災厄を引き起こしたという神話は数知れない。律子さんもまた、怒れば恐ろしい女神のひとりなのだ。ジャガー大神は、何とか律子さんの怒りを鎮めなければ、大災厄が起こるのではないかと、大いに恐れ、何とか落ち着かせようと、必死で頭を悩ませた。が、顕、即ちジャガー大神がどうしたものかと思案する目の前で、律子さんの怒りは沸々と煮えたぎり、今にも荒ぶる神力を発揮しかねない。ジャガー大神は、焦りに焦りまくった。

「律子さん、いけません。日の本の神界において、屈指の女神でいらっしゃるあなたが、そのような事に、心を乱されてはいけません。そのような事にお心を囚われては、あなた様のエッと、エエッと、そうだっ、女神の品格、気高き女神であらせられる、あなた様の品格を損なってしまいます。あのような下賤の者どもの刑罰は、人間の裁きに任せておけばよろしいのです」

 小四の子どもが使うには、小難しい単語を駆使し、ジャガー大神は、律子さんの怒りを鎮めようと懸命に説得した。ジャガー大神の雄弁さよりも、生クリームのついたフォークを握りしめ、口元には、ちょっぴり生クリームとスポンジケーキの欠片をつけたままという、あどけない子ども姿の顕が真剣に喋る様は、話の内容と外見の落差が大きすぎて、笑いを誘わずにはいられないものだった。顕の様子を目の前にして、怒りマックス状態であった律子さんも、たまらず吹き出してしまった。

「ホッホホホホ、顕さん、あなたには敵わないわ。分かりました。今回は、怒りを収めるといたしましょう。あいつらの夢枕に立って、少しばかり脅しつけるだけにしておきます」

 ジャガー大神は、心の中で、ゲッソリとため息をついた。自ら神罰を与える方が、神罰を与えるなと説得するよりも、ずうっと簡単なことだった。そんなことを考えていると、はるか昔にも、これと似たような状況で、女神とやり合って苦労したような、情けない思いの残る記憶が一瞬蘇りかけたが、たちまち霧散してしまった。

「どうしたの、ぼんやりして…」

「…エッ、いえ、何でもありません。このケーキ、すごくおいしかったです。ごちそうさまでした」

「そう、よかったわ」

 律子さんは、普段通りの明朗快活なご婦人に戻ってくれた。


 学の叔父、敦は、逮捕された後、夜ごと、恐ろしい鬼女から、『真人間にならねば呪い殺す』と脅された。敦は、冷や汗を流し、恐怖に震え上がりながら、鬼女へ土下座し、頭を、床へ打ち付けんばかりに何度も下げ、真人間になります、と叫んだ。それが、有罪判決を受け、刑期を終えるまで、ずっと続いたのだ。それがこたえたのか、出所後は、別人のような真人間となった。すっかり心を入れ替え、姉のスナックを手伝い、賭博には二度と手を出すこともなく、堅実に暮らすようになった。


 事件から数日後。

 下校途中の顕に、迦陵頻伽が相も変わらす付きまとっていた。

「あーあ、つまんない。最近、坊うにチョッかいかけてくるガキがいなくなっちゃったから。カラスたちも暇だって言ってるわよ」

「平和でいいじゃないか」

「アハッ、坊う、あたしに機嫌よく返事してくれるようになったね。嬉しい」

 迦陵頻伽は無邪気に喜んだ。

「そりゃ、ぼくと麿を助けてくれた恩人だもの。無視なんかできないよ」

 迦陵頻伽は、握り締めた両こぶしを口元に当てながら、感激のあまり目をウルウルさせた。

「坊うのそういう律儀なところって、本当に好きヨン」

「そう、ありがとう」

 翼を広げ、トップレス姿でまたもや抱きつこうとする迦陵頻伽を巧みに避けながら、顕は返事した。

 顕にかわされてしまった迦陵頻伽は

「坊う、女の愛情表現くらい、素直に受け止めてやらないと、立派なの子になれないわよ」

 と、言い、また、ふうわりと宙へ舞い上がった。

「坊うを見てるとさあ、昔ね、天竺で、知り合いになったお坊さんを、思い出すんだよねえ」

 異国が話題となり、自分も異国から来た身の上であるジャガー大神は、迦陵頻伽の話に興味が湧いてきた。それで、寄り道をすることにして、公園に入りブランコに乗った。

「天竺って、インドだよね。迦陵頻伽は、インドからやって来たのかい」

 迦陵頻伽に尋ねながら、顕はブランコを揺らした。迦陵頻伽は、ブランコの周りを軽やかに飛び回りながら、話を続けた。

「そうよ。大昔にね。唐の国から、仏法を勉学しようと、はるばる訪ねてきたお坊さんがいたんだよ。とっても素敵な人だった。その人は、皆に気に入られてねえ。唐の国へ帰るには、また砂漠を通って行かなきゃならない。天竺にたどり着けたのは、僥倖というものだ。もう一度砂漠を通って、生きて戻れる保証はない。あなたのような立派な僧侶を、みすみす死地へ送り出すわけにはいかない。天竺に留まりなさいってみんなに引き留められたんだ。けれど、自分は、正しい仏法を唐の国へ持ち帰り、広めなくてはならないのですって、皆を振り切り、旅立ったんだよ。その時さあ、あたしは、無事に唐の国へ帰れるように付き添ってあげる事にしたんだよ。そのくらい、男気のある、素敵な人だったんだ」

「唐って、中国だよね。それがどうして、日本にまで来たの」

 迦陵頻伽は、顕の目の前の空中で停止し、人差し指を振ってみせた。

「そこなのよう、あたしって惚れっぽいのよねえ。そのお坊さんも人間でしょ。寿命が来て死んじゃったのよ。でも、その頃の唐の国はねえ、色々な国から人が大勢集まってきて、そりゃあ、もう、楽しいところだったのよ。おもしろおかしく過ごしているうちに、あっと言う間に数十年すぎちゃったのよねえ。そうしたら、あたしのいた天竺の国が戦乱で滅んでしまって、おまけに仏教はすたれて、ヒンドゥーとかいう新しい教えが広まったって、天竺から逃げて来た、眷属のひとりが教えてくれたのよ。で、帰りそびれちゃってね」

「ふうん、大変だったんだね」

「まあ、あたし自身は、呑兵衛のんべえの詩人や何かをからかったりして、楽しく暮らしていたんだけれど…何にもなかったら、あのまま、唐の国に居ついたかもしれないわねえ。

 でも、その後、運命的な出会いがあったのよ。この、日の本の国から、留学僧が来たのよ。その人ったら凄いのよ。唐の役人が驚くほどの達筆で、漢詩だって、皇帝直属の役人のみならず、皇帝自らが、お誉めの言葉を賜るほどの出来栄えだった。それに、恵果さまに見込まれて、後継者の指名までもらっちゃって、やっぱり、みんなから帰るなって引き留められたけれど、日の本に仏法を広めるために戻らねばなりませんって―」

「で、帰りについて来ちゃったんだね」

 結末が分かった顕は、先に結論を言った。

「そうなのよ。そのお坊様も、今はいないしね…あたし、何でいつまでもこの国にいるのかしら、でも、もう行くところないしねえ。だって唐の国もなくなっちゃったし」

 迦陵頻伽の愛くるしい顔に一瞬翳りが生じた。顕は、空を漂う迦陵頻伽を見上げ、微笑んだ。

「ここに居ればいいじゃないか。この国の神々は寛大だよ。受け入れてくれてるじゃないか」

「そうね、坊うもいてくれるしね。坊うがいる間は、あたしも、何だか楽しく暮らせるような気がするよ」

「君とお喋りするくらいはいいけれど、あんまり大仰に、律子さんに言いつけないでおくれよ。この間なんか、怒り心頭で、こらえてもらうのが大変だったんだから」

「ごめーん。あたしも頭に来ちゃってたから、少し大げさに言ったかもしれない。まあ、これからも、この迦陵頻伽の姉さんが、あんたの事は守ってあげるから、何にも心配することはないよ。安心しな」

 それが一番困るんだと思いつつも、迦陵頻伽の気持ちを無碍むげにもしかね、顕は苦笑いしつつ

「そうだね、これからもよろしくね、でも、あんまり、乱暴な真似をしちゃダメだよ」と、くぎを刺して置いた。

「ええ、任せといて」

 迦陵頻伽は美しい囀り声をあげた。

 そよ風が若葉を揺らし、木洩れ日のちらつく中、美しい囀りを上げ、舞い踊る迦陵頻伽を見上げ、顕はしばらくの間、ブランコをゆったりと揺らすのだった。





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