初詣

 小晦日こつごもり

 竹園 宗圓の起床時間は、闇色の空に星が瞬く午前四時である。作務衣に着替え、寺の周囲と、庭園、本堂の清掃を行い、次に読経と座禅を行うのが日課である。一方、妻の美佐江は、夫の起床から半時間あとに起き出し、身支度をすませるや庫裡にこもり、朝がゆの準備に取り掛かる。

 二人が起きる気配に気が付いたものの、顕は、そのまま布団の中ですやすや寝息をたてていた。意識は覚醒しても、体は育ちざかりの子どもである。十分な睡眠が必要だった。けれど、暖かい布団の中での安眠は、美佐江の起きなさいコールで破られた。美佐江に声をかけられた六時過ぎ、顕は、布団の中から渋々抜け出した。

 凍えるような寒さの中で着替え、一階へ降りると、顕は、一目散に暖かい炬燵へ潜り込んだ。ほんわりとした温かさに、凍えた体がようやく温まってきたところへ、美佐江から、配膳を手伝うようにと言われた。暖かい炬燵から離れがたい気持ちをこらえ、顕は、庫裡側の障子を開け、しびれるように寒い三和土たたきへと下りて行った。

「顕ちゃん、あなたは、今日から我が家の子どもですからね。伯母さんは、あなたの事を、恵子さんから預かっている責任があるの。だから、あなたを甘やかしたりはしません。ちゃんと、家のお手伝いもして、我が家の家族として、頑張って下さいね」

 と、言いながら、粥や、漬物、味噌汁、それに、育ち盛りの顕のためにと、特別につけてくれた卵焼きがのるお盆を、手渡した。

 顕は、お盆を落とさないように気を付けながら、三和土から和室へ戻った。

 ジャガー大神は、人間として過ごすことを決心したので、美佐江から指図されても、もっともな事だと思い、素直に従った。けれど、困ったことに、家の中が寒すぎて、体が思うように動かない。熱帯からやって来たジャガー大神と顕にとって、底冷えする寒さというのは、未知の経験だった。

(セノーテの水より冷たい空気なんて、体が凍ってしまいそうだ)

 せめてジャガーの姿なら、毛皮に守られて暖かいのだが、人間の、それも小さな子どもの体には、頭以外に体毛らしいものはなく、経験したことのない寒さに、顕の歯はカタカタ音をたて、体も震えていた。

「あら、大変、顕ちゃんは、京都の寒さに慣れてないものね。うっかりしてたわ、ごめんなさいね」

 顕がブルブルと震えているのに気が付いた美佐江は、障子を開けて部屋から出て行くと、奥の寝室から、子どもサイズに仕立て直した綿入れを持って、小走りで戻ってきた。

「これを着なさい。暖かいわよ。宗圓さんが着なくなったのを、あなた用に仕立て直しておいたのよ」

「・・・・・・」

 顕は、綿入れを、じいっと見つめた。グアテマラでは、見たこともない形の服だった。

「これはね、ここへ腕を通すのよ」

 美佐江が、顕の腕を四角い袖へ通し、前身ごろの紐を結び、綿入れを着せてくれた。宗圓愛用の、丹前を仕立て直した綿入れは、表の生地は青地に列車のキャラクター柄入りで、襟元は、肌障りのいいようにと、黒い別珍が縫い付けてあった。縫い合わせた生地の間に綿を入れてあるので、両腕を通し、紐を結んでもらうと、さっきまで入っていたお布団の中みたいに暖かくなった。

「暖かいでしょ」

 美佐江が、顕に微笑みかけた。

「暖かいです」

 顕は、真面目な顔で言うと、飛行機の中で覚えたばかりの、客室乗務員が行っていた、九十度に頭を下げる礼を美佐江にして見せた。

 美佐江は、にこっと笑った。

「まあ、顕ちゃん、大袈裟ね。頭なんか下げなくていいのよ。そんな時は、ありがとうって、ひとこと言ってくれれば、それでいいのよ」

「はい、ありがとう」

 顕は、美佐江の真似をして、にこっと笑ってみせた。まだ、口元が引き攣って変な感じがしたけれど、表情は、かなり自然になってきた。


 ジャガー大神は、小さな子どもの体内で、強大な神気を放つ己の存在を消し、ひっそり息を潜めていた。それは、覚悟していたこととは言え、大変窮屈な状態だった。手品師のシルクハットの中に閉じ込められた、白鳩みたいな状態なのだ。それでも、ジャガー大神は、息苦しい思いを我慢し、月護教授との約束を律儀に守ろうと努力し続けた。

 月護教授は、昨日こそ、顕とともに、この家で数時間過ごしたものの、すぐさまグアテマラへと引き返してしまった。そして、悲しませないためにと、わざわざ日本に留まることを決意した、そのきっかけを作った当人である、母の恵子もいないのだ。そんな中で、自ら決めたこととはいえ、窮屈な思いまでして、神気を消し続けることは、何ともやりがいの無い事だった。

 こんな面倒な事は投げ出してしまい、セノーテに帰りたくてたまらなくなったジャガー大神ではあったが、顕の目を通して、美佐江の優しい笑顔を見ると、誓約うけいの当事者である両親が不在であっても、せめて、美佐江を悲しませないように頑張ろうと、決意を新たにしたのだった。

 それから、もうひとつ、ジャガー大神の励みとなったのは、居間のテレビに映る、こども向け番組だった。

 美佐江に教えられ、ジャガー大神は、リモコンスイッチを押して、テレビのチャンネルをかえてみた。すると、色々な場所や、人が映し出された。

「みんな、元気かい。こんにちは。さあ、歌の時間だよ。今日の歌はね―」

 色々な番組をざっと見たなかで、特にお気に入りとなったのは、小さな子どもたちが、着ぐるみと一緒に踊ったり跳ねたりする、子ども向け番組だった。

(子どもが大勢テレビに映っている。へえ、子どもは、あんな風に笑うのか。声も随分甲高いな。大人とは全然動きも違うのか・・・なるほど)

 ジャガー大神は、顕の父、月護教授の脳の中を調べたので、日本についての知識はかなり持っていた。しかし、それは、あくまで、大人の知識なので、小さな子どもである、顕の話す言葉や行動に、その知識を、そのまま出してしまう訳にはいかないのだ。子ども番組を見ることで、顕と同年代の子どもの話し方や、行動、表情など、色々な事が、ジャガー大神にも、やっと理解することができたのだった。それで、年末の忙しい時期で、宗圓も、美佐江も、居間にいない時、綿入れを着た顕は、炬燵に入り、テレビをつけ、子ども番組を熱心に見続けた。


 その日、顕を寝かしつけた後、美佐江は、宗圓に話した。

「顕ちゃん、可哀そうに、お父さんも、お母さんもいないし、私たちも忙しくて構ってあげられないから、ひとりでテレビばかり、ぼうっと見ていたのよ」

「どんな番組を見ているんだ」

 炬燵に入り、作務衣姿で煎茶を湯呑から飲みながら、宗圓は妻へ尋ねた。

「体操のお兄さんとか、歌のお姉さんや、ぬいぐるみと一緒に歌ったり、踊ったりする番組ですよ。時々、手とか動かして、一緒に踊ってるのよ。本当に、可愛らしいのよ」

「ああ、子供向けの番組かい。まあ、少し見るくらいなら、目を悪くすることもないだろう。年末の忙しいのが一段落したら、初詣へ連れていってやりなさい」

「ええ、そうね。初詣に連れていってあげましょう」

 ジャガー大神は、子どもらしく動けるようになろうと、一生懸命見ていたのだ。しかし美佐江は、遊び相手もいないひとりぼっちの状態で、テレビばかり見ているのだと勘違いしてしまった。それで、これは、是非にも連れ出してあげなくては、と、思いを強くしたのだった。


 大晦日。

 今日は、寺の大掃除の総仕上げがあり、朝から、近隣の人たちが大勢やってきた。

「お早うございます」

「今日はよろしくお願いします」

 次々にやって来る檀家の人々を、寺の門前で出迎える美佐江は、丁寧に頭を下げ、挨拶をかわした。顕も、隣に立ち、小さいながらも頭を下げ、挨拶した。

 割烹着姿でやって来たおばあさんが、顕の姿に気が付き、早速美佐江に声をかけてきた。

「おや、かわいらしい坊やですねえ。お孫さんですか」

「いえ、住職の甥っ子ですのよ。顕ちゃん、挨拶なさい」

 美佐江に促され、顕は、この二、三日の間で学習した成果をフルに発揮し、とびっきり子供らしいキラキラとした笑顔を浮かべて挨拶した。

「月護 顕と言います。本日は、よろしくお願いします」

 と言い、ぺこりとお辞儀した。

 おばあさんの表情は、みるみるとろけていき、さらに上機嫌となった。おばあさんは、顕に近づき、にこにこしながら、頭を撫でまわした。

「まあ、ええお子やわあ。坊うもお気張りやす」

 頭を撫でまわされるのは、ジャガー大神にとって、不愉快なことであったが、美佐江とともに、寺のもてなし側としての務めを果たそうと、愛想良さを死守した。

「はい、頑張ります」

 顕の受け答えに、美佐江も内心得意であった。


 顕は、その後、掃除を手伝い、雑巾掛けや、はたきを使って仏具のホコリを払ったり、障子の張替の手伝いをしたりして、忙しく働いた。さらに、白い割烹着に、白い姉さん被り姿の、檀家の人たち皆に笑顔を向け、可愛く子どもらしい行動をとるように、もの凄く努力した。その甲斐あって、グアテマラから帰ってきた住職の甥っ子は、可愛らしい、いい子だと、檀家の間で、すっかり人気者になっていた。

 掃除のあとは、皆で持ち寄った握り飯や総菜を食べ、その後、餅つきが始まった。蒸したもち米を石臼にあけ、杵でつき、皆で、つきたての餅を次々に丸めていった。つきたての餅は柔らかいので、片栗粉を薄く伸ばした上に置いて、落ち着かせた。顕も片栗粉をひいた板の上に、餅を並べるのを手伝った。何十個と丸められた餅は、ビニール袋に小分けされ、檀家の人々へ配られた。この餅が目当てで、掃除を手伝ってくれる人が結構集まるのだ。

 その後、夜には、美佐江が年越しそばをつくってくれた。熱いそばを食べたことのない顕は、蕎麦を啜ることができなかった。美佐江は、慌てて小皿を持ってきて、そばを小皿に入れて、少しずつ食べなさいと教えてくれた。九時には、寝るようにいわれるのだが、その日は夜更かしが許された。けれど、朝から夕方まで、大人たちに交じって一生懸命に手伝いをしたので、顕の幼い体は疲れていた。なので、十二時近くになると、炬燵の中で、横になり、うとうとしていた。


「ゴーン」

 突然の大音響に、顕は飛び起きた。敵襲かと、ジャガー大神は警戒した。

「除夜の鐘よ」

 美佐江が、顕を安心させようと声をかけてくれた。

 京都は、寺が多いためか、そこら中で鐘の音が響く。顕のいる家も、もちろん寺なので、宗圓は鐘を突いた。それが、物凄い音響で、顕の耳に迫ってきた。音に敏感なジャガー大神は、初めて聞く鐘の音に、前足で耳をふさぎたくて、たまらなかった。

(ヒエーッ、何だ、この音、一体、何回鳴らす気だ。この国の神は、こんな大音響を喜ぶのか、訳がわからん~)

 もちろん、これは寺の行事で、神事ではない。が、そのような違いを理解できるようになるのは、もう少し先のことだ。除夜の鐘は、百八つの煩悩を消すために鳴らすのだから、ジャガー大神がいくら嫌だと思っても、しばらく止むことはなかった。

(静かなセノーテへ帰りたい。もう、嫌だ、こんなうるさい国、ヒエーッ)

 猫耳なら頭へぴったり寝かしつけて、耳を塞ぐところだが、顕の耳は、猫耳ではない。ジャガー大神は、耳を手の平でふさぎ、炬燵の中へできるだけ潜り込んだ。

「顕ちゃん、せっかくだから、あなたも鐘を突かせてもらいなさいな」

 と、美佐江は、ジャガー大神の都合などお構いなしに、顕を炬燵から引っ張り出した。そして、手早く、毛糸の帽子と手袋にマフラーを身につけさせ、鐘楼へと連れていった。

「ゴーンッ」

 橦木しゅもくにかけ渡した綱を巧みに操り、黒い法衣姿の宗圓は下半身をぐっと踏みしめ、上半身を振り子のように反動つけて、巨大な鐘めがけて橦木を当てた。

(うわあぁぁ、衝撃波が来る。ヒエエェェ)

 ジャガー大神の可聴域は、人間のものより遥かに広い。そのため、鐘の音は、低周波の衝撃音となって、ジャガー大神の聴覚に襲いかかってきた。

「顕くん、こっちへおいで。厄払いになるから、君も鐘をつきなさい。ほら、私の腕につかまって、一緒につこう」

 鐘をつく手を休ませることなく、宗圓は、顕へ、声をかけた。

「さあ、早く、お行きなさい」

「・・・・・・」

 美佐江に促され、顕は仕方なく、鐘楼の下の、宗圓へと近寄った。そして、宗圓の腕につかまり、ぶら下がった。

「念彼観音力 煩悩消滅」

 宗圓は、力強く経を唱え、顕を腕からぶら下げさせたまま、鐘をついた。

「いい音ねえ。この音がすると、年があらたまるというのが、本当に実感できるわねえ」

 鐘楼の前で、割烹着の上からコートを着込み、着ぶくれしてふくらんだ美佐江は、鐘をうっとり見上げて、つぶやいた。

宗圓の腕にぶらさがったまま、顕は、さらに数回、鐘をつかせてもらった。鐘の衝撃波を次々と受けたジャガー大神は、頭の中がグルグル回った状態で、フラフラになった。

(ネンピーカンノンリキ、ボンノウショウメツ?ああ、もう何がなんだかわからん。鐘でも、大砲でも、矢でも、鉄砲でも、なんでも持ってこい。これほど賑やかなウァイェブは聞いたことがない。とんでもない国に来てしまった)

『ウァイェブ』とは、マヤの暦上、最後の月にあたる五日間のことである。不吉であるため、家に籠る期間とされていた。ジャガー大神は、大晦日は『ウァイェブ』のようなものだろうと、考えていたのだ。マヤの民なら、この時期は、家中を掃き清め、かまどを掃除し、新年に備えるのだ。神々との交信が弱まる不吉な期間であり、邪神の関心を引かぬよう、身を慎み過ごさなければならないからだ。日本の大晦日も同じようなものと思っていたのに、この鐘の音は、どうにも我慢ならなかった。が、今は、人間の子どもとして過ごさなければならないので、耐えるしかない。それに、『煩悩』なんて、ジャガー大神には理解できない概念だった。数年日本で過ごし、顕が思春期を迎える頃、それも理解できるようにはなってくるのだが、それはもっと先の話である。


 元旦。

 厳龍寺は、一般公開はしていない。訪れる客もなく、静かな朝である。

 ジャガー大神は、今日もまた、普段と変わらない時間が静かに過ぎるのであろうと、勝手に考えていた。ところが、朝の六時、顕を起こしにきた美佐江は、そのまま顕を本堂の方へ連れていった。

「寒いから、綿入れを着たいです」

 顕は、お気に入りになった綿入れを握りしめ、美佐江に言った。しかし、美佐江は真面目な顔つきで、

「新年のご挨拶をするんですから、それは、終わってから着なさいね。ご挨拶は、きちんとした格好でするものなのよ」

 と、綿入れを着ることを許してくれなかった。そう言う美佐江自身も、今日は割烹着を脱いだ着物姿だった。

 仕方なく、シャツにセーター姿の顕は、美佐江に連れられ、凍えるように寒い本堂へ行った。

 ご本尊の前で、法衣姿の宗圓がすでに待っていた。そして、宗圓が読経する間、美佐江とともに顕は、石油ストーブの横で正座のままじっと待った。

 読経を終えた宗圓が、二人の方へ向き直り、

「新年明けましておめでとうございます」と、頭を下げて挨拶した。

 正座した美佐江が、

「新年明けましておめでとうございます」と、頭を下げて挨拶を返した。

 美佐江にならい、顕も同じように、

「新年明けましておめでとうございます」と、新年の挨拶を交わし合った。

 その後、お年玉をもらい、部屋へ戻ってきた顕は、綿入れを着て、今度は、居間へ降りていった。が、その朝の食事は、普段とは全然違っていた。席についた顕の前に、雑煮椀と、綺麗な皿に取り分けられたお節料理が置かれた。

「顕ちゃん、お餅を喉につまらせないように、少しずつ召し上れ」

(喉につまるだって…?どうして、そんな危ないものを新年から食さねばならんのだ)

 ジャガー大神は、月護教授の頭の中からゴッソリ写し取っていた記憶の中から、雑煮のイメージを捜し出した。しかし、月護教授の記憶の中にある雑煮は、東京育ちであるために、澄んだスープのようなものの中に、四角い物体=焼いた切り餅が入ったものだった。

 ところが、この家の雑煮は、教授の記憶にあるものとは、全然違う品物であった。白いポタージュのような液体の中で、微かに頭を覗かせる丸い餅と、餅以上に目立つ、芋のようなもの、そして、大根や人参が彩りよく配してあった。

 丸餅や切り餅を使ったり、白味噌仕立てや、澄まし汁など、雑煮は、地域によって特色があることは、もっと後になって知ることだった。

 宗圓や、美佐江が食べる様子を見ながら、顕も、恐る恐る、箸で餅をつまんでみた。箸でつまんだ餅は、切れることなく伸びて行った。

(ゴムみたいに伸びていく。これって、本当に食べても大丈夫なのか)

 ジャガー大神は、グアテマラのセノーテにいた時分には、カイマン鰐やボアという大蛇まで食べる悪食だった。なのに、白い柔らかな餅が入った雑煮には、過剰なくらいに警戒心を持ってしまった。

「顕ちゃん、頭芋かしらいもも食べてごらんなさい。おいしいわよ」

 勧められるまま、頭芋を口にした顕は、危うく喉に詰まらせるところだった。ジャガイモみたいなものだろうと予想していたが、食感は全く異なっていた。噛んでも、口の中でまとわりつくような違和感で、吐き出しかけたのを、お茶を飲んで、無理に呑み込んだ。

 口にする食べ物の、何もかもが、グアテマラのマルガリータの家で食べたものとはあまりに異なっていた。

(マルガリータの作った豆の煮込みが食べたい…)

 それは、人間ならホームシックと呼ぶべき思いであった。

「どう、顕ちゃん、おいしい?」

 美佐江の問に、顕は、うなずいた。

「おいしいです」

 見かけは子供でも、中身は立派な神様であるジャガー大神は、内心の思いを殺し、美佐江をがっかりさせまいと、元気よく返事した。

 黒い豆が器に盛られていたので、これなら食べられるだろうと思い、口に運んだが、これもまた予想外の味だった。スパイスの効いた豆の煮込みとは、似ても似つかないものだった。ジャガー大神は、またもやがっかりした。

(この豆は、どうして甘い味がするんだろう、豆をこんなに甘くするなんて、マルガリータなら、こんな味付けにはしないのに・・・ここは、異国だから仕方ないか。この味つけにも、そのうち慣れるのだろうか…ハアッ)

 マルガリータの家での暮らしが長く、グアテマラの料理にすっかり馴染んでしまったジャガー大神は、あまりに違う日本の食べ物に、戸惑いが多かった。予想したものと違い、がっかりするたびに、つい、マルガリータの事を思い出し、人間なら、寂しいとか、恋しいとかいう感情に襲われた。

 それでも、ジャガー大神は、そんな思いを面に出すことはなかった。

 お節料理は、子どもがあまり喜ばない料理だ。だから、少しくらいおいしくない顔をしても、宗圓も美佐江も気にはしないはずだった。しかし、ジャガー大神は、そんな知識がなかったので、ただ、彼らをがっかりさせまいと、一生懸命に平らげた。


 朝食を終えて一時間ほど過ぎた。

 台所で、後片づけを手伝った顕は、また、子ども番組をテレビで見ようと思い、居間の炬燵へ入りかけた。ところが、美佐江から声がかかった。

「顕ちゃん、手伝ってくれてありがとう。二階へ上がって、コートを着ていらっしゃい。初詣へ行きますからね。それから、手袋とマフラー、それに帽子もなさいよ」

「ハツモウデ?」

 何のことやら分からず、顕は、美佐江を見上げた。美佐江は、にこやかにうなずいた。

「顕ちゃんが、元気に、すくすく育って、いつかお父様みたいに、立派な学者さんになりますようにって、お祈りに行きましょう」

「お祈りに行くの?」

「そうよ。顕ちゃん、日本へ戻ってきて初めてのお正月ですもの。初詣にいかなくてはね。せっかくだから、近所の北野さんへ行きましょう。学問の神様、菅原道真公の神社よ」

「・・・・・・」

 顕は、無言で回れ右し、廊下へ出、二階へ上がった。

(日本の神の縄張りへ入っていくのか。慎重に気配を消さないと、見つかると厄介な事になるかもしれない)

 自分自身の神域を守るためなら、異国の神とも争うが、他国へやって来て、地元の神と争おうなどという気は、ジャガー大神には全然なかった。不用意に地元の神の神域に入って、もめ事を起こしたくはない。だから、何か言い訳をみつけ、断ってしまおうかと考えた。しかし、美佐江の話ぶりでは、初詣は、重要な行事のようだ。行きたくないとは、言い出しにくいし、まして、行きたくない理由も思いつかなかった。それに、地元の神が、どんな風だか見てみたいという、好奇心も湧いてきた。

 言われた通り、ダッフルコートを着て、美佐江が編んでくれたマフラーと手袋と、ぼんぼり飾りのついたニット帽を被ると、顕は、下へ降りて行った。


 宗圓夫婦が年末の行事で忙しいさ中に連れてこられた顕は、今日初めて寺の外へ出た。

 寺の敷地の正面は、車の往来が激しい道路に面している。歩道は一応あるが、自転車の通り道を兼ねている。学生の多い界隈なので、朝方は、遅刻しまいと必死の形相で、中高生や、大学生が、猛スピードの自転車に乗って、走り抜けていくのだ。が、今は冬休みのさ中、加えて、正月で近所の店も休みなので、人通りも少なく、静かだった。     

 マルガリータの家で、一年余を過ごしていたので、ジャガー大神は、昨今の、人間の暮らしぶりにもかなり慣れていた。しかし、ここは日本という異国の地、自動販売機や、電信柱、焼き板に漢字と仮名書きの店看板など、見慣れないもの、珍しいものが多く目に入ってきた。顕は、行きかう車や、晴れ着を着てのんびりと歩いていく人々の様子を視線で追った。

 キョロキョロと視線を動かす顕の様子に、美佐江は、一緒に出掛けることにしてよかったと、微笑ましく見守った。

「さあ、車に気をつけて、その角の交差点を渡りましょうね」

 海老茶色の暖かそうな色合いの、小紋の着物の上に、黒い天鵞絨ビロードの道行と、モヘアのショールをまとった美佐江に手をひかれ、数十メートル先の交差点へと、顕は歩いた。


(あんな所に、祠がある)

 交差点の端、軒を連ねる家々の先に、半坪ほどの空地があり、そこに、小さな祠があった。長い年月、風雨に曝され、木肌の艶も褪せた祠の、格子状の小さな扉から、白い水干姿に、折れ烏帽子を身に着け、無精ひげを生やした男が、ふわりと漂い出て来た。

(あれは、神か?知らんぷりしておこう)

 顕の中のジャガー大神は、祠から出て来た神の気配をいち早く察知し、自分の正体が知られないようにと、用心した。

 ところが、水干姿の神は、顕を目指して真っすぐに漂ってきた。神力の弱い、辻を守護する神で、スズメくらいの大きさしかなかった。そして、顕の顔の周囲を漂いながら、のぞき込んできては、ぶつぶつと独り言を言い出した。

「ほう、厳龍寺のご夫婦には、子どもがまたできたんかいな。いや、違うな。これは、孫か。いや、お嬢は学生のはずやし、ぼんは、本山で修業中のはずじゃ。では、一体この子は誰の子じゃ。住職め、外で女遊びでもしよったんかいな。まあ、あの堅物の宗圓に限って、あり得んことじゃが…おーい、皆の衆、こっちへ来てくれ。見かけない子どもがおるんじゃ」

 その神が、あたりへ呼びかけると、狩衣姿や、武士の姿、白い袋を担いだぽっちゃりした男神や、蛇の神や、黄金色のキツネ姿の稲荷神やら、地蔵さん、女神まで、どこからこれほどたくさん集まってきたのか、というくらい、大勢の神がやって来た。

(何でこんなに大勢、一斉に集まってくるんだ。他にやる事があるだろう。新年なんだから、自分の神域を守っていたらどうなんだ)

 ジャガー大神は、ぶつぶつと独り言ちたが、そういうご自身も、神域のセノーテから抜け出してきているのだから、何を言わんかである。

 集まった神たちは、この子は、一体誰の子だと、ああでもない、こうでもないと、議論し始めた。京の都の神々は、無垢な子どもの事を、決して放っておいたりはしない。この辺りに住まう神々も、初めて見かける子どもだという辻神の呼びかけに応じ、わざわざ見物に来たのだ。

「やっぱり、子どもはええなあ。可愛いわ。ほれ、ぼんぼりついたショウチャン帽、よう似合ってはるわ。縞柄のマフラーも可愛いらしいわ。美佐江はんの、手編みやね。温かそうで、羨ましいわ」

 真冬なのに、透けんばかりの薄い衣姿の女神が、顕の右肩に腰かけて言った。顕は、声に反応しないよう、視線を歩道へ落したまま、美佐江に手をひかれ歩き続けた。

 神々が、ガヤガヤと押し寄せてきても、子どもには、その姿は見えないものだ。従って、のぞき込まれても何の影響もない。その事を分かっているので、顔の間近まで近寄ってはのぞき込み、自由に言いたいことを、はばかることもなく言い合っているのだ。しかし、ジャガー大神には、のぞき込んでくる神たちの姿も全部見えているし、お喋りの内容もまる聞こえだった。だからと言って、うるさがったり、鬱陶しく思う素振りを見せたり、視線が合ってしまうと、こちらも見えていることに気づかれてしまう。そうなれば、自分たちの姿が見えるこの子どもは何者だと、ますます興味を持たれ、面倒なことになってしまう。ジャガー大神は、神々にその事を気づかれないようにするために、密林の奥に潜むUMA(未確認生物)を撮影しようというカメラマンなみの、用心深さを発揮しなければならなかった。

 結局、天満宮の、一の鳥居の前に到着するまでの半時間あまり、顕の周りには、神たちが集まり騒いで、お祭り状態になっていた。もういい加減、付きまとわれて、げんなりとした頃に、美佐江の目的地が天満宮であると知り、それではと、菅公に遠慮して、やっと離れていってくれたのだ。


「顕ちゃん、ここが道真公をお祀りする、『北野さん』ですよ」

 北野天満宮というべきだが、地元で慣れ親しんでいる者にとっては、ここは『北野さん』なのだ。

「キタノサン?」

 道路脇からすぐに始まる境内に、石作りの大きな鳥居がそびえ立っていた。今日は、その鳥居の辺りから、奥の本殿まで、初詣客がびっしりと並び、大変な混雑ぶりだった。


(うるさい…ものすごく、うるさい・・・・・・・・)

 顕の中のジャガー大神は、背中の毛を逆立たせて、唸りたい気分だった。うるさく感じるのは、他人の話声や、騒音ではなく、あたりに充満する、人々の強い思念のためだった。

(どうか、今年こそ、合格させてくれよ。お願いだよ)

(今年すべったら、俺、四浪なんです。お願いです。絶対合格させてくれ、お願いだあぁぁっ)

(田中君と、同じ大学に受かりますように)

(うちの子の私学高校入試が旨くいきますように、うちの子を絶対受からせてやってください)

(合格、合格、合格、東大一直線っ)

(絶対現役合格させて、どこでもいいです。予備校に行く金がないんです)

 何百人、いや何千人もの人々が集まり、てんでに、自分や家族の望みを、胸の裡で必死に唱えている。それは、丁寧な口調であったり、絶叫型であったり、連呼したりと、様々だった。何千人もの、祈る思いが、わんわんと辺りに充満しきっていて、ジャガー大神の耳にまっすぐ飛び込んでくるものだから、うるさくてたまらない。

 受験シーズンが始まり、天満宮は、学問の神、菅原道真公を祀る神社とあって、参拝客は、受験生やその関係者が大部分を占めていた。その祈りは、真剣そのものだ。

 大学に受かるとか、入試がどうのこうのとかいうのは、ジャガー大神には、理解ができない内容ではあったものの、望みが叶うようにと祈る必死の念は、確実に伝わってくるのだ。何百年もの間、セノーテの水底深く、闇の世界で気楽に隠棲していたジャガー大神は、久しぶりに大勢の人々の真剣な祈りに接して、その瀑布のような勢いに、すっかり圧倒されてしまった。

 美佐江は、ジャガー大神の事情など全然分からないものだから、顕の手を握り、鳥居から境内へと入っていった。

 途中、参道を外れ、美佐江の指導のもと、手水ちょうずを使い、冷たい水で、手を洗い、口をゆすいだ。それから、また、参道に戻ったジャガー大神は、手を引かれたままでは引き返すこともできかね、諦めて楼門を通り抜け、群衆の列に並んだ。顕は、人込みの中に頭まですっかり埋まってしまい、前も後ろも全然見えなくなった。美佐江の手を握りしめ、人込みの中を必死でついて行くしかなかった。参道を、大勢の参拝客がゆっくりと進んでいく。その進行する流れに身をまかせるしかない。

「顕ちゃん、はい、十円。これを、あとでお賽銭箱へ投げて、お祈りするのよ」

「はい…」

 美佐江に渡されるまま、顕は、十円を握りしめた。

(これほど大勢の者たちの念が渦巻く中に鎮座する道真公とは、どれほど大きな神力を持った神なのだろうか)

 ジャガー大神は、人々の祈りの念や、雑念が渦巻く中で、未知の、日本の神の一柱である道真公への期待を膨らましていた。

 やっと三光門が間近くなった時、美佐江に声をかける者があった。

「あら、美佐江ちゃん、お久しぶり」

「あら、百合ちゃん、こんな所でお会いするなんて、何年ぶりかしらね、お久しぶり」

 百合というのは、美佐江の女学校での同級生だった。会うのは、何十年ぶりかの事で、驚いた美佐江は、顕の手をうっかり放してしまった。が、その事に気が付かないまま、百合と夢中でお喋りを続けた。

 三光門の前辺りは、最も人が密集しているため、顕は、人の流れに押され、美佐江から離れてしまい、迷子になってしまった。人込みから脱出したくて、顕は、参道の脇へ出た。美佐江を見つけようと周囲を見回したが、自分より背の高い人ばかりなので、何も見えなかった。


『助けてえ、祠へ戻らせてくれえ』

 突然、人間には聞こえない叫び声が、顕の耳へ飛び込んできた。声の主は、と捜すと、肩からずり落ちそうに着崩れした真っ白な神衣を纏う、老神だった。老神は、ヨロヨロと、群衆の流れをつっきろうと苦労していた。が、長時間の行列を我慢し、やっと三光門へたどり着き、初詣を済ませようと気合満々の若者にぶつかり、転倒してしまった。

『助けてええ、踏みつぶされるう』

 老神は立ち上がることができず、人込みの中で、恐慌状態になっていた。が、顕のいる場所からは距離があって、助けは間に合わない。両腕を突き出し、足を避けようとあがく老神の顔面を、汚れた運動靴を履いた若者の足が、その姿に気づかないまま、踏みつけようとしていた。

(駄目だっ、間に合わない、仕方ない)

 ジャガー大神は、やむを得ず、神力をほんの一瞬解放した。三光門の手前が真っ白な閃光に包まれた。寸毫すんごうにも満たない、ほんの一瞬のことだ。が、眩しい光の中で人々の動きが止まった。光の帯が、老神の体を捉え、巻き付くや、一瞬で顕の前へ引き寄せた。

「誰だっ、こんな所でフラッシュ焚くなんて非常識だろ」

「本当よ。目が悪くなるじゃない」

 眩しさに目の眩んだ男女が声を上げた。

(しまった、よりによって、こんな場所で、神力を使ってしまった。どうしよう…)

 ここが神域の中であることを失念し、今にも踏みつぶされそうな老いた神の姿に、つい神力を解放してしまったジャガー大神は、うろたえた。

 助けられた老神は、ヨロヨロと覚束ない動作で立ち上がると、顕へと向き直った。

「ふう、助かりました。ありがとう。うっかり杖を忘れてしまったら、このざまじゃ。それにしても、あなた様は、随分、力がおありじゃなあ」

 襟元がすっかりはだけてしまい、ガリガリに痩せ、肋骨の浮き出た胸が、丸見えである。

「ご老神、襟を直した方がいいですよ。寒いでしょう」

 顕は、今さら、見えないふりをする訳にもいかず、老神へ、引き攣ったような、微妙な笑顔で、話しかけた。

 老神の背丈は、顕より、頭一つ分高かった。小柄な体つきだが、その全身は、淡い神気の光に包まれていた。柔和な顔立ちで、長く伸びた真っ白な髪は、後ろで束ねてあり、顔の下半分は、胸元までとどく見事な白髭に覆われていた。

「あれまあ、衣がはだけてしまっておる。これは、失礼しましたな」

 と言いながら、老神は襟元を直し、髭の乱れを、右手でしごいて整えた。そうしながら、目を細めて顕を見た。

「ひょっとして、神が降りておられるのか。そうであろう。先ほど、わしの為に、人の流れを止めてくだされた。あの時、あなた様の神気の光が、ほんの一瞬ではあったが、見えましたぞ。このような、ひどい人込みの中で、助けていただき、礼を言いますぞ。しかし、どこから来られたのか。まったくお見かけしない、気高い神気をお持ちのようじゃが―」

「いや、あの、その…ご老神は、こちらの主神ですか?」

 込み入った事情を説明するには、あまりに人が多く、時間もない。まさか、この神が、この神域の主神だったらどうしようと、ジャガー大神は、老神の正体を探った。

「ハッハッハッ、まさか、違いますじゃ。わしは、ここの摂末社で、間借りさせてもらっておるのです。菅公は、箱根駅伝をどうしても生で見たいと、明日でもよさそうなものを、今朝から東京へ出かけてしもうたので」

「ハコネエキデン?」

 その時、顕を見失っていた美佐江がやって来た。

「顕ちゃん、ごめんなさいね。うっかり手を放してしまって。さあ、行きましょう」

「はい」

 手を引かれた顕が振り返ると、間借りしているという祠へ、老神は戻りかけていた。祠から半身を乗り出した老神は、顕へ声をかけた。

「松の内が終わったら、この境内は、空いております。遊びにいらしてくだされ。あなた様の話を、このわしに聞かせてくだされ」

(マツノウチ?何それ…)


 老人と別れた後、顕は、美佐江に再び手を握られ、人込みの中もみくちゃにされながら、三光門から何とか初詣を済ますことができた。


 顕は、寺へ帰る途中、美佐江に、

「伯母さん、『松の内』って、何日までですか」と、尋ねてみた。

 すると美佐江は、

「あら、顕ちゃん、そんな言葉をよく知っていたわねえ。偉いわね」と褒めてくれた。続けて、美佐江は、

「松の内が明けるといってね、京都のあたりでは、一月十五日なんだけれど、その日でお正月行事は終了し、翌日からは日常に戻りましょうという、けじめをつけるのよ」と、教えてくれた。

 その後、ついでに『ハコネエキデン』のことも教えてもらい、一月二日と三日にかけて、じっくり見て楽しんだ。宗圓も駅伝好きなので、二人仲良く、炬燵でテレビ観戦したのだ。

 三が日を過ぎると、顕は、美佐江の買い物について行ったり、ひとりでおつかいに行ったりして、寺の近辺の土地鑑が、出来上がってきた。そして十五日が過ぎ、松の内が終わった。


 十六日。

 その日は晴天だった。顕は、ご老神と、また話がしたいので、会いに行くことにした。それで、近所で遊んでくると言って、小遣いの入った財布と、ハンカチとティッシュをポケットに入れて、徒歩で『北野さん』へやって来た。

 美佐江から教わった通り、手水舎で手を清め、口をゆすぎ、牛の彫像や、摂社を脇に見ながら参道を進み、老神に出会った祠を訪ねた。

「ご老神、いらっしゃいますか」

 顕は、お参りする風を装い、祠の前で一礼し、柏手を打ちながら老神を小声で呼び出した。顕の呼びかけに応え、白い神衣姿の老神が、祠の中から姿を現した。今日の老神は、自分の背より、まだ頭一つ分長く、湾曲した先に瘤のついた、古びた杖を持っていた。

「よう来られました」

「杖、見つかったんですね」

 顕が杖を指さすと、老神も杖の先を見上げて、微笑んだ。

「さよう、見つかりました。先日は、ご厄介をおかけしましたな。大晦日に、菅公の呼びかけで、境内の摂末社の神様も集まり、宴会があったのじゃ。飲み過ぎてしもうて、寝坊してしまいましてなあ、杖を置き忘れたまま、祠へ大慌てで戻ろうとしておったのです。まったく、お恥ずかしいところを、お見せしてしまいました。ここで立ち話も、何でしょうから、絵馬所へ行きましょうぞ」

「エマショ?」

 意味が分からないまま、顕は、老神の言葉をオウム返しに発声した。

「願掛けの絵馬、簡単に言えば、願い事と絵が描いてある板を絵馬といいましてな、絵馬所とは、その絵馬を奉納してある建物のことですじゃ。さあ、わしについておいでなされ」

 主神である菅公の鎮座する本殿にも上がらず、顕は、老神の先導で、また三光門から逆戻りし、楼門との間の敷地にある、絵馬所へやって来た。

「ところで、あなた様は、なんと名乗っておられますかな」

「はい、月護 顕といいます。厳龍寺でお世話になっています」

「ほう、顕さんと言いなさるか。実はのう、先日のことを、ある方に、お知らせしたのじゃ。あなた様は、どうやら、この辺りの神ではいらっしゃらんようじゃから。そのお方に、相談した方がよろしかろうと思いましてな。もうすぐ、絵馬所へ来られるはずなのじゃ」

「相談って、それって、やっぱり、神…様ですよね」

「なあに、気難しい方じゃないから、心配無用じゃよ。先日は、危ない所を助けていただいたのだから、それについて、問題になったりはしませんとも」

 ジャガー大神は、老神を助けるためとはいえ、神力を解放したことを激しく後悔した。

(まずいなあ、すぐさま、この国から出ていけと言われたら、どうしよう…この子どもの体のメンテナンスを、他の神が、見てくれればいいのになあ)

 父親との誓約がある以上、顕の体を生かせてやらねばならない。この国から追い出されたら、体から離れてしまい、生気を循環させることができなくなってしまうのだ。誰か他の神に、その面倒な作業を押し付けることができればいいのになと、ジャガー大神は、一瞬、都合のいい展開を想像してしまった。


 由緒ありげな、巨大な奉納絵馬が何枚も掲げられた、大きな絵馬所が見えてきた。この絵馬所は元禄期に建てられたもので、瓦葺の屋根の下は、柱だけの吹き曝しで、木製の長床几が、休憩に使えるようにと、ずらりと設えてあった。そこに、和服姿の、年配の婦人がひとり、腰かけていた。老神の姿に気が付いた婦人は、長床几から立ち上がった。

(エエッ、女神…なのか)

 ジャガー大神は、今すぐ回れ右し、全力疾走で逃亡したくなった。と、いうのも、ジャガー大神は、地上界で長らく暮らしてきたのだが、その間、女神に関わりを持つと、十中八九、災難が降りかかってきたのだ。だから、女神の神気に気が付いた瞬間、ジャガー大神は、エンジン全開のスポーツカーなみの勢いで、逃げ出すことにしていた。

「これこれ、そのように神経質になることはない。落ち着きなされ、女神ではあっても、律子りつこさんは、竹を割ったように、さっぱりとした気性のお方じゃ。男神の鼻づらを持って、引き回すような女神ではありませんからな」

 顕の動揺に気が付いた老神は、落ち着かせようと声をかけた。ジャガーの姿だったら、そんな言葉を無視して、逃げ出していたところだ。しかし、今は、小さな子どもの姿なので、走ったところで、追いつかれてしまう。ジャガー大神は、逃げることを早々に諦めた。

 律子と呼ばれた女神は、雪を冠った松と笹の柄を裾にいれた、淡い利休鼠りきゅうねずの無地のあわせに、袷よりも濃い色合いの羽織姿であった。紺鼠の帯には、雪模様が細かく織り込まれてある。髪は、風変わりな形に結い上げてあった。日露戦争の頃に流行した、二百三高地髷にひゃくさんこうちまげである。

「あら、まあ、可愛らしいお子さんじゃありませんか。坊や、お名前は何というの。お年はいくつなの?」

 律子さんは、顕に近寄ると、腰を屈め、顕の目の高さへと、わざわざ自身の視線の高さをあわせて、話しかけた。律子は、きりっとした顔立ちで、話しぶりもしゃきしゃきしている。ジャガー大神が恐れる、気まぐれで、行動予測が不可能な女神たちとは、印象が随分違っていた。

「はい、名前は、月護 顕といいます。年は、ええっと六歳です。次の誕生日で、七歳になります」

 律子は、うんうんと頷きながら聞くと、

「本当に可愛らしい坊やねえ」と、言いながら、ご老神の方を見た。

「ご老神は、この子が、神力を、あなたを助けるためにふるったというのね。本当なの? この子はどう見ても、人間よ。神が降りているのなら、私には、そのお姿は、絶対に見えるはずなのに、この子からは、何も見えないわよ。気配も、何にもないわ」

「それが、まったくもって摩訶不思議なんじゃ。だから、律子さん、あんたに来てもらったんじゃよ。この小さなお子が、元旦の、あの混雑の中で、誰にも怪我をさせる事なく、わしを助けてくれたんじゃ。あんな風に神力を揮うのは、人を大勢なぎ倒すより、もっともっと難しいことじゃよ。それを、この子に降りておいでの神は、あっさり、してのけられたのじゃ」

 律子さんは、立ち上がり、唇に人差し指を当てて考えこんだ。目の前にいる顕と名乗る子どもは、あどけない顔つきで、手編みのぼんぼり付きのショウチャン帽に、手編みのマフラー、青色のダッフルコートを着、その背丈はというと、自分の胸元にやっと届くくらいの小柄さだ。自分を見上げる瞳も、無邪気そのものにしか見えない。この子が、本当に神だというのなら、確かめる方法は唯一つ、律子さんは腹をくくった。

「分かりました。ご老神、後ろへ下がっていてください」

「おおっ、律子さん、ここであれをやるのかね」

 そう言いながら老神は、慌てて後ろへ下がった。

 律子さんは、右手をあげ、「キエイッ、」と気合を発するや、結界を張った。そして、カッと目を見開き、顕の目をのぞき込んだ。

(うわあああっ)

 顕は、闇に呑み込まれ、墜落した。その闇の向こうに、灼熱のマグマが現れ、凄まじい熱波が襲ってきた。赤黒く煮えたぎるマグマの中から、高熱のガスが気泡となって湧き上がり、破裂した。マグマが四方へ血潮のように飛び散った。それは数百丈もの高さとなり、顕めがけて降り注いだ。足元には、マグマがうねり荒れ狂い、高波となって襲いかかる。顕の体は、高熱に曝され、みるみる黒く焼けていった。

 結界の中とはいえ、これほど高熱のマグマを、突如出現させる力は、地球のコアエネルギーに直結する大地母神でなければ、不可能だった。

「さあ、その子の体を何とかなさい。あなたが神ならば、容易いことでしょう。私の結界の中で起こることは、あなたが破らない限り、現実と同じことですよ」

 厳しい声が、宣告した。律子さんは、顕に降りた神の正体を探るため、自身の力を、結界の中で解放してみせたのだ。

(何という、おっかない女神さまだ。極め付きの大地母神さまとは・・・また、こんな展開になって・・・女神が絡むとろくなことにならない、さっさと逃げればよかった)

 灼熱のマグマに囲まれ、絶体絶命の崖っぷちのはずにしては、ジャガー大神は、落ち着きはらい、ぼやきまくる余裕さえあった。

 ブツクサ言いながら、ジャガー大神は、顕の体の周りに、光の結界をつくり、体の損傷も大急ぎで治した。しかし、律子さんは、容赦なく、マグマを火焔の竜巻へと変え、ジャガー大神の結界を破ろうとした。

 それを受けたジャガー大神は、ついに奥の手を出した。真っ白な閃光を結界から全方位に放射し、律子さんの結界をガラスのように粉砕し、粒子化し、吹き飛ばした。

「これは、『始原の光』…すべての物質を粒子と化し、無へと還す光・・・・・・」

 まばゆい光によって粒子と化した結界が、キラキラと輝きながら虚空を舞い、果てしなき時空の闇の底へ、ゆるやかに降下していく。律子さんは、花吹雪のように舞い上がっては、緩やかに降下する、光の粒子の中に佇み、その美しさと荘厳さに陶然となった。


 氷河期が終わる以前、今現在地上の世界に鎮座する神々とは、まったく異なる神々が地上を治め、人々に崇められていたという伝説が、神々の世界に伝わっていた。『始原の光』を操る超古代神の話は、その伝説の中のひとつだ。が、その神の姿を知るものは、律子さんの知る限り、誰もいない。いにしえの神々の伝説は、まだ女神の位につく以前の幼い頃に、母女神が話してくれたものだ。その伝説に現れる神々の話は、大層おもしろく、母女神にせがんでは何度も話してもらい、内容をすっかりそらんじるまでになった。律子さんは、顕に降りた神が放った光は、伝説の神が操る『始原の光』に相違ないと確信した。


「本当だわ、ご老神、あなたのおっしゃった通りだわ。この方は、正真正銘の、大神に間違いありません。失礼いたしました」

 律子は、顕を見下ろしたまま、心底驚いた様子で謝った。そこは、北野天満宮の境内、競ったのは、結界内でのことなので、現実世界には、何の変化も生じてはいない。

「いきなりなんで、驚きましたよ。酷いじゃないですか」

 顕は、ふくれっ面で、律子さんを見上げ、抗議した。

「そりゃ、抜き打ちでしないと、効果がないじゃありませんか。そこは、こらえていただかないと…でも、あなたの姿は、全然見えなかったわ。一体どういうこと?姿が見えないなんて、一体どういうことなの。私の結界の中で隠形術なんて、使えるはずがないし」

「ええっと、それはですね。説明すると長くなります。ハックシュン」

 顕はくしゃみをし、鼻をすすった。それから、ティッシュをポケットから出して、鼻をかんだ。

 律子さんは、顕の額をそっと触った。

「ここにいては、体が冷えてしまうわ。ちょっと場所をかえましょう」

「わしも、行ってもいいじゃろう」

 ご老神は、期待を込めて尋ねた。境内の外へ出たくてたまらないのだ。

「でも、その見えないお姿でついてこられてもねえ…」

「ならば、人の姿になろう。初詣のあとじゃから、神気は満タンで、今は元気一杯なんじゃ、ちょっとくらい外出しても大丈夫じゃ」

 ご老神は、律子さんを見上げ、一生懸命アピールした。

「神気の無駄使いなんて、なさらないでくださいな。それくらいなら、私が何とかしてさしあげます」

 ご老神の熱意におされ、律子さんは、同行することを承知した。


 上品なご婦人と、大きな杖を手にし、真っ白な髭を生やした羽織袴姿の好々爺に連れられた、お参り帰りの孫といった感じで、顕は、上七軒の、とある喫茶店へと連れて行かれた。

 町屋風の、薄暗い店内の席に落ち着いた律子さんは、自分とご老神のためにホットコーヒーとミックスジュース、それに、この店の名物である卵サンドを注文し、顕には、ホットミルクとホットケーキを注文してくれた。注文を受けた店員が、先に飲み物を持ってきた後、律子さんは、顕を問い質した。

「さあ、もう結界を張ったから、店の人たちに、私たちの話は聞こえません。何でも話して大丈夫よ。では、まず、どこから来たのか教えてくださいな」

 律子さんの問いに答えて、話し始めたジャガー大神の口調は、もう、子供らしいものではなく、父親の明宏の口調となっていた。それは、明宏の記憶をごっそり走査し、写し取ったためだった。

「現代の人たちが、グアテマラと呼ぶ国からです」

「グアテマラですって、随分遠いところから来られたのねえ」

「どこにあるのじゃ、そのグア何とかっていうお国は?」

 ストローでジュースを飲みながら、ご老神は、質問した。地理に明るい律子さんと違い、長い間、京都の町から外へ行ったことのないご老神には、全然分からない場所だった。

「太平洋の海を渡ったはるか彼方、中南米にある国です」

 竹のように背筋をしゃんと伸ばして腰かけ、上品にコーヒーを啜りながら、今度は、律子さんが尋ねた。

「それで、どうして、その子どもに、あなたが降りているの。その子の魂は、もう、ここにはないようだけれど」

 律子さんの鋭い神眼は、すでに、本来あるはずの、子どもの魂が失われていることを見破っていた。

「私は、もともと、グアテマラのジャングルの奥深く、地元の人々がセノーテと呼ぶ、泉の奥底で眠っていたのです。大昔には、マヤの人々が私の事を厚く敬い、色々な祭事を行っていた記憶はあるのですが、いつしか人の訪れは間遠くなり、私は、恐らく千年余りの間、眠りについていたのです。それが、ある日、突然、人の体から流れる血の匂いで目が覚めたのです」

「血の匂いですって…」

 律子さんは、顔色を変え、袖をひるがえすやたもとで顔を覆った。顕は、きょとんとして、律子さんの不思議な仕草を眺めた。

「日の本の神々の大半は、人でも動物であっても、生き物の流す血は穢れとして、忌むものなんじゃよ」

 ご老神が、顕に、律子さんの仕草の理由を説明してやった。

「失礼しました。私のいた地域では、神に対しては、放血儀式を行うことこそが、最高の捧げものであると、人々は信じていたのです。穢れに触れる話題になって申し訳ありませんが、先へ進みますね」

 ジャガー大神は、律子さんに謝りながらも、血を流すことについて、説明しないことには先に進めないので、そのまま話し続けた。

「私の目の前に、小さな子供が浮かんでいました。実際には、水底にいたので、沈んできたのですが、私の目には、浮かんでいるように見えました。その子は、首元をすっぱり切られて酷いケガをしていました。名を訊くと、顕と答えました。もう、助かりそうもない状態なので、そなたの願いは何かと尋ねたのです」

 顕は、ホットミルクを一口飲んで、喉を潤すと、続きを話し始めた。

「子供は、ただ、お母さんとお父さんに会いたい。寒いと答えました。もう、ひどく弱っていて、魂が今にも体から離れそうな状態でした。顕が心の底から願っていることを、自身の血を捧げられた以上、私は叶えてやらねばなりません。私は、顕を自身の中で保護し、生気が再び体の中を巡るようにしようとしました。が、私も目覚めたばかりで、力が出なかったもので、困ってしまいました。泉のほとりでは、子どもを池に投げ込んだ者たちが、まだ、バカ騒ぎを行っていました。連中は、自分たちの願かけが叶うだろうかと、おもしろ半分で、私の眠るセノーテへ、顕を投げ込んだのです」

「まあ、何て酷いことを…」

「全くじゃよ」

 律子さんは、まさに眼前で、その様を目にするような思いだった。神を、おもしろ半分にからかうような行為は、断じて許されないことだ。それは、日の本の神である律子さんも、一緒にいるご老神も、同じ考えだった。

「私は、連中を罰しました。ジャガー姿で、泉のほとりに降り立ったので、詳しい事は省きます。ただ、その時の痕跡のために、顕の父親は、子どもが死んだのだと思い込み、すっかり諦めてしまって、日本へ帰ってしまったのです。父親が帰国したことを知らなかった私は、両親に会いたいという、子どもの願いを叶えることが、すぐにはできなくなってしまったのです。顕はひどく衰弱していたので、顕を通して、両親の行方を捜すことができなかったのと、私の神域から、それほど遠い所へ帰ってしまったとは知らなかったので、私の力では、見つけることができなかったのです」

 ジャガー大神は、淡々とした口調で話し続けた。それでも、ジャガー大神なりに、顕の願いを何とかして叶えてやろうと手を尽くしたのだということは、律子さんにも、ご老神にも、十分伝わった。

「私は、顕を泉の水底に留め、私の力で、辛うじて生気を循環させながら、一年余りを過ごしました。が、人の子を冷たい水底で、いつまでも養えるものではありません。それで、私に縁のある者の子孫で、信頼の置けそうな者を捜し出し、その者のところへ、顕を連れて行ったのです。

 そんなある日、グアテマラに戻って来た父親が、地元のシャーマンである、アッハキッヒの一人が行う、死者の弔いの儀式に参加したのです。祭儀の場に現れたのは、シバルバーの精霊でした。父親の捧げものを受け入れかけた精霊は、顕が私の保護下にあることに気が付くと、畏れをなし、父親の捧げものには手を付けずに、私へ寄越したのです。そのお蔭で、私は、やっと、顕の父親と接触することができたのです」

「質問があるんじゃが、シバルバーってのは国の名かね」

 ご老神が、店員の持って来た卵サンドのボリュームに感動しながら、ジャガー大神に尋ねた。

「マヤの人々が考えるシバルバーは、地下にあり、死者が住む国で、たぶん冥界というのが近いかと思います」

「なるほどのう、それで、その後どうなったんじゃ。父親と感動の対面を果たしたのじゃろう」

 顕の席へ、ホットケーキが運ばれて来た。その甘い香りに、口の中に唾が湧いて来て、顕は、ゴクリと喉をならした。が、グッと我慢して、話を続けることに、意識を集中した。

「私が、顕を委ねるために捜し出した者たちは、私の眠っていたセノーテからは、随分離れた場所に住んでいました。顕の父親は、私がいる場所を探すのに時間がかかり、また、遠方であったために、すぐに来ることができませんでした。それでも、何とか捜し出し、都合をつけて、私のもとへやって来ました。それで、顕の願いのうち、父親に合わせてやることは叶えてやれました。

 ところが、母親は、一緒には現れなかったのです。なぜだろうと、父親の心の中を調べると、二人は、顕が死んだと思い、夫婦仲がこじれて離婚していたのです。それで、母親の方は日本に帰ったままで、願いを叶えてやるためには、顕が日本へ戻らなければならないことが分かったのです」

「それで、わざわざ、遠い日の本へ来られたわけなのね」

「私の神気を入れないと、体の生気を保つことはできなかったのです。やむなく、私は、自身の神域を、離れることにしました。けれど、私は、事を簡単に考えすぎていたのです。京都へ来て、顕を、母親と対面させることはできましたが、私は、母親の精神状態を、まったく理解していませんでした。母親は、子供は死んだものと思い込んでいたので、生きている我が子の姿を見ても、すぐには受け入れることが出来なくなっていたのです。意識下では、現実が理解できない状態、無意識化では、我が子の魂が、すでに、体に留まる力を、失っていることに気が付き、対面するなり、激しく拒絶してしまったのです。それは、もう、突風のような猛烈な拒絶で、それが、顕の魂を、母親に触れ合わそうと、私が魂を離した瞬間に、襲いかかったのです」

「・・・・・・」

 律子さんとご老神は、言葉もなく、顔を見合わせた。

「衰弱し切った幼い子供の魂です。そのような拒絶にあっては、ひと溜まりもありません。霧散してしまいました。あまりに突然のことで、あの時、私には、どうすることもできなかった」

 ジャガー大神は、ひと呼吸おき、また、淡々と語り始めた。

「ところが、その後、一旦、部屋を出て行った母親が戻ってきて、何度も謝るのです。そして、顕が生きて帰ってくれて、嬉しいと泣いたのです。そんな様子の彼女に、子どもは、もう死んだのだと、告げることは、私にはできませんでした。私は、その晩、東京にいた父親の夢枕にたち、真実を告げ、父親の願いを尋ねました。父親は、別れた妻といえども、これ以上悲しい思いをさせることは忍びない様子でした。そして、例え、魂がなくとも、顕の肉体を、生かしておくことを願ったのです。それで、私は、顕の体の奥底に隠れ、この子の体を守ることにしたのです」

 律子さんも、ご老神も、目からウルウルと涙を流し、ハンカチで目頭を押さえ始めた。

「なんとまあ、痛ましい話なのでしょう。その子の魂は、霧散してしまったというのですね。そうね、私も、あなたの判断は正しいと思いますよ。生みの母親と子どもの間には、不思議なつながりがあるのです。母親が正気では受け入れがたいと思っている子どもの死を、本能では気が付いていたのでしょうね。だからと言って、それを正気のままで受け入れることはできないでしょうから、あなたが、子どもの体を守ってやることは、母親を守ってやりたいという、父親の願いに沿うことだと思いますよ」

「全くじゃ。自分自身が知らぬまに、我が子の魂を、自らの言葉によって送り出してしまうとは、哀れな母よのう」

 律子さんと、ご老神が、感動し切っている傍らで、話を終えた顕は、そんな事には無関心で、ホットケーキを夢中で食べていた。ホットケーキは、甘いシロップとバターの香が立ち昇り、おいしくて食べやすかった。美佐江の出してくれるおやつは、仏様用のお供え品のおさがりが多く、羊羹に、まんじゅう、せんべいの、日替わり状態だった。だから、バターとメープルシロップの香りが際立つ、ホットケーキの味は格別だった。あんこやせんべいとは全然違う食感で、グアテマラで、マルガリータが、オーブンで焼いてくれたケーキを思い出した。

 顕は、マルガリータの優しく微笑んだ顔を心の内に思い浮かべ、幸せな思いに満たされた。春のひだまりのような、柔らかで、穏やかな感情が、顕の心の内から湧き上がり、周囲にまで、暖かな春の日ざしのように広がった。律子さんも、ご老神も、その純粋で、穢れのない暖気の放射に包まれて、うっとりとした。

 気持ちの良さにうっとりしていた律子さんは、再び用件の続きを思い出し、尋ねた。

「そうだわ、あなたの神名は何とおっしゃるの?」

 顕は、ケーキを口に頬張ったたまま、きょとんとした顔をした。ケーキを飲み下すと、律子さんの問いに答えた。

「神名ですか。地元の人々は、私のことは、闇の大バラムすなわち闇のジャガー大神と呼んでいました」

「ジャガー?あの豹みたいな、大きな猛獣でしょう」

「はい、闇のジャガー大神だと呼んで、怖がっていました」

 律子さんは、首をひねった。

「それは、変だわ」

「変ですじゃあ」

 ご老神も、不思議そうな顔をした。

「ヘンって、どういう意味ですか」

 顕は、フォークに突き刺したホットケーキを皿の上で動かし、メープルシロップをできるだけしみ込ませようとしながら尋ねた。

「あなたが使った力は、獣神が使えるような類のものではありませんよ。それに光を操るあなたに、闇という言葉が使われるのも変だわ。あなたの力は、明らかに大神がお使いになるものです。ジャガーがどれほど強力な力を持とうとも、そのような神につけられる神名ではありませんよ。人間の目だって、そこまで節穴ではありませんもの」

 律子さんが喋っている間に、顕は、最後の一切れに、シロップをたっぷり滲み込ませて口に入れた。

「フシアナ?」

 よく分からない単語が出てきて、顕は首を傾げた。

「そうじゃよ、あなた様は、ひょっとして、ふたつ名をお持ちではないのかな」

「そうだわ、きっと、ジャガー大神の他に、立派な神名をお持ちのはずよ」

 そう言われた瞬間、顕の脳裏に、大昔の神の記憶、赤く塗られたピラミッドの下、漆喰で塗り固めた広場を埋め尽くす大群衆と、神名を唱和する、湧き上がる大歓声が蘇った。が、それは一瞬のうちに消え去った。

「ふたつ名ですか。あったと思うのですが…、長い間、セノーテに隠れていたし、それに、今は、子どもの体内にいるので、無理に記憶を開くと、この体に負荷がかかり過ぎて危険なのです。この子どもの体に入ってから、思い出せないことが多くなってしまって…」

 と、話す途中から、顕は猛烈な眠気に襲われ、そのまま寝入ってしまった。

「あら、寝てしまったわ。子どもの体に少し無理をさせたかしらね」

「どうするね、律子さん。この大神を、このまま、ひとりで、人間の中に置いてけぼりにしてしまうのは、わしは、気の毒に思うのじゃが・・・」

 顕は、空になった皿の前で、腕枕をし、あどけない表情ですやすやと寝息をたてていた。横向きの顔は、まつげが上向き加減で、頬っぺたもふっくらし、口元も、上唇が少し開いて、まだ、幼い子どもの感じが残っていて、何ともいえず、可愛らしかった。

 律子さんと、ご老神は、顔を見合わせた。

「そうねえ。確かに、日の本にわざわざやって来た理由は、はっきりしたから、このお方が、私たちと争う気持ちなどないことは了解しました。人間として、ここに留まるのなら、どうぞご自由に、と言いたいところだけれど、子どもの体のままで、人間界にひとりで、というのも、何だかねえ…」

「そうじゃのう、いたいけない子どものお姿の、この方に対して、お後は、どうぞ、ご勝手に、なんていうのは、助けてもらったからというだけでなく、何だか気が咎めますのう。真のお姿が見えれば、このように、気が揉めることもないのじゃろうが…それにしても、どうしてお姿がまったく見えないのかねえ」

「それを聞き出すのをすっかり忘れていたわ。あらあら、もう寝ちゃったしねえ。また今度、話を聞くことにしましょうか。そろそろここを出て、この子を厳龍寺へ連れて帰ってあげないとね」

「それなら、この子を、わしの背に負わせておくれ」

「そんなことなら、私がいたしますよ」

 ご老神も、律子さんも、さきほど顕の暖気に触れて、人間のように情が湧いてしまい、この可愛らしい子どもを、どちらも負ぶってみたくてならなかった。そこで、滅多に外出できないご老神は、己の我を通すべく熱心に訴えた。

「いや、一回やってみたかったんじゃ。境内に来る爺さんや、婆さんが、孫を負ぶっておるじゃろう。あれ、わしも、やってみたかったんじゃ」

 律子さんも、ご老神の思いは理解できたので、今回は譲ることにした。律子さんの力を借りて、人間に扮したご老神は、孫を相手にするおじいさんらしく、眠りこけた顕を背負い、店を出た。

 

 厳龍寺へ向かう道すがら、ご老神は、律子さんに言った。

「わしが、このお方と知り合えたのは、何かの縁というものかもしれませんな。わしも、大昔、南の方で、海の中の山で大爆発があって、吹き飛ばされて、この地へたったひとりでやって来ましたのじゃ。このお方の身の上は、とても他人、いや、他神こととは思えません」

 律子さんは、それには返事をせず、しばらく黙って歩いていたが、突然、立ち止まり、ご老神を見た。

「決めましたわ。私、日露戦争のあとは、一切、人間界との関わりを断っておりましたが、戻ってまいります。この子が、大人になり、そして、天寿を全うするまで、ちゃんと見届けてやります。そして、この子に降りておられるのが、いかなる大神なのかも、いずれ、しっかり見極めます」

「律子さん、誓約うけいをなさったか。わしが、その誓約、しかと聞きましたぞ。で、律子さん、あんたは、宗圓の親戚に入り込むのじゃろう。なら、決めたよ。わしは、あんたの旦那さんという役で、夫婦ってことで行こうじゃないか」

「何をおっしゃいますか。ご老神は、境内からあまり出られては、神気が減ってご神体を損ねてしまいます。私がひとりで参りますよ」

 本来の神域から吹き飛ばされ、大昔、この地にやって来たご老神は、摂末社のひとつに間借りする身の上だった。その為、境内から離れると、神気が減っていき、人間界での神体が縮んでいって損なわれてしまうのだ。その事を心配する律子さんは、ご老神の願いを退けようとした。

「ダメ、ダメじゃよ。夫婦にしておいた方がいい。美佐江はともかく、宗圓は、禅宗の坊主だ。あそこの長男も、本山で修業中の坊主だぞ。ちょっとでも疑い出したら、ほころびが出てしまうかもしれんじゃろう。最初っから、夫婦で、じじ、ばば、だと、思わした方が、扱いやすいよ。ひとりだと、どうして独身なんだと、色々話をつくらなきゃならんから、余計の事、大変じゃろう」

 顕を背負い、すっかりお爺ちゃん気分に浸りきったご老神は、自分も参加しようと、ムキになってまくし立てた。が、その内容は、律子さんも、うなずかざるを得ない指摘だった。老神の指摘の通りで、修業をつんだ僧侶は、神の織り成す織布のほころびに、気が付く敏感さを持っている。確かに、用心しておくべき事だ。

 その結果、竹園家に、親戚が増えてしまった。律子さんは、「早乙女 律子」、ご老神は、「早乙女 武彦」と名乗り、宗圓の母方の妹夫婦という設定で、竹園家と関わりを持つこととなった。


 ひとりで遊びに出て、随分遅くに帰宅した顕だったが、早乙女夫婦に途中で出会って、一緒に帰宅したおかげで、美佐江から叱られることもなかった。

 見知らぬ老夫婦の来訪に驚いた美佐江だったが、目が会った瞬間、律子さんとご老神が設定した通り、夫の身内であると信じこんでしまった。その後、応対した宗圓も、自身の母方の、妹夫婦だという事に、何の疑問も持たなかった。

 律子さんと、ご老神は、その後も、ちょくちょく顕に会いにきた。また、律子さんは、以前構えていた居宅を復活させ、そこで、書道教室と珠算塾を開き、顕を指導がてら、日本の神事情などいろいろと教授してやった。


 その出来事があった数日後。

「顕ちゃん、今日のおやつ、何にしようか。何か食べたいものはある?」

「ええっと、・・・・・」

 美佐江は、おやつの時間の前に、顕に希望を尋ねるように気をつけていたが、別にありません、とか、何でもいいですという、答が返って来るのが常だった。しかし、その日の顕は、美佐江をちらりと見上げると、また俯き黙ってしまった。美佐江には、何だか遠慮がちで、モジモジしているように見えた。

「あるのね。何か、食べたいもの。遠慮しないで言ってごらんなさい」

 美佐江に促され、顕は、小さな声で答えた。

「ホットケーキが食べたいです」

 美佐江は、その答えに笑った。

「何だ、そんなものでいいの。お安い御用よ。一緒に材料を買いに行きましょう」

 美佐江は、近所のスーパーへ、顕と一緒に出掛け、ホットケーキミックスとメープルシロップを買った。帰宅すると、美佐江は、庫裡の棚から、電気プレートをおろした。

「できたての熱々がおいしいのよ。一緒につくって、焼いて、食べましょうね」

 ふんわりと膨らんだ、きつね色のホットケーキにバターを塗り、メープルシロップをかけ、顕は、一口食べた。

(うまーい…)

 その時の顕の表情は、子どもらしい表情をつくらなければ、と意識した、不自然なものではなかった。本心からの、至福の表情だった。顕の喜びように、美佐江も、大満足だった。それで、美佐江は、ホットケーキを、おやつのメニューに加えることにした。おやつがホットケーキの時、顕は、メープルシロップを独り占めし、至福のひと時を過ごすのだった。

 


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