神はナワールを巡り行く

なのき

セノーテの神

 月護つきもり明宏あきひろ教授は、息子のあきらとともに、村はずれのバス停にやって来た。

 ここは、グアテマラ北部に位置するペテン県、高地地帯にある村だ。ペテン県は、ベリーズやメキシコとの国境に面しており、グアテマラの国土面積の、ほぼ、三分の一を占める。また、県の大部分は、熱帯雨林ジャングルに覆われた無人地帯である。そこは、ジャングルの樹木に埋まり、いまだ未発見のマヤ遺跡が、数知れず眠る地でもあった。


「お父さん、町に行くの、久しぶりだね。嬉しいな」

 父親を見上げ、顕は、はしゃいだ声で言った。教授の腰くらいまでの背丈で、まだ小さい顕は、まつげが長く、小鹿のような瞳の、可愛らしい男の子だった。

「そうだな。町へ出るのは、何か月ぶりだったかな」

 仲の良い親子の会話だが、月護教授の胸中では、様々な思いが渦巻いていた。

 今日、バス停まで出てきたのは、買い物や行楽のためではなく、顕を、日本へ帰らせるためなのだ。顕が帰国してしまえば、当分会うことはできないのだ。


 マヤ遺跡の研究者である月護教授は、日本から、遠い異国の地であるグアテマラにやって来て、十年余の年月、マヤ遺跡の発見に努めて来た。そして、この村から奥地へ入ったジャングルの中で、古典期マヤの、大規模な遺跡を発見したのだ。一番近いこの村からでも、車で三時間かかる奥地である。

 地元の農民が、薄暗いジャングルの木立の中に、崩れた石垣が露出しているのを、偶然見つけたことが、発見のきっかけだった。教授と調査団のメンバーは、四世紀頃に建築された遺跡であるとの見込みで、調査に取りかかった。生い茂った木々や蔦を切り払うと、崩れた石垣は、ピラミッドの一部であることが判明した。

 その後、月護教授は、ピラミッドの地下構造を、特殊な音波探知機を用いて調査し、その地下には、さらに古い時代の神殿ピラミッドが埋まっていることを発見した。最初は一年程度で終わる予定であった。しかし、時代を遡る古い遺跡が、地下から次々と発見され、また、周辺からも遺跡が見つかり、大規模な複合遺跡であることが判明したのだ。そのため、全容を調査するために期間が延びてしまい、調査を開始してから、五年が過ぎようとしていた。

 教授は、結婚してすぐに、発掘調査団のリーダーに抜擢されたため、新妻を日本に残して赴任した。当初の予想以上に調査が長期化したため、妻の恵子は、生まれた顕をつれて、一緒に暮らすために、はるばる夫のもとへとやって来た。しかし、一緒に暮らし始めて一年も経たないうちに、結婚前に勤務していた出版社から、新しい雑誌の編集に携わらないか、との誘いがあり、恵子は、顕を教授に預けたまま、日本へ帰国してしまった。

 

 息子の顕は、今年の誕生日で五歳になる。赤ん坊の頃から、この村で育ち、発掘現場を遊び場に成長した。しかし、教授の妻、つまり母親の恵子は、顕の教育は、日本で受けさせることにこだわり、帰国させるようにと、何度も促してきていた。

 小さな体に見合った、水色の可愛らしいリュックサックを背負った息子を見下ろし、教授の心中は複雑だった。

(顕を、恵子の言うとおり、日本へ帰らせて、本当にいいのだろうか)

 日本で教育を受けさせたいという、妻の意向に、決して、反対であるというわけではない。けれど、妻は、ファッション雑誌の記者で、取材のための海外渡航を月に数回も行う忙しい状態で、教授自身も、発掘作業と研究に忙しい状態である。そのため、顕の世話は、現地のキチェー族の女性を雇い、彼女とその家族に、ほぼ、任せっきりの状態だった。顕は、キチェー語や、現地訛りのスペイン語は、流ちょうに話すことができるが、日本語は片言で話すのが、やっとの状態だった。

 一か月ほど前に、忙しい時間を割いて、夫のもとを久しぶりに訪れた恵子は、息子のそんな有様に非常に驚いた。

「どうするのよ。顕、日本語がほとんど話せないじゃない。これじゃ、帰国してから、満足に進学もさせられないわ。お願いだから、顕を早く帰国させて頂戴」

 と、何度も連絡してきたのだ。

 教授の気がかりは、日本に帰らせた後、ほとんど家にいない妻と、現地で発掘調査に専念する自分以外の誰が、息子の面倒を見てくれるのかということにあった。妻に、顕を育てようとする意欲があっても、雑誌記者との両立は難しいということは、教授にはよく分かっていたのだ。

(私が、父親なのだから、やはり目の届くところで、成長を見守るべきなのか・・・しかし、恵子の言うとおり、このままでは、顕は日本語を話す機会もなく、帰国してから苦労することになるだろう)

 教授自身は、発掘と研究が一段落した段階で、息子と一緒に帰国し、その後、日本の環境に馴染むよう、息子の教育にも気を配ればいいだろうと、のん気に考えていた。しかし、恵子は、早く帰国させなければ、日本語が満足に話せない子に育つのではないかと、非常に心配し、ヒステリックなくらいに、何度も電話をかけてきて、帰国を迫ってきた。

「私だって、強引だって事は、承知しているわ。けれど、このままグアテマラで育ったら、後で大変なのは、顕自身なのよ。兄に相談したら、うちに来て、一緒に暮らせばいいって、言ってくれているの。兄さんたちの子どもは、もう成人しているから、美佐江義姉さんも、是非、うちにいらっしゃいって言ってくださっているの。だから、帰国後の事は、あなたは心配しなくても、大丈夫なのよ」

 自分は、息子の世話を満足に見てやることはできないが、兄の竹園たけぞの宗圓そうえんは、帰国後は、自分たち一家と一緒に、顕が京都で暮らすことを、快く了承してくれており、さらに、小学校を卒業後は、宗圓自身が学校理事を務める私学の中等部に入学すればいいとまで、言ってくれている。だから、一日でも早く帰国させるようにというのが、その言い分だった。

(帰国してから、日本語の学習については考えればいいと思っていた、私の考えは甘かったのだろうか。恵子の言い分も、もっともなことだという気もする。義兄の宗圓さんは、学園の理事も勤める教育者だ。彼に、顕の事を任せた方が、やはり本人のためになるのだろうか)

 妻の言い分を否定できるほど、確固とした反論などできようはずもないし、自分の考えの方が認識不足で甘かったのかもしれないと、反省もし、教授は、顕を帰国させることを決意したのだ。


 父の視線に気が付き、顕は父を見上げ、にこっと微笑んだ。教授の眉間から皺が消え、それに変わって、目じりに皺がより、笑顔になった。

「飛行機乗るんだね。大っきい飛行機、ジャンボだよね」

「ああ、そうだよ。だが、最初に乗るのはプロペラ機だよ。もっと大きな空港へ行って、ジャンボに乗るんだよ。その前に長い時間、バスに乗らなければならないがね」

「わあい、バスにも、プロペラ機にも乗るんだあい」

 無邪気に喜ぶ息子の様子を、微笑ましく見守りながらも、教授の胸中には、何となく、すっきりしない、モヤモヤとしたものが漂い、消え去ることがなかった。妻の言い分が正しいと思う一方で、父親である自分自身の、目の届かない遠くへ、息子を行かせてしまうことに、不安を感じるのだった。教授は、本来、小さな事にこだわらない、おおらかな人間なのだが、ひとり息子の事となると、さすがに、悩まずにはいられないのだった。せめて、空港までは、自分がしっかりと見送ってやらなければと、顕の手を、大きな手で包み込むように握り締めた。

「お父さんも、一緒に行くの」

「ああ、空港まではね」

「一緒に日本へ帰らないの?」

 顕は、父を見上げ、無邪気に尋ねた。

「すまない、空港でお別れなんだよ。だが、お母さんが、来てくれるからね、一緒に、日本へ帰りなさい」

「お父さんは、飛行機乗らないんだあ」

 顕は、残念そうに言った。

 教授は立ち止まると、しゃがんで、幼い息子の目をのぞき込んだ。教授は、まだ子どもだからと、いい加減な説明をして誤魔化したりする事なく、顕には、何事も率直に伝えるようにしていた。

「大切な発掘調査の仕事があるからね。私は、ここに残らなければならないんだよ。顕は、日本へ帰って、伯父さんのところで、日本語を勉強し、友達もつくるんだ。それが、君のこれからの課題だよ。また、雨期になって、発掘調査が終わったら、会いにいけると思うから、それまで、日本で頑張りなさい。いいね」

 父親の真っすぐな視線を、顕も、澄んだ瞳で見つめ返し、

「はい、お父さん、ぼく、頑張るね」

と、元気よく返事した。

 教授は、にっこり笑った。

「そうだ、その元気で頑張るんだよ」

と言いながら、顕の頭を撫でてやると、再び立ち上がり、歩き出した。

 村はずれのバス停、といっても、停留所の標識もない、草を刈り取り、土がむき出しになった空地である。そこに、町へ行商に行くため、自分の背丈の倍ほどもある荷物を背負う女性が、何人か集まり、賑やかな声で喋っていた。黒髪をお団子に結い上げ、白地に黒のストライプ柄のウィピル(キチェー族の民族衣装)には、肩から胸元にかけて美しい花柄の刺繍が施され、くるぶしまで届く、丈の長いコルテ(巻きスカート)は、赤、黒、緑、白、黄の、細かな縦の縞柄だ。その中の一人が、教授と顕親子の姿に気が付き、にっこり笑って挨拶した。

「おや、アキ・ペケーニョじゃない。珍しいね、先生とお出かけかい?」

「こんにちは、テレサおばさん、おばさんも町へ行くの」

「ああ、そうだよ。私が刺繍した、ウィピルとコルテを、売りに行くんだよ」

 教授も歩み寄り、テレサに挨拶した。 テレサは、堂々とした腰つきの、年配の夫人で、十五歳の男の子を筆頭に、三男二女の母親だった。

「こんにちは、テレサ」

「先生、息子さんを日本へ出発させるって聞きましたけれど、まさか、今日なんですか」

 教授は、何と答えてよいか分からず、無言でうなずいた。たちまちテレサの顔から笑顔は消え、目が見開かれ、涙が浮かんできた。

「こんなに小さいのに、遠い所へ連れて行くんですか。村中みんな、この子のことが大好きなんですよ。もう少しくらい、ここにいてもいいんじゃありませんか」

 月護教授には、テレサの言葉が、自分自身の本当の想いを代弁してくれているかのように聞こえ、何だか、喉にこみ上げてくるものがあった。常の自分なら、どんな質問にも、理路整然と、明解に答えることができるのに、テレサの言葉には、ただ無言で、頭をふることしかできなかった。

 月護教授の息子は、村人からは、ハポン(日本)から来た先生の子として知られ、『アキ・ペケーニョ』(小さな顕)と呼ばれていた。村の同年代の子どもよりも、色白で、小柄で、目が小鹿のように澄んで、女の子のような容姿の顕は、皆から好かれ、可愛がられていたのだ。顕は、村人ととの橋渡し的役割を務めてくれ、そのお蔭で、発掘作業に従事する者を集めたり、物資の調達など、発掘作業には欠かせない様々な雑事にも、村人の協力を円滑に得ることができた。顕は、幼いながらも、遺跡調査のスタッフの一員といってもいいほど、貢献してきたのだ。


「お父さん、バスが来たよ」 

 顕は、広場の向こう、土がむき出しの、タイヤの跡で凸凹でこぼこになった道の先を指さした。

 すると、ディーゼルエンジンの音を響かせ、派手なペンキ塗りも大方剥げ落ちてしまった、年代物のボンネットバスが、屋根の上まで荷物を満載し、騒々しいエンジン音とともに煙を噴き上げながら、坂道を上ってきた。

 バスは広場に停車した。町から戻ってきた人たちや、村へ行商に来た人々が降り立ち、お土産を満載した大きな荷物を背負ったまま、バスから降りようとする者やら、屋根に括り付けた荷物を下ろそうと、車体の上へ上がる者やらで、大騒ぎが始まった。下車する人がいなくなってから乗り込もうと、月護親子も、テレサや他の村人たちと一緒に、のんびりと待っていた。


「月護先生、月護先生」

 大きな呼び声に振り返ると、教授の指導の下で調査員として働く、院生の小野寺が、手を振りながら、駆け寄ってきた。

「小野寺君、どうしたんだね」

 小野寺は、教授のまん前に急停止すると、膝に手をつき腰を曲げ、しばらく息を整えた。全力疾走してきたのだ。

「バスに乗ってしまう前に、間に合ってよかったです。実は、遺跡保存委員会から連絡がきて、視察の予定を、一週間前倒しすることになったと、言ってきたのです」

「何だって、一週間って、それだと、明日ってことかい?」

 小野寺は、太い眉の下の大きな目をギョロッと動かし、うなずいた。

 教授は、顕を見下ろした。遺跡保存委員会の視察は、一週間先の予定であったので、今日空港まで送っていくことにしたのだ。それなのに、明日になってしまい、教授は、どうしたものかと、思案した。この視察は、来年度の発掘調査資金の査定に影響する大切なものだった。責任者である自分が不在であることは、どのような事情であれ、視察に訪れる委員たちによい印象を与えないだろう。何とか、明日の視察までに戻る方法はないものかと、数秒、考え込んでいた。

 顕が腕を引っ張り話しかけて来た。

「お父さん、大丈夫だよ。ぼくなら、テレサおばさんたちと一緒に行って、お母さんが来るのを待つよ。大切な視察なんでしょ。お父さんは、バス停まで一緒に来てくれたから、ここでお別れでいいよ」

 子供とはいえ、発掘調査での様々な出来事を目にし、耳にして育ってきたので、視察というのが、父親や、遺跡調査のスタッフにとって、どれほど重要なことであるのかは、顕には、よく分かっていた。本当は、父と一緒に町へ行くことを楽しみにしていたし、テレサと一緒とはいえ、父とここで別れて、母の迎えがあるまで一人で旅行するなんて、不安で一杯だった。けれど、顕は下唇をぐっと噛み締め、口元を固く引き結び、町まで一緒について来て、という言葉を懸命にこらえたのだ。

「顕・・・」

 いや、空港までは一緒に行くからと、言いかけた言葉を、教授は呑み込んでしまった。村を出発したバスは、カルマリータを経由し、空港のある、県都フローレスに到着する。片道六時間を超える道のりで、急峻な山道や、峡谷の中を走っていくのだ。途中、天候が悪いと、大幅な遅延が生じることも多かった。雨期が間もない時期でもあり、四輪駆動の乗用車を使ったとしても、明日、視察が終わるまでに、確実に戻ることができるとは、思えなかった。

「私は、構いませんよ。息子さんは、責任をもって、先生の奥様にお渡ししますよ」

 日本への帰国に反対とはいえ、テレサも、困った人には助けの手を差し伸べる、美徳の持ち主だった。教授の懸念を察し、親代わりに付き添うことを、快く申し出てくれた。心配そうに見守っていた小野寺も、安堵のため息をフウッとついた。

「では、よろしくお願いします。そうしていただけるなら、大変助かります。本当なら、私がついて行くべきなのですが・・・顕、母さんには、フローレスで待ってくれるように、もう一度、連絡を入れておくから、テレサさんの言う事をよく聞いて、気をつけて行くんだよ」

「うん、分かった」

 顕は、テレサに手を引かれ、バスに乗車した。バスが坂道を下り、見えなくなるまで見送ると、月護教授は、発掘現場近くの事務所へ戻った。


 翌日の視察は、朝早い時刻から始まった。この国では、予定が遅れることはありがちなことであるが、予定が早まるのは非常に稀なことだ。しかも、開始時刻は午前六時からと、随分早い。不思議に思いながら、月護教授とスタッフは、指定時刻の一時間前に発掘現場に集合した。あらかじめ連絡があったので、周辺の樹木を伐採し、大きな空地を整地してあった。そこへ、爆音を響かせ、軍部のヘリコプターが着陸した。ヘリコプターが巻き起こす強風の中を、武装した兵士三人を伴い、遺跡保存委員会のメンバーである、民間人がひとり降り立った。常と異なる、その物々しい雰囲気に、月護教授も、他のスタッフたちも、大いに驚き、不安が高まった。

「月護教授、お早うございます」

 たったひとり、民間人として降り立ったのは、綺麗に手入れされた口ひげがトレードマークの、恰幅のいい壮年の紳士、国立グアテマラ大学の教授で、遺跡保存委員会の委員長も務める、ヒメネス氏であった。

「ヒメネス教授、お久しぶりです」

 旧知の間柄である二人は、がっちりと握手を交わした。挨拶をすますや、ヒメネス教授は、月護教授に話しかけた。

「月護先生、本日は、この発掘現場の一時閉鎖と、撤収命令を伝えにきたのだ」

「エエッ、それは一体、どういうことでしょうか」

「ここは僻地だから、情報がまだ伝わっていないと思うが、ゲリラ勢力と政府の調停交渉は不成立となり、軍部が掃討戦を決行することとなったのだ」

「・・・・・・・」

 月護教授は、スタッフと無言で顔を見合わせた。この発掘現場は、北部の国境に近い、高地地帯のジャングルの最奥地で、反政府ゲリラの拠点からは遠く離れた地域だった。情報が入ってくるのも遅く、教授たちは、政府とゲリラ側が、今年になって停戦交渉を開始したので、一九六三年から続く内戦も、ようやく終息に向かうのだと楽観していたのだ。

「停戦交渉が続く間、軍部は大統領府の命令を受けて攻撃を控えていた。にも関わらず、ゲリラ側からの攻撃が続いていたのだ。軍部は、もう待てないと、ついに掃討戦を開始したのだ。掃討戦から逃れようと、海岸部から首都にかけてのゲリラ側の者たちが、この地方にまで逃げ込んできている。もう、数日もすれば、ゲリラを追跡して、このあたりにも軍隊がやって来る。非常に危険な状態になりつつあるので、私も護衛つきで、移動を強いられる有様だ。しかし、遠い日本から来てくれて、マヤ遺跡の発掘に熱心に取り組んでいる君たちを、このような危険な状況で放置しておくことはできない。だから、予定を早めて来たのだよ」

 月護と、他の者たちが、自分の言葉を理解できているのを確認し、ヒメネス教授は、さらに決定事項を伝えた。

「発掘現場は、しばらく封鎖する。発掘品は、我々が大学付属の博物館へ移送する。あなた方も、我々と一緒に一時避難してもらう。ゲリラに、君たちが見つかってしまうと、逃走資金の確保のため、身代金目当てに誘拐される恐れがあるのだ」

「分かりました。委員会の決定事項に従います」

 教授は、ヒメネス教授に返事をしながらも、内心では、顕の事が気がかりでならなかった。ヒメネス教授が、護衛付きで移動する非常事態下であることも知らずに、一見して現地人でないと分かる顕を、バスに乗せてしまったのだ。事情を知る小野寺も、月護の様子を心配そうに見守っていた。


 撤収作業を終え、教授が、村内の宿舎に戻って来たのは、夕方だった。宿舎の管理人を務めるミゲルが、すぐさま、町の空港に到着した妻から、電話が何度か、かかっていたと教えてくれた。ミゲルから連絡先のメモを手渡され、顕と落ち合った妻が、明日は空港へ行くという報告の連絡があったのだろうと思い、すぐさま電話した。

「恵子か」

 教授の呼びかけに、妻の恵子は予想外の返事をした。

「あなた、バスが到着しないのよ。昨日のうちに着くはずのバスがまだ、着いていないのよ。顕は、まだ、町へ来ていないわ。一体、どうなっているのっ」

 そこまで一気に喋ると、妻は黙ってしまった。

「何だって・・・・」

 教授は、冷静さを保とうと、深呼吸した。

「昼一番の便に乗せたのは間違いない。到着が遅れているのだろう。この辺りのバスは、バス停以外のところでも、乗りたい者がいれば停車して乗せていくからね、遅れているのかもしれないな。あるいは、大雨が降って、道路の状態が悪いのかもしれない。しばらく待っていてくれないか。私も、急用が片付いたので、すぐ、そちらへ向かうから」

 

 翌日、町に到着した教授は、妻の宿泊するホテルへ直行した。けれど、そこに顕の姿はなかった。村を出発したバスは、忽然と姿を消してしまったのだ。気も狂わんばかりに心配する妻をなだめながら、教授は一日中バスの到着を待ち続けた。しかし、その日、バスは到着しないまま日没となってしまった。恵子は、その夜、教授を責め立てた。

「あなたは、父親なのに、あの子をたった一人でバスに乗せてしまったのね。よくも、そんな無責任な事を―」

 乱れた黒髪が頬にかかったまま、泣き続けて充血した眼で、恵子は、夫を睨みつけた。

「・・・・・」

 一緒について行くことができなくなった事情を何度も説明したし、村の知り合いの女性が、自分の代わりに付き添ってくれていたことも説明したのだが、行方の分からない、幼い顕を案じるあまり、恵子は、夫である月護教授に非があると、激しく責め立てた。妻に説明しても分かってもらえないことに疲れてしまった教授は、無言のまま、部屋を出てしまった。

 ホテルのロビーに降りて来た教授は、地元の警察に何度目かの電話をかけ、バスについての情報を問い合わせたが、その後も行方は分からないままで、何も新しい情報は入っていないとのことだった。

「顕・・・どこにいるんだ」

 ソファに崩れるように腰かけると、教授は、頭を抱え込んでしまった。

 妻の恵子は、ファッション雑誌の記者で、家にいる事はほとんどない。それを承知で、結婚したのだ。出産のため、一時仕事を辞めた妻が復帰するために、教授はできうる限り協力した。顕を発掘現場に近い村で育ててきたのも、新雑誌の創刊立ち上げのために、日本へ帰りたいという、妻の希望を叶えるためだった。しかし、今の恵子にそれを言っても、自分が批判されているとしか受けとらないだろう。冷静になるように話してきかせても、ますます感情的になり、エスカレートするばかりなのだ。教授は、明日こそ、バスが到着するよう、真剣に祈った。

 翌日、警察は、行方不明のバスが、ジャングルに近い川岸に乗り捨てられているのを、発見した。ほぼ同じ頃、そこから五十キロ離れた道路に、バスの乗客たちが一塊りとなって助けを待っているのがみつかった。

 救助された乗客たちは、バスは、武装ゲリラに乗っ取られたのだと話した。道路を走るバスに向かって、突如現れた三人の武装ゲリラが軽機関銃を連射し、急停車させた。乗り込んできた彼らは、機関銃で脅して、バスを急発進させた。掃討戦で追われたゲリラが、逃走手段に利用したのだ。途中で、乗客はバスから降ろされた。しかし、降ろされた乗客の中に、顕と、付き添ってくれたテレサの姿はなかった。乗り捨てられたバスの中に警察官が立入り、テレサの射殺死体をみつけたが、顕の姿はなかった。

「あなたのせいよ。どうして顕を、ひとりでバスに乗せたのよ。一日待つことだってできたでしょう。酷いわ」

 恵子は泣き叫んだ。しかし、その日に無理をしてでもバスに乗せたのは、彼女の予定に合わせるためだった。記者として忙しい身である恵子は、グアテマラに滞在できる日数が、限られていたのだ。冷静に考えれば、夫のせいばかりではないし、誰かを責めたところで、顕がみつかるものでもないと、分かりそうなものだ。しかし、顕の身を案じるあまり、冷静さを失った恵子に、理解を求めるのは無理なことだった。


 数日の間、軍隊と警察がゲリラの行方を追った。乗り捨てられたバスから、数キロ離れたジャングルの奥地、セノーテ(泉)のほとりで、ゲリラ三名の死体が発見された。大型肉食獣によって食いちぎられた体が、バラバラに散乱し、誰の体の一部なのかが、すぐには特定できないほど、無残な有様だった。

 検視した医師と警察は、燃料切れとなったバスを河原で乗り捨てたゲリラは、顕を連れてジャングルの中に入り、飲み水を確保しようと、縦穴の底の、清水の湧き上がるセノーテへ下りて行った。そこでジャガーに襲われ、喰い殺されたという結論に至った。しかし、顕の遺骸は発見されなかった。セノーテの岸の周辺とゲリラの衣服から、ゲリラの血液型とは異なる血痕が発見された。そのため、検視医は、顕は、ジャガーが真っ先に食べてしまったのであろうと、結論づけた。

 テレサの死亡が判明した後も、月護夫妻は、一縷いちるの希望を抱き、現地に滞在し続けていた。しかし、この警察の発表は、夫妻の希望を完全に打ち砕いてしまった。月護教授は、悲嘆にくれる妻とともに、政情が落ち着くまで、グアテマラを離れ、帰国することを決断した。


 顕が行方不明になった責任は、夫の月護教授にあるのだと、恵子は決して許そうとはしなかった。そのように、夫を責め続けたのは、そうでもしなければ、彼女自身が息子を失った悲しみに打ちのめされ、何も手につかなくなるからだった。しかし、妻からそのように責められた教授は、ますます研究に没頭し、彼女を顧みることがなくなってしまった。


 二年が過ぎた。

 国連の仲介により、ようやく停戦が成立し、グアテマラに平和が戻ってきた。月護教授は、遺跡調査を再開するため、現地に戻ることとなった。グアテマラへ出発する当日、慌ただしい中で、教授は、恵子と、品川駅近くの喫茶店で、久しぶりに顔を合わせた。

 学生時代に大学のミスに選ばれたこともある恵子は、背が高く、整った目鼻立ち、欧米の女優のような艶やかさをまとう容姿で、男子学生からは、あこがれの的であった。一方、月護教授は、その頃からマヤの遺跡調査に参加する事を夢見る学生で、恵子のことは、綺麗な人だと感心する程度で、自分から積極的に話しかけるような事はなかった。

 その後、合同ゼミ演習後の打ち上げで、くじ引きした席が隣り合わせとなり。偶然、お互いに知り合うこととなった。

 解読不可能といわれたマヤの文字の事や、金星や火星の周期まで正確に把握していたというマヤの天文観測のすばらしさや、現代とほぼ変わらない一年の長さを割り出していたという、二十進法であらわされた、謎に満ちた暦の話を、恵子は飽きる様子もなく楽しそうに聞いてくれた。それに、彼女の明晰で、はっきりした話し方を、教授は好もしく思った。

 恵子の方も、マヤの研究一筋に打ち込む、月護の熱意と真摯さに、ひきつけられたのだ。

 そのような出会いから恋愛の末に結婚したにも関わらず、今は、互いを思いやることもできなくなっていた。夫を責め、憎み続ける恵子も、研究に没頭するばかりで、すっかり寡黙になった教授も、もう、夫婦でいることに疲れてしまい、互いに胸襟きょうきんを開いて話し合い、関係を修復する気力がなくなっていたのだ。


 久しぶりに再会した二人は、口数少ないまま、離婚届に記入をすませた。

 届書に署名し終えた恵子は、顔を上げ、月護を見た。

「グアテマラには、今日、出発するの」

「ああ、今晩の便でね」

 自分もまた、署名を終えた教授は、淡々と答えた。恵子は一寸逡巡したが、教授の手の上に、自身の手の平を重ねた。教授は、ハッとしたが、彼女の真意が分からないまま、じっと動かなかった。

「お体に気をつけて、行ってらして・・・本当に気を付けて、あなたは、顕のようには、ならないで頂戴」

「恵子・・・」

 教授は、恵子の目を、今日、初めて、まっすぐ見つめた。

「ごめんなさい。分かっていたのよ。あなたが、顕の事を真剣に思っていてくれた事は分かっていたの。でも・・・・」

 その声は、弱々しく震えていた。

 教授は恵子の手を優しく握り返した。

「もう、止めにしよう。お互い、自分を責めるのは止めにしよう。君も、僕も、できるだけの事はしたんだよ」

 恵子は、トートバックからハンカチを取り出し、目頭を抑えた。それからもう一度、中を探ると、白い洋封筒を取り出した。

「お願い、これを持っていて頂戴。あなたが、研究、調査で忙しいのは分かっているけれど、それでも、どうか、顕の事を忘れないで…あなたの方が、顕が逝ってしまった場所に近いところに行くのだから、どうか、可哀そうなあの子の事を祈ってやって…私も、そうするけれど、だけど、私のいる場所は、あの子の所からは遠すぎるから」

 そう言われ、渡された封筒の中をあらためると、お気に入りの電車の模型を持ち、ニコッと微笑む顕の写真が一枚入っていた。

「・・・・分かった。決して、顕の事を忘れたりはしないよ」

 教授は空港へ出発し、恵子は離婚届を役所へ提出した。


 現地に戻った教授は、発掘調査再開のための準備を整えながら、かつて顕と滞在した、最寄りの村を訪れた。ゲリラに射殺されたテレサの夫、アンドレアスを見舞うためだった。

 アンドレアスは、小さなコテージのある、白漆喰塗りの家に住んでいた。教授を迎え入れると、アンドレアスは、ビールを出しながら、乗客から聞いたテレサの最後を話してきかせた。

「テレサは、先生の坊ちゃんをコルテ(巻きスカート)の中に隠そうとしたんでさ。ゲリラに見つかったら、人質にされちまうかもしれないと考えたんでしょうねえ。ところが、隠すところをゲリラの奴に見られちまって、現金でも隠そうとしたのかと、疑われたんでさ。気が立った連中ですから、怪しいって、即、発砲ですよ。それで、あんな事になっちまったんです。坊ちゃんには、弾はあたらなかったんですが、ゲリラの奴、テレサのスカートの中から、坊ちゃんを引きずり出して、どっかへ連れて行っちまったそうなんです」

 そこまで話すと、アンドレアスは鼻をかみ、立ち上がると、部屋の隅の棚に置いてあった袋を持ってきた。

 アンドレアスが無言で差し出したものに、教授は目を見開いた。

「これは―」

 血に汚れてさび色に変色していたが、ひと目で分かった。あの日、顕が背負っていた水色のリュックだった。

「坊ちゃんの物ですよ。それが、テレサの遺体の側に落ちていたんです。中を見てください。パスポートもそのまま入ってますよ。あの後、警察から返してもらったんでさ」

 震える手で受けとった教授は、リュックから中身を取り出した。アンドレアスの言う通り、顕の写真を添付したパスポートと、絵本が二冊、それに、飛行機のおもちゃが入っていた。

「顕・・・・・・」

 教授の脳裏に、あの日、バス停へ行く途中で、『飛行機乗るんだよね。ジャンボだ』と、はしゃいでいた、顕の声が蘇った。

 バスが発見された日も、顕がどうなってしまったのか分かった日も、その後、妻から幾たびとなく責められても、教授は感情を殺してきたのだ。しかし、顕がお気に入りだった飛行機のおもちゃを手にした瞬間、涙がどっと溢れ出した。教授は、顕がもう戻ってくることはないのだと、あらためて思い知らされ、悲しみの感情を抑えることができなくなったのだ。

 アンドレアスは、日に焼けた顔に大きな黒目を見開き、教授の様子を見守っていた。愛する者を失った者同士、今は、何も言葉をかけずに見守ることが最善だと、分かっていたのだ。


 それからひと月後、発掘作業も軌道に乗り始めたある日、教授が村の宿舎へ戻ってくると、今度は、アンドレアスが訪ねて来た。宿舎の入口の周囲を、ブラブラと歩くアンドレアスを見つけた月護は、自分の方から声をかけた。

「アンドレアス、先日は、世話になった。みっともない所を見せてしまって失礼した」

 アンドレアスの家で、顕を悼む涙を流した教授は、澱のように積もり、誰にも話せなかった悲しい思いを吐き出すことができたのだ。それで、遺品を残しておいてくれた彼には、非常に感謝していた。

 アンドレアスは、はにかんだ笑みを浮かべながら、教授へ話しかけた。

「先生、明後日、テレサのために祈ってやろうと思ってるんでさ。先生も一緒に行って、坊ちゃんのために祈ってあげちゃあどうだろうって思いましてね。それで、お声をかけようと来たんでさ」

「明後日にかい?そうだな、私も是非参加させてくれ。テレサさんと、顕の冥福を祈らせてもらうよ」

 信心深く真面目な人柄のアンドレアスは、マヤの末裔であることを誇りとする、キチェー族の男のひとりでもあった。その彼にとって、妻の魂を慰めるための儀式を行うことは、非常に大切なことなのだ。月護教授にも、彼の心情はよく理解できるので、参加を承諾したのだ。


 当日、宿舎まで迎えに来てくれたアンドレアスとともに、教授は出発した。

 今日のアンドレアスの恰好は、服装こそ普段と変わらない、くたびれた紺色の野球帽に、白いTシャツにストライプ柄の幅広の七分丈ズボンだが、古びたキャメル色の大きなナップサックを背負っていた。その上蓋の隙間からは色とりどりの花が飛び出し、歩く動きとともに揺れるので、花輪を背中に背負っているように見えた。左手には、編み込み細工で造った釣り鐘型の大きな鳥かごを持ち、右手にはマチェーテ(山刀)を持っている。月護教授が鳥かごをそっと覗いて見ると、真っ黒な羽に真っ赤なトサカのニワトリが、不機嫌な目で睨み返してきた。

 月護教授は、村の中央広場にある教会へ行って祈るのだろうと、思い込んでいた。しかし、逆方向に向かったアンドレアスは、村はずれに出ると、教授も行ったことのない方角の、ジャングルの中に分け入った。マチェーテで藪を薙ぎ払いながら、アンドレアスは、迷いのない足取りで、ジャングルの奥地へとずんずん進んでいった。

「アンドレアス、どこへ行くつもりなんだい?」

 だんだん不安になってきて、教授は尋ねた。アンドレアスは立ち止まると、月護の方を振り返った。

「心配いりやせんよ。この先で、アッハキッヒのホセと待ち合わせしているんでさ」

「アッハキッヒ・・・・・・」

『アッハキッヒ』とは、マヤの儀式を執り行う呪術師と占い師、それに、体の不調を整えてやる薬剤師や医者をかねる者への呼び名である。キチェー族は、『アッハキッヒ』を大層敬い、人生の節目で色々な儀式を行ってもらったり、大切な進路について相談したりしているのだと、教授も聞いたことがあった。

「先生は、ハポン(日本人)だし、クリスチャンじゃない。俺が、神父さんが禁止している儀式に参加したって告げ口なんかしないでしょう。教会でも、テレサの事は祈ってくれているが、それだけじゃ、あの世で、テレサはうまくやっていけないんでさ。どうしたって、サン・パスクアル様に供物を捧げ、つなぎをとって、テレサがシバルバーで酷い目に遭わないようにって、お願いしてやらなきゃならないんでさ。坊ちゃんだって、きっと、シバルバーのどっかにいらっしゃるに違いねえ。だから、サン・パスクアル様に、坊ちゃんの様子をお尋ねし、良しなにお願いしますって、先生も、お祈りしなきゃいけませんぜ」

 『シバルバー』とは、彼らが恐れる、『あの世』、即ち『冥界』の事で、地下に存在すると考えられていた。死者は、この冥界へと行き、そこには、九つの世界があり、様々な試練があるのだといわれていた。そして、『サン・パスクアル』とは、キチェー族の人々が信仰する死の神、シバルバーを治める神の名である。その神名は、マヤの死の神、『フユップ・タカー』が、キリスト教信仰と融合してできあがった、新たな神格の呼び名であった。

 スペイン人が、この地を初めて訪れた頃、マヤ文明はすでに謎の崩壊の後で、遺跡は打ち捨てられていた。また、多数あったという古文書も、キリスト教の布教活動の妨げになるという理由で、古代中国において、始皇帝が行ったという焚書さながらに、焼き捨てられてしまった。そのため、資料が極端に少なく、マヤ文字の解読も進まず、マヤ文明は、長い間、失われた謎の文明と言われてきた。

 しかしながら、現地で長らく暮らす月護教授は、キチェー族やその他、マヤの末裔を名乗る民族の中に、マヤの習慣やその独特の世界観が、脈々と受け継がれてきていることを、よく理解していた。

「なるほど、そうなのか」

 教授は、肯定的にうなずいてみせたものの、予想外の展開に戸惑っていた。

 この地域で、人口の八割以上を占めるのがキチェー族だ。キチェー語という独自の言語を有し、古代マヤの直系部族のひとつであることを、誇りとする人々である。現代において、彼らの大部分は、信心深いクリスチャンで、日曜日の礼拝には欠かさず出席している。が、その一方で、根強い土着信仰があり、その異教の儀式をやめさせることができないので、マヤの直系部族が多い教区へ赴任してきた神父たちにとっては、悩みの種であるという話を、教授は、神父自身からも聞いたことがあった。

 発掘調査の許可や、発掘期間の延長などの交渉には、地縁や政治力が必要な事も多い。地域の要となる聖職者の口利きで、手続きが円滑に進むことも多々あるのだ。そのため、聖職者とは良好な関係を保っておきたいのが、教授の本心だった。

 それでも、彼らの土着宗教とは関わらない方がいいと思う一方で、なかなか知ることのできない、彼らの古来から伝わる宗教儀式を、この際、是非詳細に見ておきたいという好奇心が強まるのを意識せずにはいられなかった。キチェー族の者たちは、古代マヤからの伝統を受け継ぐ、彼ら自身の独自の信仰については用心深く秘匿し、部外者には容易に明らかにしようとはしない。これは滅多にない機会だった。


 四十分ほどジャングルの中を進むと、開けた場所についた。そこは、直径六メートルほどの縦穴だった。石灰岩質のこの辺りは、地下水脈が複雑に巡っている。雨水の侵入で、地下水脈の上にある、石灰岩質の地層が崩落し、縦穴が現れ、澄み切った地下水が湧き出すのだ。その水面は、透き通る青さである。このような泉は、「セノーテ」と呼ばれ、この地域には、無数に存在するのだ。

「先生、あそこに立ってるのが、ホセでさあ」

 アンドレアスが指さす先、縦穴へ続く崖のきわに、白い開襟シャツに、デニムのベスト、アイボリー色の長ズボン、白いつば広帽子を被り、何だか得たいの知れない首飾りをじゃらじゃらとぶら下げた、中年の男がいた。アンドレアスは、ホセへ、手を振り、挨拶した。

 アンドレアスは、ホセに近づくと、月護を紹介した。

「ホセ、俺の女房が死んだ時、一緒にいた子どもの、お父さんだ。今日は、俺と共に、サン・パスクアル様に、子どもがシバルバーで楽に生きていけるようにと、お祈りするために来たんだ」

 ホセは、無言でうなずいた。間近に見ると、ホセの首飾りは、動物の頭蓋骨や、護符のようなものがたくさんぶら下がっていた。首飾り以外、『アッハキッヒ』だとあらかじめ知らされていなければ、ホセは、この辺りの村人と変わるところはなかった。ただ、浅黒い精悍な顔立ちで、鷲鼻と、その両側にある炯々と光る目には、長老めいた威厳があった。

「下へおりなきゃならんが、おまえ、ロープは持ってきているのか」

 ホセは、挨拶もなく、いきなり切り出した。アンドレアスは、ナップサックからドーナツ状に巻いてある縄梯子を取り出した。

「先生は、ロープじゃ降りにくいだろうから、縄梯子にしておきやしたよ」

 アンドレアスは、得意気に、月護へ縄梯子を見せた。

「ありがとう」

 礼を言いながらも、教授は不安になってきた。こんな所に来るとは思ってもいなかったので、軍手の用意もないし、靴も、普段はいているスニーカーだった。ザイルも持ってきていないので、落下防止の命綱をつなぐこともできない。この恰好で、垂直に近いセノーテの崖を降りるのは、なかなか大変そうだった。しかし、ついて来てしまった以上、今さらやめておくとも言えない。アンドレアスは、手慣れた様子で、セノーテの周囲に生える木に、縄梯子を結びつけ、降りる用意を始めた。

「先生、ホセと俺が先に降りて、祭壇を造ってますから、ゆっくり降りてきてください。五メートルほど降りてもらったらいいだけですから、大丈夫ですよ」

 と、言うと、ナップサックに鳥かごを括り付け、マチェーテをベルトに差すと、アンドレアスは縄梯子を降りていった。ホセも、その後に続いた。手慣れた様子からすると、二人は、ここに何度が通ってきているのだろう。

 縦穴の底に、二人が到着したのを確認した月護は、覚悟を決めて、縄梯子を降り始めた。アンドレアスが用意してくれた縄梯子は、幅が二十センチほどしかなく、直径が二センチほどの、ナイロン製の非常に細い縄だった。その縄を握りしめる月護の手は、自身の重みのせいで縄に食い込み、降りる途中から擦り剝けて血が滲んできた。しかし、必死で梯子につかまり、痛みに耐え、やっとの思いで地面に降り立った。

 セノーテの岸辺となる地面は、上からのぞいて見た印象よりも、ずっと広々としていた。所々に、何か燃やした、黒く焦げた円形の跡がある。彼らは、ここで、定期的に儀式を行っているのに違いない。

 腕組みし、仁王立ちしたホセの指図のもと、アンドレアスは、祭壇づくりに勤しんでいた。

 祭壇は、直径が一メートル余りの円形で、中央には、真ん中は円盤で、そこから上下左右に延びる先が、同じ長さの菱形の、木彫りのマヤ十字架が置かれ、そのまわりを、方位を表す四色、北を示す白の花、東を示す赤の花、南を示す黄色の花、西を示す黒色、西の黒の区画だけは花ではなく、コパール(松の樹脂を固めたボール状の燃料)で区切り、方位に対応する区画ごとに、同系色のローソクが何本も立てられ、周囲は米と砂糖で縁取られていた。

 アンドレアスは、ナップサックの中から、アルコール度数の高いトウモロコシ酒の大びんを取り出して、ホセへ手渡し、次にニワトリの入った鳥かごを彼の足元に置いた。アンドレアスのパンパンに膨れ上がっていたナップサックは、中身を取り出し終えてペタンコになった。

 ホセは、無言のまま、祭壇をじっくりと点検し、うなずいた。

「では、そろそろ始めるとしよう。そちらの人も、用意はいいかね」

 ホセは、確認のために、月護に声をかけた。月護は、汗みどろになった顔のまま、うなずいた。

 ホセは、祭壇の前に立ち、自分の首飾りを左手で持ち上げた。鎖の中央には、祭壇の中央と同じ、上下左右が同じ長さの十字架が付いていて、両側には、髑髏の飾りがついて揺れていた。


 いきなり儀式が始まった。

「父と子と精霊の御名において」

 ホセは、頭を垂れ、十字架を掲げたまま、右手で十字を切った。アンドレアスも起立したまま、十字を切った。月護も慌てて見習った。

 ホセは、両腕を鷲の翼のように広げ、目を閉じたまま、朗々と祈りの言葉を唱えた。まず、二十ナワールと呼ばれる日の神とも時間の神ともいわれる一柱ごとに、ホセは丁寧に祈りの言葉を唱えた。二十柱の神々すべてに、平和と調和を望む祈りと感謝の言葉を捧げ、供物を捧げるのに、一時間近くを費やした。その間も、アンドレアスは汗みどろになりながら、ろうそくに火をともし、祭壇へオコーテ(乾燥させた小枝)と乾燥させた薬草の束を投げ入れ続けた。祭壇からは絶えず煙があがり、あたりは白い煙に覆われ、月護教授は、頭がクラクラし、足元が浮いているような気がした。

 二十ナワールへの祈りを終えたホセは、次に、冥界シバルバーの九柱の神々へ、死者の安らかな眠りと、死後の安寧と幸せな生活についての祈りを唱えた後、シバルバーの盟主であるという、サン・パスクアルへの祈りを唱え始めた。

「鹿の主よ、我らの願いに応じ給え。我らを来たる世界の主のもとへ、シバルバーの盟主にして、シキリパットとクチュマキック、アハルプーとアハルガナー、チャミアバックとチャミアホルムの主にして、死者の王、サン・パスクアル様へ、この者、テレサの夫、アンドレアス、アキラの父、ツキモリ、彼らの捧げる供物を納め、彼らの願いをお聞き入れくださいますよう、二人の死者がシバルバーで飢えないことを、暑さに喉が干上がることのないことを、恐ろしい獣に襲われることのないことを、病に苦しむことのないことを、生前と変わらぬ穏やかな暮らしを送ることを、アンドレアスと、ツキモリの願いを、どうかお聞き届けになりますよう、鹿の主よ、汝の俊足で、知らせんことを。闇の大王、九つの地下の世界の統治者を敬うことの証として、我らの供物を運ばれんことを、今、我らは、鹿の主へ取り次ぎを請い願う」

 このような要旨の祈りの言葉を、ホセは、抑揚をつけ、何度も繰り返し唱えた。

 アンドレアスは、何本ものローソクの焔が、生き物の舌のように蠢く祭壇へ近づき、黒いコパールに点火し、追加のオコーテを大量に投げ入れた。あたり一面、何も見えなくなるほど、もうもうと煙が立ち込め、熱気と煙で、月護の眼は痛み、喉は煙に侵され、窒息寸前となった。

 ホセは、トウモロコシ酒の蓋を開け、黒い煤を巻き上げて燃え盛るコパールに、酒を直接振りかけた、度数の高いアルコールに反応し、青い焔が噴き上がった。

「余を呼び出したのは、汝か」

 地響きとともに、地の底から湧き上がるかのように、重低音がとどろいた。音は、縦穴の中で反響した。祭壇は盛んに燃えているにも関わらず、あたりの温度が急激に下がった。月護は体が震え、寒さに歯がカタカタと鳴った。

 ホセは両腕を頭上に掲げ、燃え盛る焔へ向かって叫んだ。

「シバルバーの盟主よ。我らの願いを、聞き入れたまえ。我らは、来たる聖なる世界、大いなる神の暦、ナワールが一巡し、未来と過去が一となるその時に、死せる者が蘇り、シバルバーの王が地上の玉座に再び戻られることを信じる者、その証を、今、この場に捧げます」

 ホセは、鳥かごの蓋を開け、素早くニワトリを取り出すや、その首をつかんだまま、いつの間に握ったのか、右手でナイフを一閃し、喉を掻き切った。ニワトリの頭部が飛び、血が噴き出した。が、その瞬間、首から切り離されたニワトリの胴体が、激しく羽ばたき飛び立った。黒いニワトリは、辺りに血をまき散らしながら、祭壇を飛び越えた。月護の前に、煙の中から、首のない黒いニワトリが突如現れた。度肝を抜かれた月護は、腕をかざして避けるのが精いっぱいだった。ニワトリは足の爪を蹴立て、彼の腕を切り裂いた。

「痛っ、」

 血が飛び散り、煙が、鉤爪の生えた巨大な手の形となって、ニワトリを背後からむんずとつかみ、火焔の中へ引きずり込んだ。鋭い爪先に、月護の血液を付着したまま、黒いニワトリは火焔の中へと呑み込まれた。

「汝らの証は、確かに受け取った。アンドレアスよ、汝の信心に免じ、女房は、余の宮殿で、女中頭として取り立てて遣わそう」

「ははあっ、有り難き幸せでございます」

 アンドレアスは地面に膝まづき、煙へ向かって何度も頭を下げた。

 これが薬物の作用によって見せられた幻覚なのか、それとも、『アッハキッヒ』であるホセによる何等かのトリックなのか、月護教授には判断がつきかねた。

 ホセが、再び、トウモロコシ酒を祭壇へ振りかけた。さらに焔が激しく燃え立ち、地の底から湧き出る声が、再び、辺りに殷殷と轟いた。

「ツキモリよ。汝は余を疑っておるな。余の力を疑う不神信者には、罰を与えねばならぬ。だが、軽いものにしてやろう。汝は、遠い異国からやって来て、わざわざ、子どものために祈りを捧げようという、殊勝な心がけの男だからな。しかしながら、汝の子は、シバルバーの闇底に墜ちる寸前、セノーテの水底深くに眠っておられた、闇の大バラム神がお目覚めとなり、連れて行ってしまわれた。余の治める世界の内に、汝の息子はおらぬ。汝の血を、息子の血に、今より余の力で結びつける。汝自身で、息子の姿を見るがよい」

 サン・パスクアルの声が終わるや否や、月護教授は凄まじい速さで空を飛んだ。夜の闇、日の出、日没、夜の闇、凄まじい早送りが何十回も起こり、自分の体が遠くへ移動するのを感じた。突如として、周囲が真昼の明るさとなり、連なる円錐形の山二つと、間隔を空けてもう一つの山がある景色が見え、下を見ると大きな湖が見えた。教授は、湖に向かって体が降下するのを感じた。ぶつかると思った瞬間、今度は水平飛行に変わった。湖面を飛び、岸を越え、山間の知らない村落へと入っていった。そして、突然、顕が、自分を見上げていることに気が付いた。

「顕ああっ」

 教授は、顕へ向かって叫び、手を伸ばそうとした。が、その瞬間、失速し、地面に叩きつけられた。

 我に返ると、煙が立ち込める祭壇の前で、尻もちをついていた。


 儀式は終わった。

 どうやって縦穴を登り、宿舎まで帰り着いたのか、月護教授には、どうしても思い出すことができなかった。シバルバーの王という、サン・パクスアルの言葉と、実際に見たとしか思えない、いや、見たに違いないと信じたい顕の姿に衝撃を受け、その事だけしか記憶に残らなかったのだ。宿舎に帰り着いた教授は、そのまま、三日間熱にうなされ寝込んでしまった。


 熱が下がり、ようやく外に出られるようになったある日、今度は、ホセが宿舎を訪ねて来た。白いつば広帽子、服装も前と同じだが、今日は、首飾りはつけていない。首飾りがないだけで、随分と印象が異なり、普通の村人にしか見えない。だから、月護教授は、呼び止められるまで、その男がホセだとは気がつかなかった。

「ツキモリ、私だ。先日、あんたの息子の儀式を行ったホセだ」

「ああ、ホセ・・・そのう、先日はどうも―」

 教授は、ホセにどんな事を話したらいいのかが分からなかった。あの日経験したことが、自分の中で全然整理できていないので、礼の言葉も、感想も、全然言葉になって出てこないのだ。

 ホセは、月護の様子には無頓着に用件を切り出した。

「ツキモリ、あんたから、祈祷料をもらってないから、もらいに来た。払ってくれ」

「祈祷料・・・ああ、そうか、祈祷料かい。いくらだ」

 ホセは、目をパチクリした。

「アンドレアスから、聞いていないのか」

「あの後、寝込んでしまったので、彼と会っていないんだ。少し待ってくれ、財布を取ってくるからね」

 月護は部屋へ戻ると、財布と、ふと思いついて、顕の写真もシャツの胸ポケットへ入れて、ホセの所へ戻った。

「これで足りるかい?」

 そう言いながら、教授は、ホセに百ケツァル紙幣十枚を取り出して、手渡した。紙幣をあらためたホセは、また目をパチクリさせた。通常の祈祷料よりはるかに多い金額だったからだ。

「これはどうも、十分だよ」

「そうか、それは良かった」

 儀式の感想など、もう少し、何か言いたいのだが、先日儀式で見たことが頭から離れない。その事ばかり考えて頭が一杯の教授は、言葉が出てこなかった。

 ホセは、しばらく無言で教授を見ていたが、感情を交えない、淡々とした口調で話しかけた。

「ツキモリ、あんたにだけは話しておく。私は、あの場所では何度も儀式を行ってきたが、この間のような、強力な力があの場に出現するのは、滅多にないことなんだ。あんたは、あの場で、何か感じることができたはずだ。キチェー族でないあんたには、すんなり理解できないことだろうが、自分自身が感じたことを信じるんだ。どんなにあり得ない事でも、あの場で見たことは本当の事だ。血の儀式で現れた神は決して嘘をついたりはしない。血液を失うことは死につながる。生命の根源となる血の流れを乱す危険をあえて冒し、自らの血を捧げて祈ることこそ、神への最高の帰依の証だ。神は、それに必ず答えてくれるのだ。だから、あんたの見たことに嘘はない。信じるんだ」

 ホセは冷静に話したし、その目は真剣だった。祈祷料をはずんでもらったからとか、子どもを亡くしたことを気の毒に思ったからといった動機から、口から出まかせを言っているようには見えなかった。

 教授は、ポケットから写真を取り出し、ホセへ見せた。

「この子を見たんだ。シバルバーにいないと言われた」

 ホセは、写真をじっと見るとうなずいた。

「それは真実だ。間違いない。あんたは、この子を見た場所がどこなのか探すべきだ。他にも何か見ただろう。それを思い出して、捜してみるんだ。きっと、どこかで生きているはずだ。シバルバーにいないのなら、まだ地上のどこかにいるに違いない」

「湖と、山、たぶん火山だ、円錐形の山が二つ連なっていた」

 教授の言葉にホセはうなずいた。

「それが、手がかりになる。その山も、湖も、どこかに絶対にある。捜すんだ。きっと、この子はその湖の近くにいる」

 力強く言い終え、ホセは帰っていった。ホセを見送った月護教授は、彼に言われたことをよく考えてみた。

 自室へ戻り、まずノートを取り出し、サン・パスクアルの言葉を覚えている限り書き出してみた。すると、儀式で見た生々しい光景、濛々と立ち込めた煙や炎の熱さ、襲い掛かってきた真っ黒なニワトリの、血まみれの姿などが、まざまざと甦ってきた。ニワトリの爪で引っかかれた傷跡を撫でながら、教授はもの思いに耽った。

(サン・パスクアルは、闇の大バラム神と言っていた。バラムとはジャガーのことだ。ゲリラたちは、ジャガーに喰い殺されたんだ・・・顕は、本当にジャガーに食べられてしまったのだろうか・・・顕の遺体は、まったく発見されなかった・・・)

 サン・パスクアルの言葉は、食べられてしまったことを意味するのだろうか、あるいは、別の事態が起きたことを意味するのだろうか。教授は、書き出したものを、何度も読み返し、考えた。

「それから、あの山と湖だ」

 教授は、自分が見た景色を覚えているかぎり詳細な絵に描き、特徴を書き込んでいった。その特徴は以下のものだった。

 かなり大きな湖、おそらくカルデラ湖。

 円錐形の山(おそらく火山)が間隔を空け、なだらかな弧をえがき連なる麓に、青く澄んだ大きな湖が広がり、緑が濃く茂っていた。

「そうだ、顕の側に誰かいた」

 教授は、顕を見た瞬間を、鮮明に思い出した。細かな縞柄の入った、地色が青紫のウィピルを着た女性が、顕の手を引いていたのだ。

「あの、ウィピル、きっとグアテマラのどこかのはずだ」

 教授は、書棚から現地の民族衣装の事が書かれた書籍を捜し始めた。まさにその時、誰かがドアをノックした。

「入ってくれ」

 目当ての本を早く見つけ出そうと、教授は、書棚から本をドサドサと床へ落しながら、入室を許可した。

「先生、今日の発掘品リストをお持ちしま・・・・何を、お探しなんですか」

 入ってきたのは、教授と一緒に現地に戻ってきた小野寺助手だった。大学院を修了後、助手の身分で残り、月護に師事し続けていたのだ。

「ああ、小野寺君、リストは、机の上に置いてくれたまえ、今、ちょっと取り込んでいてね」

「はい」

 小野寺は、指示通りリストを机の上に置きながら、開きっぱなしになっていたノートに目を止めた。

「先生、これってアティトラン湖ですか」

 小野寺の言葉に、教授は手を止め、振り向いた。

「小野寺君、今、何て言った?」

 小野寺は、キョトンとした顔で、ノートに描かれた湖を指さして、答えた。

「アティトラン湖ですよね」

 月護教授は、立ち上がるや、小野寺がのけぞりそうになる勢いで尋ねた。

「その湖は、どこにあるんだ。教えてくれっ」

「ソロラ県ですよ。有名な観光地です。先生は、行かれたことはないんですか」

 高地地帯での発掘作業一筋の月護とは異なり、小野寺は、学生の頃、グアテマラ国内を当てもなく方々旅行して回った。観光地として名高い、アティトラン湖も当然行ったことがあった。

「そこへ、どうしても行かなければならないんだ。連れて行ってくれないか」

「はい、構いませんよ―でも先生、車でも往復だけで、まる二日はかかりますよ」

 彼らの発掘現場はメキシコ国境に近い北部のペテン県にあり、アティトラン湖は、はるか西南のソロラ県にある。直線距離でも三百キロ余りだ。発掘調査がやっと軌道に乗った今、休みを取る余裕はなかった。教授は逸る心を抑え、次の休暇期間を待つことにした。

 

 三か月後、十月の下旬に入り、『死者の日』を前にした数日間、現地の人々は祭りの用意で、仕事が手に着かない状態となった。日本でいえば、お盆の行事が目白押しで、準備に追われる状態だ。発掘現場も作業員が集まらないので、一時休止となった。月護教授は、数日の休暇を利用し、小野寺の案内でアティトラン湖へ出発した。交代で運転し、かなりの強行日程で、目的地に到着した。

 パナハチェルへ到着すると、絶景ポイントだからと、小野寺は、わざわざ湖岸近くに駐車し、小道を湖の方へ下った。小さな桟橋のある砂浜に出ると、そのはるか向こうに、連なる二つの峰、円錐形の山が間隔を空け、弧をえがいてそびえ立ち、その麓には、夕日を反射してキラキラと輝く湖が広がっていた。アティトラン湖は、中米でも屈指の美しさで知られた湖で、八万四千年前の火山の噴火によって形成されたカルデラ湖である。平均水深は二百二十メートルで、面積は百三十平方キロほどあり、湖の周囲には三つの火山がある。

「時間があったら、山に登って展望台に行けたのですがね。そこからの眺めは、本当に素晴らしいんですよ。ですが、この桟橋からの眺めもなかなかのものです」

 小野寺は、背中を反らし、両腕を伸ばし、運転し続けたせいで、すっかり強張った体をほぐしながら、教授に話しかけた。

「確かに、ここだ。間違いない」

 教授は、呆然と景色を見つめた。小野寺は、教授の様子を無言で見守った。その視線に気がついた教授は、小野寺に話しかけた。

「せっかくの休暇なのに、付き合わせてすまなかった」

「いいえ、ここなら何度でも訪れたい場所ですから。ご一緒させていただいて、ぼくの方こそお礼を申し上げます。ですが、先生は、どうして、ここへいらっしゃったのですか。先生が、こんな観光地に興味がおありなんて、ちょっと意外で、気になってるんです」

 小野寺は、邪気のない様子で尋ねた。

「実は、人を捜しにきたんだ」

 月護は、死んだはずの息子を捜しに来たとは、小野寺には言い出しかねて、それだけを説明した。

「人探しですか。でも、この辺りも、広いですからね。どうやって、捜します?その人の写真なんかは持ってきていらっしゃいますか」

「ああ、持ってきているよ」

 別れた妻から手渡された顕の写真を、教授は持ってきていた。

「今日は、もう、宿へ入りましょう。もうすぐ日が暮れます。夜は不用心ですから」

 小野寺は、学生の時分に旅行した時に泊った、日系人が経営するペンションに部屋を予約していた。


 その夜、ベッドに入った月護教授は、長旅の疲れですぐに眠ってしまった。そして、夢を見た。

 教授の周りには、禍々しい気配の、真っ暗な闇が、ひたひたと押し寄せていた。その気配が、教授を、深い眠りから覚醒させたのだ。

 月護教授は、気が付くと、その不吉な闇の中に囚われてしまっていた。あたりを見回しても、漆黒の闇しか目に入らない。自分は、もう死んでしまったのかと、考えてしまうほど、恐ろしい闇だった。ところが、その闇の向こうから、何者かが、自分のことを、じっと見つめているではないか。

 禍々しい漆黒の闇の向こうに、確かな気配があった。巨大な生き物の気配だ。闇の中に、一対の緑色の光、それは光る目だった。足音もなく、獣が、教授に近寄ってきた。闇の中から、ぼおっと青白い燐光をまとう、巨大な生き物が現れた。それは、漆黒のジャガー、見たこともない、巨大なジャガーだった。ライオンすら上回る、大きさだった。

 ジャガーは、足音もなく、横たわる教授へと近づいた。教授は、ジャガーに食われてしまうに違いないと思い、固く目を瞑った。ところが、ジャガーは、教授の胸の上に、大きな前足をそっと置いたのだ。

「そなたは、父親なのだな」

 声が、突然、頭蓋の中に響いて来た。若々しい男の声だった。返事を促すかのように、ジャガーは、前足で、教授の胸を、トントンと軽く叩いた。

「質問に答えるのだ。どうなんだ、そなたは、息子を捜しにきたのか」

 ジャガーには、自分を襲う気がないのだと理解した教授は、返事をした。   

「そうだ。顕を捜しにきた。顕は、どこにいるんだ。貴方は、闇の大バラム神なのか」

 ジャガーの目が細まり、微笑んだように見えた。

「待ちかねたぞ。明日、黒猫を遣わすゆえ、その後を、ついて来るがよい」

 それだけ言うと、禍々しい闇の気配とともに、漆黒のジャガーは消えてしまった。


 翌朝。

 今日は、カトリックの『諸聖人の日』であるが、グアテマラでは『死者の日』であった。聖なる死者の魂が帰ってくる日として、国中で様々な行事が行われるのだ。墓場で人々が行う、色鮮やかなタコ上げ行事は、中でも有名だった。

 朝食を終えた月護教授は、フロントへ行き、経営者に美味しい料理のお礼を言ったりして世間話をした後、この近辺で、青系統の民族衣装を身に着ける地域はないかと尋ねてみた。

「ああ、それなら、隣町の『サンタカタリーナ パロポ』でしょう。あそこの女性が身に着ける衣装の色は、実に美しい。是非、ご覧になるべきですよ」

「そうですか。ありがとうございます。早速行ってみます」

 新聞を読みながら、ふたりの会話を聞いていた小野寺は、不思議に思った。月護教授は、古代マヤの事なら非常に興味を抱く人だが、現在のグアテマラの事となると、遺跡に関する予算の関係や、発掘許可の更新やら、自分の調査に関係する事以外は無関心な人だと思っていたのだ。そんな月護教授が、女性の民族衣装の事を質問し、すぐにも隣町へ出かけたい様子がある。ひょっとしたら、捜しているのは、現地の女性なのだろうか、きっとそうなんだろうと、一人合点した。

 二人は、宿に車を残し、チキンバスに乗り、サンタカタリーナ・パロポへ向かった。『死者の日』である今日は、いつも以上に人が多い。乗りたいと合図を送れば、その都度停車し、客を乗せるチキンバスは、先祖の墓へ行き、死者の日を祝おうとする地元の人々と観光客で、超満員だった。バスから降りるや、燦々と日光が降り注ぐ中、月護教授は、キョロキョロと辺りを見回した。小野寺は、人を捜すにしては、腰をかがめて、やたら下の方を見たり、かと思うと、屋根の上を見上げたりする、月護教授の様子を妙に思いながらも、見守っていた。

「ニャーオ」

 猫の鳴き声に、教授は、ハッとした。声の方を見ると、石積みの塀の上で、黒猫が尻尾をピンとたて、背中を丸めて前足を突き出しながら、欠伸をしていた。

 教授は、発掘品を精査する時に見せる真剣な目つきで、猫の方へ近づいた。

「ミャウ」

 黒猫は、短い鳴き声を上げると、塀の上をのんびりと歩きだした。教授が、その後を追い、訳の分からないまま、小野寺がその後を追った。観光客向けの土産物屋が軒を連ねる石畳の細い道は、髑髏の飾りや、骸骨の人形を手にした者、中には、顔や腕に、骸骨風のペイティングを施した若者もいて、込み合っていた。その人込みの間を縫うようにして、教授は、塀の上、それから軒下と、自由気儘に進んでいく黒猫の後を懸命に追いかけた。

 教授は、黒猫の姿をたびたび見失った。猫自身が、人込みを嫌い、家の間の狭い隙間を通り抜けたりするからだった。が、見失ってしばらく捜していると、また、「ニャー」と鳴き声がし、黒猫は、必ず姿を現した。夢の中で、黒いジャガーが遣わすと言った黒猫とは、この黒猫で間違いないと、教授は確信した。

 黒猫は山の方へと向かっていく。道はどんどん狭くなり、傾斜が急になってきた。月護教授は、ただ黒猫を見失わないことに集中していて、周囲の様子など眼中になかった。その後ろに従う小野寺は、湖岸近くの商業地を離れ、住宅地の中に入ってきたことに気がついた。

 石畳の坂道を上るうちに、高台に出て来た。そこからさらに、狭い横道に入って進んでいくと、石積みの低い塀の向こうに、小さいながらも、色とりどりの花が咲き乱れる、見事な庭と、青い屋根と白漆喰の壁の、二階建ての瀟洒な家が見えてきた。猫は、ここだよ、とでも言いたげに一声、また「ミャー」と鳴き、塀を飛び越え中へ入っていった。

「ノアや、帰ってきたのね」

 庭から、若い女の声が聞こえた。猫を抱き上げ、立ち上がった女性と、塀の外側に立っていた教授の目が会った。

「あの・・・ここは―」

 教授は何か言いかけて、言葉を忘れてしまった。

 青紫の衣を纏う女性は、漆黒の髪を三つ編みにし、冠のように頭に巻き付けた、大層美しい人だった。目はキラキラと輝き、生きる活力が溢れ出て、冷たい清水と日光を一杯に浴び、すくすくと育つ、生命力に溢れた若木のよう女性だった。

 女性が不審に思ってはいけないと、小野寺が慌てて事情を説明した。

「今、人探しをしているところなんです。それで、偶然、あなたの家の前へ来てしまいました」

 その言葉に我に返った教授は、急いで写真を取り出すと、女性へ見せた。

「この子を捜しているのです。見かけたことはありませんか」

 ノアと呼ばれた黒猫を抱いたまま、彼女は、月護の方へ近寄ると、塀越しに写真を見た。見るなり、彼女の顔の表情は、一変した。目を見開き、まじまじと写真を見、そして月護を見た。

「どうぞ、お入りになってください。今、父を呼んでまいりますから」

 そういうと、彼女は木戸を開け、彼らを庭へ招き入れると、家の前にある白い円形テーブルと椅子まで案内し、腰かけるように勧めてくれた。そして、家の中へ慌てて入っていった。

 しばらくすると、家の中から、主らしい年配の男が、彼女とともに現れた。黒々とした頭髪は、広い額から後頭部へ梳かしつけられ、どことなく東洋人のような風貌である。立派な鷲鼻をした思慮深そうな顔立ちの、知的な印象の男だった。

 男は、月護たちの前に来ると、自己紹介した。

「ヴィクトリアーノ・ゴメスです。彼女は、娘のマルガリータです。私は、この町で医者をしていますが、今日は休診日で、家におりました」

「お休みになっているところを押しかけてしまい、申し訳ない。月護といいます。彼は、助手の小野寺といいます。我々は、ペテン県で、マヤ遺跡の発掘調査を行っている考古学者です」

 ゴメス医師は、教授の差し出した免許証を確認して頷くと、椅子に腰かけ、単刀直入に切り出した。

「子どもを捜しておいでだそうだが、あなたとその子は、どのような関係なのですか」

「息子を、捜しにきたのです。二年前に密林の中で行方不明になって、死んだものと思っていたのですが、この地方で見かけたと教えてくれる人がいて、探しにきたのです」

 アッハキッヒの儀式で呼び出したシバルバーの王、サン・パスクアルから教えてもらったと、本当の事を伝えても、そんな荒唐無稽な話を、医師であるゴメス氏が信じるとは思えない。それで、教授は、少し事実を変えて伝えた。脇に控える小野寺は、月護教授が明かした本当の目的に衝撃を受け、目をギョロリとさせたまま、ただ成り行きを見守っていた。

「父親ですか。息子さんの名は何とおっしゃる」

「顕です。皆からは、アキ・ペケーニョと呼ばれていました。行方不明になった時は、四歳でした」

「・・・・・・」

 しばし沈黙したゴメス医師は、娘へ向かって声をかけた。

「マルガリータ、あの子をここに連れてきておくれ」

 マルガリータは立ち上がり、フランス窓を開け、家の中へ入っていった。しばらく待つと、彼女は、色白の子どもの手を引いて、庭へ出て来た。子どもの姿を見るなり、我を忘れ、月護教授は、いきなり立ち上がり叫んだ。

「顕っ!」

 椅子が後ろへひっくり返った。教授は構わず、顕へ駆け寄った。

「顕、やっぱり生きてたんだ」

 教授は、顕の前にしゃがみ、涙目となって顔をのぞき込んだ。あの日、バス停の前で別れた姿が、脳裏に蘇った。しゃがむと真ん前に見えた顔が、今は少し見上げなければならなかった。喜びの涙が溢れそうになっていた教授の表情が、にわかに曇ってきた。記憶にあるのと同じ目鼻立ちなのに、顕は見知らぬ他人のようだった。父親が眼の前にいるのに、表情に何の変化も現れない。ただ目を開けて立っているだけなのだ。

「顕・・・父さんだ。分かるかい?」

「・・・・・・」

 顕は無言だった。顔には、なんの変化も現れない。まるで人形だ。けれど、両目には、人形ではない証、澄んだ光があり、生気を放つ人間の目に違いなかった。博士は、震える手を伸ばし、顕の肩に両手をそうっと置いた。慎重に扱わないと、砂のように崩れ去り、消え去ってしまいそうで、恐ろしかったのだ。

 ゴメス医師が、穏やかな口調で、教授に声をかけた。

「ツキモリ、その子は、私たちが、見つけた時から、ずっとそんな様子なのです。さあ、座ってください。今日は、幸い休日だから、ゆっくり話をする時間がある。この子が、あなたの息子だとおっしゃるのなら、我々は、この子について、冷静に、じっくり話し合う必要があります」

 ゴメス医師の方を振り向いた教授は、うなずくと、力なく立ち上がり、椅子へ戻って座った。

「先生、これは一体・・・」

 小野寺は、予想だにしなかった事態に動揺してしまい、言葉が続かない。

「すまない。黙ったままでいて悪かった。顕が、生きているかもしれないと、ある人から教えてもらってね。それで、ずっと行方を捜していたんだ」

「そうだったんですか」

 月護教授が、数か月前に発熱して寝込んで以来、ずっと様子が変で、小野寺も気にかかっていたのだ。顕が生きているかもしれないなんて、前もって聞かされていたなら、月護教授は頭がおかしくなってしまったに違いないと思い、ここへの旅は取りやめにし、休養をとって下さいと説得していたことだろう。しかし、現実に、顕が眼の前に現れたのだ。小野寺も、顕に近寄り、そっとのぞき込んだ。

「それにしても、驚きましたね。顕君が、無事だったとは。それに、こんなに離れた場所で見つかるとは、まったく奇跡としかいいようがありませんよ」

 マルガリータは、顕を庭へ連れて来た後、また、家の中へ入っていたが、茶器と菓子をトレーにのせて戻ってきた。

「ペテン県から、いらしたのなら、長旅で、お疲れのことでしょう。どうぞ、召し上がってください」

 と、言いながら、マルガリータは、各々に、アイシングのかかったケーキを切り分け、カモミールが豊かに香るお茶とともに勧めた。お茶とお菓子が行き渡ったのを確認したマルガリータは、月護教授に向き直り、率直に尋ねた。

「あなたは、息子だとおっしゃいますが、本当に間違いありませんの?よく似た、別人ということもありえます。この子は、随分色が白いので、私は、ここを訪れた観光客の子どもが、事故か何かにあって、置き去りにされてしまったのだろうと、ずっと思っていたのです」

 月護教授は、肩からぶら下げて肌身離さず持っていたナイロンリュックから、顕が持っていた、もとは水色の、色あせたリュックと、当時の新聞記事の切り抜きを取り出した。

「ゴメス先生、マルガリータさん、これをご覧になってください。信じられないことかもしれませんが、息子であることに、間違いありません」

 ゴメス医師と、マルガリータは、新聞の切り抜きをじっくり読んだ。そして、リュックとその名札に書いてある名前を見た。

「マルガリータ、この子が着ていた服を持ってきて、見せて差し上げなさい」

「はい、お父様」

 マルガリータは素直に返事をし、また室内に戻った。その間も、月護教授は、顕が何か反応を示さないかと様子を見守った。顕は、周囲の様子を気にする風もなく、おとなしくお茶を飲み、ケーキをフォークで切りながら食べ始めた。

 マルガリータは、戻ってくると、透明なビニール袋をテーブルの上に置いた。その中に、子どもの服が一式入っていた。青地に、キャラクター化した新幹線をプリントしたTシャツに、ベージュ色の半ズボンだ。その上下を見た教授は、記憶が一気に甦った。

「これは、帰国する時に着せてほしいと、日本にいる妻がわざわざ送ってきたものです。彼女は仕事が忙しく、私たちの処へはなかなか来ることができなかったので、すぐ顕だと会った時に分かるようにしておきたいと、そう手紙もつけて送ってきたのです。ほら、ここに、名前が書いてある。ローマ字で『AKIRA』とその横に日本の文字で、『顕』と書いてある。これで、アキラと発音します」

 ゴメス医師は無言でうなずいた。衣服に記された名前と、リュックに記された名前は一致していた。

 「それから、これは、この子の旅券です」

 教授は、旅券も取り出して見せた。身分事項欄には、顕の氏名、生年月日、赤ん坊の時の写真と、父親である月護教授の署名も入っていた。

「なるほど、あなたのお子さんであることは、どうやら間違いないようですな。では、私たちが、この子と会った経緯をお話ししましょう。

 ちょうど、一年前、死者の日が終わろうとする夕暮れに、湖岸で子どもが倒れているという知らせを受けたのです。私は、死者の日で休みを取りたいと言う、病院長の代診を頼まれて、湖岸近くの病院にいたので、たまたま診察したのです。この子はずぶ濡れでした。最初は、ボートから落ちて、溺れかけたのかと思いました。ですが、首のここに、・・・ちょっとごめんよ」

 ゴメス医師は、顕の側へ行くと、そおっとおとがいに手を当て、「ちょっと上を向いてご覧。お父さんに見てもらうから」と言いながら、顎の下から首にかけてを指し示した。顕は、ゴメス医師の指示通りに、顎を上げじっとしていた。

「ほら、ここです。鋭利な刃物で切られたような跡があるでしょう。私が初めて診た時、すでにこのように、薄っすらとした傷跡になっていた。ただ、当時は、もっと赤身が強く、生々しかったのを覚えています」

「どういう事なんでしょうか」

 月護の問いに、ゴメス医師は頭をふった。

「分かりません。事情が分かるのは本人だけなのかもしれないが、この子は、今まで、一言も言葉を口にしたことがない。こちらの言う事は、完璧に理解しているのに、全然喋らないのです。何か、非常なショックを受けて、言葉を話せなくなっているのかもしれない」

「・・・・何てことだ」

 教授の向かい側、ゴメス医師とマルガリータとの間の席で、顕は、両手でカップを持ち、お茶を飲んでいた。終始無言であるという以外、変わったところは見受けられない。しかし、月護教授の心の中では、不安が膨らんできていた。

 目の前の顕は、自分自身の事が話題になっても、何の関心も示さない。ゲリラに襲われたショックが原因で、心を閉ざしてしまい、周囲の事が理解できないためなのかと、教授は、最初のうちは、そのように考えた。けれど、顕の様子を見ているうちに、自分自身にも説明しがたい違和感を、感じるようになってきた。

 それは、顕が、妙に老成して見えるためだった。自分の知っている顕、二年前、バス停の前で別れた顕は、もっと感情豊かな子どもだった。一生懸命涙をこらえていた姿は、今でも、脳裏から消えることはなかった。あの頃のままの顕なら、自分と再会できれば、全速力で走り寄ってきて大喜びしてくれただろうし、もしかしたら、泣き出してしまったかもしれない。けれど、今、目の前にいる顕の態度は、あまりに超然としており、教授の戸惑いは増していくばかりだった。ショックで記憶喪失になっていて、何も分からないとか、あるいは、強い恐怖を経験した後遺症で、感情を失ったという事態なら、教授にも理解することができた。しかし、目の前の顕の様子は、そのような症状とは、どこか違っているように思えてならないのだ。

 月護教授は、息子の様子を何と表現すべきなのか、適切な言葉が出てこなかった。ゴメス医師の説明の通りで、失語症の状態になっているに違いないと、頭では、納得できているのに、目の前にいる顕の、落ち着き払い、老成した様子を見ていると、不安感をぬぐい去ることが、どうしてもできないのだ。異国にやって来た、言葉の分からない旅人が、親切な人達からもてなしを受け、意思疎通がうまくできないながらも、行儀よく振る舞っているというイメージが、頭に浮かび、どういう訳か、それが息子の状態に最も近い気がするのだった。

 サン・パスクアルの言葉だけを頼りに、わらにもすがる思いで、はるばるここまでやって来て、ついに再会を果たしたのだ。人智を超えた者の力を借り、息子を見つけ出した衝撃で、平常心でなくなった自分は、冷静さを失い、有りのままの顕を受け入れることができないでいるのだ。自分さえ、この衝撃的な驚きから立ち直り、落ち着きを取り戻せば、このような違和感も感じなくなるだろうと考え直し、教授は、不安感の正体を、追及するのを中断した。


 考え込んでいた教授が、ふと気が付くと、顕が、自分の顔を見つめていた。

「顕・・・父さんだよ。分かるかい」

 月護教授は、息子へ優しく話しかけた。顕は、澄んだ瞳でまっすぐ教授を見つめ返した。そして、微かにうなずいたのだ。

「顕・・・分かるんだな。父さんが、分かるんだな」

 表情は、変わらないものの、顕は、はっきりとうなずいてみせた。月護教授は、涙に目が曇り、手を当てて、泣き出すまいと懸命にこらえた。そのため、顕の横で、マルガリータの表情が曇り、悲し気な様子に変わったことに気づかなかった。マルガリータは、テーブルの下で、腕を伸ばし、顕の膝の上にそっと手をのせた。いつかは、この子の親が訪ねてくるかもしれないと、予想はしていたものの、顕の世話をしてきたマルガリータは、小さな弟ができたような気分で、別れがたく感じていたのだ。

「先生、バスの便がなくなってしまいます。もう、そろそろ出発しませんと・・・」

 話の成り行きを見守っていた小野寺が、遠慮がちに切り出した。その言葉に、教授は、慌てて腕時計をみた。家を探し当てるのに時間がかかったため、気がつくと、町へ来てから、もう四時間ほどたっていた。帰り道の時間も考えたら、そろそろ別れを告げるべき時だった。

 すぐにでも連れて帰りたい気持ちは強かったのだが、発掘作業でジャングルの奥地に籠ってしまう教授は、そのまま連れて帰ることはできなかった。顕が見つかるかどうかは半信半疑であったため、実際に見つかったら、その後どうするのかまでは、何も考えていなかったのだ。言葉を話さない顕を、ジャングルの奥地にまで伴い、日本へ帰国するまで、一緒にいるというのも、無理があった。そのため、顕を連れて帰るための相談を、ゴメス医師とあらためて明日行うことを約束し、教授は、小野寺とともに一旦宿へ戻ることにした。


 その夜、教授は、またもや夢を見た。

 サン・パスクアルのお告げを聞いて以来、顕の事を思いつめ、ついに見つけ出すことができた教授は、疲れ果ててしまい、ぐっすりと眠り込んでいた。しかし、あの大きな獣、黒いジャガーの気配に気が付き、意識が覚醒した。

「闇ジャガー大神」

 エメラルド色の双眸が、教授を見下ろしていた。巨大な漆黒のジャガー大神が、再び現れたのだ。

「息子を見つけ出すことができました。ありがとうございます」

 教授は、大神に礼を言った。しかし、ジャガー大神は、首を傾げながら、意外な事を尋ねた。

「顕の母親は、なぜ来ないのだ。息子が生きているというのに、なぜ、母親は来ないのだ」

「それは・・・」

「面倒だな。そなたの頭の中を見るぞ」

「えっ?」

 教授の中に、何かが入ってきた。穏やかな晴天の日の明るさや、若葉の匂いのイメージが湧き起こった。教授の心の中を、本棚から目当ての本を捜し出すかのように、何かが素早く調べていくのが分かったが、不思議と不快な感じはなかった。

「離婚とは、夫婦でなくなるのか。まったく、そなたたちは、顕の父親と母親のくせに、別々に暮らしておるのか、面倒だな、まったく」

 ジャガーは、面倒という言葉を連発した。

「面倒とは、どういうことなのですか」

「顕の望みは、父と母に会うことだ。父、つまりそなたと会う約束は果たした。しかし我は、まだ母と会う約束を叶えてやらねばならないのだ。だが、そなたの頭の中をのぞいた限りでは、母はこの国にはいない。母に会うためには、日本とやらいう国へ行かねばならない。わざわざ、遠方まで行かねばならないとは、面倒と言いたくもなる」

「顕の願い・・・ですか?」

「そうだ。顕は、我が眠っていた泉の底へ沈んできたのだ。顕の体から流れ出た血が、我の眠りを破ったのだ」

「・・・顕は、泉へ落ちたのですか。ケガをしていたのですか」

 教授は、ゲリラの死体が、セノーテの近くで発見されたことを思い出した。

「落ちた・・・というのは、正しい表現ではないな。顕は、投げ込まれたのだ。馬鹿者たちが、祈願のつもりで、顕の喉をかき切り泉へ投げ込んだのだ。まったく、いにしえの作法もわきまえない、けしからぬ奴らだ」

 教授は、顕の首に、白い筋となって残っていた傷跡のことを思い出した。

「昼間、そなたが見たあの傷は、その時のものだ。古のマヤの儀式を気取ったつもりだったのだろうが、奴らは、ひとつ、大きな勘違いをしていたのだ。生贄を投げ込めば、投げ込んだ者の願いが叶えられると勘違いしていた。とんでもない馬鹿者だ。生贄になった者、自らの願いこそが、我が聞き入れる願いだ。古の儀式においては、生贄に捧げられた者たちは、心の底から、王国の安寧と、彼らの王に守護が与えられることを願っておったので、我は、その願いに応えたにすぎない。願いを叶えてほしければ、あの者たち自身がにえとなり、泉へ飛び込めばよかったのだ。それを、幼い子どもを投げ込むとは、まったく呆れ果てた者どもだ。我は、顕の願いを聞き入れ、あの連中は、腹を空かせたジャガーが始末したというわけだ」

「・・・・・」

 顕を見つける前ならば、ジャガー大神の言葉はあまりに荒唐無稽で、教授には、信じられなかったであろう。しかしながら、実際に顕が生きていた以上、その言葉を疑うことはできなかった。ただ、何と答えたものやら、言葉が出てこない。生贄をセノーテに捧げる儀式が、古来、マヤの地で行われてきた事については、遺跡研究者である教授も当然知識はあった。が、まさか、その生贄を捧げられた神自身から、その儀式の真実を聴くことになるとは、想定外の事だった。それでも何とか冷静さを取り戻した教授は、ジャガーへ確認した。

「では、ゲリラたちは、顕を傷つけてセノーテへ、自分たちの祈りを聞き入れるための、生贄のつもりで投げ込んだ、とおっしゃるのですか」

「そうだ」

「しかし、それは、古の儀式を真似ながら、間違ったやり方であったために、顕の願いをお聞き入れになり、ゲリラには、・・・そのう・・・罰を与えたということなのですか」

「そうだ。我が、ジャガーの姿を保つには、それ相応のエネルギーが必要なのだから、やむをえなかった。それに、あの者たち、他人に、散々恐怖と苦痛を与えてきたのだから、最後に自分自身がそのような目にあったからといって、文句は言えまい」

「では、あなたが顕を贄としてお受け入れになったので、死の神は、顕をシバルバーへ連れて行くことができなかったのですか」

 夢の中でなければ、学者である月護は、このような非科学的な質問は、決してしなかったに違いない。

「死の神?そなた達がサン・パスクアルとか呼んでいるあ奴のことか。あのような者、シバルバーの表層をうろつく精霊にすぎぬ。神である我に、歯向かう力なぞないわ」

 闇のジャガー大神は、マヤの遺跡にも、しばしばバラム(=ジャガー)という文字とともに発見される神名であった。そしてその神名は、二つ名を持つある神の別名であったはずなのだが、月護教授は、それが何という名前の神であったのかを思い出すことができなかった。

「月護よ、顕の願いは、父と母に会うことだ。そなたとは、もう、会わせたので、願いは叶えた。しかし、母に会わせてやらねばならぬ」

 教授は、ジャガーへの恐れを振り払い、思い切って尋ねた。

「確かに、私は顕に会わせてもらいました。ですが、あの子の心は、一体どうなってしまったのですか。まるで、まるで、別人のようだった。恵子、あの子の母親は、あのような様子を見たら悲しむに違いありません」

 ジャガーは、緑色の双眸を細め、しばし無言となった。

 教授は、大神の機嫌を損ねてしまったのだろうかと、心配になった。

 しばらくして、ジャガーは話した。

「月護よ。我は、かつて、セノーテに贄となって沈んだ者の命を、生かしてやったことが何度かある。その者たちが、生きることを強く望んだからだ。顕のことも、当然、生かしてやるべきだと思い、そのように力は尽くしてきた。しかし、あまりに幼いゆえに、失われた生気が回復する兆しがない。我の裡にあって、辛うじて魂が生きている状態だ。それ故、ゴメスの家では、そなたと顕を、直接接触させてやることはできなかった。ここで、見ておくがよい。これが、顕の魂だ」

 ジャガーと、月護教授を隔てる狭い空間に、蛍の光よりも暗く、弱々しい光を放つ、真珠の粒が現れた。非常に小さく、一センチにも満たない大きさだった。

「これが、顕・・・?」

 ジャガー大神は頷いた。

「我の裡を離れれば、立ちどころ、消え去ってしまうだろう。ゴメスの家で、我は神気を送り込み、回復させようとしたのだが、これが精一杯だった。顕はあまりに幼く、その魂の殻は固まってはおらぬ。無理に神気を送り込むと、殻が砕け散ってしまう。幼い子どもの魂が傷ついてしまうと、回復させることは非常に困難なのだ。このような状態で故郷へ帰るとなると、我がついて行くしかあるまい。それに、あともう一つ言っておくが、顕の故郷は、神域が異なる世界ゆえ、どれほど神気が保てるのかも分からない。顕を生かし続けることができるかどうか、我にも分からない」

 大神が、面倒だと、繰り返し言った訳が、教授にも、やっと理解できた。それに、顕のために、大神は、自分が想像していた以上に力を尽くしてくれていたのだと、あらためて感謝の念が強まった。

 「大神よ、あなた様のご尽力に、心から感謝いたします。顕の願いを、どうか叶えてやってください。あの子の魂が散ってしまう前に、どうか、母親に会わせてやってください」

「この地に滞在すれば、何とか顕の魂を保ち続けることができるかもしれぬが、故郷へ戻れば、それはできないかもしれない。それでもよいのだな」

 ジャガー大神は、月護の目をのぞき込み、確認した。

「ええ、母親に会うことがあの子の望みならば、どうか、叶えてやってください。お願いします」

「分かった。では、そなたの望み通りにしよう」

 ジャガー大神の気配が消え、顕の小さな魂も、闇の中へと消えた。


 一か月半後、月護親子は、日本に到着した。

 顕を見つけ出したものの、発掘調査を再開したばかりの月護教授は、容易に現場を離れることはできなかった。そのため、ゴメス医師とその娘マルガリータの特別の好意にすがり、しばらく顕を預かってもらっていたのだ。ようやく、クリスマスから月末まで休暇を取る事ができた教授は、ゴメス医師のところへ顕を迎えに行き、そのまま空港へ向かい、十二月二十八日に帰国することができた。

 その日、空港の待合スペースには、親子の乗った飛行機の到着時間に合わせて、頭を青々と剃り上げ、墨染めの僧服に、輪袈裟姿の僧侶が迎えに来ていた。顕の母である恵子の兄、竹園宗圓だった。

 月護教授と恵子は離婚したので、顕の養育を誰が担うのかを相談しなければならなかった。しかし、顕の生還を聞いてからというものの、恵子の動揺は激しく、精神状態がすっかり不安定となっていた。そのような様子の妹と世事に疎い月護ふたりだけで、顕の今後を話し合って決めてしまうことに危惧を抱いた宗圓は、忙しい中時間をつくり、空港まで月護親子を迎えに来たのだ。

 熱帯の空のもと、発掘作業に勤しみ、真っ黒に日焼けした月護教授と、透き通るように色白の顕、しかも二人そろって半袖シャツ姿。夏の服装は、冬服姿の人々の中でひどく場違いで目立っていた。宗圓は、人込みの中から難なくふたりを見つけ出すと、足早に近づき声をかけた。

「明宏君」

「あっ、お義兄さん、いや、宗圓さん」

 恵子と離婚してから、宗圓に会うのは初めてだった教授は、思わず義兄さんと呼んでしまい、慌てて言い直した。

「別に義兄さんで構わないよ。君と恵子が離婚したからといって、私は親戚付き合いをやめる気はないからね」

「ご無沙汰しております」

 月護教授は、今日の便で帰国することを、恵子へは手紙で知らせていた。だから、迎えに来ているのなら、恵子であろうと思っていたのだ。それが、予想に反して、恵子の兄、宗圓が来ていたので、戸惑っていた。宗圓は、背が高く、読経で鍛え上げた声はよく通る、それに学園の理事を務める身で、押し出しの強い男だった。学究肌で内向的な教授は、宗圓が苦手なのだ。

「妹は、体調を崩していてね。今日は、実家の方で休んでいる。それで、私が代わりに来たのだ」

「それは、どうも、ご足労をおかけしまして…」

 宗圓が、忙しい身であることを、月護教授もよく知っているので、恐縮し切っていた。が、突然、電光掲示板の時刻表示に気が付くや、驚きの叫びをあげた。

「ええっ、今日って二十八日なんですか。二十七日じゃないんですか」

 教授は、電光掲示板の日時を、茫然と指さした。

「何を言ってるんだ。今日は二十八日だよ。時差ボケかい」

 時差ボケという言葉を聞いた瞬間、教授は気が動転してしまった。

「日付変更線で、日付を変えるのを忘れてたんだ。すみません。義兄さん、今日、研究会での発表があるので、これで一旦失礼します。すぐ、出発しないと、もう時間がぎりぎりなんです」

「何だって、そりゃ大変だ。すぐ、出発したまえ。けれど、顕君はどうするんだ。着いたばかりで疲れているだろう。東京の中を連れ回さないほうがいい。だから、私と一緒に先に京都へ行ったほうがいいと思う。明宏君は、研究会が終わって落ち着いてから、家へ来なさい。まさか、行き方を忘れてはいないだろう。恵子もいるから、今後の事もじっくり話し合えばいい」

「いや、それは…」

 教授の視線は、顕と宗圓の間をさまよった。父親としての責任感から、顕と行動を共にしなければという思いは強いものの、これから研究会へ出席し、発掘調査の成果を発表しなければならない身では、顕の面倒ばかり見ることはできない。それに、京都の我が家へ、可愛い甥っ子の顕を連れて帰ろうと決断した宗圓を、短時間で説得して翻意させるのも、到底できないことだった。

「さあさあ、遅刻なんかしたらみっともないだろう。早く行きなさい。顕君は、私が責任を持って連れて帰るから心配しなさんな」

 頭がすっかり混乱してしまった月護教授は、宗圓に急かされるまま、空港から大学方面へ向かう路線駅へと続く通路を、大きなカバンを手に、慌てて駆けだした。駅の方へ月護教授が行ってしまうと、宗圓は顕を見下ろし、にっこり笑った。

「顕君、私の事を覚えてはいないだろうなあ。赤ちゃんの頃に会ったきりだからね。君の伯母さんも、会えるのを楽しみにしているよ。もちろん、君のお母さんもだ。それから、君に着せるようにと、お母さんから、セーターと上着も預かってきたから、その寒そうな半そでシャツの上から着ておきなさい」

 そう話しかけながら、宗圓は、手にした手提げ袋の中から、顕へ、青と白の地に、電車のキャラクター模様入りのセーターと、青色のダッフルコートを手渡した。顕は、言われるまま、それを素直に身に着けた。

 顕を守護する大神の見るところ、がっしりとした体格で、眉が黒々とし、炯々と光る眼力の強い宗圓は、マヤの神官と似た雰囲気のある男だった。それに、彼も頭を剃り上げていたので、どうして神に仕える者たちは、頭を剃りたがるのかと、大神は不思議に思った。が、実際のところは、宗圓は禅宗の僧侶なので、神官ではない。日本に到着したばかりで、何の予備知識もない大神には、その違いもよく分からないのだった。


 年末は帰省客が多いため、東京から京都へは、満員の新幹線に乗らなければならなかった。無人の密林の中で、長らく過ごしていた大神は、東京の人の多さに驚き、窮屈な子どもの体内に、気配を殺して無理に入っているのと相まって、悪酔いしたような状態になってしまった。幸いにも宗圓は、顕を自分の寺へ連れて帰るつもりで、あらかじめ指定席を買ってくれていた。

 軍隊アリのように蜿蜒と移動する人込みの中、宗圓に連れられるまま、ようやく新幹線に乗った顕=大神は、くたびれ果ててしまった。

(贄に捧げられた顕の願いを叶えてやるためとはいえ、とんでもない所へ来てしまった。やれやれ、先が思いやられるな)

 と、大神は、心中密かに、ぼやいていた。

「顕君、疲れたのかい。あともう少し、三、四時間辛抱してくれ」と言いながら、宗圓は、駅構内で買った缶ジュースを顕の座席の前に置いてくれた。

 顕は、宗圓にお礼のつもりで、軽く頭を下げた。

 頭を下げる顕を見た宗圓は、声には出さなくても、顕が状況を理解できていることが分かり安堵した。バスジャックに遭遇し、死亡扱いされていた甥っ子が奇跡的に生きていたとはいえ、心身ともに深刻な傷を負っているに違いないと、非常に案じていたのだ。が、何とか新しい状況にも適応できそうな様子を目にして、これならば、父親である月護教授を説得し、我が家に引き取り面倒を見てやれば、いずれは回復し、話ができるようになるに違いないと、俄然希望が湧いてきた。月護教授はグアテマラでの発掘調査、恵子は雑誌記者、顕の面倒を見るには、父母双方があまりに多忙すぎた。事件に巻き込まれる前に、月護と妹は、顕を自分のもとへ預け、日本で教育を受けさせることで合意していたのだから、やはり、顕が生きて戻ってきたからには、以前に決めた通り、自分のもとへ引き取り、落ち着いた環境で養生させ、教育を受けさせるべきである、というのが、宗圓の堅い決意であった。


 座席にぐったり腰かけた顕の体内で、大神はゴメス親子との別れを思い返していた。セノーテの水底に沈んできた顕を助けることにしたものの、弱り切った顕の生気は辛うじて保たれているような状態で、しばらくはセノーテから動かすこともできなかった。大神の力をもってしても、幼い未成熟な状態の魂の殻が砕けて散ってしまわないよう、何とか落ち着かせることができたのは、人の年月では一年以上過ぎた頃だった。しかし、そうなると、いつまでもセノーテの中に生きている子どもを閉じ込めておくわけにもいかない。親を捜し出そうにも、ちょうどその頃、月護教授は、内戦状態のグアテマラを離れ、帰国した後だった。親を見つけ出すことができなかった大神は、やむを得ず、顕を助けるため、はるばるアティトラン湖畔にまで顕を運んだ。それは、ゴメス医師とその娘がいたからだった。ふたりは、マヤの王族の末裔で、先祖にあたる王は、マヤの各地域の石碑に、その名が何度も刻まれた、高名な大王だった。その大王は、大神が守護した王族のひとりでもあった。何百年もの時を隔てながらも、大王の面影を残すゴメス医師と、大王が愛した后の面影を宿す娘のマルガリータを見込んで、大神は顕の身を託したのだ。

 マルガリータは、顕との別れを非常に悲しんでいた。目を潤ませた彼女の姿を、大神は愛おしく感じた。長らく人間を守護してきた大神は、人の心の動きをよく知る神であった。それに、自身が、かつて守護した者たちの子孫であるゴメス親子とは、大神自身も格別に別れ難く思ったのだった。

(マルガリータには、一言、礼の言葉を伝えておけばよかった。本当によく世話をしてくれたのに、感謝の言葉も、別れの挨拶も伝えることができなかった)

 何人もの人間を守護した大神は、人の心の機微にもよく通じていたので、心裡で、マルガリータへ感謝の言葉と、別れの挨拶ができなかったことを残念に思っていた。マルガリータをねぎらうためにも、言葉を話せない状態で遠い日本へ帰って行く顕の身を案じる彼女を安心させてやるためにも、やはり何か言葉をかけてやりたかったと、それが心残りであったのだ。


 現代の我々がマヤ文明と呼ぶのは、コロンブスが新大陸に上陸するよりはるか以前に、メキシコからユカタン半島にかけて発展した文明のことだ。紀元前から九世紀にいたるその時代には、密林の中に、大王たちが割拠し、多くの都市国家が存在した。王たちは、神にも等しい存在として民に崇められた。

 そして絶大な権力をもつ大王と、神官たちの指揮のもと、民衆は石を積み上げ漆喰で塗り固めた巨大な神殿ピラミッドを数多く築いたのだ。今の時代、マヤの研究を行う者にとっても大きな謎であるのだが、マヤのピラミッドは、何等かの原因で、次々と打ち捨てられ、廃墟となった。今では、樹海に呑み込まれ、所在の分からないものが大半だった。

 殷賑を極めたマヤの時代、大神は大層崇められ、マヤの民の願いに応え、しばしば大王を守護した。守護を受けた大王は、皆、立派な治績を上げ、民心を掌握し、神聖王として尊敬を集めた。人間の時間の尺度では、遥か昔のことであっても、大神にとって、マヤの時代の記憶は、昨日の事のように鮮やかだった。

 マヤの時代、数多くの者を守護したジャガー大神ではあったが、これほど幼い子どもの守護を行うのは、初めての事だった。大人と子どもとでは、話し方も、立居振舞もまるで違う。大神が守護してきたのは、マヤの大王クラスの成人した立派な王族が殆どで、幼い子どもの所作には精通していなかった。

 ゴメス医師の家には、幼い子どもがいなかったので、マルガリータに対して、どのように話しかけたらいいのか、分からないまま、大神は、別れの日まで、無言で過ごした。それは、幼い体のままで、王族の所作を、それも人間の基準でいえば、大昔である、マヤの王族の所作で話しかけたりすれば、ゴメス親子を混乱させてしまうだろうと考えたためだった。

 長時間の旅で疲れている顕と、その中で密かに守護を続けるジャガー大神も、やがて眠ってしまった。


「顕君、起きなさい。もうすぐ京都だ。乗降口へ行こう」

 揺り起こされた顕は、宗圓の後に従った。


 駅前からタクシーに乗り数十分後、宗圓と顕は車を降りた。顕が降りた歩道の前には、見上げても先端が見えない、一抱えもありそうな一対の丸柱がそびえる上に、重厚な瓦葺の屋根がのる門があった。門の上部には「厳龍げんりゅう寺」と揮毫された扁額がかかり、門の両側からは築地塀が延々と伸びていた。門から敷地内へ入ると、御影石を敷き詰めた石畳の道が真っすぐ伸び、その先に見たこともない大きな屋敷があった。ゴメス医師の瀟洒な小宅しか知らない、顕の中のジャガー大神は、石畳の先にある豪壮、重厚な木造作りの屋敷の巨大さに、顕の伯父という宗圓は何者なのかと、マヤの大王や神官のような身分の男なのかと、考え込んでしまった。しかし、顕が目にしたのは、寺の本堂だった。宗圓は寺の住職なのだから当たり前だ。しかし、日本に来たばかりで、仏教のことなど何一つ知らないものだから、顕には驚きだった。

「顕君、こっちだよ」

 急こう配から軒へと反りかえる、独特の形の屋根の天辺が見えないものかと、背伸びをして本堂を見上げていた顕は、宗圓に呼ばれ、横を向いた。本堂へ続く石畳から、脇道があり、竹を編んだ柵の扉に手をかけ、宗圓が手招きしていた。柵を抜けると、離れとなった寺の庫裡へと続く玄関口があった。それが、宗圓とその妻、美佐江が暮らす住居だった。

 宗圓がにっこり微笑んだ。

「顕君、我が家へようこそ。私も、家内も、君を大歓迎するよ」

 ジャガー大神は、密かに屋内の様子を探った。女が二人、年配の方は宗圓の妻に間違いなさそうだ。が、あともう一人、年下の女がいた。それが、顕の母親に違いなかった。

 宗圓に促され、玄関で靴を脱ぐと、板張りの廊下を進んだ。

「まあ、顕ちゃん、いらっしゃい。寒かったでしょう。炬燵に入って、お茶を飲みなさい。ミカンもあるわよ」

 割烹着を着て、ふっくらとした顔立ちの宗圓の妻が、台所の引き戸を開けながら声をかけてくれた。

 宗圓は妻へうなずいてみせた。

「恵子は、どうしている」

「まだ、眠ってます。もう、起きてくると思いますよ。昨日は、よく眠れないから、睡眠薬を飲んだみたいなの」

「まったく、息子が帰ってきたというのに…」

「あなた、おやめなさいな。顕ちゃんの前で…」

 声を潜めた夫婦の会話から、顕の母親が二人目の女であることが確認できた。顕が、母親に会うことができれば、望みが叶い、はるばる神域の異なる日本まで来た甲斐があるものだと、ジャガー大神は、顕の願いが叶うことと、自身の労が報われることを期待した。

 宗圓の妻は、顕がひと言も喋らないと聞いていても、別に気にする風も見せず、鷹揚に微笑んだ。可愛い甥っこが戻ってきたことを、ただ素直に喜んでいる様子だった。顕の手をひき、畳敷の六畳間へ案内してくれた。暖かい炬燵に入り、彼女に勧められるまま、むいてもらったミカンを食べながら、顕の緊張も徐々にほぐれて行った。

 廊下へ続く障子を開け、髪を後ろに括り、白いタートルネックセーターにジーンズ姿の恵子が姿を現した。

「恵子、やっと起きてきたのか」

 声をかけた宗圓へ、恵子が視線を向けた。顔色が悪く、やつれていた。

「兄さん、ご足労をおかけしました」

「そんな事はちっとも構いはしない。顕君が戻ってきたんだ。早く、声をかけてやりなさい」

 兄に促され、恵子は視線を顕へ移した。その目には、喜びの色はなく、無言のまま、顕をまじまじと見つめた。

「恵子、どうしたんだ」

 ひと言も発しない妹へ、宗圓が声をかけた。

 一方、ジャガー大神は、ただ、母に会いたいという顕の願いを叶えることしか気にかけてはいなかった。そのため、顕の魂を守る必要があるとは、思ってもいなかった。

 母親の気配を感じた顕の魂は、突如、強く脈動し始めた。自分がそこに居る事を、母親に知らせようとしているかのようだった。そして、ジャガー大神の懐を離れ、母親の方へと漂って行った。

 恵子は、顕の側へ近づくと顔をのぞき込んだ。が、その表情は、息子との再会を喜ぶ母親の表情ではなかった。目を吊り上げ、恐ろしい形相で、恵子は金切り声を上げ叫んだ。

「あんたは、誰なの。あんたが、顕のはずなんかないわ。顕は、セノーテのほとりで、ジャガーに襲われ喰い殺されたのよ。顕は、死んだのっ。あんたが、顕であるはずがないわ。どこかに行ってしまって、ここから出ていって」

「お母さんっ」

 顕の魂は、小さな叫びをあげ、一瞬強い光を放つや、霧散した。本当に一瞬の事で、ジャガー大神ですら、どうすることもできなかった。

「恵子、やめなさい。何てことを言うんだ」

 宗圓は慌てて妹を制止しようとしたが、もう、手遅れだった。宗圓と、妻は、恵子を両脇から抱えるようにして、障子を開けると、廊下へ連れ出した。

「・・・・・・・・」

 ジャガー大神は、顕の魂があっけなく散ってしまい、一時、茫然自失状態となった。その後、どうしたらいいものかと、考えた。母親に会いたいという望みを叶えてやるために、あれほど苦心惨憺して保ってきた魂が、その母親の言葉によって一瞬のうちに霧散してしまったのだ。いますぐ、散ってしまった魂の欠片をかき集めれば、何とかまた、真珠のように小さな、幼い魂を取り戻すことができるかもしれない。しかし、それには、幼い子どもの体から、自身が離れ、現世とあの世との間をさまよい、探し回らなければならない。時間のかかる捜索のために体から離れてしまえば、幼い肉体は生気を失い、たちまち死を迎えてしまうのだ。魂の欠片を集めたとしても、戻るべき器である肉体がないのでは、無意味なことだと思い、ジャガー大神は、散ってしまった魂を追うことは諦めた。そして、顕の願いは叶えたのだから、夜の裡に体を離れ、セノーテへ戻ることにした。


 数分後、障子がそっと開き、恵子が、たったひとりで部屋の中へ戻ってきた。今度は、顕の前にぺたんと正座した。泣いていたのだろう、両目は真っ赤に充血していた。大神は、この女は、次にどんな恐ろしい言葉を発するのかと、身構えた。が、恵子は、無言のまま、いきなり顕を両腕で力一杯抱き締めた。

「顕、戻ってきてくれてありがとう。さっきは酷い事を言ってごめんね。でも、帰ってきてくれて、元気でいてくれて、本当にうれしい。ありがとう。もう、決して、決して、あんな危険な目には合わないよう、私も気をつけるわ。ごめんね、ごめんね」

(エーッ!!!なぜ、なぜ、このタイミングでそんな事を言うのだ。この女、何を考えているのだ。自分の言ってることをちゃんと分かっているのか)

 ジャガー大神は、心裡で叫んだ。肩が何だか生暖かい。それは、恵子の流す涙が、セーターを濡らしたせいだった。

 ジャガー大神は、困り果ててしまった。顕の願いを叶えることしか念頭になかったために、母親がどのような反応をみせるかなど、まるで考えてもいなかったのだ。あれだけ強く拒絶しておきながら、どうして、今になって、顕を受け入れたのか。己の神域であるセノーテへ帰るつもりになっていた大神は、想定外の事態に戸惑っていた。

(・・・・何てことだ)

 恵子に抱き締められながら、ジャガー大神は、マヤの時代、密林の奥地、セノーテの中で目撃したものを思い出した。それは、子別れの儀式を行う女の様子であった。死産の子や、自身の事情で育てることのできない子どもを、母親は、たったひとり、セノーテのほとりにある密林のなかで、葉っぱで幾重にもくるみ、果実のように木の枝に括り付けて去って行くのだ。それは、死んだ子が昇って行く天の高みへ、少しでも近い場所へ置いてやろうという思いと、肉食獣に食べられて体がなくなってしまわないうちに、子どもが早く生まれかわることができるようにという、母親の思いからだった。悲しい思いを押し殺し、小さな体を葉っぱで丁寧に包み込み、その作業を淡々と行うと、木の枝へ吊り下げるのだ。それは、母親一人が行うもので、子どもの父親といえども、口出しすることも、手伝うことも許されない、神聖、厳粛な儀式だった。恵子もまた、大昔の母親と同じく、生気を失い、もう先が長くない我が子に別れを告げ、あの世へ旅立たせたのだ。残酷な行いだったかもしれないが、それは、母親の本能のなせる業であったのかと、大神は気がついた。けれど、このまま、自分がセノーテへ引き上げてしまえば、今度は顕の肉体が死を迎えるのだ。恵子は、顕が一度は死んだと聞かされ、次に自ら、無意識のうちにとは言え、その魂を死後の世界へと旅立たせ、次に、我が子の肉体の死に遭わなければならないのだ。三度も、我が子の死を体験するのは、あまりに過酷なことではないかと、ジャガー大神は、母である恵子の立場を初めて思いやったのだ。そして、顕があげた最後の叫びを、顕の体を通して、ついうっかり声に出してしまった。

「お母さん…」

 それは、本当に小さな声だったが、恵子の心に届くには、十分な大きさだった。

「顕、あなた、ちゃんと声がでるのね」

 恵子の叫びに、廊下の外で、ハラハラしながら様子をうかがっていた宗圓と妻が障子を勢いよく開けて飛び込んできた。

「まあ、顕ちゃん、声がでたのね」

「よかった、大丈夫だ。ちゃんと、話せるようになるぞ」

 大人たちが、泣いたり、笑ったり、大騒ぎする横で、顕の体内のジャガー大神は、慌てふためいていた。

(馬鹿じゃないのか、我は…何で声を出してしまったんだ。母親の執着が強まるばかりではないか。セノーテに戻らねばならんというのに…だが、我は、この子の体を置き去りにしたまま、戻ってしまってもいいのだろうか)


 その晩、風呂に入った後、恵子とともに顕は二階の一室で就寝した。

 真夜中、顕は暖かい布団の中で目を開けた。睡眠薬を手放せなかった恵子は、その夜、薬を飲むこともなく、顕の手を握ったまま、深く眠っていた。母親の生気が、顕の体内に入り循環していた。大神は、その生気を当てにして、しばし、顕の体からの離脱を実行した。日没後、大神は、黒いジャガーとなり、再び、月護教授の夢枕に、姿を現した。


 時間ギリギリで、研究会に間に合い、発表を済ませた月護教授は、久しぶりに再会した大学の同僚に誘われ、つい飲み過ごしてしまった。元来、すぐ酔う体質なので、普段はあまり飲まないのだが、その日は顕を無事に連れて帰ってこられたことと、研究会での発表内容が好評だったことから、嬉しいやら、安心したやらで、気が緩んでしまい、同僚に勧められるまま普段より多く飲んでしまった。深酒した月護教授は、ジャガー大神の呼びかけにも、容易に覚醒しない。母親の生気を当てにして顕の体から抜け出してきたものの、長い時間、体から離れることのできない大神は、焦ってしまい、月護の額を前足でペシペシとはたいた。

「起きろ、月護、早く起きろ。緊急なのだ。我は、非常に急いでいるのだ」

「痛たたた…、おや、黒いジャガーの神様、ヒック、その節は、息子がどうもお世話になりました。今晩は、どのような御用件ですか。ヒック」

「そなた、酔っぱらっておるのか。まったく、この緊急事態に、そなた達夫婦、いや、元夫婦は、面倒ばかりかけおって」

 大神は、ブツブツ言いながら、月護教授の顔を巨大な前肢でムギュッと押し、酔いを吹き払った。

「これは、ジャガー大神、失礼しました」

「酔いは覚めたな。そなたに、緊急で、決めてもらわねばならぬことができた」

 ジャガー大神の緑色の瞳が、月護教授をのぞき込んだ。

「緊急に、決めろとは、何についてでしょうか」

 大神は、しばらく無言だった。それは、まるで人が逡巡しているみたいで、月護教授は、全能の神であるはずのジャガー大神は、一体何を迷っているのかと、訝しく思った。

「顕は、母親と再会できた。顕の願いを叶えたので、我は、セノーテに戻ろうと思う」

「息子の願いを叶えていただき、ありがとうございます」

 そうか、会えたのか、よかった、と思い、教授は嬉しそうに感謝の言葉を述べた。が、闇の中で、ジャガー大神は、無言のまま、耳を倒し項垂れている。

「どうされましたか。何か、まずいことでもありましたか」

 以前の夢の中では、闇を従え、威厳に満ちていたジャガー大神なのに、今夜は明らかに異なる様子だ。

「顕の魂は、散ってしまった」

 と、ジャガー大神は、月護教授から目を逸らして言った。

「散った。それは、死んだということですか」

「シバルバー(冥界)へ旅立ってしまった」

「母親に会ったばかりだというのに、あの子は死んでしまったと、おっしゃるのですか」

「顕は、母親と会って喜んでいた。魂が明るく輝いた。しかし―」

 ジャガー大神は、無言のまま、月護教授の胸の上に前足をそっと乗せた。すると、教授の中に、ジャガー大神が目撃した状況が、映像となり伝わってきた。同時に、ジャガー大神が感じたことや、考えたことも伝わってきた。

「何てことだ・・・恵子は、何ということをしてしまったのだ」

 涙が、月護教授の頬を伝わり落ちた。

「顕の魂は、衰弱し切っていた。いつまでも、この世に留まることはできなかったのだ。我は、顕との約束は果たした。だから、もう、ここに留まる理由はないのだ。母親は、顕が生き続けることを望んでいるが、ここは、我の神域ではないから、直ちに去らねばならない」

 ジャガー大神は、月護教授をまっすぐ見つめ、諄々と言い聞かせた。

 

「大神が去ってしまわれたら、顕は、いや、顕の体も死んでしまうのですね」

「そうなるな。だが、仕方のない事だ。母親がいかに強く望もうと、神域でない場所で、神として願いを聞き入れるわけにはいかない。そなたの妻は、顕の体が、これからも元気で生きてほしいと強く願っておったのだがな。心の底からの強い願いとはいえ、我は、この神域の神ではない。我の神域で、我に帰依を誓った者からの願いならば、叶えてつかわすのだが、残念なことよ」

 月護教授は、深い悲しみに襲われた。ジャガー大神は、去っていくそぶりもなく、教授が哀しむ様をじっと見守っていた。

 ややあって感情が落ち着き、冷静さが戻ってきた教授は、大神がまだその場から去らないことを不思議に思った。直ちに去らねばならないはずなのに、まるで、何事かを待っているかのようなのだ。

「そなたが、儀式で捧げた血、我は受け入れておるのだぞ」

 と、言いながら、大神は、月護の胸にふたたび前肢をそっとのせた。

(そういえば、大神は、私に決めてもらわなければならないことがあると、おっしゃった)

 教授は突如、大神の真意を察した。

「大神、では、私からの願いならお聞き入れくださいますか。私は、グアテマラの地で、アッハキッヒであるホセの行う儀式の場で、偶然とは言え、自身の血を捧げております。そのお蔭で、息子と再会することができました。さらにお願いするのは、厚かましいことかもしれません。ですが、どうか、顕を、せめてその体を生かしてやってはいただけませんか。せっかく生きて戻ってきてくれたと、家族皆が喜んでいるのに、死なせてしまうなんて、そんな事は耐えられません。顕が死んでしまったら、恵子の心が壊れてしまいます。お願いです。ジャガー大神、必要なら、私の血をもっと捧げても構いません。どうか、お願いです。顕を生かしてやってください」

 大神はしばし無言だった。そして、月護に問うた。

「そなたは、まだ、別れた妻の事を愛しているのか」

 月護教授は、迷いなくうなずいた。

「愛してます。話し合って離婚はしましたが、私にとって、彼女は今でも掛け替えのない存在です。離婚したのは、恵子には、恵子らしく生きてほしいと願ってのことです。伴侶として、ともに暮らしていくことはできませんでしたが、彼女には、幸せに生きていってもらいたいのです」

 夢の中でなければ、月護教授はここまで本心を明け透けに打ち明けたりはしなかっただろう。一気に言い終えた後、本心を吐露した恥ずかしさの余り、教授は真っ赤になっていた。

 ジャガー大神は、身じろぎした。

「よかろう、そなたの願いを叶えてつかわそう。しかし、ひとつ条件がある」

「はい、何なりと」

 セノーテに身投げしてその身を捧げよと、言いつけられでもしたら、どうしたものだろうか、などと不安になりながらも、月護教授は大神の言葉を待った。

「我は、この地に神として留まることはできない。人の子の中に、ひっそりと隠れ、人の子として生涯を終えてから、セノーテに戻ることにする。その為に、そなたの記憶を一部消してしまわなければならない。我と話した事はすべて、そなたの中から消し去ってしまうぞ」

「はい、それは、もちろん結構です」

 生贄になれという、恐ろしい条件が示されるのかと心配していた月護教授は、大神のもっともな要求に安心して承諾した。

「では、今夜限り、そなたとは、父と子の関係だ。我は、母親の下へ戻る」

 ジャガー大神は闇に溶け込み消え失せた。そして、月護教授は、深い眠りへと落ちて行った。


 翌朝。

 寺の朝は早い。宗圓と妻は、日の出前、真っ暗なうちから起床し、朝の勤行やら、敷地内の清掃やらと忙しく働いた。しかし東京暮らしの長い恵子は、兄夫婦が起き出した後も、ゆっくり朝寝し、目覚めたのは、すっかり明るくなった八時すぎだった。まだ眠そうな顕を起こし、服を着替えさせると、一階の台所へ行き、美佐江へ挨拶した。

「お早うございます」

 恵子の張りのある声に、煮物の様子を見ていた美佐江は振り返り、にっこり微笑んだ。

「お早う、恵子さんも、顕君も、よく眠れたようね。朝ごはんできているわよ。炬燵に入って待ってなさい」

 しばらくして、美佐江は、盆に朝食を乗せて持ってきてくれた。白いご飯に、味噌汁、卵焼き、自家製の白菜の漬物とタクアンが小皿に盛りつけられていた。

「・・・・・・・・」

 熱帯地方から、真冬の京都へいきなりやって来た顕は、寒さに震えあがっていた。炬燵に入るや猫みたいに身をぶるっと震わせた。それに、目の前の食べ物は見慣れないものばかりで、食べ方も分からない。フォークもナイフも、スプーンもない。恵子をうかがうと、両手を合わせ、「いただきます」と一声言ってから、盆にあった二本の細い木の棒みたいなものを手にし、器用な手つきで汁茶碗を持ちながら、味噌汁を啜っていた。

「どうしたの、顕、食べないの。ああ、お箸の持ち方が分からないのね」

「オハシ?・・・」

 顕は、恵子の言った「お箸」という言葉をオウム返しに言って、棒きれを指さした。

「あら、まあ。グアテマラから帰ってきたばかりなのに、私ったらうっかりしていたわ。スプーン持ってきましょうか」

 と、言って、美佐江は台所へ行きかけた。

「いえ、お箸で食べさせます。私が教えますから」

 そう言って、美佐江を、恵子が止めた。

 恵子は、顕にお箸を持たせると、手を添えて使い方を教えてやった。その様子を、美佐江が微笑ましく見守っていた。

「おや、お二人さん、やっと起きてきたのかい」

 障子を開け、廊下から宗圓が入ってきた。その時、一緒に吹き込んできた冷気に、顕はまた、ぶるっと身震いした。

「顕、やっぱり寒いのね。無理ないわ。熱帯からいきなり真冬の京都だもの。それに、ここはお寺で、だだっ広いから、余計に冷えるのよ。風邪をひかないように、気を付けるのよ」

「オテラ?・・・」

 今まで、知らなった言葉が次々に飛び出してくる。顕の中にいる、ジャガー大神は、学ぶべき事がたくさんあって、当分退屈しないなと、呑気に考えていた。

 慣れないお箸に悪戦苦闘しながら、熱い味噌汁や、真っ黒で、舌と上あごの間でくっつきそうになる海苔など、食べにくいなあと思いながら、もそもそと食べていると、先に食事を終えた恵子が、兄夫婦へ話しかけた。

「それじゃ、お兄さん、美佐江義姉さん、後の事はよろしくお願いします」

 と、一礼するや、恵子は立ち上がった。

(エッ・・・・)

 顕は、母を見上げた。恵子は、顕の顔をのぞき込んで言った。

「顕、ごめんね。明日から、また取材に行かなければならないのよ。『クリスマス休暇のセレブ達』っていう、特集記事を書かなきゃならないの。午後の便で出発するから、もう、行くわね。宗圓伯父さんと、美佐江伯母さんの言うことをよく聞いて、いい子にしているのよ。また、お土産持って帰ってきてあげるからね」

 恵子は、顕の頭を撫でた。

「・・・・分かりました」

 普通の子どもなら、こういう時は、行っちゃ嫌だ、とか言って、怒ったり、すねたり、泣いたりする所なのだが、大神には、そういう知識がない。月護教授の頭を探った時に得た日本語の知識で、言葉少なく返事をするのがやっとの事だった。

 恵子は、旅行鞄を手に、寺を飛び出して行った。


 伯父夫婦とともに母親を見送った顕=ジャガー大神は、寒い玄関から居間へ戻って来ると、いそいそと温かい炬燵へ潜り込んだ。炬燵に入ってぬくぬくとしながら、美佐江伯母さんが急須から注いでくれたお茶をフーフーしながら、少しずつ飲んだ。

(我は、母親の恵子を騙して申し訳ないと思っていたが、何だか、我の方が騙されたような気がするのは、どうした訳だろう。昨日の涙は、一体何だったんだ。あれだけ、泣いておいて、今日のあっさりした別れ方は、あんまりじゃないのか。まあ、子どもが無事だったから、安心して、取材とやらに出かけたのだろうが・・・・)

 ジャガー大神にとっては、人の一生はほんの短い時間に過ぎない。それでも、神気を殺し、神域の異なる異国にわざわざ留まるのは、人間の言葉で言えば、それなりの自己犠牲を払う覚悟で臨んだ決断だった。それなのに、母親の恵子は、あっさり別れを告げて、もう、行ってしまったのだ。なんだか、自身の決断が、あまり意味のない事だったのかと、心裡で、グジグジと独り言ちてしまった。

 湯呑を前に、何だか元気のない顕を、美佐江は可哀想に思い、小さな手をそっと握ってやった。

 もの思いにふけっていた顕は、美佐江が手を伸ばし、優しく手を握ってくれているのに気が付いた。

「顕ちゃん、よく帰ってきてくれたわね。お母さんは、忙しい人だから、あなたの傍にあまりいることはできないけれど、辛抱してあげてね。この家は、自分の家だと思って、宗圓さんと、私のことを、お父さん、お母さんと同じだと思って、のびのび過ごして頂戴ね。遠慮はしなくていいのよ。私たちも、あなたが帰ってきてくれて、本当に喜んでいるのよ」

 美佐江の目には、涙が光っていた。その手から、春の日差しのように温かい生気が流れ込み、ジャガー大神の心も温まってきた。

 顕は、美佐江に手を握られたまま、大きく頷いた。美佐江伯母さんを見習って、にっこり笑いたかったのだが、顔の表情の作り方がよく分からないので、何だか酸っぱいものを口にしたような、しかめっ面になってしまった。それでも、美佐江には、顕の感謝の気持ちはちゃんと伝わっていた。

(そうだ、我はここに留まると決めたのだ。この国で、しばらく人の事を観察するのを、楽しみとしよう)

 こうして、ジャガー大神は、マヤの時代からはるか後世、そして、はるか彼方の日本へ来たのだ。







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