398 ……心臓動いてる、俺?


「わたしはあなたに寄り添うつぼみ

 あなたのまなざしが

 他の花にそそがれていると知っていても

 わたしはあなたの足元でひっそりと蕾を揺らす

 いつか、あなたのまなざしが わたしに落ちて

 この蕾が花咲く日まで

 あなたのそばに寄り添い続ける」


 しんと静かな室内に、イゼリア嬢の澄んだ声音が吸い込まれてゆく。


 ………………心臓動いてる、俺?


 な、なななな何この尊さ……っ!


 えっ、いつの間に天国に昇っちゃったんだ!? 俺ほんとに息してるっ!?


 これほど素晴らしい朗読をすぐ隣で聞けるなんて……っ!


 まだ耳の中でイゼリア嬢の美声がこだましている心地がする。


 切なく澄んだ――同時に深い恋心を感じさせずにはいられない声。


 もう、素晴らしさに語彙力ごいりょくが漂白されて、「尊い……っ!」しか言えなくなりそうなんだけどっ!


 はぁぁ……っ! 尊い、尊すぎる……っ! 素晴らしい……っ!


「――さん! オルレーヌさん! テープレコーダーを止めなくてよろしいの⁉」


「ほわっ!?」


 イゼリア嬢の朗読の素晴らしさに恍惚こうこつとしていた俺は、当のイゼリア嬢の声にはっと我に返る。


「いつまで録音する気ですの!?」


「す、すみませんっ!」


 イゼリア嬢の言葉に、俺はあわてて停止ボタンを押す。


 し、しまった……っ! イゼリア嬢の朗読の素晴らしさにうっとりしちゃって、停止ボタンを押すのをすっかり忘れたぁ――っ!


「何のためにこちらにいらしたの? しっかりしていただけるかしら?」


 アイスブルーの瞳が険しい光をたたえて俺を睨みつけている。


 まったくもってイゼリア嬢のおっしゃるとおりだ。


 でも……っ!


「す、すみません……っ! あまりにイゼリア嬢の朗読が素晴らしくて、聞き惚れてしまってました……っ! 本当にほんっとうに! 素晴らしい朗読でした……っ!」


 イゼリア嬢に向き直り、閉じた本の上に揃えられていたイゼリア嬢の手を両手でぎゅっと握りしめる。


 我ながら大胆な行動だけど、こうでもしないと胸に渦巻く感動が抑えきれねぇっ!


「ああっ、どれだけ言葉を尽くしたらこの感動をお伝えできるのか……っ! 一時間でも二時間でも語れそうですっ!」


「大げさな方ね。お世辞なんて結構でしてよ」


 身を乗り出し、興奮して語る俺に、イゼリア嬢が眉を寄せてすげなく告げる。俺は「とんでもありませんっ!」と激しくかぶりを振った。


「決してお世辞なんかじゃありませんっ! もしお許しくださるなら、いまからでも朗読の素晴らしさを語らせて……いえっ! ご迷惑でなければ、イゼリア嬢が読まれた詩について一緒に語り合いたいですっ!」


 告げた瞬間、イゼリア嬢の柳眉が吊り上がる。


「けっこうですわっ! どうしてよりによってオルレーヌさんと話さねばなりませんのっ!?」


 きっ! と拒絶もあらわに睨みつけられ、盛り上がっていた気持ちがしおしおとしぼんでいく。


 そ、そんな……っ! イゼリア嬢と少しでもお話したくて、必死に『ラ・ロマイエル恋愛詩集』を暗記したのに……っ!


 イゼリア嬢がお読みになった詩だって、ちゃんと覚えてますっ! 俺だって、イゼリア嬢に寄り添いたいと二十四時間願ってますからっ!


 がっくりとうなだれる俺を放ってイゼリア嬢が立ち上がろうとする。


 そこへリオンハルトの穏やかな声が飛んできた。


「イゼリア嬢が朗読した詩に限らず、それぞれが朗読した詩について語り合いたい気持ちはあるけれども……。ハルシエル嬢、申し訳ないが、聖夜祭の準備についての話し合いを進めてよいかい?」


「リオンハルト様のおっしゃるとおりですわ! 無駄な時間なんてありませんもの。朗読も終わりましたし、もうよろしいでしょう?」


 俺が答えるより早く告げたイゼリア嬢が、ソファーを立ってテーブルへと戻っていく。


 そんなぁ~っ! せっかくのチャンスが……っ!


「ハルシエル様。テープはこちらでお預かりし、皆様の朗読テープの続きとして編集いたしましょう」


 控えていたシノさんがソファーへ歩み寄ってきて、うなだれる俺を慰めるように恭しく声をかけてくれる。


 ダビングや商品としての包装、売店での販売については、姉貴のほうでやってもらえるようになっている。


 どうせ姉貴もお宝テープがいち早く欲しいからに決まってるけど、面倒な作業をしてもらえるのはありがたい。


「はい、お願いします……」


 テープを取り出し、シノさんに渡そうとして、俺は大切なことに気がついた。


 シノさんの手を掴み、真剣な顔で身を乗り出し、小声で頼み込む。


「あのっ、シノさん! 朗読後のうっかり録音しちゃった部分、絶対に消さないでくださいねっ!」


 俺のミスとはいえ、偶然撮れたイゼリア嬢のお声。


 たとえ叱責の言葉だとしても、俺にとってはお宝に他ならないっ!


「もちろんでございます」


 俺の懇願にシノさんが頼もしい笑顔で頷く。


「はからずも撮れた素のお声……。それも素晴らしいお宝に他ならない気持ちは、わたくしも重々承知しておりますので!」


 ぐっ、とシノさんが俺の手を握り返してくれる。


「『白鳥の湖』を演じてらっしゃる皆様も、もちろん素晴らしいものでございましたが、練習後や舞台に上がる前の飾らないお姿もまた……っ! ああっ、思い出すだけで萌えずにはいられませんわ……っ!」


 『白鳥の湖』のビデオ! それは絶対俺にもくださいっ! 練習の時のビデオももちろん込みで!


 っていうか、シノさんはいったいどこまで隠し撮りしてるんだよっ!? まじで油断できねぇ……っ!


 姉貴とシノさんのコレクションをあさってイゼリア嬢が少しでも映ってるものを探すべきか、踏み入ったら明らかにヤバそうな魔境をスルーするべきか……。思わず悩んでしまう。


 が、イゼリア嬢のお宝映像は、喉から手が出るほど欲しい……っ!


 うんっ! イゼリア嬢ためなら、魔境にでも地獄にでもどこでも行きますっ!


 シノさんに決意を伝えようとして。


「ハルシエル嬢、どうしたんだい?」


 リオンハルトの声に出鼻をくじかれる。


 気がつけばリオンハルトだけでなく、他のイケメン達やイゼリアまでもがいぶかしげに俺を見ていた。


「い、いえっ、シノさんに素晴らしいテープになるよう、改めて編集をお願いしていただけで……」


 シノさんにはまた改めて頼もうと、俺はあわててテーブルに戻った。


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