388 私は約束を反故にするのは嫌いなんだ


 よくわからぬまま、あいまいに頷くと、「じゃあ、私の下書きも見てみるかい?」と手を引かれた。


「は、はい! 見てみたいですっ!」


 ピエラッテ先輩が描いていたキャンバスを目にした瞬間。


「……っ!」


 俺は、時が止まったように凍りつく。


 え……っ!? 何これ……っ!? ほんとに俺っ!?


 いや、どこからどう見てもハルシエルなのは、ひと目見ただけでわかるんだけど!


 でも、俺ってこんな表情をしてるの……?


 ソファに身を起こし、少し身体をねじって横を向いた黒鳥オディールの面輪は、まるで不可視の涙を流しているかのように切なげで。


 ハルシエルの顔だとわかってるのに、思わず慰めてあげたくなる儚さに満ちている。


 けれど同時に、わずかに上を向いたまなざしは、かぼそいながらも、確かに希望の光を感じているかのように澄んでいて――。


 白と黒のアシンメトリーなドレスが、切なさを希望を同時に体現しているようなオディールの心をあらわすかのように、華奢きゃしゃな肢体を彩っていた。


 まだ下書きだというのに、オディールの背景に横たわるしんと静かな夜の気配まで感じ取れるような気がして……。


 魅入られたように、目が離せない。


「……これは……。さすがとしか言いようなないね」


 感嘆のあまりかすれた声をこぼしたのは、俺の後ろで一緒にピエラッテ先輩の下書きを見ていたリオンハルトだ。


 いや、リオンハルトだけじゃない。


 他のイケメン達も、イゼリア嬢も、呑まれたように無言でキャンバスを見つめている。あの姉貴ですら、シノさんと並んで、無言で絵を見つめていた。


 気持ちはわかる……。

 圧倒的なものを見せつけられると、無言になるよな……。


 下書きの段階でもこんなに素晴らしいんだったら、完成したらいったいどんな絵になるんだろう……っ!


 そう思うと、胸が躍って仕方がない。


「どうだい? 自分ではなかなかだと思うんだけれどね。モデルであるハルシエル嬢の意見も聞きたいな」


「『なかなか』!? こんなに素晴らしいのに『なかなか』なんですか!?」


 すっとんきょうな声が飛び出してしまう。


 美術部の部室にジェケロット氏の学生時代の作品が眠っていることを教えてくれた同級生が、『ピエラッテ先輩はすごいんだよ! もう、なんていうか、ぼく達とは格が違うって感じなんだ!』と興奮したようで教えてくれたけど……。


 いまならその気持ちがよくわかる。確かにこれは、すでに学生の域じゃない。天才って、こういう人のことを言うんだろうな……。


「何というか……っ! 切なげで、でも同時に希望も感じられて……っ! その、こんな陳腐な言葉しか言えないのが申し訳ないんですけれど、すごく感動しました……っ! 私、モデルになれて光栄です……っ!」


 胸に湧き上がる気持ちをなんとか言葉にしようと、必死で告げると、ピエラッテ先輩が破顔した。


「そうか。きみにそう言ってもらえると嬉しいよ」


 素直に感情を出した笑みに、同性なのに、なんだかどきりとしてしまう。


 ……って、中身の俺は男子高校生だから! 年上の美人な先輩の笑顔にどきっとしても、何の不思議もないから!


 むしろ、イケメンどもにどきっとするほうが変なんだよっ!


「でも……。モデルの約束は今日だけでしたけれど、大丈夫なんですか……?」


 油絵を描くのなら、きっともっと時間がかかるだろう。モデルなしで完成させられるんだろうか。


 心配になって問うと、ピエラッテ先輩は「ん-?」と小首をかしげて数秒間、うなったあと、驚くほどあっけらかんとした笑みを見せた。


「まぁ、なんとかなるんじゃないかな?」


「えぇぇっ!? それでほんとにいいんですか!?」


 どう考えてもよくない気がするんだけど……っ!?


 思わず突っ込むと、ピエラッテ先輩が困ったような笑みを浮かべた。


「だが、約束は一回限りだからね。私は約束を反故ほごにするのは嫌いなんだ。特に、可愛い女の子との約束はね」


 ぱちり、とウィンクをされるが、ピエラッテ先輩がどこまで本気なのか、俺には判断がつかない。


 だから、俺は心に湧き上がった感情のままに口を開く。


「じゃあ、新しい約束をしましょう! 私、またモデルを務めにきます!」


 きっぱり告げると、ピエラッテ先輩が驚いたように目をみはった。が、すぐに気遣うような声で告げる。


「それは、私には願ってもないことだけれど、本当にいいのかい? 生徒会はこれから聖夜祭の準備で忙しくなるだろう?」


「そ、それはそうですけれど……っ! でも、せっかくこんなに綺麗に描いてくださっているのに……っ!」


 自分がモデルだということを抜きにして、純粋に、この絵が完成したところを見てみたい。ピエラッテ先輩に、満足のいく作品を描いてほしいと、心から願ってしまう。


 困り果ててリオンハルトを見やると、端麗な面輪に優しい笑みを浮かべて俺を見つめていた。


「確かに、聖夜祭の準備があるが……。これほど見事な下書きを見せられては、むげに断ることもできないね。かまわないよ、ハルシエル嬢。聖夜祭の準備にあまり影響を及ぼさないという条件付きになるが……。可能な日は、ピエラッテ嬢に協力してあげるといい」


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