346 クレイユの心の傷


「革新的で自由をたっとぶ校風もあって、聖エトワール学園内では、さほど身分を感じることはないだろう。だが、実際の貴族の世界では、旧態依然な価値観に囚われた頭の固い貴族達が山といるんだ。……昔、わたしや伯父さんを嘲笑ったような……」


 何かをこらえるように、一度ぎゅっと唇を噛み締めたクレイユが、ふたたびゆっくり話し出す。


「伯父さんはきっと、ずいぶん昔から爵位を捨てることを考えていたんだろうな。公爵家の嫡男である伯父を差し置いて、父のほうが早く結婚して……。わたしが生まれた時は、まだ伯父さんは独身で公爵家にいたんだ。祖父が存命だったから、まだ次期公爵としてだが」


 クレイユの声に苦みが混じる。


「当時、公爵としては祖父が存命で、堅物の祖父は次期公爵である伯父が演劇に関わっているのをよく思っていなくて……。わたし自身はまだ幼かったけれども、伯父と祖父が激しくやり合っているのを、扉越しに何度か聞いたよ」


 クレイユのまなざしが過去を思い出すように遠くなる。


「祖父とは折り合いが悪かったが、シャルディン伯父さんは本当に自慢の伯父だったよ。優しくて博識で、わたしのこともすごく可愛がってくれて……。小さい頃は父よりもシャルディン伯父さんに懐いていたくらいだ。いつか大きくなったら、公爵になった伯父さんを補佐するんだと約束して、家庭教師達の授業も真面目に受けて……。本気で、そう思っていたんだ。だが……」


 一度、ぐっと奥歯を噛みしめたクレイユの横顔が硬く張りつめる。


「五歳の時だ。シャルディン伯父さんが脚本を書いて、アリーシャさんがヒロインを演じた大衆劇が大当たりして……。このまま、どっちつかずの状況では、カルミエ家に迷惑をかけると思ったんだろう。伯父さんは突然、カルミエ家の当主の座をわたしの父に譲って家を出たんだ。おそらく、父とはちゃんと話し合っていたんだろう。けれど、わたしにとっては、急にいなくなったも同然で……。ショックも癒えぬ間に父が次期公爵の地位につき、わたしも次々代の公爵として、急に貴族の集まりに引っ張り出されることになったんだ……」


 そこまで話したクレイユが、怜悧れいりな面輪を歪ませる。


「わたしにとっては手痛い洗礼だったよ。子どもは残酷だ。ましてや、甘やかされた高位貴族のわがまま盛りの子どもとなれば。奴等にとっては、お家騒動があったカルミエ家の子どもなんて、格好の標的だったんだろうな。初めて出たパーティーで右も左もわからなかった俺は、大人達の目の届かない一室に連れ込まれて、『貴族のくせに大衆のご機嫌取りをしている卑屈者』だの『大衆相手の劇なんてどうせ大したことがない』だの、『人気だってどうせ金で買っているに違いない』だのと侮蔑の言葉を投げつけられて、馬鹿にされて……っ」


 クレイユにとって、よほどつらい経験だったんだろう。俺とつないだままの手に隠しきれない震えが走る。


 思わず俺はぎゅっとクレイユの手を握り返していた。


「何よ、それ……っ! 貴族が大衆劇の脚本を書いたら侮蔑されるなんて、馬鹿にしてるにもほどがあるわ……っ! シャルディンさんが手掛ける劇は、身分なんか関係なく、誰だって楽しめる素晴らしいものなのに……っ!」


 きっと、クレイユさんを馬鹿にした奴等は、シャルディンさんの劇を見たことすらないに決まっている。


 ふだんのシャルディンさんの劇だって、今回の『白鳥の湖』だって、わくわくどきどきして、観たらすぐにとりこになる面白さなのにっ!


「知ろうともせずに、聞きかじった噂や印象だけで他人を否定するなんて、最低よっ! 私がその場にいたら言い返してやったのに……っ!」


 湧き上がる怒りのままに告げると、クレイユが意外そうに目を瞬いた。


「きみは妖精みたいに可憐な容姿に似合わず、意外と好戦的なところがあるんだな」


 いやまあ、外見は可憐極まりないハルシエルだけど、中身は男子高校生だし……っ!


 非の打ちどころがないからそもそもそんなことは起こりえないけど、万が一、イゼリア嬢のことを悪く言う奴がいたら、徹底的に戦ってやるぜっ! 男たるもの、やっぱり大事な人は守らないとなっ!


 と、視線を伏せたクレイユが哀しげに吐息する。


「幼い日の私にも、きみくらいの気概きがいがあれば、何か違っていたのかもしれないな……」


 低い呟きは隠しようもない自責の念に囚われていた。


「小さい頃のわたしは引っ込み思案で、友達と言えば家ぐるみで親しくしていたエキューくらいしかいなくて……。たったひとりで見知らぬ年上の子ども達に取り囲まれて罵声を浴びせられても、怯えるばかりで何も言い返せなかったんだ……。大好きな伯父さんが侮蔑されたっていうのに……っ!」


 クレイユの整った面輪がいまにも泣きそうに歪む。


「思い返しても我ながら情けない……。急に家を出た伯父さんに裏切られたように感じられて、侮辱されても怯えるばかりで何も言い返せなくて……。パーティーから帰るなり部屋に閉じこもって、ほとんど出てこなくなったわたしを、両親も使用人達も腫れ物にさわるようにもてあましたよ。唯一、何も変わらなかったのは、エキューだけだった。エキューだけがいつもどおりに遊ぼうと誘ってくれて、わたしが邪険にしてもそばに寄り添ってずっと座ってくれて……」 


 エキューのことを話す時だけ、クレイユの表情が春の陽射しを浴びたように柔らかく緩む。


 クレイユがエキューにだけ柔らかな笑みを向ける理由がようやくわかった。


 信頼していた伯父さんに捨てられたと思っているクレイユにとって、変わらないエキューの存在はどれほどの救いだっただろう。


 くぅううっ! エキューってば、やっぱり天使すぎる……っ!


 俺も、クレイユのそばにエキューがいてくれて本当によかったと感動する。


 姉貴が昔、『クレエキュは正義よ――っ!』って叫んでたけど、いまならその気持ちがわからなくもない。


 うん。確かにこの友情は胸熱だなっ!


「幼いわたしにも、きみみたいな強さがあれば、いまみたいな事態になっていなかったかもしれないな……」


 クレイユとエキューの友情に感動していた俺は、クレイユの言葉に我に返る。


 いつの間にか、俺との距離を詰めたクレイユが、熱っぽいまなざしで俺を見つめていた。


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