212 きみと手をつなぎたくないなんて、思うわけがないだろう?


「クレイユ君! 私達も早く行きましょう!」


 ディオスと姉貴も出ていき、最後になった俺はクレイユの手を引っ張る。


 たとえ隣に並べないとしても、イゼリア嬢とお散歩なんて貴重な機会、絶対に逃せるか――っ!


「というかクレイユ君。さっきは理事長の手前、お願いするって言ったけど、ほんと無理してエスコートしてもらう必要はないから! 小さな子どもじゃないんだし、手をつないでもらう必要なんて……」


 歩き出してすぐ、クレイユに告げる。

 うん、ほんと手をつないでもらわなくていいから! むしろ放せ!


 と、クレイユが細い眉を寄せた。


「せっかくの月夜の散歩だというのに、愛らしいきみと手をつなぎたくないなんて、思うわけがないだろう? それに」


 甘く微笑んだクレイユが、不意にぐいとつないだ手を引く。


「ひゃっ」


 よろめいた拍子に、とんとクレイユにぶつかる。

 ふわりと薫るクールなコロンの香りと、お風呂上がりのシャンプーの香り。


「何をしでかすかわからなくて目を離せないという意味なら、その辺の子どもより、きみのほうがよほど目を離せないが?」


 からかうような笑みとともに言われた台詞。


「何を言うの!」

 俺はクレイユを押し返しながら、憤然と言い返す。


「何をするかわからないのは、クレイユ君のほうでしょう!? 急にこんな風に引っ張るなんて……っ。これからお散歩に行くのに、足をくじいたりしたら大変じゃない!」


 きっ、と睨みつけると、銀縁眼鏡の奥の蒼い瞳が、思いがけないことを言われたと言いたげに、きょとんと見開かれる。かと思うと。


「ぷっ。きみは本当にいつもわたしが予想もしていない反応を返してくるな。話していて、まったく飽きないよ」


 クレイユが珍しく屈託のない笑みをこぼす。

 が、素直に応じるのもしゃくで、俺はぷいと顔を背けた。


「どうせ、貧乏人の庶民は何を考えているか理解できないとでも言いたいんでしょう? いいのよ。そんなことわかって――」

「違う!」


 不意に、手を強く握りしめられる。痛みすら感じるほどの力。


「庶民だとか財力だとか関係ない! わたしはただ……っ!」


「ど、どうしたの?」

 びっくりして問うと、クレイユが我に返ったように息を飲む。


「何でもない」


 ふいと背けられた横顔はひどく気まずそうで、これ以上立ち入られたくないという感情がありありと見えた。


 俺としても、クレイユの心の中に踏み込む気なんて、毛頭ない。


「ずいぶん遅れちゃったみたい。追いつけるように急ぎましょうか」


 何も聞かなかったふりを装ってクレイユに微笑みかけると、あからさまにほっとした表情でクレイユが頷いた。


「そうだな。出かけよう」


 クレイユにエスコートされるまま玄関を出ると、ちょうど門をくぐっていくディオスと姉貴の後姿が見えた。


 先に出ているイゼリア嬢やリオンハルト、ヴェリアスやエキューの姿はまったく見えない。


 ああっ! イゼリア嬢と離れ離れになってしまうなんて……っ!


「クレイユ君、急ぎましょう!」


 全力ダッシュする気で手を引っ張るが、クレイユの足取りは変わらない。


「そんなに急ぐこともないだろう。別荘の近くを散歩するだけだ。心配しなくても迷子になったりしない」


 違うよ! 俺が心配しているのは迷子になるかどうかじゃねえっ!

 俺はイゼリア嬢の麗しのお姿を拝見しながら歩きたいんだよっ!


 クレイユにエスコートされるどころか、俺がクレイユを引っ張る形で門を出た俺は、すばやく左右を見回した。


 いた……っ!

 数十メートルほど先、間にヴェリアス・エキュー組、ディオス・姉貴組をはさんだ向こうに、リオンハルトと肩を並べて歩くイゼリア嬢のお姿が見える。


 よし、まだ追いつけない距離じゃない!


 体格的にも腕力的にもクレイユを引っ張るのは無理だと承知しつつ、いざとなったらつないだ手を振りほどく気でイゼリア嬢を追いかけようとすると、クレイユに引き止められた。


「あまり先に行き過ぎると、またヴェリアス先輩に絡まれるぞ」


 それは困る! けど、イゼリア嬢のおそばに行くためなら、ヴェリアスなんざ突破して……っ!


「せっかくの静かな夜なんだ。わざわざ騒音を立てることもないだろう。ほら」


 クレイユがあごをしゃくる。

 反射的にクレイユの視線を追った先に広がっていたのは。


「わあ……っ!」


 月明かりが照らす夜の海だった。


 へぇ~っ、別荘を出てすぐで、こんな広々と海が見えるんだ。そっか。別荘のすぐ裏が海だもんな。


 宝石をちりばめたような夜空に皓々こうこう浮かぶのは、真珠みたいな柔らかな光を放つ満月だ。


 月明かりが穏やかな波を立てる海面を照らすさまは、まるで海の中央にひとすじの光の道が通っているかのようだ。


「綺麗……」

 思わずうっとりと呟く。


 耳に届くのは、穏やかな波の調べと、木々の木の葉が夜風に揺れるささやかな音だけ。


 確かに、こんな心地よい夜の雰囲気を、ヴェリアスの軽薄な声なんかで破るのは忍びない。


 今は、イゼリア嬢も俺と同じ美しい景色を堪能しているんだと思うだけで満足しよう。


 うん、ちょっと離れてるけど、これも一緒に散歩の範疇はんちゅうに入るハズ!


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