116 やっぱり、何かあったの?

「ハルシエルちゃん!」


 生徒会が終わり、いつものように駅まで歩こうとしていた俺は、玄関を出たところでエキューに呼び止められた。

 振り返ると、エキューが軽やかな足取りで駆け寄ってくる。


「ああ、よかった。間に合って」


 俺の前で足を止め、安堵の息をつくエキューに、「どうしたの?」と尋ねる。


「さっきの生徒会で、何か連絡もれでもあった?」


 今日の生徒会の議題は、体育祭の反省会と、毎年、夏休みに行われる生徒会役員での親睦旅行についてだった。


 とはいえ、体育祭については、リオンハルトからねぎらいの言葉があったくらいで、会議のほとんどは親睦旅行についての連絡だった。


 会議の間中、俺が心の底から湧き上がる歓喜の叫びを必死でこらえていたのは、言うまでもない。


 だって! イゼリア嬢と! 誰はばかることなく、一緒に旅行できるんだぜ――っ!

 あ、やべ。考えただけで興奮して鼻血が出そう……っ!


「ううん、生徒会のことじゃなくて……」


 エキューの言葉に、幸福のあまりトリップしかけていた俺は、はっと我に返る。エキューが新緑の瞳に心配そうな光を宿して俺を見つめていた。


「その、昼休みにクレイユと何かあったんでしょ? クレイユがハルシエルちゃんの手を引っ張って、どこかに連れて行ったって聞いたけど……。大丈夫だった?」


「えっ、と……」


 大丈夫かと問われたら、逃げ出したから結果的に俺は大丈夫だったけど、昼休みのクレイユの様子が大丈夫だったかという意味だとしたら……。


 あのクレイユは、確実に頭のネジが数本、すっぽ抜けていたと思う。


「そういえば、クレイユ君はどうしたの? いつも一緒に帰っているのに……」


 もしそばでクレイユが待っているのだとしたら、迂闊うかつなことは言えない。

 俺の問いに、エキューはかすかに眉を寄せた。


「クレイユには先に帰ってもらってるよ。体育祭のことで、リオンハルト先輩に話したいことがあるから、って……」


 エキューの新緑の色の瞳が、真っ直ぐに俺を貫く。


「クレイユのことを気にしてるってことは、やっぱりクレイユと何かあったってこと?」


「っ!」


 エキューの鋭い指摘に、思わず息を飲む。

 同時に、昼休みにクレイユに幹ドンされた時のことを思い出して、頬が熱くなった。


 エキューの視線が険しくなる。


「やっぱり、クレイユと何かあったんだね?」

 と、問うたエキューがすぐに視線を落とす。


「その……。ハルシエルちゃんが言いたくないのなら、無理には聞かないけれど……」


 しょぼん、としっぽを垂れた子犬のような様子に、思わず心が動かされる。


 こんなにクレイユのことを心配してるなんて……っ! やっぱりエキューはいい奴だなぁ!


「エキュー君に言えないだなんて、そんなことはないわ! むしろ、私のほうが相談したかったくらいで……」


「そうなの?」

 ぱあっ、とエキューの表情が明るくなる。


「ハルシエルちゃんに頼ってもらえるなんて……。嬉しいな」


 見ている俺まで心が弾むような、嬉しそうな笑顔を浮かべる。


「それで、相談って? やっぱり、クレイユのことだよね?」


 エキューが表情をあらためて、心配そうに小首をかしげる。


「そうなの……。クレイユ君といつも一緒にいるエキュー君なら、知ってるかと思って……。クレイユ君の様子が変わったのは、やっぱり先週くらいから?」


 俺の問いにエキューが頷く。


「うん……。正確に言うなら、勉強会の後から、だよ。ねえ、ハルシエルちゃん。あの時、クレイユと何があったの?」


 エキューの視線が真っ直ぐに俺を貫く。


「あの時のハルシエルちゃん、泣きそうな顔だったよね? 気まずくさせちゃ悪いと思って、あの時は立ち入ったことを聞かなかったけど……。もしハルシエルちゃんを泣かせたのがクレイユなら、たとえクレイユでも許せないよ!」


 いつも明るい笑顔を振りまいているエキューが、珍しく苛烈な表情で言い放つ。愛らしい見た目とは裏腹に、中身は男らしいエキューにとっては、女の子を泣かせるなんて、許しがたい行為なんだろう。


 と、しょぼん、と視線が伏せられた。


「僕もクレイユに聞いてみたんだ。勉強を教えてくれる時に、信じられないような簡単なところで計算間違いをしたり、質問してもうわの空で、とんちんかんなことを返してきたり、明らかに様子がおかしかったから……。でも、クレイユは言葉を濁して、教えてくれなくて……」


 苦く吐息したエキューが、ひとり言のような呟きを洩らす。


「僕も、無理やり聞き出すのはできるだけしたくないんだ……。心を閉ざしたクレイユなんて、もう二度と見たくないから……」


 真摯しんしにクレイユを案じるエキューの声は、確かにいつものエキューのもので。

 やっぱり二人は親友なんだなぁとしみじみと感じ入る。


 うんっ、やっぱりクレイユのことはエキューに任せるのが一番だよなっ!


「あのね、エキュー君。勉強会の時にあったのは……」


 クレイユに恋愛詩集を馬鹿にされて、思わず言い争いをしてしまったのだと、簡単に説明する。


「その、私も気がたかぶっちゃって、思わず目に涙が浮かんじゃって……。あ、そのっ、哀しかったとか傷ついたとかじゃないのよ? 必死で言い返してたから、私も意固地になっちゃって……」


「ほんと?」


 不意に、エキューの指先が俺の頬にふれる。


「ハルシエルちゃんがそう言うなら、信じるけど。でも、ハルシエルちゃんを泣かせるなんて……。やっぱり、いくらクレイユでも許せないよ」


 憤然と告げたエキューの手のひらが、そっと俺の頬を包む。

 緑の瞳が切なげに細くなり。


「僕だったら……。絶対にハルシエルちゃんを泣かせなりなんてしないのに」


 熱を宿した声が、甘く切なく紡ぐ。

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