113 なぜきみはこんなにわたしを惑わせる?


 どんっ、と苛立いらだったようにクレイユが拳を幹に打ちつける。


「きみと言い争いをしてから、きみの顔が脳裏をちらついて離れないんだ! 勉強も何もかも手につかなくて……っ。なぜだ!? なぜきみはこんなにわたしを惑わせる!?」


 …………へ?


 ええぇぇぇっ!? クレイユってば、俺と言い争いをしたのを、そんなに気にしてたのかよっ!?


 俺のほうは、一晩寝たらほぼほぼ忘れてたけど……。人前で半泣きになった恥ずかしい記憶なんて、早々に消したかったし。


 クレイユの蒼い瞳には、ふだんの冷徹さが嘘のような激しい感情が渦巻いている。

 何かを探し求めるような視線は、あまりに真っ直ぐで――。クレイユの視線にあぶられたかのように、俺の頬まで熱を持ち始める。


 って! 近いっ! 近すぎるっ! これって壁ドンじゃねーかっ! あ、幹だから幹ドン? いや、そんなのは今はどうでもいいっ!


「誰かを想って、こんな気持ちになるのは初めてなんだ。寝ても覚めてもきみの顔がまなうらにちらついて離れなくて……」


 クレイユの右手が、俺の頬をそっと包む。


 熱っぽい声音がうつったかのようなあたたかな手。

 けど、俺の顔のほうがもっと熱い。


「教えてほしい。この感情は、なんと言うんだ……?」


 いつもとはまったく違うクレイユの声。

 どこか甘く、どこか苦い声が、俺の耳朶じだを震わせる。


 そんなこと聞かれたって。それ、は……。


「……罪悪感じゃないでしょうか……?」

「罪悪感……?」


 クレイユが虚を突かれたように、おうむ返しに呟く。俺は大きく頷いた。


「そうです! 何でもそつなくこなすクレイユ君は、今まで女子と言い争いをしたことなんてなかったんじゃないですか? それが、先週、私と言い争いをしてしまったから……。その罪悪感で、心が痛んでいるんじゃないでしょうか?」


 うんうん、俺だってもし女子を半泣きにさせたら、気になってしょうがなくなるもんな! 見た目は女子でも、中身は男なんだから、ほんとは気にしなくていいんだけど……。そんなことをクレイユには伝えられないしな……。


「罪悪感、か……。だが」


 自分に言い聞かせるように呟いたクレイユが、正解を探そうとするかのように、俺の目を覗き込む。


「なら、土曜日に車に同乗した時も、今も……。きみの姿を見るだけで胸が高鳴り、幸せとも切なさともつかぬ感情に襲われるのはなぜなんだ……?」


 んなこと俺に聞かれても知らねーよっ! っていうか……。


「土曜日のクレイユ君は、すごく不機嫌そうに見えましたけれど……?」


 俺の言葉に、目元をうっすらと紅く染めたクレイユが、ふい、と視線を逸らす。


 うおっ!? クレイユの照れた顔なんて、初めて見たぜ……!


 ってゆーか、急にそんな顔すんなっ!

 びっくりしたせいで、心臓のどきどきがおさまらない。


「それ、は……。わたしが勉強が手につかなくて悩んでいたのに、暢気に出かけたり、アルバイトに行くと言っていたきみが、小憎らしいというのもあったが……」


 視線をそらせたまま、クレイユが歯切れ悪く呟く。


「顔をしかめておかないと、きみがそばにいる嬉しさで、にやけた情けない姿を見せてしまいそうだったんだ……」


 照れ隠しのようなぶっきらぼうな声。

 薄く頬を染め、恥ずかしげに視線をそらす横顔は、いつも冷静で無表情なクレイユとは別人のようで。


 ええっ!? クレイユってこんな一面があったのかよ!? 意外過ぎて、ちょっと可愛げすら感じるんだけど……っ!


 っていうか、いい加減、俺の顔から手を離せ!

 俺がクレイユに文句を言うより早く。


「ひゃっ!?」


 クレイユの指先が、俺の頬をすべる。慈しむような優しい指先に、思わずすっとんきょうな声が出る。

 俺に向き直ったクレイユが微笑んだ。


「今だってほら……。きみの可愛い声を聞くだけで、心が揺れてもっと聞きなくなる……」


 クレイユとは思えない甘い微笑み。


 っていうかホントに同一人物か!? リオンハルトが乗り移ってたりしないだろーなっ!?


 この流れはマズイ気がすると、俺の本能ががんがん警報を鳴らしている。

 何だ!? 何が起こってる!? 俺はクレイユとフラグなんざ立てた覚えはねぇっ!


「き、きっとそれは、安堵からに違いありませんねっ!」


 なんとかこの状況から脱出したくて、思いつくままに口にする。


「私が泣いたことを気にしていた分、ふつうにふるまっていると安心するんだと思います!」


「……なるほど。それもひとつの説だな」


「そうです! そうに決まってます!」

 だから、さっさと手をどけて俺を解放してくれ――っ!


「だが」

 クレイユが低い声で囁く。


「わたしはその説には納得しかねる」

「へ?」


「結論を出すのが早すぎるだろう? この胸の感情が何か知るためには……。もっときみを知る必要があると思う」


 頬を包んでいたクレイユの手のひらが、そっと俺の顔を上げさせる。


 蒼い瞳と視線が合った瞬間、クレイユのまなざしに宿る熱がうつったかのように、俺の頬がさらに熱くなる。


「きみのそばで見極めさせてくれないか? この感情がどこから来るものなのか――」


 クレイユの端正な面輪が近づいてくる。

 俺は思わず目をつむり。


「そ、そんなこと……っ! 急に言われても困りますっ!」


 渾身の力でクレイユを突き飛ばすと、振り返りもせず、一目散に逃げだした。

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