30 このままじゃ成分が枯渇するっ!


「オルレーヌ嬢!」


 後ろに倒れそうになった身体が、力強い腕に受け止められたかと思うと、ぐいっと抱き寄せられる。

 柑橘系のコロンの香りが鼻腔に届く。


「す、すみま――」


 びっ、びっくりした――っ! 階段を転がり落ちるかと思った、まじで!

 心臓が早鐘のようになっている。一気に噴き出した冷や汗で背中が冷たい。


「いや」


 思いがけなく近くで聞こえた声に、そろそろと顔を上げると、予想以上の近さにディオスの精悍せいかんな面輪があった。


「礼なんかいい。怪我はないか?」


「は、はい……」

 ディオスが受け止めてくれたおかげで、なんともない。


「す、すみません。ありがとうございました」

 礼を言い、身を離そうとすると、逆に強く抱き寄せられた。


「頼むから」


 吐息交じりの低い声が、耳朶じだを打つ。


「ハードル走で転んでもかまわないと言ったり、うっかり階段を踏み外したり……。もう少し、気をつけてくれ」


 内容は叱責しっせきなのに、告げる声は、どこか甘い。

 身体に回された腕に、力がこもる。


「愛らしいきみが怪我をしたらと思うと、気が気でない」


 ちょっ!? いきなり砂糖ぶっこんでくるの禁止――っ!


 こ、これは何て答えるのが正解なんだっ!?

 「そんなことありません」か?「ディオス先輩も冗談を言ったりするんですね」か? それとも、聞こえなかったことにしてスルーするか!?


 とっさに判断がつかず、唇を噛みしめると、ディオスがびくりと肩を震わせた。はじかれたように腕をほどく。


「す、すまん! その……っ、痛めたりしていないか!?」

「は、はい。どこも怪我してませんけれど……?」


 さっきも確かめてなかったっけ? と思いつつ答えると、ディオスが心から安堵したように大きく息をついた。


「よかった……。その、すまなかった」


「いえ、謝らないでください。助けていただいたのは、私なんですから……。すみません」


 お互いに気まずい雰囲気で謝りあったところで。


「あっ、ディオス先輩にハルシエルちゃん! 二人とも、生徒会室へ行くところですか?」


 軽い足音とともに聞こえてきたソプラノボイスに振り向くと、ちょうどエキューが階段を上がってくるところだった。


「……? どうかしたんですか?」


 俺達のところまで上がってきたエキューが、微妙な雰囲気に気づいたのか、きょとんと小首をかしげる。男子だというのに、こてん、と擬音ぎおんでも聞こえてきそうな、小動物のように愛らしい仕草だ。

 ディオスがゆっくりと首を振る。


「いや……。そういえば、エキュー。お前、ハードル走は得意か?」

「ハードル走、ですか?」

「ああ。オルレーヌ嬢が体育祭で出場するそうなんだが、苦手らしくてな」

「慣れないうちは、ついハードルの前でスピードを落としてしまって、タイムをロスしちゃいますもんね」


 心得顔で頷いたエキューが、くりっと大きな瞳で俺を見る。


「よかったら、僕が教え――」


「なになに? ハルちゃんに何を教えるの? オレも混ぜてほしーなぁ♪」


 エキューの言葉を遮って、頭上からハスキーボイスが降ってくる。


 見上げると、いつの間に来たのか、ヴェリアスが階段の手すりにひじをついて、四階から俺達三人を見下ろしていた。


「オレが生徒会室で一人寂しく待ってるっていうのにさ。なんか楽しそーな話し声が聞こえてくるんだもん。ナニナニ? オレも混ぜて~♪」


 紅い瞳を悪戯いたずらっぽくきらめかせて、ヴェリアスが食いついてくる。


 食いついてくんなっ! エキューはともかく、お前はお断りだ!


「いや、オルレーヌ嬢がハードル走の練習をするのに、コーチをしようかという話を――」


「大丈夫です! ディオス先輩に教えていただきますから! ヴェリアス先輩のお手はわずらわせませんので、先輩は応援合戦の準備をお願いします!」


 ディオスの言葉を遮って、その腕をぐっと掴む。


「ですよね! 最初にコーチをしてくださるっておっしゃったのはディオス先輩ですもんね!」


「え? あ、ああ……」

 ディオスが狼狽うろたえながらも頷く。


「それより、応援合戦は結局どうするつもりなんですか?」


 半眼になったヴェリアスに、俺はあわてて話題を変える。


「前回は、シノさんの騒ぎのせいで、打ち合わせどころじゃありませんでしたし……。そういえば、今日もイゼリア嬢達、星組の方は来てらっしゃらないんですか?」


 四人で生徒会室に向かいながら尋ねると、ヴェリアスが頷いた。


「うん、他の場所で打ち合わせするってさ。応援合戦の内容がやる前からバレちゃ興醒きょうざめだからね~」


「そうなんですか……」

 俺はしゅんと肩を落とす。


 くそーっ! せっかくイゼリア嬢と一緒に生徒会役員になれたってのに、お茶会の日から全然会えてないじゃねーか! 同じ組になれていたら、今ごろ一緒に過ごせてたっていうのに……っ!


 己のくじ運のなさに、本気で泣きたくなってくる。


「……そんなに逢いたいわけ?」


「ええ……」

 低い声で問うヴェリアスに、こくりと頷く。


 イゼリア嬢に……。イゼリア嬢に逢いたいっ! このままじゃ、成分が枯渇こかつするっ!

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