16 もう、涙さえ出てこねぇ……。
俺は背中にじっとりと冷や汗がにじむのを感じながら理事長の言葉を待つ。
緊張に、無意識のうちに唇を
喉がひりつくような沈黙が、
「きみは、コンテストに立候補するはずなんだがね」
問いかけではない。確信を持った口調で告げられる。
まるで、ハルシエルが立候補することをあらかじめ知っているかのような――。
いったい、この理事長は何者なのだろう?
唇を噛みしめ、息をつめて真正面に座る理事長を見つめる。
と、不意に理事長がにこやかに微笑んだ。
「緊張すると唇を噛む
「っ!?」
驚愕に息を飲んだ俺に、にこやかな笑顔のまま、まるで刃を突きつけるかのように理事長が断言する。
「ハルシエル・オルレーヌ。……だが、その中身は転生した男子高校生、藤川陽だろう?」
「な、んで……!?」
いつ失敗した!? どこでしくっじった!?
まさか、俺の正体を見抜く奴が現れるなんて!
かすれ声で呟いた俺に、理事長はあっけらかんと笑う。さっきまでとは打って変わった明るい口調で。
「そりゃあわかるわよ! だって、十八年間、一緒に育った弟じゃないの!」
………………は? はあぁぁぁっ!?
俺を『弟』という人物なんて……。たった一人しか、いない。
「……もしかして……。姉貴、なワケ……?」
「ぴんぽーんっ♪」
理事長――いや、我が姉貴、藤川
やめろ! いくらイケメンでも、五十代男性の容姿でてへぺろなんかすんなっ!
「ほんっとにほんっとに姉貴なのか……?」
目の前の黙ってりゃあ渋いイケメン紳士にしか見えない理事長が、姉貴だと言われても……。
女子大生だった姉貴と、イケメン紳士の間に、容姿の
っていうか、転生してるってことは、姉貴もやっぱり……。
俺は心の痛みに視線を伏せる。と、
「信じられないっていうの?」
姉貴のイケボが挑むような響きを帯びる。
顔を上げた視界に飛び込んできたのは、顔の造作は全く違うくせに、一目で姉貴だとわかる、これまで何度も見た笑みだった。
「信じられないってんなら、今から『キラ☆恋』の萌え語り、三時間コースで行くわよぉ~っ!」
「いらねぇよっ! 絶対晩飯抜きコースだろ、それ! どんな拷問だよっ!」
うん、姉貴だ。
萌えを語る時のこの絶妙に歪んだ笑顔も、人の都合も考えずに萌え語りを繰り広げようとするところも、正真正銘、姉貴だ。
「っていうか! 姉弟そろって転生したってのに、なんで俺がハルシエルで姉貴が理事長なんだよっ!? ふつー逆だろ! 逆――っ!」
目の前にいるのが姉貴だとわかった瞬間、今まで誰にも吐き出せなかった不満が思わず爆発する。
「神様だか仏様だか駄女神だか知らねぇけど、テキトー過ぎんだろっ! せめて性別くらい一致させろよっ! 男がイケメンに迫られて嬉しいわけないだろーがっ!」
「え? あたしは神様
姉貴がにこやかに断言する。
上機嫌なその様子は――しかし、姉貴の本性を知る俺には、悪魔の笑みにしか見えない。
「実はさー、プレイしている時から、ハルシエルって邪魔だと思ってたのよねー」
「は? ヒロインが邪魔って……?」
乙女ゲームなんだろ? 自分をヒロインに投影して、きゃっきゃうふふって萌えるんだろ? よくわかんねーけど。
我が姉ながら、何を言い出すのか。
と思っていると、姉は
「あたしにとって大事なのはイケメンなの! ヒロインなんざどーでもいいのよ! むしろ邪魔! お前が消えて、その分イケメンとイケメンの距離を詰めさせろやーっ! って感じなのっ!」
いや。そもそもヒロインがいるからイケメンが寄ってくるんだろ?
寄ってきてほしくないけどっ! でもあいつら、鉄か!? 磁石に吸い寄せられてくる鉄か!? ってくらいぐいぐい来やがるんだよっ! 来んなっ!
「それもう乙女ゲームじゃないし! 別のナニカだろっ!」
拳を握りしめて力説する姉貴にツッコむ。が、俺のツッコミを姉貴はさらりと受け流した。
「萌えのためなら、ヒロインの一人や二人、脳内加工で推しカプに変換してみせるっ! それが腐女子のたしなみってもんよっ! ああ~っ、『キラ☆恋』はホントどの組み合わせでも萌えられるぅ~! まさに萌えのお菓子箱っ! 甘いっ、ハマるっ、やめられな~いっ!」
ぐぇっへっへっへ……、と歪んだ笑いをこぼす姉貴は、いかにイケメン紳士の外見をしていても、不気味この上ない。
イケメン補正も、姉貴の腐女子力の前では、無意味だったか……。
我が姉ながら、ヤバすぎる。
遠い目をしていると、突然、姉貴がぴん! と背筋を伸ばした。
「でも、今回、陽がハルシエルに転生したことで、コペルニクス的大転回が起こったのよね!」
「は?」
何だろう……。十八年間、弟として生きてきた中で
こんな笑顔をしている時の姉貴はヤバイ、と。
「身体は女の子だけど、心は男! つまり、ハルシエルは陽が転生したことによって、BLへの輝かしい道を踏み出したわけよ! しかも『キラ☆恋』のメンバーにはいない平々凡々なツッコミタイプ! 陽、あんたいい仕事してるわねっ!」
してねーよっ! こんなに嬉しくない誉め言葉も人生初だよっ!
心の中で思いっきりツッコむ俺にかまわず、姉貴はらんらんと目を輝かせて身を乗り出す。
「あ、一コ確認しとくけど、実は身体も男のコに変化してるなんてことは……?」
「ねぇよっ! 残念極まりないことに!」
「そっか……」
しょぼんと肩を落とした姉貴は、だがすぐに笑顔でぐっ、と親指を立てる。
「大丈夫っ! 心さえ男のままなら、あたし女体化でもイケるからっ! むしろ、合法的に結婚して子供まで産めるなんて……! なんてお得っ♪」
「お得っ♪ じゃねぇ――っ! 俺のこと何だと思ってるんだよっ!?」
俺の叫びに、姉貴はきょとん、と邪気のない瞳で見返してくる。
「決まってるでしょ。あんたはあたしの大切な――萌えの供給源よっ!」
「だよなっ! うん、ロクでもない答えだって予想ついてた!」
もう涙さえ出てこねぇ……。
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